夕礼拝

人生の回復

「人生の回復」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第86編11-13節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第8章26-39節
・ 讃美歌:129、516

ゲラサ人の地方
 先週お話ししたように、主イエスは弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう」と声を掛け、主イエスと弟子たちは一緒に舟に乗って船出しました。向こう岸に向かう途中で、突風が吹き降ろして来て舟が沈没しそうになります。しかし主イエスがみ業を行ってくださり、風がやみ波も穏やかになって凪になりました。沈没の危機を免れた主イエスと弟子たちは「ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に」着いたのです。
 「ゲラサ人の地方」とありますが、同じ出来事を語っているマタイによる福音書8章28節では「ガダラ人の地方」となっています。そのためこの出来事が起こった場所はどこなのかという議論もなされていますが、決定的なことは分かっていません。いずれにしろ、ゲラサもガダラもガリラヤの反対側のデカポリス地方にある都市の名前です。デカポリスは「十の都市」という意味の言葉です。ヨルダン川の東側にギリシア文化の影響を受けた「十の都市」があり、デカポリス地方とは、それら「十の都市」を含むかなり広い地域を指します。この地方では独自の貨幣を鋳造したり、独自の暦を作る権利が認められていたようで、自治的な地域であったことが分かります。ユダヤ人にとってギリシア文化の影響を受け、自治的な地域であるデカポリス地方は異邦人の社会でした。今まで主イエスはガリラヤの町や村を巡って神の国を宣べ伝えましたが、そこから湖を渡って異邦人の社会を訪れたのです。「十の都市」の中でもとりわけゲラサとガダラではギリシア文化が発展していたようです。私たちは主イエスと弟子たちがたどり着いた「ゲラサ人の地方」を田舎のように考えがちですが、実は、彼らはガリラヤという田舎からゲラサという都会にやって来たのです。ギリシア文化の影響を強く受け、たくさんの情報と刺激に溢れている都会を訪れたのです。

悪霊に取りつかれている男
 主イエスが陸に上がられると、ゲラサの住人で「悪霊に取りつかれている男」がやって来ました。27節には、「この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」とあります。衣服を身に着けていなければ社会で生活することはできません。ほかの人と関わりを持って生きることができないのです。そのために彼は「家に住まないで墓場を住まいとして」いました。墓場は生きている人間の居場所ではなく、死んだ人間が葬られているところです。ですからそこに住んでいるとは、彼が生きている人間ではなく死んだ人間同然だということです。私たちは医学的に生きていれば人間として生きていると必ずしも言えるわけではありません。ほかの人との関わりの中でこそ、私たちは人間として本当に生きていくことができるのです。また29節には、「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた」とあります。ゲラサの人たちは、放っておくと何をするか分からないから、彼を鎖でつなぎ足枷をはめて監視していました。そうしなければ社会の安全を保つことができないし、安心して過ごすことができないからです。それでも「悪霊に取りつかれている男」は、その鎖や足枷を引きちぎっては荒れ野へと駆り立てられたのです。「荒れ野」も人が住む場所ではありません。この人は都会から荒れ野へ、人が生活している場から人のいない場へと駆り立てられたのです。「何回も汚れた霊に取りつかれた」とあるように、そのようなことが何度も繰り返されたのだと思います。ゲラサの人たちは鎖でつなぎ足枷をはめてでも、なんとか彼を共同体の中で監視しようとしたのかもしれません。しかし彼はそこから逃れ、共同体の外で、生きている人間の居場所ではない墓場や荒れ野で暮らそうとしたのです。

人と関わることからの撤退
 このような「悪霊に取りつかれている男」の姿に、私たちは距離を感じると思います。しかし私たちは彼の姿に、人との関わりを失った人間の姿を見ることができるのではないでしょうか。確かに私たちは衣服を身に着けていないわけでも墓場に住んでいるわけでもありません。鎖でつながれ足枷をはめられて監視されているわけでもないし、それを引きちぎって荒れ野へ走っていくこともありません。私たちは都会に暮らし、家庭や学校や職場といった共同体の中で、人と関わりながら社会生活を送っています。しかし私たちはそのような社会生活に少なからず疲れてしまっているのではないでしょうか。まるで鎖でつながれ足枷をはめられ監視されていると思えるほど、人と関わることに疲労困憊してしまい、できるだけ人と関わりたくないと思うのです。だから私たちは実際に墓場や荒れ野へ行くことはなくても、人との関わりをシャットアウトして、仮想の(バーチャルな)墓場や荒れ野へ逃れようとするのです。この人が繰り返し荒れ野へ駆り立てられたように、私たちも度々、都会にいながら、共同体の中にいながら、バーチャルな荒れ野へと駆り立てられます。人との関係を断ち切って、あるいは表面的には関係を維持していたとしても、ほかの人と真剣に関わることから撤退してしまうのです。それだけではありません。いつのまにか荒れ野に居心地の良さを感じます。この人がなんど鎖でつながれ足枷をはめられても、それを引きちぎって荒れ野へ駆り立てられたのは、荒れ野の居心地が良かったからではないでしょうか。人と関わりを持つのではなく、その関わりから撤退してしまったほうが、居心地が良いのです。

悪霊に取りつかれているとは?
 この人が社会生活を送れず、ほかの人と関わりを持って生きられず、墓場に住み、荒れ野へと駆り立てられるのは、「悪霊に取りつかれている」からだ、と語られています。では「悪霊に取りつかれている」とは、どういう状態なのでしょうか。それは、本当に自分が思っていることとは違うことを行っている、という状態だと思います。たとえば本当は人と関わりを持ちたいのに、その関わりを絶とうとしてしまったり、本当は思っていないことを言ってしまったりするのです。必ずしも自分自身に、本当に思っていることと違うことをしている、という自覚があるとは限りません。「悪霊に取りつかれている」とは、本当に自分が思っていることと違うことを行っているだけでなく、本当に自分が思っていることそのものが分からなくなっている状態でもあるのです。28節には、「悪霊に取りつかれている男」が「イエスを見ると、わめきならがらひれ伏し」て、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と大声で言った、と語られています。この人は、本当に自分が思っていることを言ったのではありません。悪霊が彼にそのように言わせているのです。悪霊だけが、主イエスが神の子であり、自分を滅ぼすことができる方だと知っていたからです。

心がバラバラになっている
 主イエスは「悪霊に取りつかれている男」に「名は何というか」とお尋ねになっています。すると彼は「レギオン」と答えました。ここでも彼が答えたのではなく、悪霊がこの男に「レギオン」と言わせたのです。「レギオン」とは、通常5000~6000人から成るローマ軍隊の部隊の名前です。30節で、悪霊の名が「レギオン」であるのは、「たくさんの悪霊がこの男に入っていたから」と言われているのはそのためです。この「レギオン」という名から、当時、大きな力を持っていたローマの軍隊に国が占領されるように、多くの悪霊にこの人の心が占領されていたことが分かります。ローマ軍による占領が、そこに暮らす人たちの思いを尊重することなく、基本的には力による制圧であったように、「レギオン」によって占領されたこの人も、悪霊の力によって自分の思いが制圧され、抑圧されてしまっていたのです。しかしローマ軍の部隊と悪霊では違いもあります。軍隊は統率が取れていますが悪霊はそうではありません。様々な悪霊が、つまり神様から引き離そうとする様々な力が、統率されることなく好き勝手に彼を支配し、彼の心を引き裂いていたのです。「たくさんの悪霊がこの男に入っていた」とは、神様から引き離そうとする様々な力によって、彼の心がバラバラになってしまっていたということにほかならないのです。
 自分の心がバラバラになり、一つにまとまらなくなることによって、私たちは自分の本当の思いが分からなくなります。ゲラサは、ギリシア文化の影響を受けた都市でしたから多神教の世界でもありました。その世界ではあれも神、これも神であり、そのために価値が多元化した世界であったのです。同じように私たちも価値が多元化した時代と社会に生きています。確かに一つの価値を絶対化するのではなく、色々な価値が重んじられるのは大切なことです。しかしあまりにも多くの価値(観)が溢れることによって、私たちはあちらに心を奪われ、こちらに心を奪われています。せわしなく動き回りあれもこれもと思ってしまいます。そうこうしている内に、私たちの心はバラバラになってしまうのです。自分の心が一つに束ねられていなければ、私たちほかの人と本当に関わることはできません。相手によって関わり方が変わってしまうからです。相手の顔色をうかがったり、その場の雰囲気を読んだりして、場当たり的な言葉や振る舞いで人と関わってしまうのです。もちろん私たちは「時と所と場合(いわゆるTPO)」に合わせて言葉や振る舞いを変えます。しかしたとえTPOが違ったとしても、そこには変わらない「私」がいるはずなのです。でも自分の心が一つに束ねられていないとき、その変わらない「私」は存在しません。その時々、その場その場で違う色々な「私」がいるのです。「レギオン」に取りつかれているとは、まさに「私」の中に色々な「私」がいて、自分が一つにされていないということなのです。それでは、ほかの人と本当の関わりや交わりを持つことはできないのです。それだけでなく、場当たり的な言葉や振る舞いで人と関わっていくことは自分自身にとっても大きな負担になります。そのことによって疲れ切ってしまうのです。情報が溢れ、価値が多元化した社会にあって、私たちは多かれ少なかれ、自分の心をバラバラにしようとする様々な力にさらされ、人と関わることに疲れてしまっているのです。

主イエスは悪霊に圧勝している
 主イエスは悪霊に、この「男から出るように命じられ」ました。悪霊どもは、「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように」と主イエスに願います。そして「その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた」ので、悪霊どもは「底なしの淵」へ行くのではなく、その豚の中に入ることを主イエスに願い、主イエスはお許しになりました。33節には「悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ」とあります。私たちはこの凄まじい出来事に衝撃を受けます。しかし私たちは、「悪霊に取りつかれている男」がその悪霊から解放され、救われたことにこそ目を向けなくてはなりません。豚の群れが崖を下って湖になだれ込みおぼれ死んだことよりも、この救いの出来事こそが衝撃的な出来事なのです。この人の救いにおいて、主イエスは悪霊に対して最初から終りまで圧倒しています。ゲラサにやって来た主イエスを見ただけで、「悪霊に取りつかれている男」は、「わめきながらひれ伏し」、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と大声で叫びました。「底なしの淵へ行けという命令」を出さないようにと願いました。豚の中に入る許しも主イエスに願いました。主イエスの許しがなくては、悪霊どもは豚の中に入ることができなかったのです。私たちはこの世界が悪霊の力によって支配されているように思うことがあります。神様から引き離す力がこの世界を圧倒しているように思うのです。しかしそうではありません。私たちの目には見えないとしても、悪霊は主イエスの前にひれ伏しているのであり、主イエスの許しがなければ何もできないのです。悪霊の力ではなく、主イエスこそがこの世界を支配していてくださり導いてくださっています。最初から主イエスは、悪霊に勝っているのです。私たちは、この世界のすべてが主イエスのご支配の下にあり、どれほど悪霊が力を振るっているように思えても、主イエスが悪霊に対して圧勝していることを信じて歩んでいきたいのです。

主イエスの足もとに座る
 主イエスによって悪霊どもから解放され、救われたこの男は「服を着、正気になってイエスの足もとに座って」いました。「服を着た」というのは社会生活を取り戻したことの象徴です。墓場や荒れ野で人と関わりを持たずに生きることから、人と関わりを持って生きるようになったのです。しかしそれは単なる社会復帰でも、苦手な人間関係の克服でもありません。彼は主イエスによって救われ、主イエスの「足もとに座る」者とされたのです。それは主イエスに従う者とされたということであり、主イエスのもとで、主イエスの言葉を聞き続ける者となったということです。彼が人生を取り戻したのは、主イエスによって、バラバラに引き裂かれていた彼の心が一つとされたからです。主イエスの足もとに座り、主イエスの言葉を聞き続けることによって、情報が溢れ、価値が多元化した社会にあって、私たちの心は一つに束ねられていきます。なにが自分の本当の思いなのか、なにが自分にとって本当に大切なのかが示されていくのです。共に読まれた旧約聖書詩編86編11節にこのようにあります。「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください」。私たちは主イエスの足もとに座り、その言葉を聞き続けることによって「一筋の心」が与えられ、主イエスの御前で心が一つに束ねられていきます。そのことによってこそ、私たちは逃げ込んでいた墓場や荒れ野から戻って、人生を取り戻し、ほかの人と関わって生きていくことができるのです。

一人の救いより経済的な損失
 さて、ゲラサの人たちはこの出来事にどのように反応したのでしょうか。34節には「この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた」とあります。豚の群れが崖を下って湖になだれ込みおぼれ死んだのを見た豚飼いたちは逃げ出して、人々にこのことを知らせました。また36節には「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた」ともあります。ですからゲラサの人たちは、豚の群れがおぼれ死んだことも、悪霊に取りつかれていた人が救われたことも聞いていたのです。彼らは豚の群れの死と一人の人間の救いの両方を知っていました。しかし結局彼らは、主イエスをゲラサから追い出すことにします。「ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った」とある通りです。彼らがそのように応じたのは、一人の人間の救いより、経済的に大きな損失の方を重んじたからです。豚飼いたちにとって、豚の群れを失うことは自分たちの生活に関わることであり、決して軽い出来事ではありません。しかしそうであったとしても、このゲラサの人たちの姿に、経済的なことを重んじるあまり、一人の人間の救いを軽く扱ってしまう私たちの社会の姿を見るのです。一人の人間が救われ社会に復帰していくことより、その人生が回復されることより、経済的な損得を重んじてしまうのです。

受け入れることへの恐れ
 経済的な損失だけが理由ではないかもしれません。ゲラサの人たちは、長い間、悪霊に取りつかれ、墓場で裸で暮らし、鎖でつながれ足枷をはめられても繰り返しそれを引きちぎって荒れ野へ行っていた人が、自分たちの社会に戻ってくることを恐れたのです。墓場や荒れ野にいれば、自分たちの生活と関わることはありません。監視していることができれば、それなりに社会の安全は確保できるかもしれません。でも、これからはそうではなくなります。彼が社会に復帰するということは、彼らも彼を受け入れ、彼と関わっていくということでもあるのです。37節に「彼らはすっかり恐れに取りつかれていた」とあります。その恐れは主イエスの救いのみ業への恐れだけでなく、その救いのみ業によって、これから自分たちがその人を受け入れていかなくてはならないことへの恐れ、自分たちも変わっていかなくてはならないことへの恐れでもあるのです。その恐れに駆られることによって、彼らは主イエスにゲラサから出ていってもらいたいと願ったのです。

人生の回復
 そのようにゲラサの人たちが願ったので、主イエスは舟に乗って帰ろうとされました。すると「悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願った」のです。しかし主イエスはこのように言われました。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」。主イエスが彼に与えた使命は、主イエスと一緒に舟に乗ることではなく、ゲラサに留まり、自分の家に帰り、神様が自分にしてくださったことを語ることでした。39節の終りには、「イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」とあります。「言い広めた」と訳されている言葉は、「神の国を宣べ伝える」の「宣べ伝える」という言葉です。彼は主イエスが自分にしてくださったことを宣べ伝える者、証しする者となったのです。彼にとって、主イエスと一緒に舟に乗るよりも、ゲラサに留まるほうが困難であったに違いありません。ゲラサの人たちは彼の過去を知っているからです。彼が服を身に着けず墓場で暮らしていたのも、鎖でつなぎ足枷をはめて監視しなくては共同体の安全が守れなかったのもつい最近のことです。きっと彼はゲラサの人たちにたくさんの迷惑をかけてきたし、不安や恐れを与えてきたに違いないのです。その彼が服を着るようになり、正気になったように見えたとしても、それだけでゲラサの人たちは彼に対する不安や恐れを払拭できるわけではありません。彼が新しく生き始めているということが、ゲラサの人たちには分からないかもしれないのです。だからこそ彼は、ゲラサの人たちとの関わりの中で、かつての自分とは違うことを伝えていく必要があります。自分のどこがどう変わったかを説明することによって伝えるのではありません。主イエスが自分にしてくださったことをことごとく証しすることによって伝えていくのです。主イエスによって救われた者として、その救いを証しし、周りの人たちと関わっていく中で、本当の意味で「人生の回復」が与えられていきます。主イエスのもとで主イエスの言葉を聞き続けることによって「一筋の心」が与えられ、隣人と本当の交わりを持って生きていくことができるのです。情報が溢れ、価値が多元化した社会にあって、悪霊が力を振るっているように思える世界にあって、バラバラに引き裂かれそうになる私たちの心が、み言葉によって一つに束ねられ「一筋の心」が与えられます。そのことによってこそ私たちは自分の人生が確かなものとされ、隣人との交わりに生きていくことができるのです。

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