主日礼拝

公同の教会

「公同の教会」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第56章6-8節
・ 新約聖書:エフェソの信徒への手紙 第4章1-6節
・ 讃美歌:1、72

聖なる公同の教会を信じる
 毎週の主の日の礼拝で私たちは、使徒信条によって信仰の告白をしています。使徒信条には、およそキリスト教会であればどの教派であっても共通して信じている事柄が語られています。その第三の部分に、「聖なる公同の教会」とあります。「聖なる公同の教会」を信じることが、教会の信仰の大切な内容の一つなのです。先週は、この中の「聖なる」という言葉を取り上げました。教会が聖なるものであるとはどういうことか、をみ言葉から聞いたのです。本日は、「公同の」という言葉を取り上げます。私たちは、「公同の教会」を信じているのです。「公同の」ってどういう意味なのでしょうか。「公同の教会」についてみ言葉はどのように語っているのでしょうか。
 毎週繰り返してお話ししていますが、神を信じることと教会を信じることでは「信じる」の意味が違います。私たちは教会を神として信じているわけではありません。神を信じる、特に聖霊なる神を信じることの中で、教会を信じているのです。その時私たちは何を信じているのか。そのことを語っている「ハイデルベルク信仰問答」問54の言葉を毎回紹介してきました。本日も先ずそれを読みたいと思います。「『聖なる公同の教会』について、あなたは何を信じていますか」という問いに対する答えです。「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれるということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです」。この答えの文章の中に、教会が「聖なるもの」であることが語られている、と先週お話ししました。それはどこに語られているのかというと、神の御子主イエスがご自分のために、一つの群れを選び、集め、守り、保っておられる、というところにです。神がご自分のものとして選び、集め、他のものとは区別なさったものが「聖なるもの」です。教会は神に選ばれて神の民として集められたことによって「聖なる教会」とされているのです。

公同の教会
 これが先週の説教のポイントだったわけですが、同じこの問54の答えの文章の中に、「公同の教会」のことも語られています。どの言葉にそれが示されているのかというと、「全人類の中から、一つの群れを、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで」というところです。これらの言葉が「公同の教会」の意味を語っているのです。「公同の」は原文においては「カトリック」という言葉であって、それは「普遍的」という意味です。「公同の教会」とは「普遍的な教会」です。教会が普遍的であるとは、神が「全人類の中から、一つの群れを」選んで下さったからです。神に選ばれた民である教会は、全人類の中から選ばれ、全人類の間に広がっている一つの群れなのです。つまり神は、世界中のあらゆる民族、あらゆる人種の中から選び集めて、ご自分の民である教会を築いて下さっているのです。世界中には様々な教派があり、数えきれないほどの教会がありますが、その全てが、主なる神がご自分の民として選び、集めておられる教会であって、その全体が一つの教会なのです。それが「公同の教会、普遍的な教会」です。いろいろな教派の個々それぞれの教会は皆、この「公同の教会」の部分です。「公同の」は「カトリック」という言葉だと申しました。いわゆる「カトリック教会」は「ローマ・カトリック」という一つの教派のことです。カトリック教会だけがカトリックの、つまり公同の教会なのではありません。私たちプロテスタント教会も、言葉の正しい意味で「カトリックの、公同の」教会の部分なのです。

まことの信仰の一致において
 このように「公同の」という言葉は神がご自分の民として選び集めておられる教会が一つであることを示していますが、その「一つであること」を成り立たせているのは、先ほどの答えの中にあった「まことの信仰の一致において」ということです。教会が「公同の教会」として一つであるのは「まことの信仰の一致において」です。聖書に基づく信仰の基本において一致しているから、一つの教会なのです。だからどんな群れでも「教会」という看板さえ出せば「公同の教会」の部分となるわけではありません。「まことの信仰の一致」がある所にこそ「公同の教会」はあるのです。その、「公同の教会」を成り立たせる「まことの信仰」を語っているのが、「使徒信条」を始めとする古代の教会において成立したいくつかの信条です。古代の教会が、聖書に基づいて、教会は何を信じているのかをまとめたのが信条です。「古代の」ということに意味があります。それは、教会がいろいろな教派に枝分かれする前の時代に、ということだからです。教会はその後歴史の中でいろいろな事情で枝分かれしていって、様々な教派が生まれましたが、どの教派も、枝分かれする前の古代の教会の信仰を受け継ぎ、土台としているのです。その信仰が語られているのが、使徒信条を始めとする信条です。だから最初に申しましたように、およそキリスト教会であればどの教派でも共通して信じている事柄がそこに語られているのです。ですから、使徒信条に代表される信条を受け入れていないとしたら、その群れは「まことの信仰の一致」から外れてしまっているのですから「公同の教会」の部分であるとは言えません。その群れがキリスト教会を名乗っていたとしても、それはキリスト教の教派の一つではなくて、もはや別の宗教だと言わなければならないのです。しかし逆に、信仰における強調点の置き所が違っていても、また礼拝の仕方や教会の運営の仕方が大きく違っていても、使徒信条を受け入れ、その信仰に立っているなら、そこには「まことの信仰の一致」があるのであって、その群れは「公同の教会」に共に連なっている仲間であり、同じキリスト教の教派の一つであると言えるのです。つまり私たちは今、使徒信条を学ぶことを通して、全世界の教会が一つであることの土台である公同の教会の信仰を学んでいるのです。

世の初めから終わりまで
 そして先ほどの答えの文章にはさらに、「公同の教会」は「世の初めから終わりまで」、つまりこの世の歴史を貫いて存在していることが語られています。普遍的な教会とは、歴史を貫いて存在している教会ということでもあるのです。主なる神がご自分の群れとして選び、集めて下さっている民は、世界中に広がっているだけでなく、天地創造から終末に至るまで、いつの時代にも存在しているのです。「公同の教会」を信じるとは、主なる神が、これまでも、今も、そしてこれからも、ご自分の民を選び、集め、守り、保って下さることを信じることなのです。そしてこれも毎週申していますように、そのように神に選ばれ集められた一つの群れが歴史を貫いて存在していることを信じるだけでなく、この自分がその「公同の教会」の「生きた部分」とされていること、しかもあの答えの文章の最後に語られているように「永遠にそうあり続ける」ことを信じるのです。私たちが「公同の教会」の「生きた部分」であるのは、私たちがそれに相応しい人になることによってではありません。もしそうであれば、その相応しさは途中で失われてしまうかもしれません。「永遠にそうあり続ける」とは言えないのです。しかし私たちが公同の教会の生きた部分であるのは、私たちが条件を満たすことによってではなくて、私たちを選び、集め、守り、保って下さっている神のみ心が確かであり、永遠に変わることはないからです。だから私たちは、自分が公同の教会の生きた部分とされていることを信じることができるのだし、これからも永遠にそうあり続けることを信じることができるのです。
 このように、「公同の教会を信じる」とは、主なる神が、全人類の中から、ご自分の民を選び集めて、一つの教会を築いて下さっていること、またその教会が世の初めから終わりまで、歴史を貫いて存在していることを信じるということです。「公同の」という言葉は聖書には出て来ません。しかし、今述べた意味での公同の教会を築いて下さり、私たちを選び集めてその部分として下さっていることが、神の救いのみ業であることを聖書は語っています。いくつかの箇所からそのことを見ていきたいと思います。。

イスラエルの民が教会の起源
 「公同の教会」は世の初めから存在していた、と申しましたが、それには疑問を抱く人もいるかもしれません。なぜなら、教会という群れがこの世に誕生したのは、主イエスの復活の五十日後のペンテコステの日に、聖霊が降ったことによってだったからです。それ以前には「教会」と呼ばれる群れはなかったのです。つまり教会の歴史は高々二千年です。その教会が、世の初めから終わりまで存在している普遍的なものだ、などと言えるのでしょうか。そこで先ず、主イエスがお生まれになる前のことを語っている旧約聖書に目を向けたいと思います。旧約聖書においても、主なる神がご自分の民を選び、集め、導かれたことが語られています。それがイスラエルの民です。旧約において神はイスラエルをご自分の民として選び、集め、守り、保って下さったのです。ここに教会の起源があります。イスラエルの民こそ、旧約聖書の時代の教会だったのです。教会はイスラエルの民の歴史を受け継ぎつつ、主イエス・キリストのもとに神が新しく選び集めて下さった新しい神の民、新しいイスラエルなのです。
 しかしイスラエルの民は一つの民族でした。イスラエルという一つの民族を神が選んでご自分の民とされたのです。そして旧約においてはその神の民イスラエル以外の人々のことは「異邦人」と呼ばれており、神の救いの外にいる者たちとして蔑まれてもいます。イスラエルの人々は、自分たちこそ神に選ばれた者だ、という強烈な選民意識を持って、他の人々と自分たちを区別していました。だから旧約聖書におけるイスラエルの民は、人種や民族や国籍を超えて存在していたわけではない。「普遍的な群れ」とは言えないのではないか、そのイスラエルの民を指して、旧約聖書の時代にも公同の教会が存在した、ということには無理があるのではないか、とも思われるのです。

イスラエルを選んだ主のみ心
 イスラエルの民は確かに一つの民族であり、決して普遍的な群れではありませんでした。しかし聖書を丁寧に読んでいくと、主なる神が彼らを選んでご自分の民とされたことの背後にどのようなみ心があったのかが見えて来ます。イスラエルの民の選びは、主なる神がアブラハムに語りかけたことから始まっています。創世記の第12章です。最初はアブラムという名前だったアブラハムに主はこのように語りかけたのです。創世記第12章1?3節を読みます。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る』」。アブラハムがこの主の語りかけを受けて旅立ったことから、イスラエルの民の歴史は始まりました。「わたしはあなたを大いなる国民にする」という主なる神の約束が果たされて、アブラハムの子孫がイスラエルの民となったのです。主なる神によるイスラエルの民の選びの原点が、このアブラハムへのみ言葉にあるわけですが、ここには、その選びは何のためだったのかが語られています。それはアブラハムを「祝福の源」とすることです。神の祝福がアブラハムから湧き出て、周囲の人々へと及んでいくのです。それは、アブラハムの子孫であるイスラエルの民だけが祝福を受ける、ということではありません。「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と言われています。地上の氏族はすべて、つまり世界中の全ての人々が、アブラハムによって神の祝福に入るようになる、そのために主はアブラハムをお選びになったのです。つまりイスラエルの民は、自分たちだけが祝福を受ける者として選ばれたのではなくて、世界中の人々の「祝福の源」となるために選ばれ、集められたのです。イスラエルの民の選びの原点において、主なる神のこのようなみ心が示されていたのです。主なる神がアブラハムという一人の人を選び、その子孫であるイスラエルの民をご自分の民としてお立てになったのは、彼らを通して世界中の人々に主の祝福を及ぼし、全ての人々を救って下さるためだったのです。旧約聖書には確かに、イスラエルの民が神に選ばれた民であると語られており、他の人々は神の民ではない異邦人として区別されています。しかしそれは、イスラエルの民だけが神に愛され、救われるのであって、他の人々は神に愛されておらず、滅びる運命にある、ということではありません。むしろ旧約聖書が語っているのは、主なる神がある人々を選んでご自分の民となさったのは、彼らを用いてみ業を行うことによって、全人類にご自分の救いを及ぼすためだった、ということです。そもそも神はこの世界の全ての人々をお造りになり、命を与えておられるのであって、異邦人と呼ばれている人々をも、神は祝福へと招き、神の民に加えようとしておられるのです。

イスラエルは公同の教会の先駆け
 そういうことが旧約聖書のあちこちに語られています。「ヨシュア記」に出て来る、エリコの町の遊女だった異邦人の女ラハブはイスラエルの民に加えられました。「ルツ記」も、異邦人であるモアブの女ルツがダビデ王の先祖となったという話です。そして先ほど朗読されたイザヤ書第56章には、主なる神ご自身の言葉として、そのみ心が語られているのです。イザヤ書第56章6、7節をもう一度読みます。「また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら/わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。異邦人であっても、主なる神のもとに集って来て、主を愛し、主に従うなら、ご自分の民に加えて下さるという主のみ心がここに語られているのです。主なる神は、ご自分の民として選んだ者たちだけを救おうとしておられるのではなくて、その人々の存在を通して、地上の全ての人々をご自分のもとに集め、一つの民としようとしておられるのです。それゆえに私たちは、旧約聖書における神の民イスラエルに、公同の教会の先駆けを見ることができるのです。

主は一人、信仰は一つ、洗礼も聖餐も一つ
 主なる神がご自分の独り子、主イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのも、このみ心によってです。主イエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、罪の赦しによる救いを実現して下さいました。神の律法を守ることによってではなくて、主イエスによる罪の赦しにあずかることによる救いを神が与えて下さったのです。そのことによって、神の救いはイスラエルという民族の枠を超えて、世界中の人々へと広げられました。神は救い主イエス・キリストのもとに、全人類の中から一つの群れを選び、集めてご自分の民とし、すべての民の祈りの家である公同の教会を築いて下さっているのです。先ほど読まれた新約聖書の箇所、エフェソの信徒への手紙第4章には、この公同の教会のことが語られています。その5、6節にこうありました。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」。全人類の中から、人種や民族や国籍を超えて、また歴史を貫いて、神によって選ばれ、集められた私たちの主は一人、イエス・キリストです。その主イエス・キリストを信じるまことの信仰の一致において、私たちは皆公同の教会の部分とされています。そのことの印が洗礼です。洗礼は、世界中のどの教派のどの教会で受けても、一人の主イエス・キリストに結び合わされ、その体である一つの教会に加えられる、一つの洗礼です。洗礼を受けた者は、世界中に広がり、歴史を貫いて存在している公同の教会に連なる者とされているのです。そして本日は聖餐にあずかります。洗礼によってキリストの体である教会の部分とされた者が、聖餐においてキリストの体と血とにあずかり、キリストの十字架と復活による救いを味わい、それによって養われていきます。この聖餐も、公同の教会に連なっている世界中の者たちに、歴史を貫いて与えられてきた共通の糧です。洗礼を受け、聖餐にあずかることによって私たちは、神が全人類の中から、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで選び、集め、守り、保って下さっている一つなる公同の教会に連なって生きるのです。神に選ばれ、集められた神の民である公同の教会は世界中に広がっており、また世の初めから終わりまで、歴史を貫いて存在しています。そして私たちは、私たちの清さや正しさによってではなく、神の恵みによる選びと招きによって、その公同の教会の生きた部分であり、永遠にそうあり続けるのです。

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