「赦されること、愛すること」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第32編1-5節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第7章36-50節
・ 讃美歌:22、451
シモンが主イエスを食事に招く
あるファリサイ派の人が一緒に食事をしたいと主イエスに願いました。40節によれば彼の名前はシモンです。これまでもファリサイ派の人たちはなにかと主イエスと対立してきましたから、シモンは緊張関係にある主イエスを食事に招いたことになります。といっても二人きりの食事に招いたのではなく食事会の客の一人として招いたのです。シモンがどれほどの規模の食事会を催したのかはよく分かりませんが、それなりの人数が集まり、人々の出入りも激しかったのではないかと思います。主イエスはシモンの願いを聞き入れました。彼の家に入って「食事の席に着かれ」ます。「食事の席に着かれた」と訳されている言葉は元々「横になる」という意味の言葉です。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が有名なので、私たちは椅子に座って食卓を囲むイメージを持ちやすいですが、当時、このような食事の際には、椅子に座って食事をしたのではなく横たわって食事をしました。低い机を囲み、体の左側を下にして横たわり、左肘をついて上半身を支え足は後ろに伸ばし、自由な右手で食事を取って食べたのです。
一人の罪深い女が主イエスのところへ
さて「この町に一人の罪深い女」がいました。彼女がどのような罪を犯したのか聖書にはなにも書かれていません。娼婦であったと言われることもありますが、そのような詮索はあまり意味がないと思います。どんな罪を犯したにせよ一人の罪深い女性がいたのです。町中の人たちが彼女の罪について知っていたのだと思います。町の人たちの冷たい視線にさらされつつ彼女は生きてきたのではないでしょうか。その彼女が、主イエスがシモンの家に入って食事の席に着いていることを知りました。人の出入りの激しい会ですから彼女がシモンの家に入ることは難しくありません。そこで彼女は「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに」近寄ったのです。「香油の入った石膏の壺」を持って来たのは主イエスの頭に香油を塗るためでした。主イエスは横たわり、頭を食卓の方に向け、足を後ろに伸ばして食事をしていましたから、彼女が後ろから主イエスの足もとに近寄ったのは自然な動きです。しかしその後、彼女が取った行動は普通ではありませんでした。38節にこのようにあります。「泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。主イエスのところへやって来た彼女は思わず泣いてしまいます。その涙が主イエスの足をぬらし始めたので自分の髪の毛でぬぐって拭いたのです。それだけでなく主イエスの足に接吻し、主イエスの頭に塗るために持ってきた香油をその足に塗りました。食事の会に参加していたほかの人たちの目には、彼女のこの振る舞いは異様なものと映っていたに違いありません。常軌を逸した行動と思われても仕方がないことを彼女は主イエスにしたのです。しかし主イエスは彼女の行動を妨げもしなかったし咎めもしませんでした。
主イエスを見定めるために
この女性の振る舞いをシモンは見ていました。彼女の振る舞いに主イエスがどのように応じるかも見ていました。なにもしない主イエスを見て、彼は心の中でこのように思ったのです。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。ファリサイ派のシモンにとって「罪深い女」は近づけてはならない人、遠ざけるべき人でした。まして自分に触れさせることがあってはなりません。彼は「主イエスが預言者なら、彼女を自分から遠ざけるに違いない」と考えていたのです。しかし主イエスは彼女のなすがままに任せました。だからシモンは主イエスが預言者ではないと思ったのです。彼が心の中で思ったことから、なぜ彼が緊張関係にある主イエスを食事へ招いたかが分かります。それは、主イエスが噂通りの預言者かどうか見定めるためです。少し前の7章11節以下で、主イエスがナインという町で夫を亡くした女性の一人息子を生き返らせたことが語られていました。その主イエスのみ業に立ち会った人々の様子が、16節で「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った」と言われていました。また続く17節には「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」とありました。おそらくシモンも主イエスについて人々が「大預言者が我々の間に現れた」と言っているのを耳にしたのです。だからシモンは主イエスを食事に招き、その噂が本当かどうか見定めようとしました。ファリサイ派の彼にすれば、主イエスが本物の大預言者なら罪を犯した女に裁きの言葉を告げるべきなのです。しかし主イエスはそうなさらなかった。シモンの結論は出ました。
主イエスのもとに慰めと平安があると信じて
「罪深い女」もシモンと同じように、主イエスについて人々が「大預言者が我々の間に現れた」と言い、「神はその民を心にかけてくださった」と言っているのを耳にしたのだと思います。しかし彼女はシモンとは違い主イエスが噂通りか確かめようとしたのではありません。主イエスのところに行きたい、主イエスのもとに近づきたいと思ったのです。人々は主イエスのみ業に直面して「神はその民を心にかけてくださった」と言いました。神の憐れみ、慰めと平安は主イエスのもとにあるのです。そのことを信じ彼女は主イエスのところに行こうとしたのです。彼女は自分の罪に深い苦しみを覚えていたのではないでしょうか。周りの人たちの冷ややかな視線の中で生きていく苦しみだけではありません。なによりも自分が犯した罪そのものが彼女に大きな苦しみをもたらしていたのです。罪への意識は、振り払おうとしても振り払うことができません。忘れようとしても忘れられません。それは、日々の生活の中で繰り返し襲ってきます。たとえ忙しくすることで一時忘れることができてもすぐまた襲ってくるのです。そこには言葉にならない苦しみがあります。本日共に読まれた旧約聖書詩編32編3-4節で、詩人は罪がもたらす苦しみについてこのように告白しています。「わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。 御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました」。この詩人と同じように彼女も、自分の罪のゆえに「絶え間ない呻きに骨まで朽ち果て」るほどの苦しみを抱え、神の御手が「昼も夜も」重くのしかかるほどの罪への意識に苛まれ、「夏の日照りにあって衰え果て」るほど生きる力を奪われていたのです。その彼女が人々の話を聞いて、主イエスのもとにこそ慰めと平安があると信じたのです。
五百デナリオンと五十デナリオン
シモンは「罪深い女」の振る舞いに対する主イエスの反応を見て、主イエスが大預言者であるという人々の噂は間違っていると心の中で見定めました。そのシモンに向かって、主イエスは「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われ、譬え話を語られます。その譬え話が41-42節にあります。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった」。そして主イエスはシモンに問われます。「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。シモンが「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えると、主イエスは「そのとおりだ」と言われました。一デナリオンは1日分の賃金に当たります。一方は500日分の賃金を、もう一方は50日分の賃金を帳消しにしてもらったのです。より多く帳消しにしてもらった方がより多く愛する、とシモンも認めました。この譬え話で比べられているのは「罪深い女」とシモンであり、二人が帳消しにしてもらったのは「借金」ではなく「罪」です。ファリサイ派のシモンより10倍の罪を赦された「罪深い女」のほうが、より多く愛すると言われているように思えます。譬え話を終えると、それまでシモンを見つめていた主イエスはその視線を女性へと向け、シモンに言われました。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーヴ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」。シモンは主イエスになにもしませんでしたが、「罪深い女」は主イエスにありったけのことをしたのです。彼女の振る舞いに「ご自分への大きな愛が表れている」と主イエスは言われます。そして彼女が主イエスに示した大きな愛から彼女が多くの罪を赦されたことが分かるのです。だから主イエスはシモンに言われます。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。
自分の罪に気づけているか
しかしそうなると、より多く罪を赦されるために、より多くの罪を犯したほうが良いのだろうかと思います。そのほうがより多く愛せることになると思うからです。ファリサイ派のシモンが主イエスへの愛を示さなかったのは、そもそもシモンには赦されなくてはならない罪が少なかったからであり、「罪深い女」が主イエスに精一杯のことをして愛を表したのは、彼女には赦されなくてはならない罪が多かったからなのでしょうか。もっと罪を犯していれば、シモンはもっと赦され、もっと愛したということなのでしょうか。そうではないのです。もしそのように罪が多いとか少ないとか考えるのであれば、私たちはファリサイ派の人たちと同じことをしていることになります。彼らは自分とほかの人を比べて自分の罪が少ないことを誇っていました。しかし本来、私たちの罪はそのように比べることなどできません。あの人より自分の罪は少ないなどと言えるはずがないのです。私たちは誰もが自分の力では支払うことのできない途方もない借金を抱えています。シモンにも「罪深い女」にも、そして私たちにも、自分の力では償うことのできない罪があるのです。ですから主イエスの譬え話で「一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオン」借金していたというのは、「罪深い女」とシモンの罪の大きさが比べられているのではありません。そうではなく自分の罪にどれだけ気づいているかが比べられているのです。シモンと比べて10倍と言えるほどに彼女は自分の罪に気づいていました。自分が罪人であることを知っていたのです。具体的なあれこれの罪を自覚していたというだけではなく、なによりも神さまと自分との関係が壊れてしまっていることに気づかずにはいられなかったのです。罪のゆえに「絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てる」ほどの苦しみを味わい、神の御手が「昼も夜も」重くのしかかるほど罪への意識に苛まれ、自分の力では取り除くことができない罪を、自分の力では取り戻すことができない神さまとの関係の破れを突きつけられていたのです。それに対してシモンは自分が罪人であるとは思っていませんでした。むしろ自分は「正しい」と思っていたのです。「正しい」というのは、自分の言葉や行いが正しいというだけでなく、神さまと自分との関係が正しいということです。律法をしっかり守ることによって神さまと正しい関係を持つことができていると思っていたのです。「罪深い女」が自分の深い罪を自覚していたのに対して、彼は自分の罪の深刻さに気づけませんでした。自分とほかの人を比べて、相手の罪のほうが自分よりずっと大きいと思っているとき、自分の罪は決して見えてこないのです。けれどもファリサイ派のシモンも、「罪深い女」と同じ罪人に過ぎません。神さまのみ前でどちらも同じ罪人なのです。そこに差はありません。差があるとしたら、自分の罪に気づけているかどうかにあるのです。そしてこのことにおいて、「罪深い女」とシモンの間には五百デナリオンと五十デナリオほどの差があったのです。
赦しに気づき、応える
自分の罪を深く自覚するところにその罪を赦してくださる方への大きな愛が生まれてきます。シモンは主イエスを見定めてやろうと思い、「罪深い女」は主イエスにありったけのことをしました。シモンは自分の罪に気づかなかったから主イエスを愛そうとしなかったのです。それに対して「罪深い女」は自分の罪の深刻さに気づき、そこに与えられている赦しの大きさに気づいたから、その赦しを与えてくださる主イエスを精一杯愛したのです。「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」とは、自分の罪に気づかず、そこに与えられている赦しの大きさに気づかない者は愛することも少ない、ということにほかなりません。自分の罪がもたらした苦しみを味わい、自分の力ではどうすることもできない自分の罪の深刻さに直面するからこそ、そこに与えられている赦しの大きさに気づくことができるし、その赦しの恵みにお応えして精一杯愛そうとするのです。もちろん自分の罪を自覚できるといっても、自分の罪の大きさからすればほんの一部でしかありません。五百デナリオンは500日分の賃金であり大きなお金ですが、途方もない借金とまでは言えないかもしれません。しかし私たちの借金は、罪の負債は500日分どころか、決して支払うことができないほど大きいのです。この女性が途方もない借金の内、500デナリオン分だけに気づけたように、私たちが気づけるのは自分の罪のほんの一部です。それでも自分の罪にほんの一部でも気づけるなら、そこに与えられている赦しにも気づき、その赦しの恵みに応えていくことができるのです。
なにを見ているのか
主イエスは「女の方を振り向いて」シモンに「この人を見ないか」と言われたのでした。シモンに対する痛烈な皮肉ではないでしょうか。シモンはこの女性をずっと見ていたのです。彼女が主イエスにしたことのなにもかもを見ていました。それにもかかわらず主イエスはシモンに「この人を見ないか」と言われたのです。なぜならシモンは彼女を見ていたようで本当は見ていなかったからです。彼女を「罪深い女」というレッテルでしか見ていなかったし、彼女の主イエスへの振る舞いを表面的にしか見ていなかったのです。その振る舞いの背後にある彼女の罪への深い苦しみと、その罪から救われることへの願いをまったく見ようとしなかったのです。
それに比べて、この女性は主イエスだけを見ていました。彼女はシモンが自分を見ていることに、シモンだけでなくそこにいる人たちが自分を見ていることに気づきもしなかったはずです。ただ主イエスだけを見つめ、主イエスのところに行くことだけを、主イエスのもとに近づくことだけを考えていたのです。憐れみと慰めと平安を求めて主イエスにだけ想いを向けていたのです。シモンにはその彼女の想いは見えません。しかし主イエスはその想いを見てくださり受けとめてくださったのです。
赦されること、愛すること
この物語を読むとき、私たちは赦しが先なのだろうか愛が先なのだろうかと思います。あるいは罪の自覚が先なのだろうか罪の赦しが先なのだろうかと思います。それは自然な問いだと思います。しかしその問いは、私たちの信仰生活から離れてしまっている問いなのです。敢えて言えば、赦しが先です。救いが先です。神の恵みが先行するのです。この女性が主イエスのところに来るよりも前に、主イエスがこの地上に来てくださったのです。その主イエスのところに彼女は飛び込んだに過ぎません。そこに赦しがあり、救いがあり、恵みがあり、慰めと平安があると信じて飛び込んだのです。しかしそうであったとしても、自分の罪に気づくこと、赦されること、愛することを機械的な順序として考えることはできません。これらのことは私たちの信仰生活において一つのことだからです。罪の赦しの中でこそ自分の罪に気づかされます。自分の罪に気づかされるからこそ、そこに与えられている赦しの大きさに気づかされ、その赦しの恵みにお応えしてますます神さまと隣人とを愛する者へと変えられていきます。私たちの信仰生活は、この繰り返しです。そしてこの繰り返しこそ、主イエスとの交わりに生きることにほかならないのです。
主イエスのもとに飛び込んで
この女性はただ主イエスだけを見つめ、主イエスのもとに飛び込みました。私たちも主イエスのもとに飛び込みたい。主イエスとの交わりの中へ飛び込んでいきたいのです。周りの人の目を気にするのではなく、ただ主イエスを見つめて、主イエスのもとへと行くのです。もしかしたら自分が思うようには主イエスに近づけないかもしれません。この女性は主イエスの頭に香油を塗ろうと思っていました。でも結局、主イエスの足に塗ったのです。この女性は初めから主イエスの前で泣こうと思っていたわけではありません。ただ主イエスのもとで思わず涙がこぼれたのです。本当に信頼できる方がそこにおられたからです。本当に心を開ける方がそこにおられたからです。涙を流した後の彼女の行動は、「はちゃめちゃな行動」と言えるかもしれません。それでも主イエスは受けとめてくださる。彼女の表面的な振る舞いではなく、彼女の苦しみと願いを受けとめてくださるのです。私たちも主イエスのもとに飛び込んで行きます。主イエスのもとで涙を流します。ほかの人からは「はちゃめちゃな行動」に見えたとしても、主イエスのもとに近づきたいという私たちの切なる願いを、真剣な想いを主イエスは必ず受けとめてくださるのです。
罪を赦され、平安を与えられて
主イエスのもとにこそ慰めと平安があると信じ、主イエスのところに飛び込んだこの女性に、そして私たちに主イエスは「あなたの罪は赦された」と言われます。主イエスのもとにこそ赦しがあるのです。先ほどの詩編32編、その1節には「いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」とあります。主イエスのもとで背きを赦され、罪を覆われた私たちこそ「幸いな者」にほかならないのです。
主イエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とも言われます。「安心して行きなさい」はユダヤ人の別れの挨拶です。「平安(平和)の内に行きなさい」とも訳せます。罪による「絶え間ない呻きに骨まで朽ち果て」るほどの苦しみを抱え、神の御手が「昼も夜も」重くのしかかるほど罪への意識に苛まれる中で、ただひたすら主イエスをみつめ、主イエスのところへ飛び込んでいく私たちに平安が与えられるのです。その平安は、私たちをまるごと受けとめてくださる主イエスのもとで生きる平安にほかなりません。なお罪に苦しみ、罪への意識に苛まれても、それにまさる平安が主イエスとの交わりに生きることにあるのです。その交わりの中で、私たちは自分の罪に気づかされ、そこに与えられている赦しに気づかされ、その赦しの恵みに応えて、神さまを精一杯愛し、隣人を精一杯愛していくのです。