「これほどの信仰」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第12章1-3節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第7章1-10節
・ 讃美歌:303、447
百人隊長と僕
ルカによる福音書を読み進めてきて第7章に入りました。6章20節から49節では主イエスの説教が語られていました。本日の箇所の冒頭7章1節に「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えて」とありますが、直訳すると「彼のすべての言葉を民衆の耳の中へと満たした」となります。6章27節では「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と、主イエスは言われていましたから、20節から49節で語られたみ言葉は、そのように主イエスの説教に耳を傾けていた人たちを満たしたのです。主イエスがお語りになったみ言葉を聞き、その豊かな恵みに満たされた彼らはどのように応答したのでしょうか。7章1節には「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とあり、主イエスが説教を語り終えるとガリラヤ湖畔の町カファルナウムに入られたことが語られていますが、民衆についてはなにも触れられていません。しかし9節を見ると、「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた」とあり、おそらく彼らも主イエスに従ってカファルナウムにやって来ていたのではないでしょうか。彼らはみ言葉の恵みに応えて主イエスに従ったのです。そのような民衆ですが、本日の箇所では目立たない存在です。今、申した通り、彼らは主イエスに従い、主イエスと共にいたに違いありません。しかしここで語られているのは彼らの言動ではないのです。ルカ福音書は、主イエスの説教を語った後に、そのみ言葉の恵みに応えて主イエスに従った人々の歩みに目を向けるのではなく、別の人へと目を向けています。それが2節に語られている「ある百人隊長」です。百人隊長は、その名の通り軍隊において百人の兵士に命令し、彼らを束ね統率する立場にありました。百人隊長と聞くとローマ軍の百人隊長を思い浮かべますが、イエスの時代には、カファルナウムのあるガリラヤ地方はローマの領土ではなかったので、この百人隊長は、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの軍隊の百人隊長であったと思われます。ヘロデ・アンティパスは、クリスマス物語に出てくるヘロデ大王の息子です。いずれにしてもこの百人隊長はユダヤ人ではなく異邦人でした。そして彼の「部下が、病気で死にかかっていた」のです。ここでは「部下」と訳されていて、彼が束ねている百人の兵士の内の一人のように読めますが、そうではなくこの言葉は「僕」あるいは「奴隷」を意味します。7節では百人隊長がこの部下のことを「わたしの僕」と言っています。その「僕」ないし「奴隷」が「病気で死にかかっていた」のですが、さらに2節には彼に対する百人隊長の評価が述べられています。それが、「百人隊長に重んじられている」ということです。彼は兵士ではなく奴隷ですから、「重んじられている」というのは、彼が有能な兵士だとか、彼がいないとこの部隊は成り立たないということではありません。そうであれば分かりやすいのであって、百人隊長に重んじられている、彼の部隊の一人の兵士が病気で死にかかっていた、ということになります。しかし彼は奴隷であり、当時、奴隷は主人の持ち物、つまり所有物でした。「重んじられている」という言葉は、「価値がある」とか「高価である」とか「貴重である」という意味を持ちます。ですから当時の主人と奴隷の関係を踏まえるならば、百人隊長にとってこの僕は所有している価値があったということかもしれませんし、あるいは百人隊長は彼を高いお金で買い取ったということなのかもしれません。しかし「重んじられている」という言葉にそのような意味が込められているとしても、この僕が百人隊長にとって特別な存在であったことは間違いありません。そこには単に主人と奴隷、所有する者とされる者の関係だけではなく、人と人との関係があったのではないでしょうか。だから彼が「病気で死にかかって」いたのを放っておくことができなかったのです。百人隊長にとってこの僕の死は、ただ人的な損失でもなければ、金銭的な損失でもなく、人と人との関係の喪失であったのです。
執り成し願う
百人隊長は、主人と僕という関係ではなく、つまり自分の所有物としてではなく、一人の人、一人の隣人として僕に接していました。ここに百人隊長の僕に対する愛を見ることができます。その愛によって彼は主イエスに助けを求めようとしました。それは、自分自身ではなく隣人を助けてもらおうとする執り成しの願いであったのです。私たちは、この百人隊長が、当時自分の所有物であった奴隷に対して一人の人として接したことに感銘を受けるだけで終わってしまってはなりません。しばしば私たちは神さまに自分が助けてもらうことばかりを願います。隣人を助けてくださいと執り成し願うよりも、まず自分を助けてくださいと願うのです。もちろん私たちは隣人のことを執り成し願わないわけではありません。家族や友人、教会に連なる神の家族の方々、特に病や苦しみ悲しみの中にある方々を覚えます。しかし自分に余裕がなくなってくると、自分の苦しみや悲しみ、恐れや不安に心を奪われてしまうと、隣人のことを執り成し願うことがなかなか出来なくなる、どうしても後回しになってしまうのです。私たちは神さまに助けを願うことにおいても、自分を中心としてしまいます。隣人より自分を優先してしまう、隣人を愛せない弱さや欠けを私たちは持っているのです。しかしこの百人隊長は病気で死にかけている僕を助けるために主イエスに願おうとしました。現代からはなかなか想像できませんが、当時の主人と僕の間の隔たりは大きいものでした。そのような隔たりを越えて、所有する者とされる者という関係を越えて、百人隊長は僕を助けようとしたのです。私たちはここに彼の隣人に対する熱心な願いを見るのです。私たちも自分と隣人との関係において様々な隔たりを持っています。神さまが私たちに与えてくださっている隣人は、いつも自分にとって一緒にいて居心地の良い人とか、気の合う人というわけではありません。好きになれない人であったり、意見が違う人であったり、仲が悪かったり、敵味方の関係にあったりします。しかしそのような隔たりを越えて、神さまが与えてくださった隣人を重んじ、その隣人のために執り成し願うことが、隣人を愛することにほかなりません。まさに百人隊長はそのようにして、自分の僕を隣人として愛したのです。
百人隊長とユダヤ人
そこでこの百人隊長はイエスのことを聞くと、ユダヤ人の長老たちをイエスのところへと送りました。ユダヤ人の長老たちとは、ユダヤ人の間で指導的立場にあった人たちです。百人隊長は彼らを主イエスのところに遣わして彼の僕を助けに来てください、と頼ませたのです。主イエスのところにやって来たユダヤ人の長老たちは熱心に願いました。4、5節にこのようにあります。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」彼らは、主イエスに百人隊長の僕を助けに来てくれるように熱心に願いました。彼らが熱心に願ったのは、百人隊長は「そうしていただくのにふさわしい人」だと思っていたからです。「そうしていただくのにふさわしい人」とは、「そうしていただくのに価値がある人」ということを意味します。この「価値がある人」というのは、百人隊長に対するユダヤ人の長老たちの評価と言えます。彼らが百人隊長をこのように評価したのは、彼が主人と僕の関係を越えて、僕に対して一人の人として、一人の隣人として接し、重んじ愛したからではありません。そうではなく彼が「ユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれた」からです。つまり彼はユダヤ人を尊重し、彼らのために会堂を建てたのです。おそらく彼は会堂を建てるための費用を寄付したのではないでしょうか。同じ時代の碑文に、異邦人がユダヤ人の会堂を建てたことが記されている碑文が残っているそうです。その碑文によれば、会堂を提供することはユダヤ人にとても高く評価されました。この百人隊長は自分の僕に対して一人の隣人として接したように、ユダヤ人に対しても隣人として接したのです。それは、主なる神さまへの畏れから生じたものです。この「畏れ」とは「怖い」とか「怯える」ということではありません。神さまを畏れるとは、神さまを重んじることです。彼は異邦人であるにもかかわらず、神さまを重んじ、ユダヤ人を尊重していたのです。
このような百人隊長の姿勢に対して、ユダヤ人の長老たちの姿勢はかなり異なっているように思えます。彼らは、確かに主イエスのところに来て「熱心に」願いました。しかし彼らは、その熱心さによって隣人のために執り成し願ったのではありません。自分たちのために会堂を建ててくれた価値のある人だから助けてほしいと主イエスに頼んでいたのです。百人隊長に対する自分たちの評価が高いから、彼には主イエスに来てもらう資格があるのだと言っているのです。しかしこれは傲慢な態度と言わざるをえません。執り成しの願いとはとても言えないのです。なぜなら主イエスに助けを求めるということは、その人が助けられるにふさわしいと示すことではないからです。その人が主イエスに助けられるための資格や評価を示すのが執り成しではありません。それは執り成しているようでいて、神さまの御心や主イエスの救いのみ業を自分の評価によってコントロールしようとしていることなのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」という彼らの言葉は、そのことを露わにしています。まるで彼らは「ふさわしい人」かそうでないかは、自分たちが決められることであるかのように語っています。しかしそれは、主なる神さまのみがお決めになれることなのです。もっと言えば、人から見れば評価が高いこともあれば低いことがあるとしても、神さまから見れば誰一人として「ふさわしい人」などいません。神さまの救いに「ふさわしい人」ではあり得ない私たちが救われたのは、神さまの一方的な恵みによるのです。ユダヤ人の長老たちの姿勢は、神を畏れ、重んじている者の姿ではないのです。この姿勢は、私たちと無関係ではありません。すでに洗礼を受けキリスト者となり神の民とされた者が、もし彼らのように、上から目線で「あの人は救われるのにふさわしい」とか、その資格があるとか評価するならば、それは神さまに取って代わろうとすることであり、神さまを軽んじていることになるのです。私たちが神の民とされたのは、評価を満たし資格を得たからではありません。ただ神さまの一方的な恵みによって救いに入れられ神の民とされたのです。その救いに感謝して歩むのが神の民とされた者、つまりキリスト者の歩みであり、その姿勢は、本日の箇所のユダヤ人の長老たちとは異なるものとなるのです。それは同時に、まだ神の民とされていない者が神の民に加えられるのに、なにか評価や資格を得る必要があるのではない、ということでもあります。評価や資格を満たすことが信仰ではないのです。
ユダヤ人と異邦人の隔て
ユダヤ人の長老たちの願いを聞いて主イエスは彼らと一緒に出かけ、百人隊長の家の近くまでやって来ると、百人隊長は友だちを使いとして送りました。6節の後半からその友だちが主イエスに言ったことが記されていますが、これは百人隊長の言葉をそのまま友だちが主イエスに語っているのです。百人隊長はまずこのように言っています。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」ユダヤ人の長老たちを送って主イエスに僕を助けに来てください、と頼んだのはほかならぬ百人隊長です。それなのに家の近くまで来た主イエスに「やっぱり自分の家には来ないでください」と言うのは、とても失礼なことのように思えます。家に招いておいて、近くまで来たら「来ないでいい」と言うのはあまりに非常識だからです。しかしこの一見、非常識で失礼な百人隊長の振る舞いは、彼にとってどうしても乗り越えることができない隔たりがあったことによるのです。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではない」とは、「お迎えできるような価値がない」という意味であり、ここで彼が「価値がない」と言っているのは、彼が異邦人であってユダヤ人ではないからです。彼が乗り越えることのできない隔たりとは、ユダヤ人と異邦人の間にある隔てなのです。「価値がない」という彼の言葉には、その隔たりへの深い認識が表れています。ルカ福音書の続きである使徒言行録10章にはコルネリウスのことが語られています。2節には彼が「『イタリア隊』と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」とあります。コルネリウスはローマの軍隊の百人隊長であり、異邦人であり、神を畏れる者であったのです。その彼の家にペトロが来たとき、ペトロはこのように言っています。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」ですから本日の箇所で、百人隊長は家の近くまで来た主イエスに、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と伝えているのです。彼はユダヤ人と異邦人との隔てを深く認識していました。コルネリウスと同じように神を畏れる者であったにもかかわらず、彼はその隔たりを乗り越えられなかったのです。
彼は出来ることなら主イエスを自分の家に迎え入れたかったに違いありません。そもそもだからこそユダヤ人の長老たちを通して主イエスに来てくれるよう頼んだのです。死にかけている僕をなんとか助けたいという強い願いがあったからです。しかし同時にこの百人隊長は、ユダヤ人と異邦人との間にある隔たりを強く意識していたのです。ここに彼の深い葛藤がありました。一方で大切な僕を、隣人を助けたいと願い、そのために主イエスに来てもらいたいという思いがあり、その一方でユダヤ人と異邦人との隔たりのために、主イエスを自分の家にお迎えできないという思いがあったのです。矛盾しているように思える彼の言動は、このような彼の葛藤から生じたものなのです。その隔たりへの深い認識は、主イエスをお迎えできないことに留まりません。7節前半で彼は「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と言っているのです。彼は自分が異邦人であり神の民ではないから、主イエスのところへ行くのが「ふさわしくない」と認めているのです。主イエスをお迎えできないだけでなく、主イエスのみ前に進み出ることもできないと言っているのです。ここでも「ふさわしくない」は「価値がない」ことをも意味します。4節でユダヤ人の長老たちは、百人隊長のことを「そうしていただくのにふさわしい人」と主イエスに語っていました。ここで百人隊長は、その彼らの言葉を打ち消すかのように、「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくない」と言ったのです。確かに彼は異邦人であるにもかかわらず、ユダヤ人を隣人として愛し、また彼らのために会堂を建てもしました。しかしそのことによって、ユダヤ人の長老から評価されたとしても、ユダヤ人と異邦人との間の隔たりを超えることもできないし、主イエスをお迎えするのに「ふさわしい者」、また主イエスのみ前に進み出るのに「ふさわしい者」となることもできなかったのです。
これほどの信仰
自分は神さまのみ前に「ふさわしい者」ではない、という深い気づきと、しかしなお隣人の癒しのために主イエスの助けを求める強い願いとの深い葛藤の中から生じてきた百人隊長の言葉こそ「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」にほかなりません。この言葉は、百人隊長としての彼の経験に基づいていることが8節で語られています。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」軍隊という組織の中で、彼は権威の下に置かれていましたが、その彼にも部下がいて、彼が命令すれば、その命令に部下は従う、というのが彼の百人隊長としての経験です。彼は自分が部下に命令する言葉の重みを、また彼に与えられる命令の言葉の重みを十分に知っていたのです。そして、自分ですらそうであるなら、神さまの権威の下にいる主イエスがお言葉をくださるならば、その通りになると彼は言っているのです。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」とは、主イエスがお言葉をくださるならば、その言葉の権威によって僕は癒されるということなのです。彼の葛藤の中から生じたのは、主イエスが語る言葉の権威への信頼です。異邦人であって神の民ではない、「ふさわしい者」ではないという自覚と、主イエスが語る言葉が神さまの権威と力を持っていることに信頼し、隣人の癒しを願い求めることこそ、彼が葛藤の中で与えられたことにほかなりません。このことを聞いた主イエスは、「従っていた群衆の方を振り向いて言われ」ました。「言っておくが、イエスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」「これほどの信仰」とは、自分は異邦人であり神の民イスラエルに属しているのではなく、神さまの救いに与るに「ふさわしい者」ではないと認め、その上でなお主に助けを求めることを諦めるのではなく、主イエスが語る権威ある言葉に信頼したことです。「イスラエルの中でさえ」とは、すでに神の民とされた者たちの中でさえということであり、ここではユダヤ人の中でさえということです。彼らは、本来自分たちも神さまの救いに与るに「ふさわしい者」ではないということに気づきもせず、自分は神の民としての評価や資格を満たしているかのように思っていたのです。しかしすでに神の民とされている人たちよりも、この百人隊長の信仰を主イエスは褒めておられるのです。「これほどの信仰を見たことがない」とは、主イエスの最大級のお褒めの言葉です。しかしそれは、百人隊長が救いに与るのにふさわしい評価や資格を手に入れたということではないのです。それが「これほどの信仰」なのではありません。自分が神さまの救いに与るのに「ふさわしくない者」であると認めること。それでもなお主イエスの助けを求め、主イエスが語る言葉に信頼すること。これが「これほどの信仰」です。それだけで良いの?と思われるかもしれません。けれども私たちは自分が救いに与るのに「ふさわしくない者」であると認めることがなかなかできないのです。そのことを認めるより、なにか評価や資格を得ることで、神の民に加えられたいと思うのです。しかし信仰とは評価や資格を満たすことではなく、まさにこの百人隊長のように「ひと言おっしゃってください」と、主イエスが語る言葉に信頼して願い求めることなのです。
主イエスは「従っていた群衆の方を振り向いて」このことを言われました。群衆は、主イエスの説教を聞き、その恵みに応えて主イエスに従っていたに違いありません。しかしその説教を聞いていた人たちの中に「これほどの信仰」が見いだされたわけではないのです。ルカ福音書は主イエスの説教を語り終えると、その説教を聞いていないだけでなく、主イエスに会ったこともない百人隊長の信仰を語りました。10節に「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」とあります。ルカ福音書は、主イエスがどんなお言葉を語られて、百人隊長の僕が癒されたかを記していません。ただその僕が癒されたことが告げられているのです。主イエスがなにを語ったかではなく、主イエスの言葉に権威と力があり、その言葉によって救いが実現することこそ見つめられているのです。自分は神さまのみ前に出るのにふさわしくないと認められないところには、本当の信仰はありません。本当の信仰は、自分がふさわしくない者であることに気づかされる中で、権威ある主イエスの言葉を求めることにほかならないのです。このことを通して主イエスの十字架が指し示されています。主イエスをお迎えするのにふさわしくない者であり、主イエスのみ前に進み出るのにふさわしくない者である私たちが、主イエスの十字架の死によって救われたからです。十字架において私たちの救いを実現してくださった主イエス・キリストに向かって、「ひと言おっしゃってください」と求める信仰に私たちは生かされているのです。