主日礼拝

神の子主イエス

「神の子主イエス」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第82編1-8節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第10章31-42節
・ 讃美歌:298、136、352

ユダヤ人たちの怒りの根本  
 本日ご一緒に読むのはヨハネによる福音書第10章31節以下ですが、最初の31節に「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」とあります。「また」とあるように、主イエスは以前にもユダヤ人たちに石で打ち殺されそうになったことがあります。8章59節にそのことが語られていました。その時も場面はエルサレムの神殿であり、仮庵祭が行なわれていた時でした。本日の箇所の場面も神殿で、神殿奉献記念祭が行なわれていた時のことです。ヨハネ福音書においては、主イエスはユダヤ人の大きな祭ごとにエルサレムに上っておられ、そこでユダヤ人特にファリサイ派の人々との対立が深まっていったのです。ユダヤ人たちは、何度も石で打ち殺そうとするほどに主イエスに対する怒りを募らせていきました。彼らは何を怒ったのでしょうか。32節で主イエスが「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と問われると、ユダヤ人たちはこう答えました。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒とくしたからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」。ここに、ユダヤ人たちの主イエスに対する怒りが何によるものだったかが示されています。彼らが怒りを向けていたのは、主イエスがしたこと、例えば安息日に病人を癒したことではありません。それも律法違反だと批判してはいますが、怒りの中心は、主イエスが自らを神とすることによって神を冒とくしている、ということに向けられていたのです。例えば本日の箇所の直前の30節に、「わたしと父とは一つである」というお言葉があります。主イエスはそのように、神を「わたしの父」と呼び、ご自分と父なる神とが一つであることを繰り返し語られたのです。5章17節には、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのである」というみ言葉が記されていました。それを受けて18節に、「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」とありました。主イエスがご自身を神と等しい者、神の子とされたことを、ユダヤ人は神への冒とくとして怒り、主イエスを殺そうとしたのです。

主イエスは神であるか  
 ただの人間が自分を神としたなら、例えば私が「わたしは神だから皆さん私を拝みなさい」と言い出したら、それはまさしく神さまへの冒とくです。しかし主イエスは、まさしく神の独り子であられ、ご自身が神であられる方、人間となってこの世を生きて下さった神です。そのことのしるしとして主イエスは、生まれつき目の見えなかった人を見えるようにする、などの奇跡を行なわれました。父なる神から与えられた力によって善い業、救いの業をなさることによって、ご自分が父なる神から遣わされた独り子であり、救い主であることをお示しになったのです。その主イエスが「わたしと父とは一つである」とお語りになったことは、冒とくでも何でもない、事実なのです。しかしユダヤ人たちは主イエスのなさった数々の善い業、しるしを見ても、主イエスが神であることを認めようとしません。ここに、主イエスとユダヤ人との、この福音書が書かれた当時のキリスト教会とユダヤ人たちとの対立の根本があったのです。主イエスを神であると信じる者は主イエスの弟子、信仰者となって教会に加わり、それを信じないで、ただの人間が自分を神と言って神を冒とくしていると思っているユダヤ人たちはイエスを殺し、教会を迫害しているのです。

主イエスと父なる神は一つ  
 「あなたは自分を神とすることによって神を冒とくしている」と言うユダヤ人たちに主イエスは34節以下で、旧約聖書の言葉を引用して反論なさいました。「わたしは言う。あなたたちは神々である」という言葉です。それは本日共に読まれた旧約聖書の箇所である詩編第82編の6節です。新共同訳でそこを読むと「わたしは言った。『あなたたちは神々なのか。皆、いと高き方の子らなのか』と」となっています。この訳は「神々なのか」という疑問文になっていますが、新しく出た聖書協会共同訳では「あなたがたは神々。あなたがたは皆、いと高き方の子」となっています。原文はそのように平叙文なのであって、主イエスが引用された通りです。この詩は、権力をもって民を裁き、弱い者を苦しめている支配者たちが、自分たちを神であるかのように思い、驕り高ぶっている様を皮肉を込めて描いています。そのような者たちも、次の7節にあるように、結局人間として没落し、死ぬのだ、と言っているのです。つまりこの詩は、神になれる者など人間の中には一人もいない、ということを語っています。ですから「あなたたちは神々である」というのは、あなたたちは自分が神だと思っているが、という皮肉です。この言葉が、詩編の文脈とは切り離して引用されており、人間の支配者たちがここでは「神々」と呼ばれている、それなら、父なる神から聖なる者として世に遣わされた主イエスが「わたしは神の子である」と言ったことがどうして冒とくになるのか、という反論の根拠とされているのです。  
 内容的により重要なのは次の37、38節です。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい」とあります。主イエスがなさっている業、しるしをちゃんと見つめなさい、ということです。そのみ業を見れば、主イエスが父なる神による救いのみ業を行っておられる神の子、救い主であることが分かるはずなのです。9章で癒されたあの人が、「神から遣わされたのでなければあの人は自分の目を見えるようにすることはできなかったはずだ」と言ったようにです。このように、主イエスが神の独り子、つまりまことの神であられ、それゆえに救い主であられることは、そのなさっているみ業によってはっきりと示されているのです。  
 主イエスを神の子と信じるとは、30節にあったように、父なる神と主イエスが一つであると信じることです。それは38節後半によれば、「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる」ことを信じることです。父なる神が主イエスの内におられ、主イエスも父の内におられるという表現は、この後繰り返し語られていきます。ヨハネ福音書において、父なる神と独り子主イエスの一体性を語る大事な言い回しですので、記憶しておきたいと思います。

イエスの時  
 さてこのように主イエスが父なる神との一体性を語られたことによって、ユダヤ人たちは39節にあるように、またイエスを捕らえようとしました。しかし「イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた」のです。主イエスは何度も石で打ち殺されそうになったり、捕らえられそうになっていますが、その都度、ユダヤ人たちの手を逃れて立ち去られたということがこれまで何度も語られてきました。そのことの意味が7章30節に語られていたのです。「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」。同じことは8章20節の後半にも語られています。「しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである」。石で打ち殺されそうになったり、捕らえられそうになった主イエスが逃れて立ち去ったのは、上手に姿をくらました、ということではなくて、主イエスの時がまだ来ていなかったからです。その時が来れば、主イエスは捕えられ、そして十字架につけられて殺されるのです。その「イエスの時」は、神がお定めになっている時です。主イエスはその時まで、ご自分が父と一つである独り子なる神であられることを、み言葉としるしとによって示し続けるのです。それによって、そのことを認めようとしないユダヤ人たちの敵意、殺意はどんどん募っていきます。しかし主イエスが捕えられ殺されるのは、彼らの敵意、殺意が我慢の限界を超えたことによってではありません。神がお定めになった「イエスの時」に、主イエスは捕えられ、十字架につけられて殺されるのです。つまりそのことも父なる神のみ心、ご計画によるのです。神の独り子である主イエスが人間としてこの世に来られたのも、その地上の歩みが十字架の死によって終わることも、父なる神のみ心、ご計画なのであって、神はそれによって私たち罪人のための救いのみ業を成し遂げて下さったのです。主イエスは父なる神のみ心に従って、父がお定めになっているご自分の時、十字架の死の時に向かって、一歩一歩歩んでおられるのです。

ヨハネの証しを聞いてイエスを信じた人々  
 主イエスはこのようにしてユダヤ人たちの手を逃れ、神殿を、そしてエルサレムを立ち去られました。そして40節には、「再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」とあります。洗礼者ヨハネが活動していた場所に行かれたのです。ヨハネ福音書はこの洗礼者ヨハネの活動から主イエスのご生涯を語り始めています。この福音書における洗礼者ヨハネの活動の中心は、洗礼を授けたことではなくて、主イエスの証しをしたことです。1章7、8節に、「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」とありました。「光」とは主イエスです。そして1章29節にはヨハネが主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証しをしたことが語られています。主イエスがまことの光、世の罪を取り除く神の小羊であることを証しすることがヨハネの使命だったのです。そのことが本日の箇所の41節においても確認されています。人々が「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」と言ったのです。ヨハネは神の子でも救い主でもないから、主イエスがなさったようなしるし、奇跡は何も行いませんでした。ヨハネがしたのは、「この方について話した」こと、つまり主イエスについての証しをしたことだけだったのです。しかしその証しはすべて本当だった、ヨハネが主イエスについて語った証しは真実だった、主イエスのみ言葉とみ業とからそれがはっきり分かる、と人々は感慨を込めて語り、そして42節にあるように「そこでは、多くの人がイエスを信じた」のです。ヨハネが語った主イエスについての証しを聞いて、主イエスのなさったしるし、病人の癒しなどの奇跡を見た人々が、主イエスを神の子、救い主と信じたのです。

信じた人々と殺そうとする人々  
 この人々の姿は、39節までに語られていた、イエスがご自分を神としていることに怒り、石で打ち殺そうとした人々と対照的です。ヨハネ福音書は、そのコントラストをはっきり示すために40節以下を語っているのです。このことによってヨハネ福音書は私たちに一つの大事な問いかけをしています。主イエスについての証しを聞いて、主イエスのなさったしるし、奇跡を見て、主イエスこそ神から遣わされた独り子なる神、救い主メシアであると信じた者たちと、何を聞いても見ても、主イエスが神であることを絶対に認めようとせず、むしろ神を冒とくする者として殺そうとしている者たちがいる。あなたはどちらなのか、という問いかけです。その問いかけをもってヨハネ福音書は、これまで語ってきたことに一つの締めくくりをつけています。そして次の11章では、主イエスのなさった七つのしるし、つまり奇跡の中の最後にして最大のもの、いわゆる「ラザロの復活」を語っていくのです。この奇跡こそ、主イエスが神の子、メシアであり、死の力に勝利して救いを与えて下さる方であることの最後、最大のしるしです。あの3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言葉が真実であることがこのしるしによって決定的に示されるのです。本日の箇所は、その最後のしるしが語られるための備えとなっています。これまでのところで語られてきたことの締めくくりとして、あなたは主イエスを神の子、世の罪を取り除く救い主と信じるのか、それとも自分を神として神を冒?している罪人として否定するのか、という根本的な問いを投げかけた上で、その問いへの決定的な答えを「ラザロの復活」において語っていくのです。

神殿奉献記念祭  
 さらにもう一つのことを指摘しておきたいと思います。22節以下は、神殿奉献記念祭の時の話です。先週もお話ししましたが、この祭は、エルサレムが異教徒に支配され、神殿に異教の神の偶像が置かれて汚されていたのを、エルサレムを奪還したユダヤ人たちが、偶像を取り除いて清め、再び主なる神に奉献した、という出来事を記念して行われていたものです。神殿の回復と再奉献を祝う祭です。神殿とは神を礼拝する場所です。それが清められ、再び奉献されたということは、主なる神への礼拝が回復された、ということです。つまり礼拝の回復を喜ぶ祭りが神殿奉献記念祭なのです。ユダヤ人たちはその祭の時に、神殿に来られた主イエスを、自分を神であるとして主なる神を冒とくしたと言って石で打ち殺そうとしたり、捕えようとしたのです。これは大変皮肉な、また象徴的なことです。礼拝は、まことの神がそこに来て下さることによってこそ成り立ちます。神殿も、本来は、そこに神が住んでいてそこに行けばいつでも礼拝ができる場所なのではなくて、神が来て下さり、民と出会って下さる、その出来事が起るための場所なのです。主なる神は今や、独り子主イエス・キリストによって私たちのところに来て下さり、出会って下さっています。私たちは本来み前に出て礼拝をすることなど出来ない罪人ですが、主イエスが与えて下さった罪の赦しによって、神が恵みをもって私たちと出会って下さり、礼拝を与えて下さっているのです。つまり独り子なる神である主イエスが来て下さったことによって、罪人である私たちが父なる神を礼拝することができるようになったのです。ですから主イエスを神の子、この世に来て下さったまことの神と信じるところにこそ、礼拝の回復の喜びが与えられるのです。神殿奉献記念祭の本当の喜びは独り子なる神である主イエスによってこそ与えられるのです。その主イエスを神と認めず、殺そうとすることは、私たちが神のみ前に出て礼拝をするための唯一の道を否定し、閉ざすことです。神殿奉献の喜びはそこでは失われてしまうのです。

礼拝の喜びの回復  
 今私たちは、新型ウイルスの脅威の中で、主の日のこの教会堂における礼拝に集いにくい状況に置かれています。礼拝に行きたいという思いはあっても、健康状態や、家族の状況、電車やバスに乗ることの不安など、様々な要員によってあきらめざるを得ない方々も多くおられます。普段は気付かないでいた礼拝の有り難さ、喜びを身にしみて感じている方々も多くおられます。礼拝の回復を、今私たちも切に求めているのです。その苦しみの中で私たちはしっかりと覚えておかなければなりません。礼拝は、私たちがどこかの建物に行くことによって出来るのではなくて、神が、独り子主イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死と復活によって私たちの救いを実現して下さった、その恵みによって成り立つのです。ですから主イエスを神の子、人となって下さったまことの神と信じることによってこそ、私たちは礼拝の回復の恵みにあずかることができるのです。この礼拝の場に来ることができることはまことに大きな恵みであり喜びであって感謝すべきことですが、今はここに集うことができないでいる方々にも、神の独り子主イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、同じ恵みと喜びが、聖霊のお働きによって与えられているのです。

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