夕礼拝

恐れず、心配せず

「恐れず、心配せず」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第118編5-9節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第12章1-12節

数えきれないほどの群衆の視線
 三週間ぶりにルカによる福音書の連続講解に戻りまして、本日から12章に入ります。その冒頭に「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった」とあります。「とかくするうちに」と始まっていますから、これまで読み進めてきた箇所とのつながりの中で、本日の箇所を読むべきであることが分かります。11章37節以下では、主イエスがファリサイ派の人たちと律法の専門家を厳しく批判したこと、そのために彼らが主イエスに対する激しい敵意を抱いたことが語られていました。この出来事が起こっているうちに、数えきれないほどの群衆が主イエスのところに集まって来て、足を踏み合うほどになったのです。この大勢の群衆の中には、主イエスを救い主と思ってやって来た人たちもいたと思いますが、多くは主イエスの評判を聞いて集まって来た人たちであったのではないでしょうか。その人たちは必ずしも主イエスに好意的であったわけではありません。直前の54節に主イエスに対して激しい敵意を抱いた律法学者やファリサイ派の人たちが「いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた」とあります。群衆の中にも主イエスに対して同じような思いを持っていた人たちがいたに違いありません。ですから「数えきれないほどの群衆」の中には、主イエスに対して色々な思いを持っていた人がいたのです。主イエスに注がれている多くの視線の中には、好意的な視線もあれば、敵意のこもった視線もあり、そのどちらでもない興味本位な視線もあったのです。

群衆の視線に晒されている弟子たちに向かって
 大勢の群衆の視線は主イエスにだけ注がれていたのではありません。主イエスに従い、主イエスと共にいた弟子たちにも好意的な視線や敵意のこもった視線、興味本位の視線が注がれていたのです。そのような視線に晒されていた弟子たちは、恐れと不安を感じずにはいられなかったはずです。主イエスはその弟子たちに向かって話し始められます。主イエスのところに集まって来た大勢の群衆に向かって話されたのではなく、群衆の視線に晒されている弟子たちに向かって話されたのです。

偽善とは
 主イエスは弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と言われました。「パン種」とは、パン生地を膨らませるイースト菌のことです。わずかのパン種がパン生地全体を膨らませるので、「パン種」は小さなものが全体に影響を与えることの喩えとして用いられました。ファリサイ派の人々のパン種は「偽善」であると言われています。小さな偽善であっても、多くの人に影響を及ぼすことが見つめられているのです。ここで主イエスが見つめている偽善とは、心の中の悪い思いを隠して、うわべをつくろった見せかけの言葉を語ったり、振る舞いをしたりする偽善ではありません。そうではなく心の中で信じていることを語ろうとしない、行おうとしない偽善です。そうすることによって結局、本心からではないうわべをつくろった見せかけの言葉を語り、振る舞いをすることになるのです。

主イエスを信じていると言い表さない
 このことは4節以下を読み進めると示されていきます。4節に「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とあり、また8-9節に「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す、しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」とあります。先ほどお話ししたように、このとき弟子たちは大勢の群衆の視線に晒されていました。その視線の中には、主イエスに向けられているのと同じ激しい敵意を持った視線がありました。その人たちの前で、その人たちを恐れずに、弟子たちが主イエスを自分の仲間であると言い表すことができるかが問われている。言い換えるならば、主イエスを信じていると言い表すことができるかが問われているのです。主イエスを信じているのに、人々の前で言い表さずに隠しているならば、それは本心とは異なる振る舞いをしていることになります。ですからここで見つめられている偽善とは、主イエスを信じているにもかかわらず、その信仰を人々に隠している偽善であり、心の中で信じていることを言い表さない偽善なのです。

神の力によって福音は伝えられる
 このことを踏まえた上で、改めて、主イエスが弟子たちに話されたことに目を向けます。主イエスは2-3節で弟子たちにこのように言われています。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」。心の中に悪い思いを隠してうわべをつくろう偽善が見つめられているならば、私たちが心の中に隠している悪い思いは明らかになる、人から見えないところで言ったことも知られるようになる、と言われていることになります。しかし心の中で信じていることを言い表さない偽善が見つめられているなら、このように受けとめるのは正しくありません。覆われているもの、隠されているものとは、心の中でだけ信じている主イエスによる救いであり、暗闇で言ったこと、奥の間で耳にささやいたこととは、人から見えないところでだけ口に出している主イエスへの信仰です。ですからここで言われているのは、私たちが主イエスによる救いを心の中に隠していたとしても、主イエスへの信仰を人々の前で言い表さなかったとしても、主イエスによる救いは必ず世の人々に現され、知られるようになるし、その救いの良い知らせは、世の人々に言い広められ聞かれていく、ということなのです。神の力によってこそ主イエスによる救いの良い知らせ、福音が世の人々に伝えられていくことが見つめられているのです。

公に言い表す者を認める
 そうであるならば私たちは人々の前で主イエスを信じていると言い表さなくても良いのでしょうか。激しい敵意のこもった視線の中で、じっと黙っていれば良いのでしょうか。そうではないことが先ほど見た8-9節で言われていました。改めて8節を見ると「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」とあります。「仲間であると言い表す」と訳されている言葉は、「公に言い表す」とか「告白する」と訳される言葉です。例えばローマの信徒への手紙10章10節に「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」とありますが、この「公に言い表して」が、「仲間であると言い表す」と訳されている言葉なのです。ですからここでは、主イエスの仲間であると言い表すかどうか、ということよりずっと重いことが語られています。主イエスを公に言い表すかどうか、主イエスを告白するかどうかが問われているのです。人々の前で主イエスを信じていると公に言い表し告白する者を、人の子も、つまり主イエスも神の天使の前で公に言い表してくださり認めてくださる、と言われているのです。

公に言い表さない者を拒む
 一方9節で「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は神の天使たちの前で知らないと言われる」とあります。ここでも「知らないと言う」という訳は、元々の言葉の意味の重さを正確に言い表していません。この言葉は「拒む」という意味の言葉だからです。人々の前で主イエスを拒む者を、主イエスも拒まれると言われているのです。たとえ心の中で信じていても、人々の前で主イエスを信じていると公に言い表さないなら、告白しないなら主イエスを拒むことになるのです。2-3節で見つめられていたように、福音は私たちが人々の前で主イエスを信じていると告白するかどうかに関わらず、神の力によって前進していきます。しかしだからといって私たちが人々の前で信仰を告白してもしなくても良いということではありません。人々の前で告白しないなら、私たちは主イエスを拒むのであり、主イエスも私たちを拒まれるのです。

迫害を受ける中で
 この主イエスのお言葉は、大勢の群衆の視線に晒されている弟子たちにとって本当に厳しいお言葉です。激しい敵意のこもった視線や興味本位の視線に晒される中で、弟子たちは恐れを覚えずにはいられなかったはずです。そのような視線が突き刺さる中で、主イエスを信じていると告白すれば、どうなるか分かったものではないからです。それでも主イエスは人々の前で信仰を告白するよう言われるのです。もっともこの主イエスのお言葉は、将来、迫害を受けることになる弟子たちに向けてのお言葉でもあります。11節に「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは」とあるように、将来、弟子たちが会堂に連れて行かれる、あるいは役人や権力者のところに連れて行かれることを見据えて、主イエスは弟子たちに話されているのです。群衆の中には、好意的に主イエスと弟子たちを見ていた人もいたでしょう。しかし会堂では、役人や権力者のところでは、そのような人はいないかもしれません。弟子たちは敵意のこもった視線だけに晒されることになるのです。そのときにも敵意を抱いている人たちの前で主イエスを信じていると告白するよう、主イエスは求めておられるのです。

日々の生活の中で
 私たちは迫害を受けることはないかもしれません。敵意のこもった視線に晒される中で、主イエスを信じていると告白するような状況に直面することもないでしょう。会堂に連れて行かれるとか、役人や権力者のところに連れて行かれるとか、そのような極限の状況を思い浮かべているだけなら、この主イエスのお言葉は私たちにはあまり関係がないように思えます。しかしここで主イエスが言われていることは、私たちの日々の生活の中で起こっていることではないでしょうか。私たちは主イエスを信じ、主イエスによる救いを信じています。礼拝では皆で主イエスを信じている、と声に出して告白しています。しかし礼拝から遣わされた日々の歩みの中ではどうでしょうか。人々の前で主イエスを信じていると言い表すとは、どこでもかまわずに言い表すということではありません。そう考えると、日々の生活の中で、人々の前で自分の信仰を告白する機会はあまりないかもしれません。けれども私たちは自分の語る言葉や振る舞いによって自分の信仰を言い表しているのではないでしょうか。主イエスによる救いに与り、その恵みに与って生きている私たちは、この社会の価値観と同じ価値観で生きているわけではありません。日々起こる出来事に対して、この社会の判断基準と同じ判断基準で生きているわけでもありません。神様が独り子を十字架に架けてまで、「この私」を愛してくださり救ってくださったからです。愛されるのに、赦されるのにまったく値しない「この私」を、神様が一方的に愛し、赦してくださったからです。その愛と赦しに生かされている私たちは、神様の愛にお応えして生きることへと導かれています。なお弱さと欠けを抱え、日々罪を犯しているとしても、神様を愛し、自分自身を愛し、隣人を愛して生きる者となるよう導かれているのです。そうであるならば人々の前で私たちの語る言葉や振る舞いが、日々の出来事に対する見方が、なにかを決めるときの判断の仕方が、世の人々とは違ってくるに違いありません。同じでいられるはずがないのです。

恐れにとらわれている
 しかし私たちはしばしば、心の中では世の人々とは違う言葉、価値観、判断が与えられていても、それを隠して、周りの人たちの言葉や価値観や判断に合わせてしまいます。特にキリスト者が少数であり、同調圧力が強く、空気を読むことを強く求められる日本社会にあって、多くの人たちの当たり前とは異なる価値観や判断を人々の前で示して生きていくのはとても難しいことです。救いの恵みに生かされている者として、言うべきことを言うべきときに言わずに黙ってやり過ごしてしまうことがあるのです。変な目で見られたら、嫌われたら、批判されたらどうしようという恐れに私たちはとらわれています。迫害のような極限状況で直面する恐れほどではないとしても、私たちが日々の生活の中でとらわれている恐れは、決して小さなものではないのです。

死を超えて支配される神を畏れる
 敵意のこもった視線に晒され恐れている弟子たちに、周りの人たちから嫌われたらどうしようと恐れている私たちに、主イエスは言われます。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。恐れるべきは人々ではなく神様だ、と主イエスは言われるのです。神様は「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」と言われていますが、主イエスは私たちを怖がらせようとして、このように言っているのではありません。嘘をつくと死んだ後、地獄で閻魔様に舌を引き抜かれるぞ、と脅すように、死んだ後、地獄に投げ込まれないように神様を恐れなさい、と言っているのではないのです。そうではなく「地獄に投げ込む権威を持っている」とは、神様が地上の死を越えて私たちをご支配くださり、関わってくださるということなのです。それに対して人々は、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者」と言われています。それは、たとえ私たちを殺すことができたとしても、その死を越えて、私たちになにかをすることができない、関わることができないということです。私たちは地上の生涯においてだけ神様の恵みのご支配のもとにあるのではありません。地上の生涯を越えて、死んだ後も神様のご支配のもとにあり御手の内にあります。だから死を越えてはなにもできない人たちではなく、死を越えてなお私たちを恵みによって支配してくださる神様をこそ畏れなさい、と言われているのです。びくびくしなさいということではなく、人々に何をされるだろうか、何を言われるだろうかを第一に考えるのをやめて、神様をこそ第一に考え、重んじなさいということなのです。

神はお忘れにならない
 地上の死を超えて私たちを支配してくださる神様は、私たちのことを決してお忘れにならないお方です。私たちの喜びも苦しみも、恐れも不安もすべて知っていてくださり、私たちをいつも守っていてくださるのです。6-7節でこのように言われています。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。一アサリオンは、一日の賃金の十六分の一で、一羽では売り物にならないので五羽の雀が束ねられて売られていたのかもしれません。しかし神様はその一羽すらお忘れにならないのです。価値のない一羽の雀すらお忘れにならないのであれば、たくさんの雀よりもはるかにまさる私たちを神様がお忘れになるはずがありません。神様は私たちの髪の毛までも一本残らず数えられているほどに、私たちを知っていてくださり、守っていてくださいます。だから「恐れるな」と主イエスは私たちに言われるのです。日々の生活の中で人々の視線に恐れを感じるときも、私たちはこの神様の守りに信頼して、恐れることなく、主イエスを信じていると告白し、その救いの恵みに生かされている者として語り、振る舞い、判断していくことができるのです。

聖霊の働きを拒まない
 10節には「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない」とあります。このお言葉も私たちが「聖霊を冒瀆したらどうしよう」とびくびくして生きることを求めているのではありません。続く11-12節にこのようにあるからです。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。たとえ弟子たちが会堂に、役人や権力者のところに連れて行かれ、敵意ある視線に囲まれても、あるいはたとえ私たちが周りの人たちの視線に恐れを感じても、聖霊のお働きに信頼して、何も「心配することはない」と言われているのです。「聖霊を冒瀆する者は赦されない」というのは、恐れの中にある私たちに安心を与えてくださる聖霊のお働きを拒まないよう求めているのです。聖霊のお働きによって語るべき言葉、なすべき振る舞い、すべき判断が私たちに与えられていきます。私たちはその聖霊のお働きを拒むことなく、そのお働きに信頼し委ねていくのです。

恐れず、心配せず
 聖霊のお働きに信頼し、私たちを決して忘れず、守っていてくださる神様に信頼して歩むとき、私たちは恐れず、心配せずに生きることができます。同調圧力の中で、空気を読むことが求められる中で、変な目で見られたり、嫌われたり、批判されたりしたらどうしようという恐れの中にあっても、私たちは恐れず心配せずに、人々の前で、主イエスを信じる信仰を言い表し、救いの恵みの内に歩む中で与えられる、世の人々とは違う言葉や価値観、判断を示していくことができるのです。もちろんそれは簡単なことではありません。出来ないときのほうが多いかもしれません。それでも私たちは諦めるわけにはいかないのです。自分が頑張ることを諦めないのではなく、聖霊のお働きによって私たちが変えられていくことを諦めないのです。
 主イエスは弟子たちに、そして私たちに「友人であるあなたがたに言っておく」と言われます。驚くべきことです。主イエスは、私たちのことをご自分の友であると言ってくださり、罪と弱さと欠けの多い私たちを友としてくださるのです。ここに私たちに対する主イエスの深い愛があります。その愛ゆえに、主イエスは友である私たちのために十字架で死んでくださり、私たちを救ってくださいました。私たちはこの主イエスと共に生きる者とされているのです。
 共に読まれた旧約聖書詩編118編6節にこのようにあります。「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう」。私たちは「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう」と祈りつつ、私たちを決して忘れることなく、守ってくださる神様に信頼し、私たちを友と呼んでくださる主イエスと共に、聖霊のお働きを豊かに受けて、恐れず心配せず、主イエスによる救いを人々の前で証ししていくのです。

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