「神の方を向いて」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第58章5-9a節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第3章7-14節
・ 讃美歌:134、193、76
ヨハネが語った神の言葉
前回からルカによる福音書第3章を読み始めました。前回申した通り、第3章の前半は洗礼者ヨハネについて語られています。前回は1-6節までを読みましたが、本日の聖書箇所は続く7-14節です。読んですぐ分かるように、7-14節は、1-6節と別々の話ではありません。2節に「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」とありましたが、本日の聖書箇所の7節以下でヨハネが語っていることが、まさにヨハネに降った神の言葉なのです。神の言葉が降り、その言葉を語るとはどのようなことでしょうか。前回、ヨハネは旧約聖書の預言者に連なる人物であり、その働きに注目するならば預言者ヨハネと呼んで良いこともお話ししました。ここで言う預言者とは、未来のことを言い当てる人のことではありません。そのような人については、「未来を予想する」の「予」という漢字を使って「予言者」と言います。しかし聖書で預言者と言う場合には「言葉を預かる者」と書くのです。同じ「よげんしゃ」という読みですが、この二つの言葉が意味するところはまったく異なります。「言葉を預かる者」である預言者は、神さまから与えられた言葉を預かり、その預かった言葉を語る者なのです。まさに「神の言葉がヨハネに降った」とは、神さまから言葉を与えられ預かったことにほかなりません。その神さまから預かった言葉をヨハネが語っているのが7節以下です。
洗礼を授かるために来た群衆
神さまから預かった言葉をヨハネが語りかけている相手は「群衆」であると7節にあります。この群衆がユダヤ人であることは、8節でヨハネが群衆に語っている言葉から分かります。そこでヨハネは群衆に「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」と言っていますが、自分たちの父が旧約聖書の創世記で語られているアブラハムだ、と考えるのはユダヤ人だけであり、ユダヤ人でない人たちはそもそもそのようなことを考えません。このことからヨハネが語りかけている群衆がユダヤ人であると分かるのです。またここでヨハネが語りかけている相手を「群衆」とルカが記していることにも目を向けなければなりません。本日の聖書箇所の7-9節とほぼ同じ話がマタイによる福音書3章7-10節にあります。しかしマタイではヨハネが語りかけている相手は「ファリサイ派やサドカイ派の人々」であると記されています。「ファリサイ派やサドカイ派の人々」もユダヤ人ですから、どちらもユダヤ人であることに変わりはありませんが、ルカにとって、ヨハネが語りかけている相手が「群衆」なのか、それとも「ファリサイ派やサドカイ派の人々」なのかは、まったく異なる意味を持っているのです。さらに本日の聖書箇所の7節から、ヨハネが語りかけたのは、ただそこにいた群衆ではないことが分かります。7節には「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆」と記されています。つまり彼らは、ヨハネが「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ていることを知って、彼から洗礼を授かりたいと思いわざわざ「やって来た」人たちなのです。彼らは、なんとなくヨハネのもとにいたのではなく、自分たちの意志で彼のところにやって来た人々です。群衆がヨハネから洗礼を授かりたいという意志を持っていたことは、言い換えるならば、彼らが悔い改めを求めていたということでしょう。自分が犯した罪への悔い改めです。そして悔い改めることによって、なにか変わるかもしれない、新しく出直せるかもしれないという思いを持っていたのではないでしょうか。ですから群衆は決していい加減な気持ちでヨハネのところにやって来たのではありません。ルカが、ヨハネが語りかけた相手を「ファリサイ派やサドカイ派の人々」ではなく「群衆」と記しているのは、そのことを告げるためです。ルカによる福音書7章29、30節には次のようにあります。「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。」つまり「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」は、ヨハネから洗礼を受けようなどと思っていなかったのです。それに対して「群衆」は、真剣な思いで洗礼を授かるためにヨハネのところにやって来たに違いありません。
蝮の子らよ
悔い改めを求めてヨハネのところへ来た人たちに対するヨハネの言葉は厳しいものでした。ヨハネは彼らに「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と言っています。この言葉が「ファリサイ派やサドカイ派の人々」に対するものであるならばよく分かります。ヨハネから洗礼を受けようと思っていない人たち、後日、主イエスの敵となる者たちへ語られていることになるからです。そのように語られているのが先ほど触れたマタイによる福音書3・7節で、「ファリサイ派やサドカイ派の人々」が「蝮の子らよ」と呼ばれているのです。しかしここでは「群衆」が「蝮の子らよ」と呼ばれています。それも洗礼を授かるためにわざわざヨハネのところへやって来た人たちが「蝮の子らよ」と呼ばれているのです。さらにヨハネは彼らへ「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と言っています。「だれが教えたのか」と言われていますが、これは、群衆は自分たちが「差し迫った神の怒りを免れると」思い込んでいるけれど、そんなことは誰も教えていない、ということです。「差し迫った」と訳されている言葉は、もともとの言葉では単に「来る」や「来たる」を意味していて、すぐ来るのか、ずっと先なのかまでは分かりません。それにも関わらず、ここで「差し迫った」と訳されているのは、9節で「斧は既に木の根元に置かれている」と言われているからでしょう。今まさに木が切り倒そうとされている。だから神の怒りが差し迫っていると言われているのです。そしてその「差し迫った神の怒り」を自分たちは免れると、群衆は思い込んでいたのです。言い換えるならば、自分たちは「差し迫った神の怒り」とは関係がない、と思い込んでいたのです。群衆がそのように考えていたのは、彼らが「自分たちはアブラハムの子」であるという意識を持っていたからです。自分たちはアブラハムの子だから、差し迫った神の怒りとは関係ないと考えていたのです。ヨハネが彼らを「蝮の子らよ」と呼び、厳しい言葉を語ったのは、「アブラハムの子」であることによって神の怒りから免れられるわけではないことを告げるためです。彼らの「アブラハムの子である」という意識は、神の怒りの前ではなんの役にも立たないのです。なぜなら神さまは「石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」からです。その方を前にして、「私はアブラハムの子です」と言ったところで、神の怒りを免れることはできません。彼らは確かに悔い改めを求めてヨハネのところへ来ました。しかしその悔い改めは神の怒りとは関係がないと思っていたのです。そのような悔い改めは、本当の悔い改めではありません。神の怒りを見つめることなしに、本当の悔い改めは起こらないからです。
「罪がある」と「罪人である」
私たちもどこかで自分は「神の怒り」とは関係ないと思っているのではないでしょうか。神の怒りを真剣に受けとめていないのです。私たちは自分が良い人であるとか正しい人であるとは思っていないでしょう。悔い改める必要があることが分かっていないわけではありません。しかし私たちは「自分にはどこか悪いところがある」、そのように思っているのではないでしょうか。「どこか悪いところがある」のは分かっているけれど、「すべてが悪いわけではない」と思っているのです。しかし「私たちは悪いところがある」ではなく、「私たちは悪人だ」とヨハネは告げたのです。「私たちは罪がある」ではなく、「私たちは罪人だ」と告げたのです。私たちが考える悔い改めは、私たちのあの罪この罪を悔いて、反省して、新しく出直そう、マトモな人間になろうとすることではないでしょうか。しかしそれは、本当の悔い改めではありません。いくら私たちが反省しても私たちは繰り返し罪を犯します。私たちは根本的にどうにもならないことを抱えているのです。それは、私たちが「罪を犯す人間」だということではなく、「罪人」だということです。私たちが罪人であることこそ、私たちの根本であり生まれながらの姿です。「自分は罪を犯す人間だ」ということと、「自分は罪人だ」ということの違いを見つめることこそ、神の怒りを真剣に受けとめることなのです。
神の怒り
私たちは自分の罪に反省すればやり直せるのではありません。神さまは私たちの罪に怒っておられるからです。私たちの罪が神さまの怒りを引き起こしているからです。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と9節にあります。ヨハネが告げた言葉には、神の怒りが迫って来ている緊迫感があります。今、まさに神の怒りによって神が裁きを行おうとしているのです。私たちが罪人であるとは、そのままでは神さまの怒りによって滅ぼされるしかないということです。「良い実を結ばない木」とは私たちにほかなりません。しばしば「ありのまま」で良いと言われることがあります。「あるがまま」を大切にしなさいとも言われます。確かに自分を偽ったり装ったりしないという意味で「ありのまま」「あるがまま」が大切であるとは言えるかもしれません。しかしそれが「今の自分のままで良い」とか「生まれながらの自分で良い」という単なる自己肯定を意味するとしたら、聖書が告げているのは「ありのまま」ではダメだということです。私たちのありのままの姿、あるがままの姿は罪人にほかなりません。聖書は決して私たちが「ありのまま」で良いとは語っていないのです。
神の方を向く
「ありのまま」の自分と決別すること、それが本当の悔い改めです。「ありのままの」自分は、自分のことばかり見つめています。悔い改めるとは、自分のことばかりを見つめている私たちが、神さまの方へと向き直ることです。方向転換することです。自分は悪いことをしたけれど、反省して、出直して、なるべく罪を犯さないように、悪いことをしないように、もう少しまっとうに善いことをして生きようというのではありません。そのように考えているとしたら、それは自分でなんとかできると思っているからであり、依然として自分のことを見つめているだけに過ぎません。そうではなく神さまの方を向くとは、神さまに立ち帰ることなのです。旧約聖書の預言者は繰り返し神さまに立ち帰るようにと告げてきました。例えば預言者エレミヤは「『立ち帰れ、イスラエルよ』と 主は言われる。『わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない』」と語っています。ヨハネが告げた悔い改めも、神さまに立ち帰ることにほかなりません。私たちが神さまに立ち帰るとき、自分ではなく神さまが私たちの人生の主となるのです。そのとき、私たちは神さまの方を向いて生き始めることになります。「アブラハムの子」であろうとなかろうと、つまりユダヤ人であろうとなかろうと、この本当の悔い改めが求められているのです。
わたしたちはどうすればよいのですか
ヨハネが語ったことを聞いて、「わたしたちはどうすればよいのですか」、と群衆は彼に尋ねました。「どうすれば」とは「何を行えば」ということであり、またこの「行う」は「悔い改めにふさわしい実を結べ」の「結ぶ」と同じ言葉です。ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と語りました。それに対して群衆は「わたしたちはどんな実を結べば良いのですか」と尋ねているのです。この問いが、ヨハネを通して語られた神の言葉への彼らの応答です。「わたしたちはどうすればよいのですか」という問いこそ、今までの生き方をすっかり変えてこれから新しい人生をスタートするときの私たちの問いであり、神さまの方を向いて生き始めようとするときの私たちの問いなのです。ルカは、この福音書で、また使徒言行録でこの言葉を繰り返しています。律法の専門家はイエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ね、金持ちの議員も「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。またペンテコステの日にペトロの説教を聞いた人々は「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねたのです。ここでは、まず群衆が「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねています。次に徴税人がさらに兵士が同じことをヨハネに尋ねました。この「わたしたちはどんな実を結べば良いのか」という問いに対して、ヨハネは「特別な実を結びなさい」とか、「驚くような実を結びなさい」とは答えなかったのです。
悔い改めにふさわしい実
群衆に対して、ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えました。そんな簡単のことで悔い改めの実を結ぶことになるのか、と思うかもしれません。しかしこの簡単に思えることが私たちの生きる世界で実現しているでしょうか。私たちの生きる世界では、下着を二枚持っている者が、一枚も持たない者を思い浮かべることもせず、さらに三枚、四枚と増やすことを考えていたり、食べ物を持っている者が食べ物を持っていない人のことを考えるのではなく、自分の食事の満足を追求していたりする、そのようなことが起こっているのではないでしょうか。そのような世界には「分かち合い」はありません。それは、物質的な「分かち合い」だけではありません。隣人と分かち合えないことは、隣人に関心を持っていない、つまり隣人のことを愛していないことです。本当の悔い改めは、神さまの方へと向きを変えます。そのとき神さまが私の人生を支配してくださいます。そのような人生において、隣人に目を向けないということはありえません。自分のことを見つめるのではなく神さまを見つめるとき、神さまが自分に与えてくださった隣人をも見つめることになるからです。ですから「分かち合い」は、まさに悔い改めが結ぶ実なのです。ここで言われているのは「分かち合い」であって、すべてをなげうつことではありません。下着を二枚持っている者は、一枚も持っていない者に二枚とも差し出しなさいとは言われていません。食事についても同じです。自分が持っているものをすべて捨てなさいとは言われていないのです。ただより多く持っている人は、少ないものしか持っていない人に目を向けなさいと言われているのです。それは特別なことでも驚くようなことでもないかもしれません。しかし私たちの生きる世界で、このことが実現しているとは言えないのではないでしょうか。むしろ悔い改めが結ぶ実とは逆のことが起こっているのです。そうであるならヨハネが告げる悔い改めは、今、私たちが生きているこの世界にも突きつけられ、求められているのです。
徴税人に対して、ヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と答えました。徴税人はユダヤ人でしたが、権力者によって徴税人に任命され、同胞のユダヤ人から税金を集めていました。ほかのユダヤ人からすれば、徴税人は裏切り者であり、彼らはとても嫌われていたのです。それだけでなく、徴税人は定められた金額以上の税金を集めることで、その差額を着服していたのです。そのような徴税人にヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と言ったのです。ここでも彼は徴税人に仕事を辞めなさいとは言っていません。たとえ同胞のユダヤ人から嫌われたままであったとしても、徴税人は徴税人のままで良いのです。ただ「規定以上のもの」をかすめ取るなと言われているのです。悔い改めが結ぶ実は、ここでも驚くようなものではありません。今、私たちに求められているのも、この社会におけるそれぞれの仕事や働きを辞めることではないのです。どのような仕事であれ、またどのような働きであれ、たとえ周りからあまり良く思われていないとしても、今の自分の仕事を、自分の働きを続けて良いのです。ただそこで隣人からかすめ取ることはしてはならないと言われているのです。なぜならそれは、神さまが与えてくださった隣人に対して偽ることになるからです。それは、神さまに立ち帰った者の歩みではないのです。
兵士たちに、ヨハネは「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言いました。兵士は力を持っていましたし、その力を使うこともできました。その力で、ほかの人からお金をゆすり取ったり、だまし取ったりするなと言われているのです。なによりもここで見つめたいのは「自分の給料で満足せよ」という御言葉です。「自分の給料で満足せよ」とは「今、自分に与えられているもので満足しなさい」ということです。しかしこのことも私たちの世界では実現しているとは言えないでしょう。多くの人たちは与えられているもので満足するのではなく、もっと欲しい、もっともっと欲しいと際限なく欲望を膨らませています。そのような生き方は自分のことしか考えていない生き方です。まさにそのような生き方から方向転換することが本当の悔い改めでした。神さまに立ち帰り、神さまの方を向いて歩む生活とは、もっともっと欲しいという際限のない欲望を追求する生活ではなく、神さまから与えられたもので満足する生活にほかなりません。
救いに与ったゆえに
このように私たちには「悔い改めにふさわしい実」を結ぶことが求められています。しかしここでなお問うべきことがあります。それは、私たちは自分の力で「悔い改めにふさわしい実」を結ぶことができるのか、という問いです。そしてこの問いへの答えは「できない」なのです。私たちは自分の力で「悔い改めにふさわしい実」を結ぶことはできません。私たちは自分の力で神さまの方を向くことはできないのです。私たちは神さまの怒りによって裁かれ滅ぶしかない罪人だからです。神さまの怒りを真剣に受けとめるとき、私たちが神さまに立ち帰ることができないことを思い知らされます。それほどまでに私たちに差し迫った神の怒りは大きいのです。けれども、そのような私たちが負うべき神の怒りによる裁きを、主イエス・キリストは私たちの代わりに十字架上で負ってくださったのです。「良い実を結ばない」私たちの代わりに「切り倒されて火に投げ込まれたのは」主イエス・キリストにほかなりません。この主イエス・キリストの救いに与ることによって、また聖霊の働きによって、私たちは向きを変えて神さまのもとに立ち帰り、自分のことばかり見つめていたまなざしを神さまに向け、本当の「悔い改めにふさわしい実」を結ぶことができるのです。そのことによって、私たちは神さまが与えてくださった隣人にも目を向けることが出来るようになるのです。ヨハネはこのことを先取りして指し示しました。私たちはすでに主イエス・キリストの救いに与っています。その救いに与ったゆえに、私たちの日々の生活は恵みと感謝に満ちたものとなっているのです。そしてすでにキリストの救いに与った私たちは、神さまの方を向いて、悔い改めにふさわしい実を結ぶ人生を、良い実を結ぶ人生を歩み始めているのです。