主日礼拝

天からのまことのパン

「天からのまことのパン」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:出エジプト記 第16章1-15節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第6章22-33節
・ 讃美歌:13、56、467

二つの奇跡の翌日
 ヨハネによる福音書の第6章を読み進めています。この6章のはじめのところには、主イエスのなさった二つの奇跡が語られていました。五つのパンの二匹の魚で五千人の人々を満腹させたという奇跡と、ガリラヤ湖の水の上を歩いて弟子たちの乗っている舟に来られたという奇跡です。この二つの奇跡は同じ日になされています。ある日主イエスは弟子たちと舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に渡り、そこの山の上で、ご自分のもとに集まって来た男だけで五千人の群衆を満腹にさせたのです。そしてその日の夕方、弟子たちだけが乗り込んで対岸のカファルナウムに戻ろうとしていた帰りの舟が逆風に苦しめられていたところに、主イエスが水の上を歩いて来られたのです。主イエスを迎え入れた舟は間もなく目的地つまりカファルナウムに着きました。一日の内にこの二つの奇跡が行われたのです。そして本日の箇所の冒頭の22節には「その翌日」とあります。主イエスが二つの奇跡をなさったその翌日のことが本日の箇所に語られているのです。

主イエスの後を追って来る群衆
 22節以下の群衆の動きについての記述はちょっと分かりにくいものとなっています。22節には「湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた」とあります。彼らはもともと主イエスの後を追って湖のこちら側に来た人たちでしたが、朝になってみたら、イエスも弟子たちもそこにいないことに気づいたのです。しかし彼らは、イエスと弟子たちが一そうの小舟で来たことを知っており、昨日の夕方、弟子たちだけがその舟に乗って向こう岸に戻ったこと、その舟にイエスは乗っておられなかったことを知っていました。だから彼らは、イエスはまだこちら側に、彼らのそばにいるはずだと思っていた。ところが、イエスもいなくなっているので驚いたのです。23節には「ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た」とあります。ティベリアスはガリラヤ湖の西側の町で、この人たちも、主イエスが湖の向こう岸に渡ったことを聞いて後を追って来たのです。しかしもう主イエスも弟子たちもそこを去った後でした。24節には、「群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを探し求めてカファルナウムに来た」とあります。この群衆は、主イエスによってパンを与えられ、満腹する奇跡を体験した人々です。主イエスがもういなくなっていることを知った彼らは、ティベリアスから来た舟に分乗して、それに乗って来た人たちと共に主イエスの後を追い、カファルナウムに行ったのです。25節には「そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った」とあります。自分たちのもとから逃げるように去っていかれた主イエスを再び見つけてこのように言ったのです。ヨハネはこのように群衆たちの動きを細かく、またちょっと複雑に語っています。このことによってヨハネが描こうとしているのは、主イエスを捜し回り、後を追って来る群集たちの姿です。主イエスの追っかけをしている群衆の姿が語られているのです。

主イエスとは誰か
 「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」という彼らの問いかけは、話の流れからすると、「あなたは夕べ舟に乗らなかったはずなのに、いつのまにかもうこちらに来ておられる、いったいいつ移動したのですか」ということになります。しかしこれはそのような文字通りの意味を越えた、象徴的な問いです。つまりヨハネ福音書はここに、主イエスによる救いを求めてその後を追いかけていく者たちが共通して抱く問い、主イエスはいつ、どのようにしてここに来て下さるのか、主イエスによる救いとはどのようなものであり、それはどのようにして与えられるのか、という問いを見ているのです。それはさらに言えば、主イエスとはそもそも誰なのかという、主イエスの本質にかかわる大切な問いだと言えます。主イエスによる救いを求めている私たちは誰もがそういう問いを抱くのです。26節以下の主イエスの言葉は、その大切な問いへの答えです。

しるしを見ていない群衆
 主イエスはこうお答えになりました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。「はっきり言っておく」という言葉はこれまでにも何度か出てきました。直訳すれば「アーメン、アーメン、私はあなたがたに言う」です。ヨハネ福音書においてこの言葉は、主イエスが大切なことを宣言なさる時に使われています。大切な問いに対する大切な答えがこの言葉に導かれて語られていくのです。大切なこととして主イエスが先ずここで語られたのは、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」ということでした。あなたがたが湖を渡り、また戻って来ることまでして私の後を追いかけて来ているのは、パンを食べて満腹したからだ。それはあの、五つのパンと二匹の魚で五千人の人々が満腹した、という奇跡を体験したことを指しています。群衆たちはあの奇跡を体験したので、それを行った主イエスの後を追ってきたのです。そのことが「しるしを見たからではなく」と語られています。主イエスのなさった奇跡のことをヨハネ福音書は「しるし」と呼んでいます。だとすれば彼らは、五千人を満腹にするという主イエスのなさったしるしを見たから主イエスの後を追って来たのではないのでしょうか。しかし主イエスのなさった奇跡が「しるし」と呼ばれるのは、その奇跡が、主イエスこそが父なる神から使わされた独り子なる神であられることのしるしとなるからです。奇跡を見たり体験した人々が、主イエスこそ神の子であり救い主であるという信仰を持つようになることによってこそ、その奇跡は「しるし」として受け止められたことになるのです。けれどもこの群衆は、パンを食べて満腹したという体験への驚きと、自分の腹が満たされたという満足感のゆえに主イエスのもとに来ています。その満足感をこれからも味わい続けたいと願っているのです。そういう彼らの思いは、15節に、彼らが主イエスを王にするために連れて行こうとした、と語られていたことにも表れています。このイエスに王になってもらえば、自分たちはいつも満腹させてもらえる、生活の不安を取り除かれ、安心して生きられるようになる、また主イエスが自分たちの王となってくれれば、主イエスを自分たちのものとすることができる、自分たちのために奇跡を行ってくれる救い主として所有することができる、そういう願いを彼らは抱いているのです。つまり彼らにとってこの奇跡は、主イエスを神の子と信じて従っていく、という信仰をもたらすものにはなっていないのです。それは、彼らがこの奇跡に「しるし」を見てはおらず、ただパンを食べて満腹したことだけを見つめている、ということです。

永遠の命に至る朽ちない食べ物を求める
 このことを先ず指摘なさった主イエスは、27節で、本日の箇所の中心となる教えをお語りになりました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」。あなたがたが求めているのは「朽ちる食べ物」だ。しかし私があなたがたに与えようとしているのは、朽ちない食べ物、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物なのだ、それをこそ求めなさい、と主イエスは言われたのです。
 このようにして、この第6章の中心となる主題が示されました。ヨハネ福音書は、主イエスのなさった七つの奇跡、しるしを軸にして、それをめぐる主イエスと人々との対話の中で、父なる神が独り子主イエスによって与えて下さる救いとは何かを語っていく、という手法を取っていますが、五千人の人々を満腹にした、という奇跡から始まったこの第6章は、永遠の命に至る朽ちない食べ物、私たちを本当に生かす命のパンとは何か、を語ろうとしているのです。その朽ちない食べ物、永遠の命に至る食べ物は、「人の子」つまり主イエスが与えて下さるものです。主イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹にしたのは、そのことの「しるし」としてでした。この奇跡に「しるし」を見た者は、永遠の命に至る朽ちない食べ物をこそ主イエスに求めていくのです。

神の業を行う
 この主イエスのお言葉を聞いた人々は、28節で、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。この問いは、27節の「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」という勧めとつながらないように思われるかもしれません。しかし人々は、主イエスの言葉を、「永遠の命を得るために働きなさい」と聞いたのです。そして彼らにとって、永遠の命を神からいただくために人間がしなければならないことは、神の業を行うこと、具体的には律法を守ることでした。それが彼らに刷り込まれていた常識だったのです。だから彼らは、永遠の命に至る食べ物のために働くためには、どういう神の業を行ったらよいのでしょうか、律法をどのように守り行ったらよいのでしょうか、と尋ねたのです。そしてこれは、私たちの誰もが思っていることであり、いつも問うていることです。私たちも、救われるためには、まあその救いとは何か、何が本当の救いなのか、ということが問題なわけですが、それはここでは置いておいて、とにかく自分の願い求めている救いを得るためには、何かをしなければならない、と思っています。何か良いことを、立派なこと、正しいことをすることによって救いが得られる、という思いが私たちの中にも刷り込まれていて、常識となっているのです。だから私たちも、「救われるためには何をしたらよいでしょうか」と問うのです。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という人々の問いは私たちがいつも問うていることだと言えるでしょう。

神がお遣わしになった者を信じること
 それに対する主イエスの答えは、彼らの、そして私たちの常識を覆すものでした。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。何か良いこと、立派なこと、正しいことをすることが神の業を行うことなのではない。神がお遣わしになった者を信じることこそが、永遠の命に至る朽ちない食べ物を得るために必要な神の業を行うことなのです。神がお遣わしになった者、それは勿論主イエスです。3章16、17節にこうありました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。神は独り子主イエスを世に遣わして下さったほどに世を、私たちを、愛して下さっているのです。その神の愛を信じて受け入れ、その愛をいただきつつ生きることこそが、神の業を行うことです。私たちは、何か良いこと、立派なこと、正しいことをすることによってではなくて、主イエスによる神の愛を信じることによって、永遠の命に至る朽ちない食べ物をいただくことができるのです。

天からのパン
 これを聞いた人々はこう言いました。30、31節です。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。神がお遣わしになった者を信じることが神の業を行うことであるならば、あなたがその神がお遣わしになった者であることのしるし、証拠を見せてほしい、ということです。そしてそこで彼らが求めているしるしは、やはりパンを食べて満腹することです。パンを与えて満腹させてくれれば、あなたこそ神がお遣わしになった者であると信じることができる、と言っているのです。彼らがその根拠としているのは、「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」という、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、出エジプト記の第16章に語られている出来事です。モーセに率いられて、奴隷とされていたエジプトを脱出したイスラエルの民でしたが、荒れ野においてパンが無くなってしまうと、モーセに不平不満を言いました。その時主なる神はモーセに、あなたがたに天からのパンを与えると告げて下さり、そのみ言葉の通りに、天からのパンである「マンナ」を与えて下さったのです。モーセが神に願うと、天からのパンが与えられ、民は満腹することができた、そういう記憶がイスラエルの人々の間に受け継がれていきました。主イエスが五千人の人々を満腹させた奇跡を見た彼らは、このことを思い出して、主イエスにモーセの再来を見たのです。約束されている救い主は、モーセのような預言者として来る、と語られているところが旧約聖書にはあります。14節に、この奇跡を見た人々が「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったことが語られていましたが、それは、このイエスこそモーセのような預言者に違いない、ということです。モーセのように天からのパンを与え、満腹させてくれるイエスこそ、世に来られる預言者、救い主だ、と人々は思ったのです。そしてこの天からのパンであるマンナは、一度限り与えられたものではありません。イスラエルの民が約束の地に入るまで、毎日それが与えられ、彼らはそれを食べて荒れ野を旅していったのです。それと同じようにイエスにも、自分たちの日毎のパンを与え続けてほしい、そういうしるしを見せてくれれば、イエスこそ神がお遣わしになった救い主であることを信じることができる、と彼らは言っているのです。

生活を支えてくれる救い主を求める
 つまり彼らは、モーセのように天からのパンを与えてくれる預言者、救い主を求めているのです。それは彼らも神による救いを求めているということです。しかし彼らは、その神による救いとは、モーセのような預言者、救い主が現れて、天からのパンを与えて自分たちを養い、満腹させてくれること、日々の生活を安定させ、安心して生きていけるようにしてくれることだと思っていて、そういう救いを求めているのです。私たちも、神による救いを同じように考えていることが多いのではないでしょうか。神がパンを与えて自分を養い、生活を支えてくれる、安心して生きることができるようにしてくれる、そういう救いを求め、それを与えてくれる救い主として主イエス・キリストに期待しているということが多々あるのではないでしょうか。

天からのまことのパン
 そのような救いを求めている人々に、そして私たちに、主イエスはこう宣言しておられます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」。このお言葉は、モーセのように天からのパンを与えて満腹にしてくれる救い主を求めることは間違いだ、ということを語っています。実はあのマンナも、モーセが与えたのではなくて、神がその恵みのみ心によって、イスラエルの民が荒れ野の旅路を歩み続けることができるように与えて下さったものなのであって、それは主イエスの父である神が与えて下さる天からのまことのパンを指し示すもの、そのしるしなのです。神による救いは、パンによって満腹し、安心して生活できるようになることにあるのではなくて、主イエスの父なる神が与えて下さる天からのまことのパンをいただくことにこそあるのです。主イエスの父なる神が与えて下さる天からのまことのパン、つまり神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものです。それは先程のあの3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」に語られていたように、独り子主イエス・キリストご自身です。主イエスこそ、父が与えて下さる天からのまことのパンです。主イエスこそ、いつまでもなくなることのない、永遠の命に至る食べ物です。主イエスが五千人の人々を満腹にした奇跡は、主イエスが天からのパン、神のパンを与えて私たちを養い、満腹させ、生活を安定させて下さる方だということのしるしではなくて、主イエスご自身こそ、神がこの世に遣わして、私たちに与えて下さった、永遠の命に至る食べ物であることのしるしだったのです。私たちは、この主イエスを信じることによってこそ、永遠の命に至る朽ちない食べ物を食べることができます。主イエスこそ、父なる神から遣わされた独り子なる神であり、神に背き逆らっている私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命を生きておられる方です。その主イエスを信じ、主イエスに従っていく者となることによってこそ、私たちは主イエスによる罪の赦しにあずかり、また主イエスが先に得ておられる復活と永遠の命に私たちもあずかる者とされる希望を与えられるのです。

朽ちない食べ物を求めて
 主イエスを信じることによって与えられるこの神による救い以外のものは、たとえそれがこの世の人生において私たちを満腹にし、生活を安定させ、安心して生きることができるようにしてくれるものであっても、全て「朽ちる食べ物」です。つまり食べても食べてもまた空腹になる、そしていつかはなくなってしまう、つまり死を越えて私たちを生かすものではない、本当の希望を与えるものではない、そういう食べ物です。そのような「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と主イエスは私たちに語りかけておられます。その働きとは、良いことをする立派な信心深い人になるとか、律法を守って罪を犯さない正しい人になることではなくて、罪人である私たちのために十字架にかかって死んで下さった神の子イエス・キリストを信じることです。そこにこそ、永遠の命に至る道があるのです。

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