「救い主は飼い葉桶に」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第62章10-12節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第2章1-7節
・ 讃美歌:220、250
待ちに待った主イエスの誕生
ルカによる福音書の第1章を読み終えて本日から第2章に入ります。本日の聖書箇所である2・1-7節では主イエスの誕生について語られています。ルカによる福音書はほかの福音書と比べてクリスマス物語が最も長い福音書です。1・1-4節が福音書の序文で、5節からクリスマス物語が始まります。その5節から80節までを今まで読んできましたが、そこにおいて、洗礼者ヨハネと主イエスの誕生の予告が語られ、また主イエスをお腹に宿したマリアが洗礼者ヨハネをお腹に宿していたエリサベトを訪れたことが語られました。マグニフィカートと呼ばれるマリアの賛歌があり、洗礼者ヨハネの誕生が語られ、そしてベネディクトゥスと呼ばれるザカリアの賛歌がありました。しかしこの1章において主イエスの誕生はまだ語られていないのです。私たちも含めてこの福音書の読み手は、主イエスの誕生が語られるのを今か今かと待ちわびてきたのではないでしょうか。しかし福音書の著者ルカは、主イエス誕生の期待を高めるために意図的にそのことについて語るのを遅らせたと考えられるのです。ほかの福音書を見てみますと、マタイによる福音書では第1章で主イエスの誕生が語られていますし、マルコやヨハネによる福音書においても第1章で主イエスが登場しています。ルカによる福音書だけが第2章でやっと主イエスの誕生を語るのです。私たちは待ちに待った主イエス誕生の物語をようやく第2章で読むことになるのです。
1章において告げられていたこと
しかしこのような主イエス誕生への私たちの期待の高まりは、単にルカがそのことについて語るのを第2章まで引き延ばしたことだけにあるのではありません。ルカは、第1章において天使のお告げやマリアの賛歌やザカリアの賛歌の中で、生まれてくる御子がどのようなお方であるかすでに告げていました。たとえば、天使ガブリエルはマリアに次のように告げました。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」あるいは洗礼者ヨハネの父ザカリアは聖霊に満たされ次のように賛美しました。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」前回読んだように「救いの角」は主イエス・キリストを指していました。主イエス・キリストによって、預言者たちが預言した罪の赦しによる救いが実現するとザカリアは賛美したのです。生まれてくる御子こそ、いと高き方の子、つまり神の子であり、永遠にイスラエルを支配してくださり、私たちの罪の赦しを成し遂げてくださる方である。そのようなお方が今まさにお生まれになろうとしている。そのような期待が私たちに与えられているのです。
期待はずれの主イエスの誕生?
ところが本日の聖書箇所である2・1-7節で語られている主イエスの誕生は、そのような私たちの期待を大きく裏切るものといえます。ルカは、1章で洗礼者ヨハネと主イエスの物語を交互に語ってきました。洗礼者ヨハネ誕生の予告といわゆる受胎告知と呼ばれる主イエス誕生の予告は、天使のお告げに対するザカリアとマリアの応答に違いがあるとはいえ、対応関係にあるといえます。しかし2・1-7節の主イエスの誕生は、1・57-80節の洗礼者ヨハネの誕生とはずいぶんと趣が異なるのです。ヨハネ誕生の物語では、生まれてくる子に付ける名前について、近所の人々や親類と母エリサベトのやり取りが語られていました。また口が利けなくなっていた父ザカリアが、人々に「この子に何と名を付けたいか」と聞かれ「この子の名はヨハネ」と字を書く板に書いたとき、「たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」のです。そのザカリアの賛美が68-79節で歌われていました。しかし2・1-7節の主イエスの誕生において、そのようなやり取りや賛美は一切ありません。ヨセフとマリアは一言も話すことなく沈黙しています。ルカは、イエス・キリストの誕生の出来事そのものになんら装飾を施そうとしていないのです。クリスマスシーズンになると、クリッペと呼ばれるイエス・キリストの生誕場面を再現する人形飾りを日本でも見かけます。クリッペとはドイツ語で「飼い葉桶」のことですが、ヨーロッパではクリスマスになると必ず教会に置かれるそうです。教会だけでなく家庭でも子どもたちと一緒に飾りつけをするそうで、幼子イエスのほかに、マリアとヨセフ、天使と羊飼い、ロバと雄牛などの家畜、そして東方からの占星術の学者たちが飾られます。しかしルカは、クリッペに見られるような飾りつけを、主イエスの誕生の場面においてまったく行っていません。ただ6、7節で次のように言われているだけです。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」マリアとヨセフが宿屋の主人と会話をしたとか、飼い葉桶の周りにはどんな家畜がいたとか、そのようなことをルカは少しも語っていないのです。それだけではありません。ルカは、主イエスの誕生の場面で奇跡や聖霊の働きについても語っていません。1章では、高齢で人の力では子どもを授かることができない老夫婦に子どもが与えられた奇跡が語られ、男の人と関係することなしに聖霊によって子どもを身ごもった奇跡が語られていました。またエリサベトもザカリアも聖霊に満たされて賛美しました。このように1章では、人の力では起こりえない神さまの奇跡と聖霊の働きが繰り返し語られてきたのです。しかし2・1-7節の主イエスの誕生というまさにクリスマスの中心的な出来事において、ルカは奇跡にも聖霊の働きにも触れていないのです。
皇帝アウグストゥスとローマの平和
ではルカは、主イエスの誕生をどのように語っているのでしょうか。2・1、2節には次のようにあります。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。」皇帝アウグストゥスはユリウス・カエサルの養子であり、彼の後継者として内乱を勝ち抜きローマ帝国の初代皇帝となった人物です。そして彼は、広大なローマ帝国を強力な軍事力で統治し、また豊富な財政で帝国内の公共サービスを充実させ、「パクス・ロマーナ」と呼ばれるローマの平和を実現した人物でもありました。新共同訳で「住民登録」と訳されている言葉は口語訳では「人口調査」と訳されていましたが、ユダヤ人に住民登録させる目的は主に税金を集めることにありました。「住民登録」による徴税は帝国を維持する一端を担っていたのです。このようにローマの平和を実現し、ローマ帝国の黄金期の端緒を開いた皇帝アウグストゥスは、当時のローマ社会で「救い主」と呼ばれていました。ローマ帝国はアウグストゥス以後もさらに領土を拡大していきます。しかしそのようなローマ帝国もやがて衰退期を迎え最終的には滅亡するのです。皇帝アウグストゥスが実現した平和は永遠には続かなかったのです。ローマ帝国の歴史に限らず、その後の歴史においても「パクス・ブリタニカ」や「パクス・アメリカーナ」など軍事力と経済力によって平和が実現したかのように見えることがありました。しかしそのような平和は結局一時的なものに過ぎず、まことの平和とはほど遠いものであったのです。「救い主」と呼ばれた皇帝アウグストゥスによる救いは、本当に人を生かす救いではありませんでした。軍事力を高め、財政を豊かにすることによって一時的に平和がもたらされ、救いがもたらされたかのように感じたとしても、それは表面的なものに過ぎません。そのような平和によっては、私たちの罪の現実はなんら変わらないからです。私たちはいぜんとして罪に捕らわれたままなのです。本当に人を生かす救いとは、まことの救いとは、主イエス・キリストによる罪の赦しによる救いのほかにありません。皇帝アウグストゥスが「救い主」と呼ばれる社会にあって、ルカは主イエス・キリストこそ「まことの救い主」、「まことの平和」を実現するお方であると告げたのです。ルカは、人類全体の救い主である主イエス・キリストの誕生の出来事を、当時の世界の中心であるローマ帝国の枠組みの中で起こったこととして語っています。それは皇帝アウグストゥスの力による救いではなく、布にくるまれ飼い葉桶に寝かされたところから地上の歩みを始められた神の独り子による救いこそ、まことの救いであることを告げるためなのです。この住民登録のために、ヨセフといいなずけのマリアは、「ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」のです。
身ごもっていたマリアと共に
ナザレからベツレヘムまで身ごもっていたマリアを連れて旅することは大変であったに違いありません。マリアはベツレヘムに着くと子を産んでいますから、ナザレを出発するときすでに出産間近であったのです。マリアをナザレに残して、ヨセフだけベツレヘムへ行って住民登録をすることもできたはずです。しかしヨセフはマリアを連れて行きました。それは、聖霊によって身ごもったマリアをナザレに残すことに不安を感じたからかもしれません。ヨセフの子でないことが分かればマリアは律法によって裁かれてもおかしくなかったからです。しかしそのようなヨセフのマリアへの心配りがあったとしても、マリアがベツレヘムで子どもを産むことが神さまのご計画であったことこそ決定的に重要なことなのです。旧約聖書ミカ書5・1節に「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」と言われています。つまりルカは、皇帝による住民登録の勅令を用いて、またヨセフと身重のマリア連れ立っての困難な旅をも用いて、ベツレヘムから救い主が生まれるというこの預言の成就を告げているのです。
月が満ちて
6節に「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて」とあります。この「月が満ちて」は単に子どもが生まれる時が来た、とういことではありません。もちろん出産は自然の理に沿うものであり、現代では科学で説明できるものです。しかしここでルカが「月が満ちて」と語るとき、この「満ちる」という言葉は、聖霊に満たされることを意味します。この言葉は新約聖書で24回使われていますが、その内22回はルカ-使徒言行録で使われていてルカに特徴的な言葉です。1・15節で天使がザカリアに洗礼者ヨハネについて「既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて」と告げていますが、この「満たされて」という言葉が「月が満ちて」の「満ちる」と同じ言葉です。また1・41節で「エリサベトは聖霊に満たされて」とありますが、この「満たされて」も同じ言葉です。ですから「マリアは月が満ちて」とは、マリアの出産の時が来たことだけでなく、聖霊に満たされて主イエス・キリストの誕生による新しい救いの時代が到来したことを告げているのです。
飼い葉桶に
しかしその新しい救いの時代の到来は、およそその出来事とはふさわしくないかのように思える場所で起こりました。7節には、マリアは「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあります。「飼い葉桶」という言葉は、飼い葉桶そのものを意味するだけでなく、もう少し広く家畜小屋、馬小屋をも意味します。ですから宿屋に泊まる場所がなく御子を飼い葉桶に寝かせたのは、人が泊まるための場所には空きがなくて、いつもは動物しかいない家畜小屋に、お生まれになった御子を寝かせるしかなかったからです。クリスマスの出来事とは神さまが地上に御子を遣わしてくださったことにほかなりません。しかし地上には飼い葉桶のほかに御子の居場所はなかったのです。ルカは、クリスマスの物語において確かに主イエスの誕生を喜びの出来事として語ります。天使ガブリエルがマリアに告げた最初の言葉は、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」でした。また天使は羊飼いに「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と語ります。しかしそのような喜びを語りつつも、ルカは生まれてきた御子がこの世に居場所がなかったことをも語っているのです。言い換えるならば、主イエス誕生の出来事において、人々が生まれてきた御子を拒絶したことが語られているのです。全人類の救い主であり、贖い主である主イエス・キリストは、お生まれになったときこの地上にまったく居場所がありませんでした。それは皇帝アウグストゥスが広大な領土を支配していたのと対照的です。ただ飼い葉桶だけが御子がお入りになれた場所だったのです。
御子を迎える部屋はありますか?
ルカによる福音書を読み進めてきて、私たちも主イエスの誕生を待ち望み、期待してきました。教会の暦でクリスマスを迎えれば、私たちの教会は主イエスの誕生を喜び祝います。しかし本日の聖書箇所は、主イエスの誕生が私たちに喜びを与えるだけでは済まないことを告げています。むしろルカが語る主イエスの誕生物語は、私たちが生まれてきた御子をお迎えする部屋を自分の内に持っていないことを明らかにするのです。御子が来てくださったのに、私たちは御子をお迎えする備えなどできていないのです。それどころか私たちは、自分たちのところに来てくださった御子を拒絶すらする者です。私たちの思いは、いつも自分のやりたいこと、自分のやらなければならないことで満杯です。自分の思いや願いで満杯の部屋。そこには御子の居場所などありません。私たちが御子をお迎えするスペースを自分の内に持っていないこと。それは、私たちが神さまのことを思わず自分のことばかりを思っていることにほかなりません。私たちは自分の人生を神さまに明け渡すのではなく、自分自身で握りしめて手放そうとしないのです。そのように私たちが御子を迎え入れなかったからこそ、主イエスは地上の歩みを飼い葉桶から始められ、十字架へ向かって進まれたのです。しかしそれでもなお主イエスは御子を拒む私たちの傍らに来てくださっています。生まれたばかりの御子が、人が泊まる部屋に場所がなく部屋の外の飼い葉桶に寝かされたように、私たちの内に御子を迎えるスペースがなかったとしても御子は私たちの傍らに来てくださっているのです。
主イエスこそ、まことの救い主
私たちは、自分たちのところへ来てくださった御子を自分の内から締め出し、拒絶する者です。主イエスの誕生物語はそのような私たちの姿をあらわにします。それは私たちにとって決して心地良いことではありません。どこまでも自己中心的で自分本意な自らの姿を突きつけられるからです。そのような自分の罪を明らかにする御子をお迎えするより、当時のローマの人たちと同じように、私たちも皇帝アウグストゥスを救い主と呼びかねません。彼は、悪名高い皇帝では決してありませんでした。むしろ優秀な政治家であったといえるでしょう。軍事力と経済力によって帝国の平和を守りインフラを整備しました。そのことによってローマの国民は恩恵に与っていたのです。私たちもそのような目に見える恩恵を与えてくれる人に惹かれます。しかしそのような恩恵に与れたのは皇帝に従った者だけであったことに目を向ける必要があります。もし皇帝に従わず反逆したならば容赦なく処罰されていたに違いありません。皇帝アウグストゥスが築いた平和は、力による服従によってもたらされたものなのです。しかし神さまはまったく違った仕方で御子を遣わしてくださいました。私たちは神に従わず反逆していた者です。そのような私たちを神さまは裁き、滅ぼすのではなく、救うために御子を遣わされたのです。御子をお迎えする準備などまったくしていなかった私たちのために、御子が来てくださっても迎え入れようとせず拒絶してしまう私たちのために御子は来てくださったのです。私たちは自分の思いや願いや悩みや不安や心配でいっぱいいっぱいで、私たちの内には御子をお迎えするスペースなどまったくありません。そのような私たちにもかかわらず、そのような私たちだからこそ、御子は私たちのところへ来てくださったのです。そのことをルカが語るクリスマスの物語を読むたびに私たちは想い起こすのです。皇帝アウグストゥスは自分に従う者たちに恩恵を与えました。また彼によるローマの平和は一時的なものに過ぎませんでした。しかし御子は、ご自身を拒絶する者たちのところに来てくださり、飼い葉桶から地上の歩みを始められ十字架の死に至るまで徹底的に低くなられることで、決して失われることのないまことの救いと平和を実現してくださったのです。私たちはその主イエス・キリストの十字架の救いに与っています。この世にあってどれほど目を奪われるような助けがあったとしても、それはまことの救いではありえません。私たちを本当に生かしてくださるのは、嘆き呻く日々の歩みにあっても私たちを生かし続けてくださるのは、まことの救い主、主イエス・キリストただお一人しかいないのです。私たちは主イエス・キリストにこそ、まことの救いと平和を見るのです。私たちはこの救いに与った者として、御子を自分の内に迎え入れるとき、主イエスと共にある歩み、主イエスに似た者へと変えられていく歩みへと導かれていくのです。