「皇帝のもの、神のもの」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第96編1-13節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第20章20-26節
・ 讃美歌:1、145、513
機会をねらっていた人々
本日ご一緒に読むルカによる福音書第20章20節以下の終わりの方、25節に「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスのお言葉が記されています。イエス・キリストのお言葉の中でも、最もよく知られ、よく引用されるものの一つです。これがよく引用されるのは、ここに、政治的支配者に従うことと神に従う信仰に生きることとの関係、一般的に言えば国家と宗教、政治と信仰の関係についての主イエスの教えが凝縮されていると考えられるからです。聖書の教え、イエス・キリストの教えにおいてこの問題を考える時にはこの言葉が必ず引用されるのです。本日もそういうことをご一緒に考えていくことになるわけですが、しかしその前に先ず、本日のこの箇所がどういう文脈、話の流れの中にあるのかを確認しておきたいと思います。最初の20節は「そこで、機会をねらっていた彼らは」と始まっています。「彼ら」とは誰でしょうか。それはその前の19節に語られている人々です。19節には「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」とありました。この律法学者たちや祭司長たちが、20節における「彼ら」です。その彼らが「機会をねらっていた」というのは、「イエスに手を下そうとした」ということです。何とかしてイエスを抹殺しよう、ないしはその影響力を失墜させようとして、彼らは機会をねらっていたのです。彼らがそういう思いを募らせているのは、19章の後半でエルサレムに来られてからの主イエスの言葉と業がことごとく、彼らユダヤ人の宗教指導者たちの権威を否定するようなものだったからです。前回読んだ9節以下では主イエスは、主人からぶどう園を任せられながら、主人に収穫を納めようとせず、ぶどう園を自分たちのものとしようとしている悪い農夫たちのたとえを語られました。このたとえは、ユダヤ人の宗教指導者である彼らのことを当てつけていたのです。そのことに気づいた彼らは激怒しましたが、民衆が喜んでイエスの話を聞いていたために、手を出すことができなかったのです。そのようにイエスを抹殺する機会をねらっていた彼らが、今度は「正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした」のです。「総督」とは、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の総督です。ローマは圧倒的な軍事力をもってこの地を支配しており、ユダヤ人たちは不本意ながらそれに従わざるを得なかったのです。彼らはそのローマ帝国の権力にイエスを引き渡そうとしました。つまりイエスが総督によって逮捕され、裁かれるように仕向けることによって、敵であるローマの権力を用いてイエスを抹殺しようとしたのです。そのために彼らは「回し者」を遣わし、一つの質問をさせました。それは「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という質問です。この問いによってイエスの「言葉じりをとらえ」てローマに引き渡そうとしたのです。
言葉じりをとらえようとして
この問いがどういう意味であり、なぜこれがイエスの「言葉じりをとらえ」ることになるのかを理解しておかなければなりません。「わたしたちが」というのは、神様の民であるユダヤ人が、ということです。「神の民である我々が、異邦人であるローマの皇帝に税金を納めることは神の掟である律法に適っているか否か、つまり神の民として相応しいことか否か」と彼らは問うたのです。それはどのように答えたとしてもイエスを窮地に追い込むことができるはずの問いでした。つまりもしもイエスが、「皇帝に税金を納めることは神の民として相応しくない」と答えたなら、ローマの総督に、「この男はローマへの納税を拒むように人々に教えている」と訴えることができます。そうすれば自分たちは何もしなくても、ローマがイエスを抹殺してくれるのです。逆にイエスが、ローマに税金を納めることを認めるような答えをしたなら、民衆の期待を裏切ることになります。民衆がイエスについて来ているのは、この人こそローマの支配から我々を解放し、神の民イスラエルの国を再興してくれる救い主ではないか、と期待していたからです。自分たちは神様に選ばれた神の民だ、というユダヤ人の自負からすれば、異邦人であるローマが自分たちを支配しているなどということは受け入れ難いことであって、その支配から解放してくれる救い主を待ち望んでいるのです。ですからローマの支配を認め、それに従うことを教えるようなことを言えば、たちまちイエスの人気は失墜します。そうなればイエスの影響力を排除するという彼らの目的はやはり達成されるのです。だから、どちらに転んでもイエスは窮地に陥り、自分たちには都合のよいことになります。この問いを考え出した時、彼らは小躍りして喜んだだろうと思います。しかも彼らは念入りに、この回し者たちが「正しい人を装う」ようにしました。それが「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」というところです。「正しい人を装う」というのは、真理を真剣に求め、神の道に従って歩もうとしている者を装うことです。そういう者からの真剣な問いであることを装うことによって、主イエスが、いいかげんな答えでお茶を濁すようなことができないように、神の教えに従って正しい答えをせざるを得ないように、言わば逃げ道を塞いでいるのです。ここには、彼らが自明の前提としていることが現れています。つまり彼らは、神の教えに従ってこの問いに答えるなら、皇帝に税金を納めることは律法に違反している、神の民として相応しくない、と答えざるを得ないと思っているのです。だからイエスがそう答えざるを得ないところに追い込み、そして総督に引き渡そうとしているのです。
主イエスがこのように悪意ある下心による、為にする問いを受けたのが本日の箇所なのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というお言葉は、この問いへの答えとして語られました。従ってこのみ言葉は、主イエスがご自分から、皇帝に従うことと神に従うことについて、政治と宗教についての教えとして積極的にお語りになったものではありません。言葉じりをとらえようとする悪意ある問いを上手にいなし、肩すかしを食わせる言葉なのです。このお言葉はそれだけを取り出して読むのでなく、そういう文脈を頭に置いて読むことによってこそ、主イエスが語っておられることの意味を正しく理解することができるのです。
デナリオン銀貨
さて23節にあるように主イエスは彼らのたくらみを見抜いておられました。この人々が真理を求め、神の道に生きようとしているのではなく、ご自分を陥れようとしているだけだということを知っておられたのです。それを知りつつ主イエスがこの問いに答えて先ず語られたのは、「デナリオン銀貨を見せなさい。そこにはだれの肖像と銘があるか」ということでした。デナリオン銀貨はローマ帝国が発行したものです。だからこそ最も信頼の置ける貨幣として帝国中に流通していたのです。そこには、ローマ皇帝の像と銘が刻まれていました。主イエスはその銀貨を「見せなさい」とわざわざ現物を持ち出させて、「そこにはだれの肖像と銘があるか」と問い、「皇帝のものです」という答えを引き出した上で、「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。これを聞いた彼らは、26節にあるように、「民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった」のです。こうして、主イエスを陥れ、総督に引き渡すか、そうでなければ人々の人気を失墜させようとした彼らの目論見は見事にはずれたのです。
政治と信仰の区別?
この主イエスの答えは何を語っているのでしょうか。どうしてこの答えによって、言葉じりをとらえようとしていた彼らは黙ってしまったのでしょうか。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というお言葉だけから考えるならこういうことになるでしょう。つまり、デナリオン銀貨に代表されるお金は皇帝の権威によって発行されているものだから、そのお金を皇帝に税金として納めることは皇帝のものを皇帝に返すという当然のことをしているに過ぎない、と言うことによって主イエスは皇帝に税金を納めることを認め、また勧めている。しかし同時に「神のものは神に返しなさい」と言うことによって、神の民たる者は、神のものをしっかりと神にお返しする信仰に生きるべきことをも教えておられる。このようにして主イエスは、皇帝に税金を納めつつ、神のものを神に返す信仰に生きることができることをお示しになった。それで彼らは、主イエスを引き渡すこともできず、またその人気を失墜させることもできなかった。このようにして主イエスは、この悪意ある問いを見事にいなし、肩すかしを食わせたのだ。このみ言葉の意味はだいたいこのように理解することができるでしょう。そしてそこから、主イエスは、皇帝に税金を納めること、つまり政治的権力、国家権力に従って生きることと、神を信じる信仰に生きることは共存できる、あるいは、政治と信仰とは区別されるべきもので、政治には政治の、信仰には信仰の論理があり、両者はそれぞれの役割を果しているものとしてどちらも尊重されるべきである、と教えたのだ、という理解が生まれるのです。けれどもこのような理解は、先ほど申しましたように、この言葉だけを文脈から切り離して読むことによって生まれるものです。この言葉を本日の箇所全体の流れの中で読むならば、それとは少し違うことが見えてくるように思うのです。
正しい教えで人を陥れようとする
そのために先ず注目したいのは、主イエスがデナリオン銀貨をわざわざ持ち出させて、そこに刻まれている像と銘を確認させておられることです。これは、この銀貨が皇帝の権威によって発行された、そういう意味で皇帝のものであることを示すためのパフォーマンスですが、そこに込められているもう一つの意味があると思います。それは、皇帝に税金を納めることが正しいか否か、と問うている人々もまた、皇帝の権威によって流通しているお金を用いて日々の生活を送っている、という事実を目に見える仕方で明らかにする、という意味です。デナリオン銀貨は広く一般に用いられており、誰の財布の中にも入っていたのです。彼らはその銀貨を用いて生活しつつ、皇帝に税金を納めることが良いか悪いか、と論じているのです。そこに、彼らが考え、語っていることが、日々の生活の現実から離れた、観念的、抽象的な議論になっていることが象徴的に示されています。彼らは、デナリオン銀貨が1デナリオンとして通用し、それで物を買うことができ、経済活動ができるという社会を生きています。そのデナリオン銀貨が通用するのは、皇帝の権威を頂点とするローマ帝国の支配が確立しているからです。つまりその支配の恩恵を被っているのです。そういう現実の中で生活しながら、彼らは、自分たちに対するローマの支配を認めるとか認めないという議論をしています。そして先ほど申しましたように、それを認めないことこそが神の民としての正しい教えだと思っているのです。それではその正しい教えを貫くためにローマに対して反乱を起すのかというと、何十年か後にはそういうことが起り、その結果エルサレムは徹底的に破壊されてしまうのですが、今彼らが考えているのはそんなことではなくて、この正しい教えを利用して主イエスを総督に引き渡そうということだけです。自分たちは正しい教えに即した生活をしていないのに、それを用いて人を陥れようとしているのです。そういう彼らの有り様を白日のもとにさらすために、主イエスはデナリオン銀貨を持ち出させておられるのです。
抽象的理念によって
このことはもう少し一般的に言えば、彼らは理念ないし原理原則のみを主張し、自分たちの現実をその理念に近付けようとはせずに、それによって人を批判してばかりいる、ということです。こういうことは政治の世界においてよく見られることです。現実から遊離した理念、要するにあるイデオロギーばかりを声高に主張し、それによって相手を批判するが、現実をその理念に近付けていこうという具体的なプログラムを提示することはできない、という主張がしばしばなされます。安全保障問題などにおいてそういう議論が目立つし、エネルギー問題について、特に今、原発事故を受けてなされている議論にもそういう面があるように思います。あるいは今、国会においてなされているのは、退陣を表明した首相の下で復興のための議論ができるとかできないという話で、私たちは「そんなことを議論している場合か」と思いますが、それも、抽象的な原理原則が、しかも面子のために主張され、その中で被災した人々の現実が忘れ去られている、ということでしょう。そういうことは、政治の世界においてのみでなく、私たちの信仰において、教会においても起ります。「教会はこうあるべきだ、こうであることが正しい」という理念は勿論大切です。それを抜きにして、何でもあり、どんな考え方もOKというわけにはいきません。私たちは聖書が教え、代々の教会が宣べ伝えてきた福音を信じ、それによって一つとされている群れなのですから、そこからの逸脱に対してはきちんと否を言わなければなりません。しかし同時に、「こうあるべきだ、これが正しい」という主張が、自らが生きている現実から切り離された抽象的なものとなり、それが人を批判し、裁くためにのみ用いられてしまうことにはよくよく警戒しなければなりません。神の民であるユダヤ人の理念を、自分がそれに従って生きていないのに、大上段にふりかざして責めてくる人々に対して、「皇帝のものは皇帝に」と答えることによって主イエスは、私たちの信仰生活、教会の歩みが、この世の具体的な現実と切り離された抽象的な理念となってしまうことを戒めておられるのだと言えるでしょう。信仰が抽象的理念となる時、それは自分を正当化する手段となり、人を裁き批判する罪の思いがそこに入り込んで来るのです。
全ては神のもの
さてそれでは、「神のものは神に返しなさい」というお言葉はどう読んだらよいのでしょうか。これを、先程述べたように、政治の世界とは区別された信仰の世界があり、そこでは神に従って生きるべきだ、というふうに読んでしまうのは正しくないと思います。「皇帝のものは皇帝に」という言葉は、今申しましたように、決して政治の世界と信仰の世界を区別するために、つまりいわゆる「政教分離」のために語られたのではありません。「神のものは神に」も同じです。そもそも、「神に返すべき神のもの」とは何を指しているのでしょうか。9節以下の「ぶどう園と農夫のたとえ」からの流れで考えるならばそれは、ぶどう園を預けられた農夫たちが、主人に支払うべき収穫の一部です。ぶどう園を造り整え、そこに彼らを雇い入れ、収入を得ることができるようにしてくれたのは主人なのであって、収穫から得られた利益の一部を主人に返すのは彼らの当然の義務なのです。それをきちんと主人に、つまり神様に返すことが求められていたのです。「神のものを神に返す」とはそういうことだと言えます。それを私たちに当てはめるなら、神様の恵みによって得られた実り、収入の一部を感謝の捧げものとして神様にお返しする、ということでしょうか。しかしあのたとえ話における農夫たちは、ぶどう園が主人のものであることを認めようとせず、それを自分たちのものにしようとしたのです。そのために、主人が遣わした息子をも殺してしまったのです。つまりこの農夫たちの罪は、自分たちが生きているぶどう園が主人のものであることを受け入れず、それを自分のものにしようとしたことにあります。つまり収穫の一部を主人に返すというのは、このぶどう園が主人のものであることを認めるということなのです。「神のものを神に返す」ことの意味もそこにあります。それは、自分の収入の一部を献金として神様にお返しすることではなくて、自分の持っているもの、与えられているものの全てが、実は神様のもの、神様の恵みによって預けられているものであることを認め、その神様の僕として生きることなのです。「神のもの」とは何か。それはこの世界の全てであり、私たちの全てです。本日は詩編第96編を共に読む旧約聖書の箇所として選びましたが、その10節以下に、主こそ王、世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない、とあります。また、天も地も、海とそこに満ちるものも、野とそこにあるすべてもものも、森の木々も、主を賛美することが歌われています。この世界の全てが、主なる神様によって造られ、養われ、守られ、神の栄光をたたえている「神のもの」なのです。「神のものは神に返しなさい」というみ言葉は、この主なる神様の全世界に対するご支配、主権を認めて、神にこそ栄光を返し、従うことを求めているのです。私たちの日々の生活の中のある部分が、あるいは持っているものの中のある部分だけが神様のものなのではないのです。神のものでないものなど、この世には存在しないのです。ですからこの主イエスのみ言葉は、この世の権力や政治の領域と信仰の領域を区別して、この世の領域では皇帝に、政治的権力に従い、信仰の領域では神様に従うことを教えているのではありません。神様の下で、神の民として生きるとは、この世界の全てが神様のものであり、神様のご支配の下にあることを信じて、その信仰に即して、すべてのものを神様のものとしつつ、神様のみ心こそがこの世界と自分自身とに実現することを願い求めつつ生きることなのです。具体的に言えば、日曜日教会に来て礼拝をする時だけでなく、月曜から土曜までのこの世における日々の現実の生活の中で、神様こそが世界の造り主であり支配者であられることを信じて生きることが、主イエスがここで教えておられる信仰なのです。私たちはこのみ言葉からそのことをこそ聞き取らなければなりません。そうすることによって、「皇帝のものは皇帝に」というお言葉の意味もよりはっきりしてくるのです。
神のものと皇帝のもの
この世の全ては神様のものです。神様こそが支配者であられるのです。しかしそのこの世の中に、主イエスは、「皇帝のもの」の存在を許しておられます。この世の権力、政治的支配者による統治を、つまり国家権力を、神に敵対するものとして否定するのではなくて、神様のご支配の中にそれを位置づけ、それらによってこの世の秩序、平和が保たれ、経済活動が支えられ、人々の生活が営まれていくことを認めておられるのです。私たちは、この世の生活において、皇帝のものを皇帝に返しつつ、つまり政治的権力による支配と秩序の維持に協力し、それを築いていく働きを共に担いつつ生きることができるのです。それは、神様を信じ、神様のみ心に従って生きることと矛盾することではありません。私たちはそのことを、神のものを神に返すことの中でしていくことができるのです。この世の権力は、時として神様のみ心に背き逆らうものとなることがあります。主イエスはまさにローマ帝国ユダヤ総督であったポンテオ・ピラトの下で十字架につけられて殺されたのです。この時は失敗した、主イエスを総督に引き渡そうというたくらみは結局成功するのです。しかし、そのことを通して、主イエスの十字架の死による私たちの罪の赦しという救いのみ業が実現しました。神に敵対し、主イエスを抹殺しようとするこの世の権力をも用いて、神様は救いを実現して下さったのです。そのように、この世の全ては、時として信仰者を迫害する国家権力も含めて、神様のものであり、神様のご支配の下にあるのです。私たちはそのことを信じて、それぞれの日々の具体的な生活の中で、神様のものである全てのものを神様にお返しするために、先ずは自分自身を神様にお返ししつつ生きるのです。