「神の国はどこにあるのか」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第93編1-5節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第17章20-21節
・ 讃美歌:14、136、356
神の国が来る
「神の国はいつ来るのか」と問われて主イエスがお答えになったみ言葉を、本日はご一緒に読み、味わいたいと思います。
先ずはこの問いについて考えてみなければなりません。「神の国はいつ来るのか」。それは「神の国が来る」ということを前提として、それが「いつ」なのかを知りたいという問いです。神の国が来ることは、問うた人も問われた主イエスも、当然の前提としてこの問答がなされているのです。しかし私たちは、この前提について先ず考えなければなりません。私たちにおいては、これは当然のことではないからです。 この問いを主イエスに投げかけたのは、ファリサイ派の人々だったと20節にあります。主イエスの弟子たちではなくて、ファリサイ派の人々がこのように問うていることに注目しなければなりません。ファリサイ派は、主イエスを受け入れておらず、むしろ敵対している人々です。16章14節には、主イエスが語られたたとえ話を聞いてファリサイ派の人々があざ笑ったことが語られていました。ファリサイ派はそのように、主イエスに対して基本的に批判的、対立的な姿勢を取っているのです。そのファリサイ派の人々においても、「神の国が来る」ということは当然の前提でした。つまりこれは主イエスの教えに独自なことではなくて、当時のユダヤ人たちが一般的に抱いていた思いであり、期待だったのです。
神の国の「国」という言葉は、「王としての支配」という意味です。ですから「神の国が来る」というのは言い換えれば、「神の王としてのご支配が来る、それが実現する」ということです。ユダヤ人たちはそのことを信じ、期待していたのです。期待する、というのは、現在はまだそれが実現していない、ということです。神様の王としてのご支配は今はまだ実現していない、という現状認識があるのです。それでは今支配しているのは何か、それは人間の力、権力、富などです。ユダヤ人たちの当時の状況から言うならば、主なる神様の民であるはずの自分たちが、神様とは関係のない外国人、彼らが異邦人と呼んで蔑んでいたローマ人によるローマ帝国の圧倒的な軍事力によって征服され、支配されているのです。主なる神様に服していない全く違う力が自分たちを支配し、その圧政の下で苦しんでいる、それがユダヤ人たちの思いでした。しかし主なる神様は、天地の全てをお造りになったただ一人のまことの神です。その神様は、いつまでも敵対する者たちの支配を許しておかれるはずはない。神様がまことの王となり、支配して下さる神の国がいつか必ず実現するはずだ。現在の苦しみの中で、そのように神の国の到来を待ち望む信仰、期待が高まっていたのです。
神の国の徴、前兆
彼らが問うたのは、その神の国が「いつ」来るのかということです。この問いは、神の国が到来し実現するのは何年後なのか、1年後か、10年後か、100年後か、それを知りたい、という問いのように感じられますが、実際にはそういうことよりも、神の国の到来を確信できるしるしは何か、何を見たら、どういうことが起ったら、いよいよ神の国の到来が迫っていると知ることができるのか、ということです。そういう問いは弟子たちも抱いていました。この後の21章7節に弟子たちが主イエスに、「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」と問うたことが語られています。「そのこと」というのは、エルサレムの神殿が破壊されることであり、それがこの世の終わり、そして神の国の到来において起ると彼らは考えたのですが、「そのことはいつ起こるのか」という彼らの問いは、「そのことが起こるときにはどんな徴があるのか」という問いと結びついています。神の国の到来の徴、その前兆となることが何かを知りたい、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたファリサイ派の人々の中にあったのもそういう思いです。そのことは主イエスのお答えからも分かります。主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」とおっしゃいました。それは、神の国そのものが見えるか見えないかということよりも、むしろ目に見える徴によってその到来を知ることができるというものではない、ということです。「ここにある」「あそこにある」と言えるものではないというのも、「ほらここに、神の国の到来を告げる徴がある」「あそこにその前兆が現れている」という話を信じるな、ということなのです。
神の国は人間の思いを超えて
それは裏を返せば、私たちはそういう話を信じたがる、ということです。私たちは、良いことにせよ悪いことにせよ、その徴、前兆を知りたい、という思いを持っているのではないでしょうか。あるいは何かにつけて、このことは何かこれから起ることの徴や前兆ではないか、という思いを持つのではないでしょうか。そこに、私たちの抱く一つの願いが現れていると思います。それは、自分の将来、これから起ることをあらかじめ知りたい、という願いです。将来をはっきりと見通すことなど誰にも出来ません。しかし少しでもその前兆となることを捉えて、備えをしたいと思うのです。そしてさらに言えることは、私たちは、「何月何日にこういうことが起る」とはっきり語る予言よりも、「これこれのことが起ったらそれはこういうことの前兆だ」という話の方をより喜ぶ、ということです。予言は、その時になってみないと当たるのかはずれるのか分からないですが、前兆の話なら、自分でそれを判断して行動することができる、というのが喜ばれる理由でしょう。そこには、自分の将来を自分の手の中に置きたいという私たちの欲望が現れていると言えると思います。神の国の到来においても、こういうことが起ったらいよいよその実現が迫っていると自分で判断できるようになりたい、そのようにして神の国の到来を自分の手の内に置きたいという思いが働いているのです。
主イエスは、ファリサイ派の人々のこのような問いないしは願いに対して、そういう問いや願いは正しくない、とお答えになりました。それが今読んだ、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」というみ言葉です。神の国、神様の王としてのご支配の到来を、目に見える徴、前兆によって捉えることはできない、神の国はそういう仕方で到来するのではない、とおっしゃったのです。それは言い換えれば、神の国、神様のご支配は、人間がそれを自分の手の内に置いて判断したり、予測したりできるものではないし、またそういうことしようとすることはそもそも正しい姿勢ではない、ということです。神様のご支配は、人間が「こういうものだ」と判断したり「このようにして実現する」と言ったりできるものではないのです。そういうことが出来るのはそもそも神様のご支配ではなくて人間の支配です。そういう人間の思いや予測や判断をはるかに超えたところに、神様のご支配は確立するのです。
神の国はあなたがたの間にある
主イエスのお答えの中心は、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というみ言葉です。神の国は、人間の目に見える形で来るのではない、「ここに徴がある」「あそこに前兆がある」と言えるようなものでもない、神の国はあなたがたの間にあるのだ、と主イエスはおっしゃったのです。この「ある」という言葉は現在形、つまり、今現にそこにある、という言葉です。神の国、神様のご支配は、あなたがたの間に、今現にあるのだ、と言っておられるのです。それはどういうことなのでしょうか。
「あなたがたの間に」という言葉の意味を先ず考えなければなりません。ここは以前の口語訳聖書では「あなたがたのただ中にあるのだ」となっていました。さらに昔の文語訳聖書では、「汝らの中(うち)に在るなり」でした。この翻訳の変遷において見えてくることは、この言葉の意味を間違って受け取られる恐れのあった訳が次第に修正されてきた、ということです。つまり、「汝らの中(うち)」という訳ですと、神の国はあなたがたの心の中にある、という意味にとられがちです。昔はそのように理解されており、神の国は目に見える仕方で存在するのではなくて、人間の心の中、内面にある、と理解されてきたのです。「あなたがたのただ中」という口語訳も、同じ意味にとられやすいものですが、しかし「ただ中」という言い方は「内面」とは違う意味にも理解できますので、少し変化が見られます。そして新共同訳において「あなたがたの間に」となったことによって、これは人間の心とか内面を意味しているのではない、ということが明確にされたのです。「神の国はあなたがたの間にある」とは、心の中にあるという意味ではなくて、あなたがたが集っているそのまん中に神の国が現にある、ということなのです。
その「あなたがた」とは誰でしょうか。それは主イエスの弟子たちのことであり、弟子たちが信仰をもって共に集っているそのまん中に神の国があるのだ、と読みたいところです。そう読むならば、主イエスを信じる信仰者の群れである教会のまん中に神の国はある、ということになります。しかしここはそういう意味ではありません。ここで「あなたがた」と言われているのは、弟子たちではなくて、「神の国はいつ来るのか」と問うたファリサイ派の人々です。つまり主イエスを受け入れずに敵対し、あざ笑っているそのファリサイ派の人々のまん中に、神の国は現にある、と主イエスはおっしゃったのです。それはどういうことでしょうか。ファリサイ派の人々のまん中にいったい何があるのでしょうか。
主イエスにおいて実現している神の国
今、ファリサイ派の人々のまん中には主イエスがおられます。彼らの間にいるのは主イエスなのです。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。それは、主イエス・キリストご自身が彼らの間に来ておられることを指して語られているみ言葉です。神様の独り子であられる主イエスが、父なる神様に遣わされて今ここに、この地上に、人々のただ中におられる、そのことによって、神の国が、神様のご支配が、あなたがたの間に実現しているのだ、と主イエスは語っておられるのです。主イエスが来られたことによって神の国が到来している、それは例えばマルコによる福音書の1章14節で、主イエスが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って伝道を開始された、その言葉に示されています。主イエスが来られたことによって、時が満ち、神の国が近づいた、いよいよそれが実現し始めたのです。私たちが今読んでいるルカによる福音書もそのことを語っています。4章16節以下に、お育ちになったナザレの町の会堂で主イエスがお語りになった説教が記されていいますが、そこで主イエスは、貧しい人に福音が告げ知らされ、捕われている人に解放と自由が与えられる主の恵みの年の到来を告げるイザヤ書の言葉を読み、そして「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお語りになりました。神様の恵みのご支配による解放、救いが、つまり神の国が、主イエスの到来と共に実現したと宣言なさったのです。そして主イエスはこの「神の国の福音」を告げ知らせて町々村々を周り、また9章ではこの「神の国」を宣べ伝えさせるために弟子たちを派遣なさったのです。また16章16節には、律法と預言者、つまり旧約聖書の時代は洗礼者ヨハネの時までであり、それ以来、つまり主イエスが現れてからは、「神の国の福音が告げ知らされ」ていると語っておられます。主イエスは、ご自分がこの世に来られたことによって神の国が到来した、という福音を告げ知らせ、その神の国の到来の印として奇跡を行っておられたのです。ですから、主イエスが彼らの間におられることによって、神の国はそこにある、来ているのです。
ファリサイ派の人々はその主イエスに対して、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのです。つまり彼らは、主イエスが現れたことによって神の国が来ているとは思っていないのです。主イエスを、神の国をもたらした方と認めていないのです。それは、主イエスのお姿が、またみ言葉やみ業が、彼らが思い描いている神の国の徴とは違うからです。神の国が「ここにある」「あそこにある」と言えるような徴や前兆はこのイエスのような姿や言葉や業ではない、このようなものは神の国の到来とは言えないしその前兆ですらない、と彼らは思っているのです。その彼らに対して主イエスは、神の国は、あなたがたが思っているような、見える形で来るものではない。こういうことが起れば神の国が「ここにある」「あそこにある」と言える、とあなたがたが思っているような仕方では到来しない。神の国は、今あなたがたの間にいるこの私においてこそ実現しているのだ、と言っておられるのです。
神の国はどこにあるのか
そうすると問題は、神の国、神様のご支配が「いつ」来るのか、実現するのか、という「時」の問題と言うよりも、神様のご支配は「どこにあるのか」、それは誰によって、どのようにして実現するのか、ということであることが見えてきます。私たちが本日のこのみ言葉から聞き取り、また問うていかなければならないのは、神の国、神様の王としてのご支配が「いつ」到来、実現するのか、ということではなくて、それは「どこにあるのか」、神様は誰によって、またどのようにして、私たちを王としてのご支配の下に置いて下さるのか、ということなのです。
主イエスの十字架と復活において
当時のイスラエルの人々が感じていたのと同じように、私たちも、神様のご支配がまだ実現していない、到来していない、と感じずにはおれない現実の中を生きています。私たちの現実、目に見える日々の歩みを支配しているのは、人間の力、権力、富などであり、またこの社会に今渦巻き私たちを捕えている力です。その力の支配の下で、人と人との繋がり、絆が失われ、多くの人が溢れる都会のまん中で一人一人が孤独に陥り、無縁社会と呼ばれるような現象が広がっています。豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はそこから抜け出せないような格差を生む構造の中で、社会の一体感が失われ、人と人との間の平和が失われてきていることが感じられます。誰もが将来への不安、危機感を様々な点において感じつつ、どうすればよいのか分からずにいるのです。そのような中で、神様を信じ、礼拝に集っている私たちは、神の国、神様の王としてのご支配の実現、到来を切に願い、待ち望みます。神の国が来て、神様のご支配が確立すれば、本当の平和が実現し、様々な苦しみや悲しみがぬぐい去られると思い、そのような神の国はいつ来るのかと、待ちきれない思いで問うのです。しかしその私たちに、本日のみ言葉を通して主イエスが語っておられることは、神の国は、つまり神様のご支配は、私たちがこうなればよいと思っているような仕方で到来するのではない、あるいは私たちがこうなることこそが神の国の実現だと考えていることとは全く違う仕方で実現するのだ、ということです。私たちが、この社会の、あるいは自分自身の様々な問題や悩み苦しみの中で、神の国が来たらこの問題が解決する、この悩み苦しみが取り去られる、と期待し、それを待っているなら、神の国はいつまでたっても「まだ来ていない」ものであり続け、「いつになったらそれは実現するのか」と待ちきれない思いで問い続けることになるでしょう。しかし主イエスはここで私たちに、「神の国はあなたがたが考えているそのような形では来ない。神の国は、実は既にあなたがたの間にあるのだ」と語っておられるのです。神の国は既にそこにある。それは、神様の独り子である主イエス・キリストがこの世に来て下さったことによってです。父なる神様に遣わされてこの世に来て下さった主イエスは、神の国の到来の福音を告げ知らせつつこの世を歩み、そして私たちの罪を全て背負って苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さいました。そのことによって、神の国、神様の恵みのご支配が確立したのです。そして父なる神様は、十字架にかかって死んだ主イエスを死の力から解放して復活させ、死を越えて生きる新しい命の先駆けとして下さいました。主イエス・キリストの十字架と復活によって、父なる神様は私たちに、罪の赦しと、新しい命、永遠の命を約束して下さったのです。ここにこそ、神様のご支配の確立があります。神様は、独り子イエス・キリストのご生涯と、その十字架の死と復活によって、神の国を、神様の王としてのご支配を実現して下さったのです。
そのことは私たちが、神の国が来るとはこういうことだ、と思っていること、神のご支配が到来すればこうなるだろうと期待していることとは違います。ですから私たちは、ファリサイ派の人々と同じように、イエスに神の国の到来など認めない、神の国はまだ来ていない、と思ってしまうのです。しかし神様は、そういう私たちの思いとは全く違うみ心によって、神の国をもたらして下さっています。先ほども申しましたが、神の国は、人間が「こういうものだ」と判断したり、「このようにして実現する」と予測できるようなものではないのです。そういうことができるのはそもそも神様のご支配ではなくて人間の支配です。そういう人間の思いや予測や判断をはるかに超えたところに、神様のご支配は確立するのです。そのことが、主イエスの十字架と復活において起ったのです。
神の国は私たちの間に
人間の思いや予測や期待をはるかに超えた神様のご支配が、主イエス・キリストの十字架と復活において実現し、私たちに与えられています。それは神様が、罪人である私たち、神様に背き逆らってばかりおり、また隣人をも愛することができずに傷つけてしまう私たちを、それにもかかわらず愛して下さり、大切に思って下さり、その私たちのために独り子の命をも与えて下さったということです。まことの神である主イエスが、私たちと同じ人間となって、私たちの罪を全て背負って十字架の死刑を受けて下さり、ご自分が死ぬことによって私たちを生かして下さったのです。キリストの十字架によって、神様がこの私の罪を赦し、苦しみや悲しみを背負い、死と滅びを代って引受けて下さるほどに愛して下さっていることが示されているのです。私たちは神様のこの愛のご支配の下に置かれています。それが主イエスによって到来した神の国です。そして主イエスは復活して今も生きておられ、私たちと共にいて下さいます。この礼拝において、私たちのまん中にいて下さり、私があなたがたの間にいるのだから神の国は今ここにあるのだ、と語りかけて下さっているのです。私たちの地上の人生は、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちのように、人間の力、この世の力の圧倒的な支配の下にあり、様々な苦しみや悲しみの現実の中にあります。しかし、主イエス・キリストを信じ、主イエスに結び合わされる洗礼を受け、主イエスの体と血にあずかる聖餐によって養われていく私たちは、目に見える苦しみや悲しみの現実にもかかわらず、既にここに、主イエスによって、神の国、神様の恵みのご支配が確立していることを信じて生きることができるのです。主イエス・キリストはこの世の終わりに、もう一度来て下さり、神様の恵みのご支配を目に見える仕方で完成して下さいます。その時には私たちも主イエスの復活にあずかり永遠の命を生きる者とされるのです。神の国はそこにおいて、目に見える仕方で完成します。罪と死が滅ぼされ、神様の恵みのみが支配する新しい世界が与えられるのです。それまでは、十字架にかかって死に、そして復活して天に昇られた主イエス・キリストが、聖霊のお働きによって、目には見えない仕方で共にいて下さることにおいて、神の国は私たちの間にあるのです。