主日礼拝

戻って来た者

「戻って来た者」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第13章45-46節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第17章11-19節
・ 讃美歌:2、120、464

エルサレムへ上る途中
 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第17章11節以下の冒頭に、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」とあります。ここで私たちは、主イエスが今、エルサレムへと上る旅の途中にあられたことを思い起こされます。この旅のことは、13章22節にも語られていました。そこには「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とあります。主イエスはこの時既にエルサレムに向かって進んでおられるのです。それは何のためだったのでしょうか。13章の少し後の33節で主イエスはこう言っておられます。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。ここに、エルサレムへと向かう理由が示されています。それは預言者として死ぬためです。その死ぬというのは、「殺される」ということです。預言者が、とありますが、預言者は神様のみ言葉を示され、それを人々に語る者です。神様のみ言葉を語れば人々が喜んで聞いてくれるかというとそんなことはありません。神様が預言者を遣わしてみ言葉を伝えようとなさるのは、人々に悔い改めを求めるためです。罪の中にいる人々に悔い改めよと告げ、そのことを通してこそ与えられる救いにあずからせるためです。しかし人間は自分の罪になかなか気付かず、悔い改めようとはしないのです。ですから、み言葉を語る預言者はむしろ人々に嫌われ、憎まれ、そして殺されてしまうことも多々あるのです。神の国の福音を宣べ伝えておられる主イエスにもそのことが起ろうとしています。そのことは、イスラエルの民の首都であり信仰の中心地であるエルサレムにおいてこそ起るべきことであるがゆえに、主イエスは今エルサレムへと向かっておられるのです。そもそもこの旅は9章51節から始まりました。そこには「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。「天に上げられる時期が近づ」いたので、エルサレムへと向かわれたのです。主イエスのエルサレムにおける死は、単なる殉教の死ではありません。十字架にかかって死なれた主イエスは、復活して天に昇ったのです。それは父なる神様によって「天に上げられ」たのであり、それによって私たちのための神様による罪の赦しと、新しい命に生かして下さるという救いのみ業が実現したのです。その十字架と復活による救いのみ業の完成への道を、主イエスは今歩んでおられるのです。

サマリアとガリラヤの間
 このエルサレムへの旅の途中で、サマリアとガリラヤの間を通られた、というのが本日の箇所です。主イエスはガリラヤの町ナザレで育ち、ガリラヤ地方で活動をお始めになりました。そのガリラヤを去って、エルサレムへと向かって旅をなさったのです。聖書の後ろの付録の「新約時代のパレスチナ」という地図を見ていただきたいのですが、ガリラヤは北の方のガリラヤ湖の周辺です。その南にサマリアがあり、その南がユダヤで、エルサレムはそのユダヤの中心です。ですから、ガリラヤからエルサレムへと向かう途中にサマリアとガリラヤの間を通ったというのは自然なことです。しかしこのことは、そういう地理的な必然性を語っているのではなくて、ここで起った出来事との関連で語られているのです。ガリラヤとユダヤに挟まれてサマリアがあるわけですが、このサマリアは特殊な歴史的事情の中にあり、サマリア人は、ユダヤとガリラヤに住むユダヤ人とは敵対し、いがみあっていました。そのことの起源は、紀元前8世紀の、アッシリア帝国による北イスラエル王国の滅亡にまで遡ります。アッシリアは北王国イスラエルを滅ぼすと、その上流階級の人々を捕囚として連れ去り、そして帝国各地から新たな人々を連れてきてそこに住わせたのです。そのことによって、残されたユダヤ人たちと、外から連れて来られた外国人、異邦人との混血の民が生まれました。それがサマリア人です。アッシリアによる滅亡を免れた南ユダ王国のユダヤ人たちにとっては、サマリア人は民族の純粋性を失い、異教の民と混合してしまった人々として、侮蔑の対象となりました。サマリアの北に位置するガリラヤも基本的には同じ歴史を辿ったのですが、そこには後にユダヤ人たちが多く住むようになったために、ユダヤとガリラヤに挟まれたサマリアだけが孤立して独自の歩みをするようになり、エルサレムを中心とするユダヤ人たちと対立していったのです。第10章に語られていた、いわゆる「良いサマリア人のたとえ」は、ユダヤ人とサマリア人の間のこの対立関係を背景としています。「サマリアとガリラヤの間を通られた」というのは、そういう人々の対立のただ中を歩まれたということを意味しているのです。

重い皮膚病
 さてそのサマリアとガリラヤの間において、主イエスがある村に入ると、「重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った」のです。皆さんの中で、ここが「らい病」となっている聖書をお持ちの方もおられるのではないかと思います。以前そのように訳されていました。つまり以前この病気は今日の「ハンセン病」のことだと思われていたのです。しかし聖書に出てくるこの病気とハンセン病は違うことが明らかになってきています。またこの言葉が、日本においても、ハンセン病にかかった人々が差別され、社会から阻害されて大きな苦しみを負わされてきたことをもたらしたものでもあるので、新たに出版されている聖書においては、「重い皮膚病」と訳し変えられています。ですからお持ちの聖書がもし古いままだったら「重い皮膚病」と書き替えておいていただきたいと思います。大事なことは、当時この病気にかかった人は、「汚れた者」と見なされ、一般の人々と共に住むことも、近くに寄ることもできなかったということです。そのことを語っているのが本日共に読まれた旧約聖書の箇所、レビ記第13章45、6節です。この病気にかかった人は、「わたしは汚れた者です」と呼ばわらねばならない、他の人にその汚れが移らないように、常に周囲の人に、「私に近付かないでください」と言わなければならないのです。そして46節にあるように、「独りで宿営の外に住まねばならない」、一般の人々から隔離されて暮らさなければならないというのです。そういう意味でこの病気は当時、体の苦しみのみでなく、精神的にもまことに大きな苦しみをもたらすものだったのです。
 その病気を煩っている人々が、主イエスを出迎えたと語られています。この福音書の5章12節以下に、主イエスがこの病気にかかっていた人を癒したというみ業が語られていました。そのような主イエスの癒しのみ業が伝わっていたのでしょう。主イエスが来られることを知った彼らは、早速癒しを願ってやって来たのです。しかし彼らは「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて」とあります。汚れた者であるがゆえに、主イエスのお傍に行ってお願いすることができないのです。遠くから大声で「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。

二つの癒しの違い
 この人々が主イエスによって病気を癒された、ということがここに語られているのですが、先ほどの5章12節以下の癒しのみ業においては、主イエスは手を差し伸べてその人に触れて「清くなれ」とおっしゃることによって癒しが起りました。主イエスは、触れたら汚れが移ると思われていたので誰も触れようとしなかった病人に手を差し伸べて触れて、癒して下さったのです。そこに主イエスの深い愛と憐れみが示されていたわけですが、しかし本日の箇所においては、それとは全く違ったことがなされています。主イエスは遠くに立っている彼らの所に近寄って行ったわけではありません。遠くにいるままで、主イエスの方も声を張り上げてでしょう、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とおっしゃったのです。つまりここにおいては病人に触れることは全くしておられないのです。そして、そのお言葉によってただちに癒しが実現したのでもありません。彼らは、祭司のところへ行く途中で清くされた、つまり癒されたのです。5章においては、主イエスが手を振れるとたちまち癒されたとありますから、癒されるまでの時間においても大きな違いがあります。同じ「重い皮膚病の癒し」なのに、どうしてこんなに違うのでしょうか。それは、5章の癒しの話とこの話では、見つめていることが違うからです。本日のこの話は、癒して下さった主イエスよりも、癒された病人たちの姿に焦点を当てて語られているのです。この話は何に焦点を当てているのでしょうか。

望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する
 主イエスが「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とおっしゃったことは何を意味しているのでしょうか。先ほどのレビ記13章の箇所の前後を読んでいただくと分かるのですが、この病気は、祭司たちによって「病気である」と判断され、また治った時にも祭司たちによって「治った」と判断されて初めて社会復帰ができる、というものでした。「汚れている」という言葉が表しているように、これは単なる病気と言うよりも、宗教的な汚れと考えられていたのです。だからこの病気になることは「汚れる」と表現され、治ることも「清くなる」と言い表されています。その判断を下すのは、医者ではなくて祭司なのです。ということは主イエスが「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とおっしゃったのは、「祭司たちの所へ行って体を見せ、自分たちが清くなった、癒されたことを判定してもらいなさい」ということです。主イエスのそのお言葉を受けて、彼らは祭司の所へ向かったのです。その途中で癒しが起ったのです。ということは、彼らが祭司の所へ向かったその時にはまだ癒しは起っていなかったということです。彼らは、癒されたという実感もないのに、またこの皮膚病は症状がまさに皮膚に現れるわけですから癒しの目に見える事実がないのに、主イエスのお言葉を聞いてその通りに、癒されたことを判定してもらうために祭司のもとへと向かったのです。これは要するに、まだ起っていない癒しの事実を信じて行動を起した、ということです。それはすばらしい信仰の行為であると言えます。ヘブライ人への手紙の第11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とありますが、彼らはまさにそういう信仰によって歩んだのです。その信仰の歩みの途中で、癒しが起った。彼らは清くされたのです。  ここには、信仰を持って生きるとはどういうことかについての大事な示唆があります。信仰を持って生きるとは、まだ現実においては起っていない、また実感されていない救いを信じて、主イエスのみ言葉のみを頼りとして歩み出すことです。自分の望んでいる救いが与えられたら、あるいはその救いを実感することができたらば信じるというのではなくて、み言葉を信じて、み言葉のみを頼りにして、目に見える現実や実感はなしに一歩を踏み出すのです。救いの事実や実感はその歩みの中でこそ与えられていきます。つまり信仰者となることにおいて、私たちは、自分の実感や目に見える救いの印にこだわっていてはいけないのです。それにこだわっていると、結局信仰は得られないし、信仰に生きることもできません。自分の実感や目に見える事柄よりも、神様のみ言葉に信頼を置き、それにより頼むという決断が信仰においては大切なのです。私たちの実感や、目に見える救いのしるしは後から与えられてくるのです。

戻って来た人
 つまりここに出てくる十人の人々というのは、その十人の全員が、私たちが信仰において模範とすべき人々です。主イエスのみ言葉を信じて、そのみ言葉のみを頼りに、癒されるという前提のもとに祭司のところに向かったのです。そして十人が十人とも、その歩みの途中で癒され、清くされたのです。しかしこの話の中心はその後の15節以下です。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」のです。この人は主イエスのもとに戻って来た、そして「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」のです。「この人はサマリア人だった」と16節が語っています。そして主イエスは「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいました。ここに、「サマリアとガリラヤの間」と語られていたことの意味が示されています。この十人の中には、サマリア人とガリラヤに住むユダヤ人が両方いたのです。主イエスのもとに戻って来た一人だけがサマリア人で、後の九人はユダヤ人だったのかもしれません。あるいは他にもサマリア人がいたのかもしれません。そこは分かりませんが、いずれにしても、ユダヤ人とサマリア人が混在する十人が、主イエスのお言葉を信じて祭司のもとに行く途中で癒されたのです。しかし、主イエスのもとに戻って来て感謝したのは、サマリア人である一人のみだったのです。主イエスは、ご自分の足もとにひれ伏しているこのサマリア人に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。重い皮膚病を癒され、清くされたのは十人でしたが、主イエスから「あなたの信仰があなたを救った、あなたは救われた」というお言葉をいただいたのは、この人一人だけだったのです。

癒しと救いは違う
 この話が私たちに語りかけていることは何でしょうか。それは一つには、癒されることと救われることは違う、ということです。十人の全員が癒され、清くされましたが、救われたのは一人だけだったのです。私たちは、様々な問題や悩みや悲しみ、苦しみをかかえて主イエスのもとに来ます。この礼拝に、そういう問題や悲しみや苦しみへの解決を求めて集っておられる方もいるでしょう。そして私たちはその悩みや苦しみの中で、神様のみ言葉を聞き、それを信じて歩み出します。その信仰の歩みの中で、悩みや苦しみからの解放を与えられます。それは、かかえている問題が解決することかもしれないし、あるいは事情は全然変わっていなくても、以前ほど悩まなくなったり、希望を持って生きることができるようになることかもしれません。信仰をもって生きていく中で、そのような救いを体験することはあるのです。けれどもこの話が教えているのは、それは「救われた」ということとは違うということです。かかえている問題の解決と、救いとは別のことなのです。

あなたの信仰があなたを救った
 それでは、救われるとはどういうことなのでしょうか。そしてその救いを得るためには何が必要なのでしょうか。そのことを、あの一人のサマリア人の姿が教えています。彼は自分が癒され、清くされたことを知った時に、「大声で神を賛美しながら戻って来た」のです。そして「主イエスの足もとにひれ伏して感謝した」のです。主イエスはその人に、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。ここにこそ「救い」がある、またここにこそ「信仰」がある、と主イエスは言っておられるのです。その「救い」とは、また「信仰」とは何なのでしょうか。単純に考えて、それは主イエスに感謝することだ、と言えるでしょう。悩みや苦しみをかかえて主イエスのもとに来て、み言葉によって何らかの解決や苦しみからの解放を与えられる、その時にちゃんと主イエスのもとに戻って来て感謝すること、それが信仰であり、そこにこそ本当の救いがあるとこの話は教えている、そのように理解して間違いではないと思います。けれども、そこでさらに一歩深く考えるべきことがあると思います。あのサマリア人だけが主イエスに感謝するために戻って来た、そのことに示されている他の九人との違いは何か、ということです。彼らは十人とも、祭司のもとに向かっていました。それは、癒された体を見せ、清くされている、というお墨付きをもらうためです。そのことによってのみ、彼らは他の人々との交わりを回復できるし、普通に仕事にも着ける、つまり社会復帰できるのです。主イエスが彼らに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたのはそれによって彼らを社会復帰させるためです。主イエスの癒しのみ業は、人々から隔離され、差別されていた彼らが、この世の中で他の人々と共に普通に暮らしていけるようにして下さる、という意味を持っているのです。けれどもあのサマリア人は、祭司のもとに向かう途中で自分が癒されたことを知った時に、祭司の所に行くのをやめて引き返したのです。彼は祭司のところに行くのではなくて、主イエスのところに戻って来たのです。大声で神を賛美しながら、つまり賛美歌を歌いながらです。そして主イエスの足もとにひれ伏した、それは主イエスを礼拝したということです。彼は、人々との交わりを回復し、社会復帰することよりも、主イエスのもとに来て、礼拝し、神様を賛美することを選んだのです。彼一人が感謝のために戻って来た、というのはそういうことを意味しています。勿論彼もその後で、祭司のところへ行って「清くなった」と判定してもらい、社会復帰したのでしょう。しかし他の九人はそのことを最優先にしたのに対して、彼は、主イエスのもとに戻って来て礼拝することを最優先にしたのです。主イエスが「あなたの信仰」と言っておられるのはそのことです。先ほど申しましたように、彼らは十人とも、主イエスのみ言葉を聞いて、まだ見ていない癒しの恵みを信じて歩み出しました。これほどすばらしい信仰の実践はないと言ってもよいでしょう。み言葉が分かるとか分からないとか、納得出来るとか出来ないとか、理屈ばかりをこねて何も行動できないでいることに比べて、ずっとすばらしい信仰の歩みだと言えます。しかし、主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と言って下さるのは、そういう信仰の実践に対してではないのです。むしろその歩みの途上で、主イエスのもとに戻って来ること、そして神様を賛美し、感謝し、礼拝をすることこそが、私たちを救う信仰なのです。別の言い方をすれば、主イエスの恵みによって自分にはあれができる、このような働きが、奉仕ができる、という自分の信仰の歩み、働きを整えることよりも、主イエスの足もとにひれ伏して礼拝をすることを、最も大事なこととして最優先にすること、つまり主イエスとの交わりを何よりも大切なことと位置づけることにこそ、信仰による救いが与えられるのです。なぜなら主イエスこそ、私たちのためにエルサレムへの道を歩み通して下さり、十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪の赦しを実現して下さった方だからです。そしてさらに、復活して天に昇り、神様が恵みによって与えて下さる、死に勝利する新しい命の先駆けとなって下さったからです。十字架と復活の救い主イエス・キリストこそが、どうしようもなく罪に捕えられており、死の力に支配されている弱く力ない私たちを本当に救って下さるのです。その主イエス・キリストのもとにひれ伏して礼拝することにこそ、私たちの救いはあるのです。この信仰による救いにあずかったのが一人のサマリア人だったことは、この救いにあずかることが人間の側の何の条件にもよらないことを示しています。神様の民としての純粋さを失った者たちとしてユダヤ人から蔑まれ、お前たちの信仰も礼拝も正しくないと批判されていたサマリア人です。しかし主イエスのもとに戻って来て礼拝をささげることによって、彼は信仰による救いにあずかったのです。

立ち上がって、行きなさい
 私たちは今、人生の歩みの途中で、自分の歩みを中断して、主イエスのもとに戻って来て、神様を賛美し、主イエスの足もとにひれ伏す礼拝をささげています。そしてこの礼拝において、み言葉を聞き、そして主イエスが十字架にかかって肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって与えられた救いの恵みを味わう聖餐にあずかろうとしています。み言葉と聖餐によって、主イエス・キリストとの心と体全体における交わりを与えられるのです。この礼拝において主イエスは私たちに、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語りかけて下さいます。私たちはこの礼拝からこそ、立ち上がり、出かけることができるのです。様々な問題をかかえ、苦しみや悲しみを背負った人生の歩みへと、難しい人間関係へと、仕事や家庭において抱えている困難な課題へと、そしてそれぞれに与えられている働きや奉仕へと、主イエスが既に与えて下さっている救いの恵みに支えられて、出かけて行くことができるのです。そのようにして出かけていく私たちの一週間の歩みには、失敗も多く、うまくいかないこともあり、思い取りにならないことが多々あります。しかし私たちはまた来週、この礼拝へと、主イエスのもとへと戻って来て、また新たに、み言葉による癒しと慰めと力づけを与えられることができるのです。主の日の礼拝から派遣され、主の日の礼拝に戻って来る、その歩みの中で、私たちも信仰による救いにあずかっていくのです。

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