主日礼拝

御子が遣わされた

「御子が遣わされた」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第9章1-6節 
・ 新約聖書: ガラテヤの信徒への手紙 第4章4-7節
・ 讃美歌:248、255、256

クリスマスの目的
 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」。ガラテヤの信徒への手紙第4章4節のこのみ言葉は、クリスマスの出来事を語っています。時が満ちて、神様がその御子イエス・キリストを、母マリアから生まれた一人の赤ん坊としてこの世に遣わして下さった、そのことを記念し、喜び祝う時がクリスマスです。そのクリスマスの出来事には、はっきりとした目的があったのだ、ということをこの箇所は語っています。5節「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。神様が御子をこの世に遣わして下さったのは、律法の支配下にある私たちを贖い出して、神の子として下さるためだったのです。私たち人間は皆、もともと律法の支配下に置かれていた、その私たちを救い出すために、神様は御子イエス・キリストを、私たちと同じく律法の下に生まれさせて、この世に遣わして下さったのです。

律法の支配下にある私たち
 しかし、私たちが律法の下にあった、というのはどういうことなのでしょうか。律法の支配下になど置かれていた覚えはない、と私たちは思うのではないでしょうか。律法の支配下にある、ということを大胆に言い換えるならば、能力主義、成果主義に支配されている、と言うことができます。律法というのは要するに掟、戒めです。掟、戒めは、それを守り行うことができるかどうかが問題となります。守れるか守れないかによって試され、評価され、査定される、それが律法の支配下にある者の歩みです。そして、律法を守り行うことができる者は褒められ、評価され、重んじられる、つまり恵みを与えられます。その裏返しとして、律法を守り行うことができない者は、評価されず軽んじられ、恵みを受けることができないことになるのです。それは今この社会において非常に激しくなってきている能力主義、成果主義と重なるものだと言えるでしょう。どれだけ能力があり、どんな成果をあげることができるかで、評価され、査定され、それによって待遇が違ってくる、重んじられて用いられ、地位も上がっていくか、それとも軽んじられ、場合によっては仕事そのものをも失ってしまうことになるか、そういう世界です。律法は神様の掟ですから、それを守り行うというのは勿論神様との関係、信仰の問題です。その信仰の世界にも、世間と同じ能力主義、成果主義が入り込んできて私たちを支配し、神様のみ心をどれだけきちんと行い、よい成果をあげることができるかによって神様の前での自分の価値が決まるかのような思いに捕われている、それが律法の支配下にあるということなのです。

優越感と嫉妬
 律法の支配下では当然、人との比較、比べ合いが起ります。自分は律法をどれだけ守ることができるか、そのことにおいてどれだけ能力があり、成果をあげられるか、それを他の人と比較し、あの人よりは自分の方が力があるとかないとか、自分のあげた成果とあの人のあげた成果と、どちらがより高く評価されるか、ということで一喜一憂することになるのです。そこには人間の感情として、優越感とその裏返しである嫉妬の思いが起こります。優越感は、いわゆる「上から目線」で人を見下す言葉や態度を生むし、嫉妬は憎しみを生みます。どちらにしてもそこからは、人に対する「意地悪」が生まれるのです。律法に支配されているところにはそういう歪んだ、不健全な、お互いが生かし合い支え合うのではなくて、意地悪をしてお互いを傷つけ合ってしまう交わりが生じるのです。
 私たちは皆生まれつき律法の支配下にある、と聖書は教えています。そんな自覚はないと思うかもしれませんが、それが真実なのではないでしょうか。この社会が、特に厳しい経済状況の中で、能力主義、成果主義のはびこるまことにぎすぎすとした、生きにくい社会となっていることの根本には、私たち一人一人が基本的に律法の支配下にあり、いつも何らかの基準でお互いがお互いを評価し、査定し、お互いの間に優劣をつけながら生きているということがあるのではないでしょうか。

奴隷状態からの解放
 本日の箇所の最後の7節には、「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です」とあります。神様が御子を遣わして下さったことによって、あなたはもはや奴隷ではなくなり、子とされている、律法の支配下にあった者が贖い出されて神の子とされたというのはそういうことだと語られているのです。つまり律法の支配下にあった時、私たちは奴隷だったということです。そうではないでしょうか。私たちは、社会での生活においても、能力主義、成果主義によって自分を評価、査定する力の奴隷とされています。そして神様との関係、信仰においても、同じ能力主義、成果主義に陥り、お互いどうしを評価し、査定し、優劣をつけ、優越感を覚えたり劣等感に苦しんだりしています。それは奴隷のように不自由な、喜びのない、自分らしく生き生きと生きることができない生活です。そして私たちは時として、神様を信じて生きることはそもそも奴隷のように不自由な生活をすることだと思っていたりします。そういう不自由さに耐えて神様に従うことによって救いを得ることができるのだと思っているのです。しかしそのような感覚は、私たちの信仰がまさに律法の支配下に置かれ、苦しい修行に耐えた者のみが救いを得ることができる、という能力主義、成果主義に陥っていることの現れです。そのような息苦しい不自由な信仰、能力主義や成果主義によって優越感と劣等感の間を行ったり来たりするような信仰生活から私たちを解放して下さるために、神様は御子イエス・キリストを遣わして下さったのです。クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストは、私たちを奴隷のような信仰から解放して下さり、神の子として生きる信仰を与えて下さるのです。

神の無条件の愛
 神の子として生きる信仰、それは神様がこの私を無条件で愛して下さっていることを信じて生きる信仰です。律法の下では、律法を守り行うことができる者が愛され、それができない者は愛される資格がない、ということになるのです。それはまさに奴隷の価値は主人の役に立つかどうかで決まるというのと同じです。しかし子とされたということは、どれだけ役に立つかとは関係なく、神様が愛して下さるということです。親は子供を、どれだけ能力があるから、役に立つから愛するのではありません。どんなに出来が悪くても、自分の子どもはかわいいものです。そういう親の無条件の愛の下でこそ子供は健全に育つことができるし、能力を開花させることができます。私たちが神の子とされたというのは、神様が私たちをご自身のそういう愛の下に置いて下さったということです。そのために神様は御子を遣わして下さったのです。生まれつきの私たちは皆、神様に造られ、生かされ、導かれている者でありながら、神様のことを大切にせず、従おうとせず、そっぽを向いて神様に敵対し、自分が主人となって歩もうとしています。それが私たちの罪です。その罪の中にいる私たちは、自分を第一とするために、他の人のことを思いやることができずに傷つけてしまいます。神様に対しても隣人に対しても、私たちはそのように罪を重ねているのです。そういう罪人である私たちを赦し、救って下さるために、神様は独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、御子主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって私たちを、神様の無条件の愛の下に生きる神の子として下さったのです。この神様の無条件の愛の中で私たちは、能力主義、成果主義から解放され、優越感や劣等感から解き放たれ、生き生きと、のびのびと、神の子として生きることができるのです。クリスマスに神様が御子を遣わして下さったことの目的はそこにあったのです。

アッバ、父よ
 6節には、「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」とあります。神の子とされた私たちは、御子主イエスと共に、神様に「アッバ、父よ」と呼びかけて祈ることができるのです。「アッバ、父よ」というのは、主イエスが父なる神様に呼びかけ、祈っておられた言葉です。「アッバ」は子供が父親を親しみをこめて呼ぶ言葉です。主イエスは神様に、「お父さん」と親しく、信頼をこめて呼びかけ、祈っておられました。十字架にかけられる直前のゲツセマネの祈りにおいても、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られたのです。喜びにおいても悲しみにおいても、与えられた使命を果たすために苦しみを引き受けねばならない時にも、神様を信頼して「アッバ、父よ」と祈り、父である神様のみ心に従っていく、それが御子主イエスの祈りでした。私たちも神の子とされて、そのような祈りに生きる者となるのです。そういう祈りをするように努力しましょう、ということではありません。そこでも私たちはすぐに能力主義、成果主義に陥りそうになります。そのような祈りを私たちに与えてくれるのは、御子の霊です。御子イエス・キリストがご自分の霊を私たちの心に送って下さることによって、私たちは「アッバ、父よ」と祈りつつ生きる者とされるのです。本日この礼拝において、四名の方々が信仰を告白して洗礼を受けます。神様は、この四名の方々それぞれの心に、御子の霊を送り、神様に向かって「アッバ、父よ」という祈りの声をあげることができる者として下さるのです。喜びにおいても悲しみにおいても、人生の分かれ道において大きな決断を迫られる時にも、また苦しみを背負って歩まなければならない時にも、どのような時にも「父なる神さま」と呼んで祈り、自分を愛して下さっている父である神様の導きを求め、いただきつつ生きることができることこそが、洗礼を受け、主イエス・キリストを信じる信仰者となった者の、つまり神の子とされて生きる者の、他では得ることのできない幸いなのです。

相続人としての希望
 7節の後半にも、神の子とされた者の幸いが語られています。「子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」とあります。相続人というのは、遺産を相続することを約束されている人、ということです。その遺産はまだ与えられてはいません。でも、いつか必ずそれを受け継ぐことができるのです。つまりこれは、今ではなくて将来に向けての希望を見つめている言葉です。神の子とされた信仰者は、将来必ず実現する救いの完成を希望をもって待ち望む者とされているのです。その救いの完成は、使徒信条の言葉で言えば、「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命」です。肉体をもってこの世を生きている私たちにはいろいろな苦しみや悲しみがあります。その苦しみ悲しみは、人間の罪によって生じることもあるし、病いや老いや死が私たちを脅かすこともあります。「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命」は、神様の恵みが、それらの苦しみや悲しみに最終的に勝利するということです。私たちにそのことを約束して下さるために、御子主イエスは私たち罪人の代表となって十字架にかかって死んで下さり、私たちの先駆けとして復活して永遠の命を生きる者となって下さったのです。

神の子とされて生きる幸い
 神様の無条件の愛の中で、能力主義や成果主義による優越感や劣等感から解放されて、「アッバ、父よ」と祈りつつ、約束されている救いの完成を待ち望みつつ生きる。神の子として生きるこの恵みを私たちに与えるために、神様は御子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そのことを祝うこのクリスマス、新たに洗礼を受ける方々と共に、神の子とされて生きる幸いをかみしめたいと思います。

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