主日礼拝

目標を目指してひたすら走る

「目標を目指してひたすら走る」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第105編1-6節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第3章12-16節
・ 讃美歌:55、521、538

<信仰のスタートライン>
 伝道者のパウロは言います。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。」

 洗礼を受けるかどうか迷っている方からよく、「わたしはまだ十分に聖書を理解していないから」とか、「もっと真面目に教会に来て、信仰をちゃんとしてからにします」とか、そのような声をよく聞きます。そんな時に、牧師や、教会の人が、こんな風に言っているのも、よく聞きます。わたしも言ったことがありますが、「聖書を完全に理解しないと洗礼を受けられないなら、世の中のだれ一人受けられないと思います。イエス様が自分の救い主だと信じたから、洗礼を受けるんです。洗礼を受けてからが、信仰の歩みのスタートです。」
 また、信仰生活を長くしている方も「わたしは聖書のことが何もわかっていなくて恥ずかしい」「信仰のことがまだちゃんと理解できていない」、そんな風に仰ることがあります。
 でも、今日のフィリピの信徒への手紙では、キリストの福音を世界に宣べ伝え、新約聖書に納められている書簡を多く残したパウロでさえ、キリストのこと、救いの恵みの事柄を、「何とか捕えようと努めているのです」と語っています。だれも信仰において、完全な者になっているのではないし、完全になることはできません。また、神の御子であるキリストを完全に捕える、救いの奥義を自分のものにする、というのは、わたしたちには不可能なことです。

 わたしたちは、自分が何かキリスト教の真理を掴み取ったからとか、救いについて腑に落ちて、完全に理解できたから、信仰を得るのではありません。
わたしたちがキリストを信じることが出来るのは、「キリスト・イエスに捕えられた」からです。聖書のみ言葉を聞いて、詳しいことは分からないけれど、このイエス・キリストという方が、わたしを救って下さる方だ。この方のもとに助けがある、救いがある、慰めがある。み言葉を聞いて、キリストの十字架と復活の救いのみ業が、他でもない自分のためであった、と知るのです。わたしたちが「キリストを知る」という時、それは知識や情報ではなくて、「キリストと出会う」ということです。そして、そのキリストとの出会いには聖霊なる神様が働いて下さっており、キリストと結ばれて共に歩んで行く、キリストの恵みをより深く知っていく、そんな信仰の歩みをスタートさせて下さるのです。

 信仰のスタートラインに立ったら、そこから足を踏み出して行きます。洗礼を受ける、主イエスをわたしの救い主であると信じる、ということは、自分の人生の歩むべき道、走るべきレーンをはっきりと示されるということでしょう。
スタートを切って走り出すからには、明確な目標、ゴールがあるのです。今日の箇所で、パウロは信仰の歩みを、「賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」と、競技のように表現していますが、これは信仰が誰かと競争する歩みで、勝ち残らないと賞がもらえない、と言っているのではありません。わたしたちの信仰の歩みには、はっきりと目指すべき目標があって、競技選手のように、その目標、ゴールから目を逸らさずに、ただひたすらそこに向かって、精一杯全力で走る。キリスト者はそのような信仰の歩みをしていく、ということなのです。

<完全になれない地上の歩み>
さて、パウロが12節で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」と語ったのは、この手紙の宛先であるフィリピの教会の中で「キリストの救いにあずかったから、わたしはもうすべてを得て、既に完全な者となった」と主張した人々がいたようなのです。
「既にそれを得た」の「それ」というのは、直前の8~11節にあるところの、「キリスト」のこと、「復活」のことだと言っても良いでしょう。とにかく、救いによって与えられるキリストの恵みや約束、すべてのことを、自分は既に得ていて、完全な者になっているのだ、と言う者がいました。当時のヘレニズムの宗教の中では、ある神の知識を持ち、力を与えられた人を「完全な人」と言っていたそうなのです。その影響かも知れません。

しかし、パウロは、自分はキリストに与えられた救いの確信はしっかり持っているけれど、今、自分が既にすべてを得ているというのではない。完全な者ではない。主イエスが成し遂げて下さった救いのみ業は完全で、罪の赦し、新しい命を与えられたけれど、自分たちの地上の歩みは、いまだ、完成の途上にあって、神が終わりの日に、復活させて下さり、神のご支配を完成させて下さるのを待っている。それを得たい、捕えたいと願って努めているのだ、と反論しているのです。

もし、この一部の者が主張するように、キリストに救われたと信じたと同時に、すべてを得て完全な者になり、救いの恵みも、復活も、もうすでに手に入れているのだ、と主張するなら、わたしは却って、絶望しなければならなくなると思います。完全にされているのに、この目の前の現実、自分の弱さ、思い煩い、憎しみ、争い、体を苦しめる病… わたしたちの目には、苦しく、心が苛まれるような現実が溢れていて、悪魔の誘惑はいつも側にあって、そのことに揺らいだり、不安を覚えたり、時に神に怒りをぶつけるような、そんな信仰の歩みをしているのではないかと思うのです。救われたのだから、今の状態でもう完全なのだと言われたら、決して完全ではない自分の姿に幻滅し、これから先に何の希望も持てないと思うのです。
わたしたちは、救われたからといって、完全な者になったのではありません。わたしたちは、「赦された罪人」なのです。救われていながら、なお、罪を犯してしまうような者なのです。ですからわたしたちは、日々悔い改めて、罪から離れたいと願い、神に赦しを求めて祈らなければなりません。わたしたちは、聖霊の導きによって、キリストに似た者へと変えられ、成長させられていくことを願い、信じていますし、実際にそのように導かれていきますが、この地上の歩みにおいて、決して完全な者になることはできないのです。

しかし、わたしたちには希望が与えられています。それは、すでに主イエスに罪を赦された者として、神との交わりの中で、神と共に地上を歩むことが許されているということ。そして終わりの日には、主イエスが再び来られて、神が、救いを完成させて下さるということです。わたしたちにも復活の体が与えられ、主イエスとこの目でまみえ、兄弟姉妹と共に、世々の聖徒と共に、天の主イエスの祝宴に連なる、そのような恵みが神によって約束されているということです。ですから、わたしたちは神の国の完成を、復活の日を待ち望みます。これこそ、わたしたちが目を逸らさずに全力で求めて向かって行く目標であり、希望なのです。

わたしたちの人生の目標は、何かを成し遂げたり、歴史に名を残したり、お金持ちになったり、安心な暮らしを手に入れることではありません。わたしたちが自分で立てる人生の目標というものは、達成できないこともあるし、挫折したり、失ったり、奪われたりすることもあります。達成したとしても、また次の目標を探さなければなりません。目標を失った人生は、生きる気力を失わせてしまうでしょう。人は、人生の歩むべき方向、目標を探して、人それぞれに、ずっとあちこちをウロウロしているのではないでしょうか。

しかし、キリストに捕えられたなら、なすべきことはただ一つ。明確な一つの向かうべき方向、目標が示されます。ただここだけを目指して行くのです。それはこの世の中に、わたしたちの人生の中に納まってしまう目標ではありません。まだ捕えていない、得ていない、神の国、復活の恵みを目標として、ゴールを目指して、スタートを切り、走り出すことが出来るのです。

<後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けて>
そして、パウロはどのように走るかについて、このように言っています。13節の後半からですが、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。

パウロは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」走るのだ、と言っています。後ろのものとは、キリストに捕えられる以前のこと、罪に捕らわれていた時のことでしょう。このことを忘れて、前のものに全身を向けるのだ、前を見るのだ、と言うのです。
パウロのことを考えてみましょう。パウロは、かつてはキリストの教会を迫害し、キリストを信じる者を牢へ捕え、また殺すことにも加担していました。神に逆らい、また隣人も傷つける、大変な罪です。パウロにとって、自分の罪は、恐らく思い出すのも身悶えするような、暗く、恥ずかしく、心が抉られるようなものだったでしょう。また、そのような罪こそ、パウロ自身、実際には、ひと時たりとも忘れたことはなかったのではないかと思うのです。

しかしパウロは、主イエスと出会い、悔い改め、キリストを信じる者になりました。この罪に捕えられていたパウロを、キリストがご自分の十字架の死によって、肉を裂き、血を流すことによって、罪から解放して下さったのです。キリストが、ご自分の命をパウロのために与えて下さり、罪の赦しを与えて下さったのです。そのようにして、キリストがご自分の手でパウロを捕えて下さった。パウロにご自分の命を与え、パウロを新しくして下さった。そして、迫害者パウロではなく、神の僕、伝道者パウロとして召し出し、パウロの走るべき道を備え、神の国に向かって走れるようにして下さったのです。

パウロはもう、罪に捕えられていません。キリスト・イエスに捕えられているからです。だから、自分の思いに、罪に従っていた、その後ろのものを忘れ、主イエスに向かって、前のものに全身を向けて走ることが出来るのです。「前のものに全身を向ける」というのは変わった日本語かも知れませんが、他の訳では「前のものに向かって体を伸ばしつつ」というのもあり、とにかく、前を見て、目標に向かって前のめりになって走っていく、ということなのだと思います。はやくゴールに辿り着きたくて、神の恵みをもっと得たくて、持てる力の全力を出して走る、必死に神に近付いていく、そんなパウロの思いが伝わってきます。
そのようにして、「目標を目指してひたすら走る」と言っているのです。

<賞を得る>
そしてパウロは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために」走る、と言っています。この時代は、競技の勝利者にはオリーブの冠が与えられました。しかし、わたしたちが頂く賞は、わたしたちが自分の力で勝ち取ったり、誰かを蹴落として得るような賞ではありません。これは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」です。キリストが戦って勝利して下さった、キリストが罪を滅ぼし、死に打ち勝って下さった、その勝利の冠を、復活の主の冠を、わたしたちに与えて下さるのです。

これは、神が、キリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞です。わたしたちは、キリスト・イエスによって、上へ召されているのです。上とは、神のご支配のあるところ、神の国、天です。復活のキリストが支配しておられるところです。そして、終わりの日、キリストが再び来られる日、わたしたちは、主イエスの勝利の冠をいただいて、復活にあずかり、神の国に入るようにと招かれているのです。キリストによって神の子とされたわたしたちの名前を、神が呼んで下さり、天の祝宴で一人一人の席を用意し、待っていて下さる。その約束に期待して、憧れて、わたしたちは招いて下さる神の方へ向かって、神の国を目指して、走っているのです。

毎週の礼拝で、わたしたちは神の御声を聞き、神の招きを聞き、神の国に向かって走っているのだ、ということを確かにされます。
また毎月あずかる聖餐は、主イエスが来られる時まで、わたしたちにその恵みを確かにして下さる、具体的なしるしです。これは神の国の祝宴の先取りとも言われます。わたしたちは地上にいながら、聖霊のお働きによって、パンと杯のしるしを通して、キリストの十字架によって神の子とされ、天の食卓に招かれていること、すでに天におられるキリストとの交わりの中に入れられていることを味わい知り、終わりの日の約束を確かにされ、信仰を強められるのです。

<ひたすら走るとはどういうことか>
しかしそれでも、このように思う方があるかも知れません。わたしは、そのような信仰の歩みの中にいるとして、ゴールまで走り通すことが出来るだろうか。精一杯走りたい、目指す目標にたどり着きたいと願っているけれど、転んだり、中々前に進まなかったり、倒れてしまったらどうしようか。様々な事情を抱えていたり、また体が弱くなって、奉仕が十分にできない。礼拝さえ、思うように守ることが出来ない。そのような方もおられるでしょう。こんな信仰の歩みで、自分がパウロのように全力で前のめりに走っているとは思えない。そのように感じることがあるかも知れません。

しかし、先ほどから申し上げているように、これは競技にたとえられていますが、決して誰かと比べたり、勝ち負けを決めることではありません。また、頑張って走りきったご褒美に、神の国に入れてあげよう、復活の恵みをあげよう、でも走れなかったら、賞はもらえないよ、ということではないのです。

わたしたちは、もうキリストに捕えられているのです。すべてに勝利し、天も地も支配しておられるキリストに捕えられている。キリストに結ばれているのです。わたしたちが不完全な者で、歩みがおぼつかなくても、よろめいても、弱々しくても、キリストの御手は力強く、確かなのです。キリストの御手はわたしたちを決して離しません。自分が弱いと感じる時こそ、不安を覚え、苦しみを覚える時にこそ、ますますこの御手に頼り、すがっていくのです。
わたしたちが、信仰において、前のめりになって、全速力で走る、というのは、捕らえて下さり、愛して下さったキリストに、わたしたちがますます頼り、恵みを求め、近付きたいと願うことでしょう。わたしたちも、神の愛を受けて、ますます神を愛し、信頼を増し、与えられた交わりを深められていくということでしょう。
そのようにして、弱い自分をもっと神に委ねること。もっと恵みを求め、神と共に生きる喜びをもっと深く味わいたいと願うこと。そして、神の国と復活の約束への希望を、ますます募らせて、祈り求めていくこと。それが、わたしたちが前のものに全身を向けてひたすら走る、そのような信仰の歩みなのではないでしょうか。

 15節でパウロは、「わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と語っています。この「完全」という言葉は、「成熟する」という意味もあるのですが、最初にお話ししたように、自分たちが信仰においてすべてを得た「完全な者だ」と主張した人々に対して、パウロは、本当の意味で完全な者、つまり本当に信仰に成熟した者なら、自分が完全な者ではないと知り、既にすべてを得ている、捕らえているとは考えないで、将来与えられる、キリストによる復活の約束、救いの完成を求めて、ひたすら走ることを考えるべきではないか、と言っているのです。

<目標を目指してひたすら走る>
 さて、パウロは、以前にお読みした1:21以下で「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と語っていました。
パウロはキリストに憧れ、熱望するあまりに、この世を去りたいくらいだ、と言うのです。しかし、肉において生き続ければ、実り多い働きができる。神が、救いのご計画を進めて行かれるために、パウロを選び、パウロのために地上で与えてくださった務めがある。神がパウロに望んでおられ、喜んで下さる働きがある、と言っているのです。

神をますます愛していくなら、神の国を求めていくなら、神の望んでおられることに応えたい、神の求めておられることをしたい、という思いに促されていくでしょう。神の国は、神が来らせて下さるもの、神が完成させて下さるものです。しかしだからといって、わたしたちは何もせずにいて良いのでしょうか。そんなことはありません。神の呼びかけに答え、神のなさることのために喜んで自分を献げていく。そのような神との応答関係の中でこそ、交わりの中でこそ、わたしたちの信仰は活き活きとして、強められ、神への信頼を増し、感謝と喜びに満ちたものとなるのです。

わたしたち一人一人にも、神が与えて下さった、神が喜んで下さる、神が望んでおられる、地上の歩み、働きがあります。キリストの救いへの招きを一人でも多くの者に伝えるために、神がわたしたちを用いたいと仰って下さるのです。具体的な教会の奉仕という働きもあります。教会のために、兄弟姉妹のために祈るという、目に見えない大切な働きもあります。また、わたしたちの日々の生活や、行いや思いが、全身で神の方へと向かっているなら、神に自分を献げ、キリストとの交わりに生きているなら、わたしたちはその姿において、キリストの恵みを隣人に証しするものとされるでしょう。体が弱くても、具体的に働くことができなくても、困難や苦しみの中にあっても、自分がキリストに捕えられていることを知っており、神の国を求めて祈り、神に依り頼んでいるなら、そこにはキリストが共にいて下さり、その周囲にはキリストの香りが満ちていると思うのです。

わたしたちは、将来、主イエスが再び来られる日、神の国の完成と復活の約束を待ち望みながら、心から憧れ、願い求めながら、今、神から与えられている地上の務めや働きを、置かれている場所での今日一日の歩みを、神に喜ばれるものとして、神のために、大切に歩んでいきたい。そのようにして、神を愛し、神に依り頼みながら、目標に向かってひたすら走っていきたいのです。

キリストに捕らえられたわたしたちが「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。

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