主日礼拝

富の用い方

「富の用い方」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 歴代誌上 第29章10-20節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第16章1-13節
・ 讃美歌:257、183、441

新年を迎えて
 新しい年、主の2011年を迎えました。新年最初の主の日、私たちはこうして神様のみ前に出て礼拝をささげ、新たな思いをもって一年を歩み始めようとしています。いろいろと困難なことの多いこの世の中において、この一年どのように生きていったらよいのか、その指針を与えられたいという願いをもってこの礼拝に集っているとも言えるでしょう。本日は、ルカによる福音書の第16章1節以下をご一緒に読みます。礼拝においてルカ福音書を連続して読んできて、ちょうどここにさしかかったのです。本日のこの箇所には、私たちが年頭に当って心に刻んでおくのに相応しい、諺のような言葉がいくつか見られます。10節には、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」とあります。これなどは信仰を抜きにしても、年頭に当って心すべき言葉であると言えるでしょう。また最後の13節には「二人の主人に仕えることはできない」とあり、「神と富とに仕えることはできない」としめくくられています。今年の最初の礼拝においてこの言葉が与えられたことは意味深いことです。今年度の私たちの教会の主題は、「福音の喜びに生き、主に仕える教会」です。この主題の後半の「主に仕える」ということについて、今月末に教会全体研修会を行ないます。信仰とは、主に仕えて生きることです。この世の富にではなく、主なる神様にこそ仕えて生きる信仰に生きることを、この年頭に改めて確認したいのです。

不正な管理人のたとえ
 そのようにこの箇所には、私たちの指針となるような大事な言葉がいくつか語られているのですが、しかしこの箇所は、主イエスが語られた教えの中で、あるいは聖書全体の中で、最も分かりにくい、つまずきに満ちた箇所でもあります。小見出しにあるようにここには、「不正な管理人のたとえ」と呼ばれているたとえ話が語られています。これは面白い話ですが、どう理解したらよいのか、なかなか難しい、分かりにくい話でもあります。
 主人の財産を無駄遣いしている管理人がいました。そのことがばれて、主人の監査を受けることになったのです。このままでは首になって路頭に迷うことになる、そこで彼は必死に知恵を働かせ、自分に残された最後の時間を有効に用いて将来に備えました。主人に借りのある人たちを集めて、管理人としての職務権限を行使して、借金の証文を書き換えさせてやったのです。油百バトスを借りている者には五十バトスに、小麦百コロスを借りている人には八十コロスに減額してやりました。一説によればここで減額されたのはどちらも同じぐらいの金額で、五百デナリオンに当るようです。それは普通の人の五百日分の賃金に当る、相当な額であす。そうすることによって彼は、主人のもとを追い出されても自分を恩人として迎えてくれる人を得たのです。これは大変な不正です。彼はもともと不正な管理人でしたが、最後にもう一つの不正を重ね、主人に損をさせることによって自分の身を守ったのです。ところが大変不思議なことに、主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた、と8節にあります。ただここは、「主人は」ではなくて「主は」と訳した方がよい、ということも言われています。つまりこの不正な管理人をほめたのは主イエスなのだ、という読み方です。8節後半以降を読めば明らかに、主イエスはこの不正な管理人を倣うべき模範として語っておられます。そのように読めば、主人が自分に損害を与えた管理人をほめたという不自然さは解消されます。しかしこの話にはそれで解消されないもっと根本的な問いがあります。主イエスはなぜこのような不正な管理人をほめ、この人を模範とせよと語られたのだろうか、このような不正行為を是認し、むしろ推奨しておられるのだろうか、という疑問です。そこにこの話のもたらす大きなつまずきがあるわけです。

この世の子らと光の子ら
 主イエスはなぜこの不正な管理人をほめたのか、その理由が8節後半の「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」において語られています。「この世の子ら」と「光の子ら」とが区別されていますが、「光の子ら」とは主イエスを信じ従っている信仰者たちのことであり、「この世の子ら」とは信仰を持っていない人々のことです。このたとえ話は光の子らである弟子たちに対して語られています。1節の始めに「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」とあることからそれが分かります。その前の15章の三つのたとえ話は、ファリサイ派や律法学者たちを相手として語られていました。勿論弟子たちもそこにいてその話を聞いていましたが、16章は今度は、その弟子たちに焦点を合わせて語られているのです。主イエスは弟子たちに、この世の子らが光の子らである自分たちよりも「賢くふるまっている」ことを見つめさせようとしておられます。その「賢さ」とは、「抜け目のない」という言葉が表しているように、置かれた状況への対処の仕方が的確で有効だということです。「自分の仲間に対して」と訳されている言葉は直訳すれば「自分自身のものに対して」となります。仲間である人々に対して、ということのみが語られているのではないのです。つまり主イエスはここで「神を信じていないこの世の子らは、自分自身のもの、つまりこの世の事柄に対して、あなたがた信仰者よりも賢く対処している、的確な状況判断に基づいて有効に行動している。あなたがたもその賢さに倣いなさい」と言っておられるのです。ですから私たちはこのたとえを、主イエスが背任横領や私文書偽造を奨励しておられると読むべきではないし、そんな必要もありません。不正な管理人は、この世の子らがこの世の事柄に対して賢くふるまっている、その代表として語られているのです。

自分自身のもの
 しかし主イエスが弟子たちに、この世の子らの賢さ見倣うようにと教えられたのは、弟子たちもこの世のことについて賢くなるように、いわゆる世事に疎くあってはならない、ということではありません。そうではなくて、この世の子らが、自分自身のもの、つまりこの世の事柄に対して賢く熱心であることに倣って、光の子であるあなたがたも、自分自身のものに対して賢く熱心であれ、と言っておられるのです。光の子である弟子たちにとっての自分自身のものとは何でしょうか。それは主イエスによってもたらされたまことの光です。救い主イエスによって、神の国、神様の恵みのご支配が実現しようとしている、という事実です。その光をしっかりと見つめ、その光に照らされた者として生きることにこそ賢く熱心であれ、と主イエスは語っておられるのです。光の子とされた信仰者が賢く熱心であるべきなのは、この世の事柄ではなくて、主イエスのこと、主イエスによる救いのこと、神様との関係のことについてなのです。

熱心に、周到に、適切に
 この世を生きる経験が私たちに教えてくれるのは、状況の判断が決定的に大事だということです。自分が、自分の仕事が、あるいは自分の勤めている会社なら会社が、あるいは世の中全体が、今どのようになっており、どこに向かっていこうとしているのか、それを的確につかむことができなければ失敗するのです。またその状況の中で、自分がとり得るあらゆる可能性を吟味して、最も適切な、そして有効な行動を取らなければ、願っている事は成っていかないのです。この不正な管理人はまさにそのように、自分の置かれた状況を冷静に判断し、このままではどうなるかということをしっかり見つめ、自分に今何ができるかを吟味して、将来に対して最も有効な備えをしたのです。主イエスの弟子として、光の子として歩もうとしている私たちは、それと同じ熱心さ、周到さ、適切さをもって、信仰の事柄に取り組んでいるでしょうか。神様と自分との関係が今どうなっているのかを捉え、主イエスによってもたらされた救いを見つめ、その救いにあずかるために今なすべきことをしっかりとしているでしょうか。私たちももともとはこの世の子であって、この世の事柄については熱心、周到であり、賢さを発揮します。しかし信仰を与えられ、主イエスの光に照らされて光の子とされた、その光について、つまり神様のこと、救いのことについては、全くのんびりしており、見つめるべきものを見つめていない、なすべきことをしていない、熱心さも周到さもなく、要するに賢く生きていない、それが私たちの姿なのではないでしょうか。そのような私たちのために、このたとえ話は語られているのです。

時をしっかり捉えて
 神様のみ言葉によって信仰の目を見開いて自分を見つめるならば、私たちは実にこの管理人と同じ状況に置かれています。つまり私たちは、神様の与えて下さった財産を無駄遣いしており、その会計報告を提出しなければならない時が迫っているのです。主イエスがこの世に来られたことによって、その時は決定的にさし迫っています。勘違いをしてはなりません。救い主イエスが来られたからもう安心だ、ということではないのです。「神の国は近づいた」というのは、神様のみ前で会計報告をしなければならない時が近づいた、ということでもあるのです。クリスマスに、救い主である主イエスが来られたゆえに、私たちの危機はさし迫っているとも言えるのです。この世に来られた救い主と自分との関係、交わりはどうなっているのかが今や決定的に問われているからです。この状況をしっかりと捉えて、それに適切に対処しなければ、救い主は来られたが私とは何の関係もない、ということになってしまうのです。私たちはこの危機の中で、神様によって教会へと招かれ、主イエスの救いの光に照らされ、光の子として歩みなさいとの招きを受けています。この時をしっかりと捉えて、主イエス・キリストとの交わりを確立するために最善を尽すことが私たちに求められているのです。

不正にまみれた富
 さてこのたとえ話に続く9節以下には、富をどのように用いるかということについての教えが語られています。9節に「不正にまみれた富」という言葉があります。私たちは普通これを「不正な手段で得た富」と理解します。ですからそれとは別に、「不正にまみれていない、正当に得られた富」もあるように思うのです。しかし、主イエスはこの言葉によって、富の中に不正なものと正当なものとがある、と言っておられるのではありません。たとえば11節には「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」とあります。ここで「不正にまみれた富」と対比されているのは、「正当な富」ではなくて、「本当に価値あるもの」です。また13節には「神と富とに仕えることはできない」とあるわけで、ここに語られていることの中心は、不正な富か正当な富かということにあるのではなくて、あなたがたは神に仕えて生きるのか、それとも富に仕えて生きるのか、神に仕えて生きることによってこそ、本当に価値あるものを任せられて生きることができるのだ、ということなのです。

富の用い方を間違うとは
 この「富」という言葉は、原語では「マモン」です。その元になっているのは、「人が頼みとするもの」「信頼できるもの」といった意味の言葉です。つまりこの言葉はいわゆる富、財産のみを意味するのではなくて、私たちがそれを頼みとして人生を営んでいるもの、つまり「人生の元手」となるものの全てを含んでいると考えることができます。私たちはいろいろなものを元手として生きています。第一にこの体が元手です。さらに持って生まれた才能、力、学んで身に着けた教養や知識、訓練によって培った技術や資格などのすべてがこの「富」という言葉の中に含まれています。この富は、それ自体が決して「不正」なものではありません。むしろそれらは神様が私たちそれぞれに、それぞれの人生を生きるために恵みによって与えて下さったものです。本日のたとえ話で言えば、主人がこの管理人を信頼して預けた財産です。しかしそれを預けられた私たちが、その用い方を間違ってしまう時に、それは「不正な」ものとなってしまうのです。富の用い方を間違えるというのは、それらの全てが神様によって与えられたものであることを忘れて、神様に従い仕えることの中でそれらを用いるのでなくて、自分の喜びや楽しみのためにのみ用いてしまうことです。それによって、それ自体は決して不正なものではない富が、不正なものとなってしまうのです。あの管理人の姿はそれを表しています。彼は主人が信頼して預けてくれた財産を、自分のために使い込んでしまった、それによって彼が持っている富は不正なものとなったのです。そしてそれは、前の15章の後半に語られていたいわゆる「放蕩息子のたとえ」の弟の姿でもあります。不正な管理人が主人の財産を「無駄遣いしている」という言葉と、放蕩息子が父の財産を「無駄遣いした」という15章13節の言葉は同じ言葉です。どちらも、富の用い方を間違えてしまった人の姿を描いているのです。用い方を間違えることによって、彼らの富は「不正な」ものとなっているのです。

富の正しい用い方
 それでは、富を正しく用いるとはどういうことなのでしょうか。そのことを語っているのが9節の、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい」というみ言葉です。友達を作るために用いることこそが、神様から与えられている富の正しい用い方なのです。友達を作るというのは、人との交わりを形作り、人と共に生きる者となる、ということです。人生の元手は、そのためにこそ与えられているのです。それを、自分が喜び楽しむために用いてしまうなら、そこでは富は人を支配し、自分の思いを遂げるための手段となります。そういう生き方によって私たちは人との交わりを失い、孤独に陥っていくのです。放蕩息子が全財産を使い果たした時、食べ物をくれる人はだれもいなかった、ということがそれを表しています。彼は父から与えられた富を、自分のためだけに使ってしまったために、その富によって一人の友達をも得ることができなかったのです。この放蕩息子のようにではなく、人との交わりを形作るためにこそ用いていくことが、富の正しい用い方です。それはもっと具体的には、自分の富をもって人に仕えていくということです。自分に与えられている人生の元手を、人に仕えるために用いていき、互いに仕え合う交わりを築いていくことこそが、富の正しい用い方なのです。
 預けられている富をそのように用いるように変わったのが、あの不正な管理人でした。以前の彼は、主人の財産を自分の喜びや楽しみのために使い込んでいたのです。しかし彼は、そのことが発覚していよいよ首になろうとする危機の中で、自分に預けられている富の用い方を変えました。主人に借りのある人を助け、借金を減額してやることによって、自分を迎え入れてくれる友達を作るという新しい用い方をしたのです。それもまた不正なことです。しかし彼はまさに不正にまみれた富を用いて友達を作ったのです。主イエスがこの管理人を褒めたのはこの点においてなのです。

富は神との交わりの手段
 しかしここにはもう一つ、しっかり見つめておくべきことがあります。友達を作るために用いることこそが富の正しい用い方だ、ということによって主イエスが教えておられるのは、人生にとって最も大事なものは友達だから、それを得るためにこそ富は用いるべきだ、ということではありません。9節の後半には「そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」とあります。友達を作るために富を用いることの目的は、永遠の住まいに迎え入れてもらうことなのです。永遠の住まいに私たちを迎え入れてくれるのは誰でしょうか。それは人間の友達ではあり得ません。それは神様です。永遠の住まいに迎え入れてもらうために必要なのは、神様との良い交わりに生きることなのです。つまり人生の元手である富は、神様との交わりに生きるためにこそ与えられている手段なのです。このことをしっかりとわきまえることによってこそ私たちは、富を正しく用いて生きることができるのです。
 富は友人を得るためにこそ用いられるべきだということも、このことの中に位置づけられなければなりません。富によって友人を得るということが、恩を売ることによって自分が困った時に助けてくれる人を得るということであれば、それは結局自分のために富を用いているのであって、自分の楽しみのために用いているのと大して変わりません。この不正な管理人のしていることは結局そういうことですから、そこにこの話の難しさがあると言えます。しかし主イエスがここで教えようとしておられることの中心は、人生の元手である富は、神様との交わりを築くための手段として与えられているのであって、そのことを見失ってしまうと、本来恵みであったはずの富が不正にまみれたものとなり、神様ではなく富に仕える生き方が生じる、ということです。そしてそれは逆に言えば、富ではなく神様に仕え、富は神様との交わりの手段であることをしっかりと見つめて生きることによってこそ、自分に与えられている富を、本当に隣人のために、結局は自分のためというのではなくて本当に隣人に仕えるために、つまり隣人との間にギブ&テイクを超えた良い交わりを築くために用いていくことができる、ということでもあります。ですから、この不正な管理人を主イエスがほめたのは、彼がそれまでは自分の喜びのためだけに用いていた富を、友達を得るために用いるようになったこと、つまり富の用い方において、隣人をも視野に置くようになったという一点においてだと言うべきでしょう。

ごく小さな事
 私たちは、この不正な管理人のように、またあの放蕩息子のように、神様から与えられた富を自分のためばかりに用いています。つまりそれを使い込み、無駄遣いしているのです。このままでは滅びに至るしかありません。しかし神様はそのような私たちのために、独り子主イエスを救い主として遣わして下さいました。この主イエスこそ、私たちを永遠の住まいに迎え入れて下さる方です。この主イエスとの交わりに生きることが、私たち人生の最大の課題です。そのために私たちは熱心に、賢くあらなければなりません。どうすればよいのか、それを主イエスはここで示して下さっています。それは私たちが、自分に与えられている富、人生の元手を、目の前の一人の隣人の友となり、よい交わりを築いていくために用いていくことです。それこそが、与えられている富を主イエスとの交わりを形作るための手段として正しく用いる道なのです。私たちがどのような富、人生の元手を持っているか、それが多いか少ないか、そんなことはごく小さな事です。富の問題は人生において決して最も重要な事ではありません。しかしそのごく小さな事である富の用い方において、私たちが神様に対して忠実でないならば、つまり神様に仕え、み心に従っていくのでなければ、私たちはそのごく小さな事である富に振り回され、その奴隷となってしまいます。そこには、隣人を大切にし、交わりを築いていくのでなくて、人を傷つけ、自分も孤独に陥っていくような生き方しか生まれません。しかし私たちが、自分の富を隣人に仕えるために用いていくならば、私たちは富にではなく神に仕える者となり、本当に価値あるものである神様との交わりを与えられて、富を有効に用いていくことができるのです。

神の喜び
 このたとえ話において、この管理人のした事はあくまでも不正なことです。彼は先には使い込みによって主人の財産を浪費し、今度は他の人の借金を減額することで、またもや主人に損害を与えているのです。しかしその管理人を、主イエスがほめたというところに、私たちに対する主イエスの恵みに満ちたメッセージがあります。私たちは、主人である神様から、人生の元手を全て与えられていながら、それらの富を自分勝手に浪費しています。しかし神様は、そのような不正な管理人である私たちが、与えられている富を、目の前の隣人に仕えるために用いるように少しでも変わるならば、そのことをほめて下さるのです。喜んで下さるのです。見失った羊を見出して喜び、放蕩息子の帰還を大いに喜ぶ父なる神様の喜びが、そこにもあります。主イエスの弟子となり、光の子として信仰に生きる私たちも、今なお人生の元手の大部分を不正にまみれた富として浪費してしまう者です。しかしそのような私たちが、主イエスの呼びかけに応えて、そのうちの一部でも、互いに仕え合う交わりのために用いていくようになるならば、その小さな変化を、神様は私たちのために喜んで下さるのです。主イエスの救いにあずかるとはそういうことです。きわめて日常的な毎日の生活において、ごく小さな事である富の用い方が変わっていくのです。そのことを通して私たちは、主イエス・キリストによる救いという本当に価値あるものを与えられていくのです。

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