主日礼拝

憐れみ深い人々は幸いである

2023年3月12日・主日礼拝説教

「憐れみ深い人々は幸いである」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第89編1-38節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章7節
・ 讃美歌:300、543

「情けは人のためならず」と同じ?
 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」。主イエスがお語りになった八つの幸いの教えの五つ目です。日本の諺にも「情けは人のためならず」というのがあります。この教えはその諺と同じだ、と思うかもしれません。もっとも最近はこの諺を間違って、「情けをかけることはその人のためにならない」と理解している人が多いようにも聞きました。この諺の意味は、人に情けをかけ、親切にすれば、その情け、親切は巡り巡って自分のところに帰ってくる、だから人に親切にすることは、結局は自分のためになる、ということです。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という教えを私たちはそれと同じように受け止め、「確かにその通りだ」と思っていることはないでしょうか。それを間違いだと言うつもりはありません。しかし問題は、「憐れみ深い」ということの内容です。主イエスは「憐れみ深い」という言葉によって、どういうことを思い描いておられるのでしょうか。私たちが憐れみ深い者として生きるとは、どのようなことなのでしょうか。「情けは人のためならず」における「情け」と、主イエスの言われる「憐れみ」は果して同じなのでしょうか。

憐れみ深いとは
 憐れみ深い者として生きることを主イエスがどのように教えておられたのかを考えるために大事な箇所として、マタイ福音書の25章31節以下があります。少し長いですが読んでみます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」。

隣人を見出す
 主イエスが「憐れみ深い」ということをどのように捉えておられるのかがこの話に示されています。それは、飢えている者に食べさせ、のどが渇いている者に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の者に着せ、病気の者を見舞い、牢にいる者を訪ねること、しかもそれを、自分の周りにいる最も小さい者の一人に対してすることです。このように生きる者こそが「憐れみ深い人々」なのです。この話は私たちに、いくつかの大事なことを教えています。一つは、憐れみ深い者として生きるとは、ただ「同情する、かわいそうに思う」だけではなくて、具体的な行動がそこに伴わなければならない、ということです。もう一つは、その憐れみの行為を「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」に対して、つまり自分の周りにいる最も小さい者、自分には関係ないと見過ごしにしてしまいがちな目立たない一人の人に対してしなさい、ということです。主イエスは、その人を「わたしの兄弟」と呼び、その人に対してしたことは即ち私に対してしたことなのだとおっしゃるのです。つまり「憐れみ深い人」とは、自分の周囲にいる、助けを必要としている人に気づいて、具体的な憐れみの行為をすることができる人です。この話が語っているように、私たちはしばしば、自分が助けるべき隣人に気づかないで見過ごしにしてしまいます。しかし本当に憐れみ深い人とは、支え助けるべき隣人を積極的に見出して、その人の隣人となるために行動する人なのです。

敵意を乗り越えること
 そこで思い起されるのは、ルカによる福音書第10章25節以下の、「善いサマリア人」の話です。強盗に襲われて倒れている人を見て、祭司やレビ人は、道の反対側を通って行ってしまった。しかしユダヤ人と敵対していた一人のサマリア人が、彼を介抱し、宿に連れて行き、その代金を払ってやった、つまりあのサマリア人こそ、隣人を見出し、隣人となるために行動した、憐れみ深い人なのです。主イエスがこの話で教えておられる大事なことの一つは、隣人を見出し、隣人になるとは、敵意を乗り越えることだ、ということです。私たちが見出すべき隣人、自分の周囲にいる最も小さい者というのは、私たちに敵対している人でもあるのです。私たちが、あの人は自分を傷つけている、そんな人に憐れみ深くある必要はない、あの人が苦しむならいい気味だ、と思っている人こそ、最も小さい者なのです。その人は憐れみの対象ではないし、する必要もない、と思っているとしたら、私たちは「憐れみ深い人」であることはできないのです。
 これらの箇所を見てくると、「憐れみ深い人々は、幸いである」という教えは、5章43節以下に語られている、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えと繋がるということに気付かされます。「憐れみ深い人」とは、敵をも愛することができる人です。つまり、人が自分に対して犯した罪を赦して、その人を愛することができる人です。憐れみ深い人であるためには、そういうことが必要なのです。

憐れみからほど遠い自分を知る
 主イエスが「憐れみ深い」と言っておられるのはこのようなことです。「情けは人のためならず」という諺で言われている「情け」をはるかに越えたものを主イエスは私たちに求めておられるのです。その求めの前で私たちは立ちすくみ、自分はこの幸いからかけ離れていることを思い知らされるのです。その時にこそ、私たちはこの教えと本当に向き合うことができるのです。「情けは人のためならず」と同じようにこれを受け止めて、ああその通りだ、そいういうことは自分も知っている、と思っている間は、私たちはこの教えを本当に聞くことができてはいないのです。主イエスがお語りになった「幸い」はどれも、私たちがもともと知っており、求めている幸いとは違います。主イエスはこれらの「幸いの教え」によって、私たちの生活の中に、私たちの知らない新しい、本当の幸いを造り出そうとしておられるのです。「憐れみ深い人々は幸いである」という教えもその一つです。だから、自分はこの幸いからかけ離れている、自分の中にこの幸いはない、ということに気づくことが、この教えを正しく聞くための第一歩なのです。

神の憐れみとは
 主イエスは私たちを憐れみ深い者として下さり、それによる幸いを与えようとして下さっています。憐れみ深い人の幸いとは、「その人たちは憐れみを受ける」ということです。この憐れみは、人からのものではなくて、神の憐れみです。神の憐れみを受ける、それが、憐れみ深い人に与えられる幸いなのです。神の憐れみとはどのようなもので、どのようにして私たちに与えられるのでしょうか。
 そこで先ほど共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第89編に注目したいと思います。この詩に、神の憐れみとはどのようなものであるかが示されています。注目すべき言葉は、2節の冒頭にある「主の慈しみ」です。この「慈しみ」は「憐れみ」と訳すこともできます。旧約聖書において憐れみを表す代表的な言葉です。この詩が歌っている主の慈しみとはどのようなものでしょうか。4、5節に、「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々に備える、と」とあります。主は慈しみによって、選んだ者と契約を結んで下さるのです。そのことが20節以下に詳しく語られています。そこには、主がダビデを選び、イスラエルの王としてお立てになったことが語られています。25節には「わたしの真実と慈しみは彼と共にあり、わたしの名によって彼の角は高く上がる」とあります。29節にも「とこしえの慈しみを彼に約束し、わたしの契約を彼に対して確かに守る」とあります。主の慈しみとは、ダビデと契約を結び、それを確かに守って下さることなのです。31~33節には、ダビデの子孫である王たちが、主なる神の教えを捨て、その戒めを守らない、つまり主がダビデと結んで下さった契約を破るならば、彼らに災いを下すということが語られています。しかし34、5節には、「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない」とあります。これこそが主の慈しみです。つまり主の慈しみとは、主なる神が、人間との間に結んだ契約をどこまでも守り、人間たちがその契約に忠実でなく、神を裏切るようなことがあったら、怒って罰を与えるけれども、その契約を破棄することはなく、どこまでもそれに忠実であって下さるということなのです。この神の慈しみは、人間の側から言えば憐れみです。人間は、神との約束を破り、神を裏切り、不誠実の罪に陥っています。神がお怒りになり、もうこんな奴らとの契約は破棄する、もう自分の民ではない、と捨てられてしまっても仕方がないのです。しかしそのような罪人を神は憐れみによって赦して下さり、見捨てることなく、忍耐して下さっているのです。

主イエス・キリストによって神の憐れみが与えられている
 詩編が語っているこの神の慈しみ、憐れみが、神の独り子主イエス・キリストによって私たちにも与えられています。主イエスは、神の恵みによって生かされていながら神に従わず、神を無視して自分勝手に生きている私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。主イエスが、私たちの身代わりになって、罪人に対する神の怒りと裁きを引き受けて下さったのです。その主イエスの十字架の死によって、神は私たちと新しい契約を結んで下さいました。私たちの罪を赦し、神の民として下さったのです。それは神の深い憐れみによることです。神は罪人である私たちに、独り子イエス・キリストによってこの憐れみを既に与えて下さっているのです。私たちは、主イエスが求めておられる「憐れみ深い人」からはほど遠い者ですが、その私たちに、主イエスによって、「その人たちは憐れみを受ける」という幸いが既に与えられているのです。

仲間を赦さない家来のたとえ
 従ってこの7節の教えは、「憐れみ深い人になりなさい、そうすればあなたがたは神の憐れみを受けて幸いになることができますよ」ということではありません。私たちが憐れみ深い人になったら憐れみを受けることができるのではなくて、私たちは神の憐れみを既にいただいているのです。それゆえに、憐れみ深い人となることができるのです。そのようにに努力していくことができるのです。主イエスはそのことを、この福音書の18章で教えておられます。18章21節以下の、「仲間を赦さない家来のたとえ」です。ある王が、自分に一万タラントンの借金のある家来を、憐れに思って赦してやった。借金を帳消しにしてやったのです。一万タラントンというのは天文学的数字であって、一生かかっても絶対に返すことのできない額です。それほどの借金を赦してもらったその家来が、その直後、自分に百デナリオンの借金のある仲間と出会います。百デナリオンは百日分の賃金ですから、決してはした金ではありません。しかし彼が赦してもらった一万タラントンとは比べものになりません。しかし彼はその仲間を赦さず、あくまでも借金を取り立てようとした。それを聞いた王は怒って、彼の借金帳消しを取消したのです。王は彼にこう言っています。「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。これが、私たち一人一人に神が語りかけておられるみ言葉です。神は、独り子イエス・キリストによって、その十字架の苦しみと死とによって、私たちを憐れみ、罪を赦して下さいました。私たちの罪は、神の独り子が十字架にかかって死ななければならない程大きいのです。私たちはどんなに努力しても、一生かかっても、それを償うことはできません。償うどころか、私たちは日々、その罪を増し加えているのです。その私たちの罪を、神は全て帳消しにして下さいました。借金を帳消しにしたら、貸していた者は損害を受けるのです。神は私たちの罪を赦すために、莫大な損害を引き受けて下さいました。それが独り子主イエス・キリストの十字架の死です。神はその損害、苦しみを引き受けて、私たちを赦して下さったのです。そこに、神の深い憐れみがあります。その憐れみによって私たちを赦して下さった主が、私たちに、自分に百デナリオンの借金のある人を赦すことを求めておられるのです。それが、私たちが憐れみ深い人となることです。百デナリオンの借金を赦すのは、決して簡単ではありません。相当の損害を引き受けなければなりません。人を赦すこと、憐れみ深い人となることは、それを本当に実行しようとするなら、苦しみを負わなければならないのです。損をしなければならないのです。「情けは人のためならず」などと言っているうちは、本当に憐れみ深い人になることはできません。「これはひいては自分のためにもなる」などと思っているうちは、本当に憐れみ深い人になることはできないのです。どう巡り巡っても自分のためにはならない、むしろ苦しみや損失を受けるだけ、という場面において、私たちの憐れみ深さが問われるのです。そこでなお憐れみ深い者となることは、私たちの努力によってできることではありません。私たちが主イエスによって神の大きな憐れみをいただいていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする時に、主イエス・キリストが私たちの中に、そのような憐れみ深い思いを造り出して下さるのです。

神の憐れみに応えて憐れみ深く生きる
 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」、この教えは、主イエス・キリストにおける神の深い憐れみの中で私たちに語られています。罪に満ちている私たちは、その憐れみにすがることによってしか生きることはできないのです。そして神は、本当に有り難いことに、独り子イエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活によって、罪と汚れに満ちた私たちを赦し、私たちを神の契約の民として新しく生かして下さっています。「その人たちは憐れみを受ける」という幸いを、既に与えられているのです。それゆえに私たちは、憐れみ深い者となろうとするのです。そのことを生涯の課題として生きていくのです。人を憐れむというのは、上から目線で人を見下すようなことではありません。借金のたとえが示しているように、自分が損をし、苦しみを引き受けることがなければそれはできません。「上から目線」でいたらそんなことはできません。それができるようになるのは、自分が神の憐れみによらなければ生きることができない者であることを知り、その憐れみを神が主イエス・キリストによって与えて下さったことを知ることによってです。その神の憐れみを無にしないように、私たちも憐れみ深くあろうとするのです。

主のご命令に従うことの中で
 ですから、憐れみ深い人が憐れみを受けて幸いになるのではありません。神の憐れみを受けている幸いな者が、憐れみ深くあろうとすることができるのです。それが信仰のすじ道です。でもそれならなぜ主イエスは「憐れみを受けている人々は幸いである、その人たちは憐れみ深くあるであろう」とおっしゃらなかったのでしょうか。そこに、私たちを導いて下さる主イエスの思いが込められているのです。あの借金のたとえの前に、弟子のペトロが、「兄弟が私に罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問をしました。それに対して主イエスは、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。それに続いてあのたとえは語られたのです。七の七十倍までも兄弟の罪を赦せ、つまり憐れみ深い者であれ、と主は先ずお命じになったのです。そしてそれは、あなたがたが憐れみを受けている者だからだ、という根拠、土台がその後で示されたのです。そのように、私たちは先ず、主のご命令に従って、人の罪を赦すことのできる、憐れみ深い者であろうと努力していくのです。しかしその努力が私たちを救うのではないし、また私たちはそこにおいて繰り返し、自分がいかに憐れみから遠い者であるかを思い知らされます。それでもなお、私たちは、憐れみ深い者であろうとしていくことができます。なぜなら、主イエス・キリストによる神の憐れみが既に与えられていて、私たちを支えているからです。そこに、私たちの幸いがあるのです。

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