「主の食卓に着こう」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第35章1-10節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第14章15―24節
・ 讃美歌:229、50、75
アドベントに入る
本日より、アドベント(待降節)に入りました。クリスマスリースが飾られ、アドベントクランツが用意され、その蝋燭の一本に火が灯されています。毎週一つずつ灯す火を増やしつつ、クリスマスに備えていくのです。また教会の正面には今年もバナーが掲げられました。「クリスマスに平和の祈りを」と書かれたバナーです。もう数年前からこのバナーを掲げていますが、平和を願う祈りが不必要に感じられる年はありません。今年もまさに先週、北朝鮮による韓国への砲撃事件に私たちは衝撃を受けました。こういうことが、権力を継承される息子の「実績」になるというのは、恐しい国だと思わずにはおれません。今年もクリスマスに向けて、平和を切に祈り求めつつ歩みたいと思います。
毎年アドベントの季節になると、今年はこの期間の礼拝においてどのようにみ言葉に聞いていこうかと考えます。私たちの教会では基本的に連続講解といって、一つの書を続けて読み、説教するというやり方をしていますが、この期間は、連続講解から離れてクリスマスにちなんだ箇所を取り上げることもあります。しかし考えた末、今年は、ルカによる福音書の連続講解をこの期間も続けることにしました。今ちょうど、14章の後半にさしかかっています。来週で14章を読み終え、15章に入ります。15章には、よく知られた主イエスのたとえ話が並んでいます。見失われた羊のたとえ、無くなった銀貨のたとえ、そして放蕩息子のたとえです。アドベントからクリスマスにかけて、それらをご一緒に読んでいこうと思うのです。19日のクリスマス礼拝で、「放蕩息子のたとえ」を読みます。この箇所を読む礼拝を、クリスマス特別伝道礼拝と位置づけて、そこに向けて伝道に励みたいと思っています。皆さんもどうぞその思いを共有して下さり、クリスマス伝道を共に担って下さいますよう、お願いします。
神の国で食事をする人
本日ご一緒に読む15~24節は、14章の前半のしめくくりです。14章は1節以下に、主イエスがある安息日にファリサイ派のある議員の家に食事に招かれたことが語られており、その食卓における会話が本日の箇所まで続いているのです。15節の冒頭に「食事を共にしていた客の一人は」とあることからそれが分かります。ファリサイ派の議員の家の食事に招かれ、主イエスと共に食卓に着いていた客の一人が、主イエスの言葉を聞いて「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったことから、本日の箇所は始まっているのです。主イエスは14節までのところで、宴会に招待されてその席に着く、というたとえを用いて、神様による救いにあずかるとはどういうことかをお語りになりました。言い換えれば、神様を、盛大な宴会を催してそこに人々を招いて下さる方として描かれたのです。その宴会は勿論、この地上のどこかで開かれるものではありません。14節の最後には、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とあります。つまりこれはこの世の終わりに、正しい者たちが復活して永遠の命を与えられる。その人々が招かれてあずかる神の国の食事です。救いの完成とは、この神の国の食事に招かれることだ、と主イエスは語られたのです。その話を聞いたこの人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったのです。
この人の言葉は、主イエスが語られたことへの素直な反応であると言えるでしょう。「神様が世の終わりに盛大な宴会を開き、永遠の命にあずかる人を招いて下さる。その食卓に着くことができる人はなんと幸せなことか、私もぜひその食卓に着きたいものだ」という思いです。そういう意味でこの人は、主イエスの言葉を素直に、好意的に聞いていると言うことができます。このファリサイ派の議員の家での食事の席に集った人々の多くは、主イエスが安息日に病人を癒すのかどうかと様子を伺っていたと1節にありました。そして主イエスは彼らに挑戦するように問いかけて癒しのみ業をなさいました。だからこの席には主イエスへの敵意や憎しみの思いが渦巻いていたと考えられるのですが、この人の言葉にはそういうことは伺えません。しかしそれでは主イエスがこの人の言葉を喜ばれたのかというと、決してそうではありません。主イエスは彼の言葉を受けて再びたとえ話をお語りになりましたが、このたとえ話は、この人が、14節までに主イエスがお語りになったことの肝心な点を全く理解できていないことを明確にするものとなっています。この人は主イエスのお言葉を好意的に聞き、それに素直に反応しましたが、実は肝心なことを何も分かっていなかったのです。その肝心なこととは何でしょうか。
盛大な宴会のたとえ
16節以下のたとえ話を見ていきます。ある人が盛大な宴会を催そうとして大勢の人を招きました。そして準備ができたので僕を送り、「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせたのです。当時の宴会はこのように、前もって招きを伝えておき、その時刻になったらもう一度招くという二重の招待がなされていたようです。ところが、先の招きを受けていた人々がいよいよという時になって次々に断り始めたのです。「畑を買ったので、見に行かねばなりません」「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」とそれぞれ理由をつけています。しかしこれらはどれも、緊急やむを得ない理由ではありません。要するにそこには、この人たちが、この家の主人の招きと、自分の様々な都合や事情のどちらを優先しているかが表れているのです。彼らは皆、自分の都合や事情を第一とし、この人の招待を二の次のこととしてそれを断ったのです。断られた主人は怒って僕に「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と命じました。僕はそのようにして人々を宴会へと連れて来ましたが、まだ空席があります。主人はさらに「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言って、人々を「無理にでも」集めて自分の宴席をいっぱいにするのです。
招きを断る人、招きにあずかる人
このたとえによって主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。まず第一に言えることは、神の国の食事への招きが既になされているのに、それを断っている人々がいる、ということです。盛大な宴会を催そうとしているこの主人が神様を指していることは、文脈から明らかです。その神様の招きを、この人々は断っているのです。あれこれ理由をつけて、神の国の食事よりも自分の都合や当面の生活の問題を優先にしているのです。この人たちはそれぞれ豊かな生活をしています。畑を買うことができるし、牛を二頭ずつ五組、つまり十頭買うのも相当高額な買い物です。また妻を迎えて家庭を築く基盤を持っています。そこそこに豊かであり、用いることができる財産があり、それゆえにいろいろと忙しくしているのです。そういう忙しさの中で、神の招きがないがしろにされ、後回しにされていくのです。主人は最後の24節で「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と宣言しています。神様の招きをないがしろにするなら、神の国の食卓に着くことはできないのです。そして主人は、その人たちに代って、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を招きます。この人々こそが神の国の食卓に着くのです。ここで私たちは、前回読んだ12節以下の主イエスの教えを思い起こします。宴会に人を招くときには、友人、兄弟、親類、近所の金持ちなどを、つまり自分でも宴会を催して招き返すことができる人を招くのではなくて、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい、と主イエスはおっしゃいました。「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」、とあります。それは、代りに神様がお返しをして下さり、報いて下さるからです。こういう教えが12節以下に語られていたわけですが、主イエスは21節で、まさにそれと同じことをこの主人が、つまり神様がなさるのだ、と語っておられるのです。ということは、あの12節以下における教えは、宴会を開く時にはどのような人を招待すべきかというだけの話ではなくて、神様はどのような人を神の国の食事にお招きになるのか、ということをも語っていたのです。このことこそ、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったあの人が全く分かっていなかった肝心なことです。つまりあの人は、12節以下の教えを、自分が人を招待する時にはどうすべきか、という教えとしてしか聞いていないのです。お返しのできないような人を招くことによって、つまり見返りを求めずに人に親切にするという善行を積むことによって、神様が報いて下さり、神の国で食事をすることができる幸いな人になることができる、そうなれる人は幸いだ、自分もそうなりたい、と彼は思っているのです。そういうこの人に対して主イエスはこのたとえによって、「あなたは神の招きが全く分かっていない。神ご自身が、お返しのできない人を、つまり神のみ前に自分の豊かさとして提出することができる善い行いや清く正しい生活、敬虔な信仰、そういったものを全く持っていない人をこそ招き、神の国の食事にあずからせて下さるのだ。神の国の食事は、この神の招きによってのみあずかることができるものなのだ」、と語りかけておられるのです。そしてそこにはさらに、こういう主イエスのみ心が示されています。「あなたは、神の国で食事をする人は幸いだ、そうなれたらどんなに素晴しいか、と言っている。それはあなたが、神の招きを他人事のように、幸いな誰かに与えられるものと考えていて、今まさに自分自身が招かれていることに気付いていないということだ。招かれていたのに自分の都合や思いを並べ立ててそれを拒んでいる人々とは、あなた自身のことなのだ」。
私たちが招かれている
このみ言葉を聞き取ることによってこそ、このたとえを正しく理解することができるのです。本日の箇所の小見出しの下の括弧が示すように、これと同じようなたとえがマタイによる福音書の22章にあります。ある王が王子の結婚披露宴に客を招くたとえです。王は何度も家来たちを送って招きを伝えますが、招かれていた人々はそれに応じようとせず、家来たちに乱暴したり、殺してしまうのです。このたとえにおいては、招かれていた人々とは、神様の民とされていたイスラエルの人々、ユダヤ人を指していると考えられます。そこに遣わされた家来たちとは、昔の預言者たちです。神様は預言者たちを通して何度もみ言葉を伝えましたが、イスラエルの民は聞き従わず、反抗し、預言者を殺したりしたのです。それゆえに彼らは滅ぼされ、他の人々、つまり異邦人たちが神様の招きを受けて救いにあずかっていく、ということをこのマタイにおけるたとえは語っています。本日のルカ14章におけるたとえは、これと似た話ではありますが、語られていることは違います。今日のこの話においては、招かれていたのに断った人々とは、神様の招きを真剣に受け止めようとしない私たちのことです。「招かれる人は幸いだ」などというのは、まさに自分自身が招かれており、それに応じるのか断るのかを問われていることに気付いていない人の台詞です。それは結局、神様の招きに応えるよりも自分の思いや都合を優先にして、何やかやと言い訳をしてその招きを避けて通ろうとしているのと同じことなのです。そしてこのたとえにおいて、招かれて神の国食卓に着いた「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」、それもまた私たちのことです。私たちが、神様の救いにあずかり、神の国で食事をする者となるとしたら、それはこのようにしてなのであって、これ以外ではないのです。神の国の食事にあずかるに相応しいところなど何一つない、その宴会に持ってくるおみやげなど何も用意できない罪人である私たちが、ただ神様の恵みによる招きによって、救いにあずかり、神の国の食卓に着くのです。つまりルカはここで、ユダヤ人とか異邦人とかという話ではなくて、私たちが神様の救いにあずかり、神の国の食卓にあずかるのはどのようにしてか、を語っているのです。
主イエス・キリストによる招き
この神様の恵みによる招きを私たちに告げる「僕」がここに登場しています。マタイにおけるたとえでは、何人もの家来たちが遣わされて招きを告げました。「僕」も「家来」も原文においては同じ言葉ですが、違うのは、マタイでは複数であるのに対して、ここでは単数の「僕」であることです。一人の僕が遣わされ、主人の招きを告げているのです。マタイにおける複数の家来たちが昔の預言者たちを指しているのに対して、この一人の僕は、神様の独り子イエス・キリストを指しています。主イエスによって、神様の招きが私たちに告げられているのです。しかし私たちはその招きを真剣に受け止めずに無視したり、いろいろな言い訳を言って断ってしまうのです。主イエスが招いて下さっているのにそれに応えようとしない私たちの姿がここに描かれています。しかしそのような私たちが、神様の救いにあずかり、神の国の食卓に着くことができるのも、同じ主イエス・キリストによって告げられている招きによってです。招かれるに相応しいところなど何もない、何のお返しもできない私たちを、神様がただ恵みによって招いて下さる、そのこともまた、主イエス・キリストによって、何よりもその主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって告げ知らされているのです。主イエスの招きによって救いの食卓に着く私たちの姿も、ここに描かれているのです。
主人はこの僕に、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言っています。ここに、神の国の盛大な宴会を人でいっぱいにしようという神様の強い思いが語られています。神様が願っておられるのは、私たちが罪によって裁かれ滅びてしまうことではありません。一人でも多くの人が、救いにあずかり、神の国で食事の席に着くことをこそ願い望んでおられるのです。そのために、人々を「無理にでも」ひっぱって来ようとしておられるのです。来たい人は来なさい、来れる人は来なさい、ではなくて、ぜひ私のもとに来て欲しい、私の救いにあずかり、私の食卓に着いて欲しい、と願っておられるのです。主イエス・キリストは、父である神様のこの強いみ心によってこの世に遣わされました。クリスマスに備えていくアドベントに私たちが思いを集めるのは、独り子を遣わし、その十字架の苦しみと死によって私たちを救いへと招いて下さっている神様のこの恵みのみ心なのです。
招きに応えて
神様が私たちに与えようと強く願っておられるこの救いにあずかるために私たちに求められていることはただ一つ、神様の招きを真剣に受け止め、それに応えて出かけることです。畑を買ったから、牛を買ったから、妻を迎えたから、これらは確かに人生における大事です。等閑にはできないことです。しかしそれらを、神様の招きを無視したり、後回しにする口実とするのでなく、「招いて下さってありがとうございます」と言って、実際に出かけて行って主の救いの食卓に着くことが私たちに求められているのです。それが、洗礼を受けるということです。このクリスマスにも、神様の招きに応えて洗礼を受け、この教会の一員となろうとしている方々があることはとても嬉しいことです。私たちのこの世の生活には、畑を買った、牛を買った、妻を迎えた、というような様々なことがあり、それらが神様の招きに応えて洗礼を受けることの妨げとなってしまうことがあります。あるいは、自分のような者は神様の救いには相応しくない、自分が招かれているはずはない、などと勝手に思い込んでしまうこともあるでしょう。しかし神様はそのような私たち一人一人を、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みによって招いて下さり、私たちがその招きに応えることを根気強く待っていて下さるのです。
主の食卓に着こう
神様に背き逆らってばかりいる罪人であり、神様のみ前に持って出る何の相応しさもない私を、神様が主イエス・キリストの十字架によって赦し、招いて下さっていることを信じて、その招きに感謝して応えることによって、私たちは神の国の食事の席に連なることができます。その食事はこの世の終わりに、復活と永遠の命を与えられてあずかるものだと申しました。しかしその神の国の食事を、今この地上において前もって味わうために備えられているのが、教会の礼拝において行われる聖餐です。私たちは主イエスによる神様の招きを信じて、それに応えて洗礼を受けることによって、聖餐の食卓に着くのです。聖餐のパンと杯は、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、肉を裂き血を流して死んで下さったことによって、私たちの罪の赦しを実現し、私たちに神様の救いをもたらして下さった、その既に与えられている恵みを思い起し、それにあずかり、感謝するために与えられています。そしてそれと同時にこの聖餐は、今は天において父なる神様の右の座に着いておられる主イエスが、この世の終わりにもう一度来て下さり、私たちに復活と永遠の命を与えて下さる、その救いの完成の時にあずかることを約束されている神の国の食事の先取りとして、その試食、テイスティングとして与えられている希望の食卓でもあるのです。主イエスは神の国、神様による救いを、盛大な宴会に招かれることにたとえられました。その神の国を、この地上において垣間見させてくれるのが、礼拝において聖餐にあずかることだと言うことができます。実は本日の箇所の17節の言葉は、聖餐における招きの言葉として用いられてきた歴史があります。17節の中の「もう用意ができましたから、おいでください」という言葉です。この訳では、味気ない事務的な感じですが、昔の文語訳聖書ではここは「来れ、既に備りたり」となっていました。この言葉が告げられ、そして聖餐にあずかる、ということがなされていたのです。主人が僕を遣わして語らせたこの言葉、つまり神様が独り子イエス・キリストを遣わして私たちに告げて下さっているこの招きの言葉を、このアドベントに私たち一人一人がしっかりと聞いていきたいと思います。そしてこの招きに応えて、主が備えて下さっている食卓に共に着こうではありませんか。