主日礼拝

金持ちとラザロ

「金持ちとラザロ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 申命記 第18章15-22節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第16章19-31節
・ 讃美歌:37、122、542

金持ちとラザロの話
 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第16章19節以下には、主イエスがお語りになった一つのお話が記されています。これは、例えば16章1節以下に語られていた「不正な管理人」の話のような「たとえ話」ではありません。たとえ話は、登場する人または物がそれぞれ何かをたとえています。「不正な管理人」の話で言えば、主人は神様をたとえており、そして主人の財産を預けられている管理人は、神様から与えられた人生の元手を用いて生きている私たち人間をたとえているのです。しかし本日の所の「金持ちとラザロ」の話においては、金持ちもラザロも、何かをたとえているのではなくて、主イエスがお語りになった一つの物語の登場人物です。その物語を通して主イエスはあることを私たちに教えようとしておられるのです。それは何なのでしょうか。私たちは何をこの物語から読み取ればよいのでしょうか。

門前で養われるラザロ
 これは一人の金持ちと貧しいラザロの話です。金持ちは、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らして」いました。一方ラザロは、「できものだらけの貧しい人」であり、この金持ちの門前に横たわっていました。それは21節にあるように「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」からです。金持ちの家の残飯にでもありつきたいと願っていたのです。「腹を満たしたいものだと思っていた」という訳はいささか弱いと思います。そのことを強く願っていた、というニュアンスの言葉が使われています。そういう願いを抱きつつ、彼はこの金持ちの門前にいたのです。そしてここに、この物語を読む上での一つの問いがあります。ラザロは、この金持ちの食卓から落ちる物にありついていたのか、それともそうでなかったのか、という問いです。「強く願っていた」という言い方は、そう願っていたけれどもそれは実現しなかった、金持ちの家の残飯にありつけなかった、ということを意味しているようにも思えます。そうだとすると、この金持ちは自分の門前にいる貧しいラザロを無視し、見て見ぬふりをして何も助けようとしなかったということになります。そのようにこの話を読むならば、そこには自ずと一つのメッセージが浮かび上がってきます。この金持ちは死んで、死者の行く所である陰府において炎の中でもだえ苦しむことになるわけですが、それは彼が生きている間に、自分の門前にいた貧しいラザロに助けの手を差し伸べなかった罪に対する罰なのだ、だから自分の門前に、つまり身近な所にいる貧しい人、助けを求めている人、弱っている人にちゃんと目を向け、助けの手を差し伸べなければならない、主イエスはそういうことをこの物語において教えておられるのだ、というメッセージです。私も以前はそのようにこの話を読んでいました。今でも、このメッセージの結論の部分、つまり自分の身近な所にいる、貧しい人、助けを求めている人、弱っている人に目を向け、手を差し伸べ、共に生きることを主イエスが私たちに求めておられる、ということは、この物語から私たちが聞き取らなければならない大事なことだと思っています。しかし前半の部分、この金持ちが貧しいラザロを無視し助けなかったことの罰として苦しみに落ちたというのは、この物語の理解として間違っていると今は思っています。そもそもこの金持ちは本当にラザロの願いを無視し、手を差し伸べなかったのでしょうか。20節の、ラザロが彼の門前に「横たわり」という言葉に注目したいと思います。ここは原文を直訳すれば「置かれていた」となります。つまりラザロは誰かによって金持ちの門前に置かれていたのです。ラザロが自分で歩くことのできない障碍を持っていたというのであれば、誰かが毎日彼をこの金持ちの門前に運んできて、そこに置いたということになるでしょう。しかしラザロは「できものだらけ」ではあっても歩くことができないわけではありません。それではなぜ「置かれていた」という言い方がなされるのか。それは、この金持ちによって門前に置かれていた、という意味なのかもしれません。つまりこの金持ちは、ラザロが毎日自分の門前に来るのを認め、受け入れていた、と読むこともできるのです。それは彼を自分の家の食卓から落ちる物で養ってやるためです。つまりラザロが「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと強く願っていた」というのは、願っていたがそれは実現しなかった、ということではなくて、そういう願いをもって彼は毎日この金持ちの門前に来ており、その願い通りにそこで養われていた、という意味かもしれないのです。つまり、この金持ちはラザロを無視し、見て見ぬふりをしたのではない、できる範囲のことをして彼を支えていたのだ、と読むこともできるのです。むしろそう読んだ方が、ラザロがこの金持ちの門前にいつもいたことが納得できます。何ももらえないのにそこにいる理由はありません。また金持ちの方も、ラザロを助けるつもりがないのなら、門前にいることを赦さず、目障りだからどけと追い払ったのではないかと思うのです。つまりラザロは金持ちの門前で彼の食卓から落ちる物で養われていた、と読む方が自然なのです。そのように読んだ時にこの話から何が見えてくるのか、それをこれから考えていきたいと思いますが、先ずは物語の続きを確認していきましょう。

死における逆転
 この二人が死んだ後それぞれどうなったかがこの物語の中心です。ラザロは、「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」のです。アブラハムは、神様の民イスラエルの最初の先祖であり、神様の救いにあずかる人々の筆頭です。そのすぐそばということは、ラザロは神様の救いにあずかる人々の喜びの宴席において最もよい席を与えられたということです。それに対して金持ちは、先ほど申しましたように、陰府において、炎にさいなまれ、もだえ苦しむようになったのです。私たちがここですぐ思うのは、ラザロは天国へ行き、金持ちは地獄に落ちたのだ、ということです。しかしそのように考えてしまうと、この物語によって主イエスが語ろうとしておられることを見失うことになります。天国と地獄という対比をここに見てしまうと、この世で良い行ないをした善人は天国へ行き、悪いことをした悪人、罪人は地獄に落ちる、という図式にあてはめてこの話を理解することになります。しかしこの物語は、ラザロが良い行ないをしたから天国へ行ったと語っているのではないし、金持ちも罪を犯したから地獄に落ちたとは語っていません。ラザロと金持ちのこの違いは何によって生じたか、この物語においてそれを語っているのは25節のアブラハムの言葉です。炎の中でもだえ苦しんでいる金持ちが、アブラハムに向かって「わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、わたしの舌を冷やさせてください」と願ったのに対して、アブラハムはこう答えたのです。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。生きている間に良いものをもらっていた者と悪いものをもらっていた者との立場の逆転が、死において起ったのだとアブラハムは言っています。つまりラザロは善人だからアブラハムのすぐそばに迎えられたのではないし、金持ちも罪の罰として炎の苦しみを受けているのだとは言われていないのです。もしもこの物語が、この金持ちは自分の門前にいる貧しいラザロに助けの手を差し伸べなかったから地獄に落ちたのだ、と語ろうとしているなら、このアブラハムの言葉は、「お前は自分の門前にいたラザロを助けようとしなかった、それなのに今になって自分を助けるためにラザロを遣わしてくださいと言うのは虫がよすぎないか」というふうになっているはずです。つまりこのアブラハムの言葉からも、この話が、金持ちがラザロを助けなかったために炎の苦しみを受けることになった、と語ろうとしているのではないことが分かるのです。むしろ、先ほど申しましたように、彼はラザロをそれなりに助け、支えていたのです。ラザロを遣わしてくださいという願いも、「私がいつも助けてやっていたあのラザロを遣わして、せめて私の舌を冷やさせてください」という願いであると考えた方が自然なのではないでしょうか。

悔い改めなかった金持ち
 それではなぜ、この金持ちは炎の中で苦しむことになったのか。またラザロはなぜアブラハムのすぐそばの宴席に迎えられたのか。物語の続きを読んでいくことによってそれが見えてきます。アブラハムは金持ちの願いを断り、たとえそうしてやろうと思ったとしても、私たちとお前たちの間には大きな淵があって行き来することはできないのだ、と言っています。すると金持ちは、それではラザロをまだ生きている自分の兄弟たちのところに遣わして下さいと願います。それは、「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせて」もらうためです。つまり今のままでは彼らも、この炎の苦しみに陥ることになるのです。しかしアブラハムは「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言ってそれも断ります。この言葉の意味は後でまた考えます。金持ちはしかしなお食い下がります。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。ここに大事なポイントがあります。彼の五人の兄弟たちが、こんな苦しい場所に来ないですむためには、「悔い改める」ことが必要なのです。ということは、この金持ちが今炎の中でもだえ苦しんでいるのは、悔い改めなかったからです。自分の身近な所にいる助けを必要としている人に手を差し伸べないという罪を犯したから、炎の苦しみに陥ったのではなくて、悔い改めなかったからそうなったのです。つまりこの金持ちの姿が描き出しているのは、自分の門前にいる貧しい人をそこそこに助け、支えるという愛の業に励んでいるけれども、しかし悔い改めてはいない人の姿なのです。

悔い改めるとは
 「悔い改める」とはどういうことなのでしょうか。そのことを私たちはこの福音書の前の章、第15章において読みました。いわゆる「放蕩息子のたとえ」にそれが代表的に示されています。父の遺産を先にもらって遠い国に行き、それを無駄遣いして食うにも困るようになった息子が帰って来るという話です。この「帰って来る」ことが悔い改めです。帰って来るというのは、単にこれまでの生き方を反省して少しはまともになろうと決意することとは違います。あの息子は「我に返った」と語られていました。つまり、本来の自分の姿に気付いて、そこへと立ち返ったのです。本来の自分の姿、それは、父のもとで、父に守られ、養われているという姿です。つまり神様のもとで、神様の恵みによって守られ、養われ、生かされている、それが自分の本来のあり方であることに気付き、本来の居場所である神様のもとへと帰って来ること、それが悔い改めることなのです。つまり悔い改めは、自分が本来神様のもとで、神様に守られ、養われることによってこそ生きることができる者なのに、自分の力で、また自分が持っているもので生きていけるように錯覚して、その神様のもとを飛び出してしまい、その結果どうにもならなくなっているということを認める、ということを中心としているのです。このことを認めて、本来の居場所である神様のもとに帰って来るならば、そこには滅びからの救いがあります。しかしそのことを認めずに、帰ることを拒むならば、つまり悔い改めないならば、炎の中でもだえ苦しみ、滅びていくことになるのです。

神の恵みによって生きるラザロ
 あの金持ちが炎の中でもだえ苦しむことになったのは、悔い改めなかったからです。そして今生きている彼の五人の兄弟たちも、生前の彼と同じように生きています。自分が神様のもとで、神様に守られ養われることによってこそ生きることができるなどとはこれっぽっちも思わず、自分の力で、また自分が持っているいろいろな意味での財産によって十分に生きていけると思っています。それらが実は全て、神様から与えられたもの、預けられた元手であることに気付いていないのです。だからこのままでは、彼と同じ炎の苦しみに至る他ないのです。それに対してラザロは、アブラハムのすぐそばで宴席にあずかっています。それはなぜか。彼は、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たすことを願うしかないような貧しさの中で、自分の力、自分の持ち物によって生きることなどとうてい考えられない生活をしてきたのです。彼は他人の情けにすがって生きてきた、それはその人々を通して働いている神様の恵みにすがって生きてきたということです。神様の恵みと憐れみしか、彼が頼りにできるものはなかったのです。神様のお恵みにすがる乞食のように生きる、それこそが、信仰の本来の姿です。そういうあり方を失って、自分の力で、自分が持っているものによってなんとかしようとすることによって、私たちは父の家を飛び出し、あるいは神様の牧場から迷い出た羊になっていくのです。つまりこの話において、貧しいラザロの姿は、神様のもとで、神様の恵みによってこそ生きている人間の本来の姿を表しており、金持ちの姿は、その本来のあり方を失い、自分の力で生きられると思っている罪人の姿を表しているのです。神様のみもとから飛び出してしまった罪人であっても、別に悪いことばかりをしているわけではありません。自分の門前にラザロが通って来ることを許し、彼に残飯を与え、支えてやるぐらいのことはするのです。そういう善意は、悔い改めることとは関係なく、人間誰しもが持っているものであり、時と所を得ればそれが発揮されるのです。主イエスがこの物語で語り、教えようとしておられるのは、そういう人間の善意が人を救うのではなくて、悔い改めることこそが必要だ、ということです。神様のもとで、神様に養われて生きるところにこそ自分の本来の居場所があることに気付かせ、そこへと帰って来る悔い改めを促すためにこの物語は語られているのです。

み言葉によってこそ
 ラザロを兄弟たちのところに遣わして下さいと願う金持ちに、アブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言いました。モーセは十戒を中心とする律法を神様から授かった人ですから、「モーセと預言者」は律法と預言者を指しており、それによって旧約聖書の全体が意味されていると言うことができます。また本日共に読まれた旧約聖書の箇所である申命記18章15節以下には、神様が将来モーセのような預言者をお立てになるから彼に聞き従え、と語られています。いずれにせよ「モーセと預言者」は、神様がご自分の民にお語りになったみ言葉を、そしてそれを書き記した聖書を指しているのです。「彼らに耳を傾けるがよい」ということは、聖書をちゃんと読み、神様のみ言葉にしっかり耳を傾けよ、ということです。そうすれば、こんな苦しい場所に来ることがないようにするには悔い改めることが必要だということが分かるはずだ、と言っているのです。これは私たちに対して語られている言葉でもあります。私たちには、旧約新約の聖書が与えられており、そこに語られているみ言葉が毎週の礼拝において説き明かされています。それをしっかり読みまた聞いていけば、私たちには神様とその救いの恵みが分かるはずなのです。つまり本来神様の恵みによってこそ生かされている自分が、その神様のもとを飛び出して好き勝手に生きる罪に陥っており、その結果苦しみの中で行き詰まっていること、その私たちを救うために神様が独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって私たちの罪を赦し、神様の子として下さっていること、私たちが悔い改めてこの神様のみもとに帰ろうとするなら、無条件で、喜んで迎え入れて下さるということ、これらの救いの恵みを聖書は私たちに告げてくれているのです。しかし金持ちは先ほど読んだように、「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と言いました。これは、聖書を読み説教を聞いているだけではなかなか悔い改めることができない、ということです。それは自分自身の体験からの言葉でしょう。私も聖書の告げるみ言葉を聞いてきました、でもそれに本当に耳を傾け、悔い改めることはできませんでした。しかしもしも死んだラザロが復活して現れ、「先に死んだあなたがたの兄さんは炎の中でもだえ苦しんでいますよ」と告げてくれたら、兄弟たちも悔い改めるでしょう、と言っているのです。しかしアブラハムはこう答えます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。私たちもこの金持ちと同じように、聖書の言葉や説教だけではどうもピンと来ない、もっとはっきりとした目に見える奇跡などによって、神様がおられる証拠が示され、そのみ心が何であるかを明らかにしてもらえれば信じることができるのだが、などと思うことがあります。けれども、悔い改めが起るのは、奇跡を見ることによってではないのです。聖書を通して神様が私たちに語りかけておられるみ言葉を本当に聞こうとする思いがなければ、奇跡に驚くことはあっても悔い改めは起りません。自分は神様の恵みによってこそ本当に生きることができるということに気付き、自分の本来の居場所に帰ろうとする悔い改めは、み言葉を聞くことによってこそ与えられるのです。聖書に記され、礼拝において説き明かされるみ言葉によってこそ、神様は私たちを悔い改めへと、救いへと招いて下さっているのです。主イエスはそのことを、この物語において語り示しておられるのです。

主イエスからの問いかけ
 「金持ちとラザロ」の物語は、神様のもとで恵みによって守られ、養われ、生かされることこそが自分の本来のあり方であることに気付き、神様のもとへと帰って来る悔い改めを教え促しています。この物語をそのように読んでいく中で、私たちは主イエスからの問いかけを受けます。あなたの門前にも貧しいラザロがいるのではないか、という問いかけです。その貧しいラザロは、経済的に困窮している人のみのことではありません。様々な苦しみを負っている人、悲しんでいる人、慰めや力づけを求めて教会の礼拝に来る全ての人々が、私たちの目の前にいるラザロです。また教会に共に連なっている兄弟姉妹の一人一人が、お互いにとって目の前のラザロです。神様の恵みによって養われ、生かされることが自分の本来の姿であることに気付き、そこへと立ち返るならば、私たちは、同じように神様の恵みによって養われ、生かされている他の人の存在にも気付き、その人を受け入れ、共に生きる者となるのです。共に生きることは、自分に与えられている富を、また富に代表される自分の力や思いや時間などを、神様がそれらの人々を恵みによって養って下さるそのみ業のために献げていくことによってこそ実現していきます。私たちはこの16章のこれまでの所で、富をどう捉え、位置づけ、用いるかということを巡る教えを聞いてきました。そして、信仰によって富の用い方が変わることを学んできたのです。「不正な管理人」のたとえも、自分に預けられている富の用い方を変えた人の話でした。悔い改めるというのは、富の用い方が変わることです。自分の持っている富に拠り頼んで生きることをやめ、神様の恵みによって養われ生かされる本来の自分に立ち返るなら、私たちは自分に与えられている富を、目の前にいる貧しい人、助けを必要としている人、弱っている人を養い支えて下さる神様の恵みのみ業のために献げ、用いていく者へと変えられていくのです。そのように変わることによって救われるのではありません。この金持ちも、貧しいラザロをそれなりに支えていました。このような善意は、決して信仰者のみに見られるものではありません。人間には善意があり、目の前にいる貧しい人、困っている人を支え助けようという思いがあるのです。しかし悔い改めることをしなかった彼は、結局救いにあずかれなかったのです。私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神様が成し遂げて下さった罪の赦しの恵みを信じ、悔い改めて、神様の恵みによって生かされる本来の自分に立ち返ることにこそあります。主イエスはこの物語によってその救いへと私たちを招きつつ、問いかけておられるのです。「悔い改めて神様による罪の赦しの恵みにあずかって生きるあなたがたは、自分の門前にいるラザロとどのように共に生きようとしているのか。自分に預けられている富を、力を、時間を、どう用いようとしているのか。あなたがたの悔い改めが本物であるかどうかが、そこで試されるのだ。」

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