主日礼拝

時を見分ける

「時を見分ける」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第130編1-8節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第12章54-59節
・ 讃美歌:18、22、577

弟子と群衆
 礼拝においてルカによる福音書を読み進めてまいりまして、第12章の最後のところに来ました。本日の箇所の冒頭、54節に「イエスはまた群衆にも言われた」とあります。この文章は12章の1節と対になっています。1節はこのように始まっていました。「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた」。このことはこれまでにも繰り返し指摘してきましたが、この12章は、主イエスのもとに数えきれないほどの群衆が集まって来たことを語った上で、主イエスが先ずその群衆にではなく弟子たちに対して話し始めたことを語っています。基本的には弟子たちに対する教えが53節まで語られており、本日の箇所、54節に至ってようやく、群衆に対しても語り始めたのです。ルカはそのように、主イエスが弟子たちと群衆とをはっきりと区別しながら語っておられることを示しています。この区別にはいったいどんな意味があるのでしょうか。
 弟子たちというのは、言うまでもなく主イエスに従って共に歩んでいる人々です。彼らは主イエスから「わたしに従って来なさい」と声をかけられ、一切のものを捨てて従って来たのです。それに対して群衆というのは、主イエスの評判を聞いて集まって来た人々です。その中には、いろいろな悩み苦しみをかかえて真剣に主イエスによる救いを求めていた人もいました。しかし中には、この12章の13節に出てくる人のように、「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と願うために来た人もいました。ラビと呼ばれていた当時の律法の教師たちは、このような民事裁判的なことも行なっていたので、主イエスをラビの一人だと思った人はこのような願いをもってやって来たのです。さらには、このごろ評判になっているイエスという人を一目見、その話を聞いてみたい、というまさに野次馬的な思いで来た人々もいたでしょう。そのように群衆の中身は様々です。しかし共通して言えることは、この人々は主イエスに従おうとしているわけではない、弟子として共に歩もうとしているわけではない、ということです。弟子たちと群衆の間には、そういうはっきりとした違いがあるのです。ルカはその違いをはっきり意識して語っています。それは、同じように主イエスのもとに集まり、その教えを聞いている人々の中にも、弟子たちと群衆という大きな違いがあることを彼がはっきり意識していたということです。このことは、今この礼拝に集い、聖書のみ言葉を共に聞いている私たちにもそのままあてはまる、と言えるでしょう。私たちは今ここに、主イエスの弟子としているのでしょうか、それとも群衆としているのでしょうか。
 主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会のメンバー、クリスチャンとなっている人は、主イエスの弟子としてここにいるはずです。信仰者とは、主イエスに従う者、主イエスのあとについていく者です。捨てるべきものを捨てて、主イエスの弟子となり、主イエスと共に生きる、それが信仰者、クリスチャンの歩みなのであって、信仰者は群衆、野次馬とは違うのです。けれども、そこで私たちはとまどいを覚えます。洗礼を受け、教会員、クリスチャンとなったけれども、私は果して主イエスの弟子として歩んでいるだろうか。今この礼拝においても、弟子としてみ言葉を聞いているだろうか。弟子というよりもむしろ群衆のような思いでみ言葉を聞いているのではないだろうか。自分の耳に心地よい、慰めと感じる言葉だけを聞き取り、そうでない、耳障りな、あるいは耳が痛いような話はスルーして聞かない、主イエスに聞き従うというよりも、自分の都合に主イエスの方を合わせようとしている、そんな姿勢でいるのだとしたら、私たちは弟子として歩んでいるとは言えないのであって、なお群衆の一人に留まっているのです。礼拝に集い、み言葉を聞いている自分自身を振り返って見て、そのように内心忸怩たるものを覚えない信仰者はいないのではないでしょうか。「イエスはまた群衆にも言われた」という54節以下のみ言葉は、そのように、本来主イエスの弟子であるはずなのに、むしろ群集の一人のようになってしまっているような信仰者にも、そして勿論、まだ信仰をはっきりと持っておらず、半信半疑の中にあり、果して主イエスを自分の救い主と信じることができるのだろうか、と自らに問いつつこの礼拝に集っておられる方々にも、つまりここに集っている全ての者たちに語りかけられている主イエスのみ言葉なのです。

今の時を見分ける
 主イエスはここで私たちに何を語りかけておられるのでしょうか。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」。私たちは、空や地の模様を見分けながら日々生活しています。今日も暑くなりそうだから熱中症に気をつけなければ…、今日は傘を持って出た方がよさそうだ…、今日は洗濯物を外に干せそうだ…、などと毎日判断しています。農業を営んでいる人にとってはそれはもっと切実、深刻なことでしょう。ベテランになると、天気図を読む知識はなくても、経験から、天候の変化を察知することができるのです。あなたがたはそのように空や地の模様を的確に見分けることができるのに、どうして今の時を見分けることができないのか、と主イエスは言っておられます。今の時を見分ける、それは、様々な徴から、今がどのような時であるかを正しく知り、これから何が起るのかを正確に見通し、それに対処する、ということでしょう。そういう知恵を持て、と主イエスは言っておられるのです。私たちはこのような知恵の大切さを知っています。例えば、社会的、経済的に今の時を見分け、世の中がこれからどう動くか、為替相場や株価がどうなるかを見通すことができれば、社会的に成功することができるでしょうし、ひと財産築くことができるでしょう。しかし言うまでもなく、主イエスがここで「今の時を見分ける」と言っておられるのは、社会や経済の情勢を見分けることではありません。主イエスはいったい何を見分けることを求めておられるのでしょうか。

あなたを訴える人
 そのことは、57節以下を読むことによって分かってきます。57節に「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」とありますが、これは、「どうして今の時を見分けることを知らないのか」と同じことを語っています。今の時を見分けるとは、何が正しいかを判断することです。そしてここで判断すべき正しいこととは何かが、58、59節に語られているのです。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには」というのは、もしそういう事態になったなら、という仮定の話ではありません。主イエスは、今あなたは、自分を訴える人と一緒に裁判官のところへ向っているのだ、と言っておられるのです。自分がそういう状況にあることをはっきりと知ることこそが、何が正しいかを判断することであり、そしてそれが、今の時を見分けることなのです。
 自分を訴える人がいる、主イエスはここで私たちに、目を開いてそのことを見つめさせようとしておられます。「最後の一レプトンを返すまで」ということから分かるように、この訴えは、借金の返済を求める訴えです。つまり私たちには、返済しなければならない借金、負債があるのです。聖書においてこの借金、負債は、罪を表すたとえとしてしばしば用いられます。借金は返すか、免除してもらわなければいつまでも残ります。同じように罪も、償うか、赦してもらわなければ解決しないのです。あなたには、償うか、赦してもらわなければならない罪がある。あなたがその罪を犯し、傷付け、苦しめている人があなたの傍らにいて、あなたはその人と共に、役人あるいは裁判官、つまり裁きをする者のもとへと向っているのだ、それが、あなたの置かれている状況、立場だ、そのことを正しく知り、見分けなさい、と主イエスは言っておられるのです。
 このことを見分けたなら、そこでなすべきことが明らかになります。「途中でその人と仲直りするように努めなさい」ということです。自分が罪を犯し、傷付け、苦しめているその人と仲直りする。それは、ただ「仲直りしよう」と言うだけでは実現しません。自分の罪を認めてきちんと謝ること、ごめんなさいと言うこと、そしてできるだけの償いをし、相手の赦しを求めることです。借金と違って罪は、いくら返したからこれでもう返済終了、というわけにはいきません。私たちのできる罪の償いには限りがあり、赦してもらうことなしには解決はしないのです。あなたにはそのように、赦してもらうことでしか解決しない罪がある、そのような歪んだ、ねじれた関係に陥っている相手がいる、しかもその人はどこか遠くにいるのではない、あなたのすぐ傍を共に歩んでいる、目を開いてそのことを見つめ、その人と仲直りをするために、赦してもらうために努めなさい、それが、今の時を見分けること、何が正しいかを自分で判断し、実行することなのだ、主イエスはそのように、弟子たちだけでなくご自分の周りに集まっている群衆全体に、つまり信仰者にだけでなく、信じていない人々にも、疑いや迷いの中にある人々にも、語りかけておられるのです。

偽善者
 あなたには、赦しを求めなければならない隣人がいる、という主イエスのみ言葉を私たちはどう受け止めるでしょうか。自分には赦してもらわなければならないような人はいない、人を傷付けたり苦しめたりする罪は犯していない、と思うなら、主イエスは私たちのことを、空や地の模様を見分けることは知っているのに、今の時を見分けることを知らない偽善者と呼ばれるのです。56節に「偽善者」という言葉が出てくることを、私たちは最初不思議に思います。今の時を見分けることができない者のことがどうして偽善者と呼ばれるのか、「愚かな者」であれば分かるが、と感じるのです。しかし、今の時を見分けることの内容を57節以下から示され、自分を訴える人、自分が罪を犯し、赦してもらわなければならない人がいることを認めることこそが今の時を見分けることだと知らされる時、それを認めないこと、つまり自分の罪を認めず、赦してもらわなければならないことなどないと言い張ることがまさに偽善であることが分かります。偽善者というのは、自分の罪を覆い隠して善良な者であるように装っている者ですが、私たちが偽善に陥るところで起っていることはむしろ、自分の罪に目を塞いでそれを見ようとせず、またそれを見ないために自分の正しさを必死に主張している、ということなのではないでしょうか。

裁き主である神のみ前に出る
 あなたは、あなたを訴える人と一緒に裁く者のもとへと向う途上にある、ということを主イエスは私たちに見つめさせようとしておられます。隣人に対する私たちの罪を裁く、ここで役人とか裁判官と呼ばれているのは誰のことでしょうか。それは言うまでもなく神様です。神様以外の誰も、私たちと隣人との間の罪を裁くことはできません。人間の裁判によって裁かれるのは、その罪の中のほんの一部に過ぎないのです。主イエスはここで、あなたを訴える人がいる、ということだけではなくて、あなたは、人と人との間を本当にお裁きになる神様のみ前に出るのだ、ということも語っておられるのです。あなたの人生は、裁き主である神様のみ前に出ることへと向っている、今の時を見分けるとは、このことに目を開くことでもあるのです。主イエスはこれまでの所で、弟子たちに対する教えとして同じことを語ってこられました。「あなたがたは主人の帰りに備えて待っている僕だ」という教えがそれです。主イエスを信じ従っている弟子たちに対しては、主人である主イエスがもう一度来られ、裁きをなさる時が来ることを示し、目を覚まして主人の帰りに備えるようにと教えられたのです。本日の箇所は、群衆に対する教えです。主イエスを信じ従っているわけではない、しかしそれぞれなりの興味や関心を抱いて集まって来た人々に対しては、あなたがたはいつか神様のみ前に出るのだ、とお教えになったのです。そして神様のみ前に出る時、そこであなたがたの罪が問われる、あなたがたには訴えられるような罪があり、その罪が神様によって裁かれるのだ、そのことを覚えて、今のうちに、あなたを訴える人と仲直りをするように努力しなさい、とおっしゃったのです。

神の支配と導きと裁き
 このように見てきた時、本日のところの群衆に対する教えと、これまでの、弟子たちに対する教えとを貫いている一本の糸が見えてきます。その糸とは、神様のご支配と、導きと、そして裁きを覚えて生きなさい、ということです。4節以下には、本当に恐れるべき方は、人間ではなくて神であることが語られていました。13節以下に出てくる「愚かな金持ち」の愚かさとは、自分の持ち物によって人生が支えられると思い、神様のご支配を見つめていなかったことでした。22節以下には、神様のご支配と導きを信じて生きる所にこそ、思い悩みや心配からの解放が与えられることが語られていました。そして35節以下には、先程申しましたように主人の帰りを待っている僕としての弟子たちのあり方が教えられていました。いずれも、神様が主人であり、そのご支配と導きの中に自分が置かれており、そして最後にはこの神様の裁きの前に立つことを覚えて生きるべきことが教えられていたのです。本日の箇所の群集に対する教えも、この神様のご支配、導き、裁きを覚えて生きることを人々に教えています。信仰とは、神様の支配と導きと裁きとを覚えて、神様と共に生きることなのです。

神の裁きによってこそ
 ここでは特に神様の裁きのことが強調されています。そしてその裁きが、私たちが隣人に対して犯す罪に対して下されることが指摘されているのです。隣人との関係においてこそ、私たちは、自分の罪をはっきりと示され、知らされます。そこでは、自分の罪が、抽象的、観念的なことではなくなり、具体的現実的な、隣人と自分との関係を損ない、交わりを破壊し、お互いを傷つけ苦しめるものとして意識されるのです。私たちは先ずその罪をしっかり見つめなければなりません。そこで、「自分は罪人ではない」と言い張るとしたらそれは、ものがまともに見えていない偽善者となっているということです。そして自分の罪を知ったなら、私たちは、罪を犯している相手と仲直りするように努めなければなりません。赦しを得るために努力していくのです。それは簡単なことではありません。自分のプライドがそれを妨げます。私にだって言い分がある、という言い訳がいくらでも生まれてきます。しかしそれらを乗り越えて仲直りに努めることが、自分の罪を知った者のなすべきことなのです。けれども私たちがそこで体験するのは、私たちが謝ったり、償いをしたりということで、この罪は解決しない、ということです。つまり私たちには、「途中でその人と仲直りする」ことができないのです。人間どうしの罪は、人間どうしの間で解決、決着をつけることはできず、結局、神様という裁き主の前に持ち出されざるを得ないのです。信仰をもって生きるとは、このことを意識して生きることだと言えます。人間どうしの間の罪の問題を、人間どうしの間で解決、決着できるなら、信仰などいらない、神様を信じる必要はない、と言えるでしょう。しかしそれはできないのです。人間の罪は神様によって裁かれることによってしか、解決、決着を見ることはないのです。

神による裁きはどのようになされたか
 主イエスは群衆の目を、この神様による裁きへと向けさせようとしておられます。あなたを訴える人によってあなたの罪が神様の前に持ち出される時、あなたは看守に引き渡され、牢に投げ込まれ、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない、と言っておられるわけです。これが、私たちが本来受けなければならない裁きです。隣人に対して罪を犯し、傷付け、苦しめており、そして途中で仲直りすることができない、本当に謝って赦してもらうことができない私たちは、このような裁きを受けることこそが相応しい者なのです。しかし聖書は、神様による裁きが、これとは違う仕方でなされたことを語っています。この教えを語っておられる主イエス・キリストが、私たちの罪を全てご自分の身に背負って下さり、私たちが受けるべき裁きを代って引き受けて下さったのです。それが主イエスの十字架の死です。主イエス・キリストが、十字架の死刑を、私たちに代って受けて下さったのです。私たちに下されるべき神様の裁きは、神様の独り子であられる主イエス・キリストに下されたのです。この主イエスの十字架の死によって、私たちは罪を赦され、新しく生きる者とされたのです。主イエスがここで見つめさせようとしておられる神様の裁きは、主イエスの十字架の死によって、新しい様相を呈しています。先ほど、人間の罪は神様によって裁かれることによってしか、解決、決着を見ることはない、と申しました。その解決、決着は、神様の独り子である主イエスが、私たちに代ってその裁きを受けて下さり、私たちには、罪の赦しが与えられ、宣言される、という仕方でつけられたのです。

今の時を見分ける
 今や私たちは、主イエス・キリストによって実現したこの新しい救いの時を生きています。私たちが見分けるべき今の時とは、この主イエスによる罪の赦しの時なのです。主イエスの十字架による罪の赦しが差し出されている今のこの時をしっかりと見分けるなら、私たちは、何が正しいか、どうすべきかを自分で判断し、判断したことを実行することができます。すなわち、群衆の一人としてたたずんでいることをやめ、罪の赦しへと招いて下さっている主イエスの呼びかけに応えて立ち上がり、主イエスの弟子となって従っていくのです。そして自分の罪から目を背けることなく見つめ、自分が罪を犯し、傷付け、苦しめている人のもとに赴き、赦しを求め、仲直りするよう努めていくのです。主イエスの十字架による罪の赦しの恵みが私たちを支え、押し出して下さるので、勇気をもってその一歩を踏み出すことができるのです。

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