主日礼拝

信仰を言い表す

「信仰を言い表す」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第42編1節-第43編5節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第12章8-12節
・ 讃美歌:3、132、502

人々に囲まれている弟子たち
 前回、主の日の礼拝においてルカによる福音書を読みましたのは6月6日でした。その日に12章1~7節を読んだのですが、本日は一ヶ月ぶりにその続きの8節以下を読むことになります。冒頭の8、9節に、イエス・キリストのこのようなお言葉が語られています。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」。この言葉を語りかけられているのは主イエスの弟子たちです。主イエスは弟子たちに、あなたがたは人々の前で、自分を私の仲間であると言い表すのか、それともそんな人は知らない、と関係を否定するのか、と問いかけておられるのです。これが弟子たちに対するお言葉であることは、一ヶ月前に読んだ1節に示されています。「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた」とあります。数えきれないほどの群衆が集まって来ている中で、主イエスはまず弟子たちに対して話し始められたのです。その言葉が8節以下も続いているのです。このことは捉えようによっては、主イエスが群衆を無視して弟子たちだけに語られたようにも思えます。せっかく群衆が集まっているのだからみんなに向かって語ればよいのに…、弟子たちだけに語るのは、弟子たちと主イエスだけの所でにすればよいのに…、とも思うのです。しかし、このような語り方にこそ意味があるのだ、ということを前回申しました。弟子たちの周囲には数えきれないほどの群衆がいて注目しているのです。つまり弟子たちは今まさに「人々の前」に置かれているのです。そのような状況の中でこそ、自分を主イエスの仲間であると言い表すのか、それとも知らないと言うのか、という問いはせっぱつまった切実なものとなるのです。

迫害の危機の中で
 この問いが切実な問題となる理由についても前回申しました。11章の最後の所、53、54節には、律法学者やファリサイ派の人々が主イエスに対して激しい敵意を抱き、何か言葉尻をとらえようとねらうようになったことが語られています。ユダヤ人の指導者たちの間に、主イエスに対する敵意、殺意がエスカレートしてきているのです。つまり、迫害の危機が迫っている。自分を主イエスの仲間、弟子であると言い表すなら、迫害が自分の身にも及ぶかもしれないという状況の中に弟子たちは置かれているのです。だから、人々の前で主イエスと自分との関係をどう言い表すかは、とても切実な問題なのです。4節以下のみ言葉もそういう状況を意識していました。「体を殺しても、その後(のち)、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とあります。それは裏を返せば、体を殺されるかもしれない、つまり迫害によって殺されてしまうかもしれない、という状況があるということです。しかし、迫害する人間にできることは体を殺すことまでだ。肉体の死のさらに後で、救うことも滅ぼすこともおできになる神様がおられる。その神様が、あなたがたの髪の毛一本までもみ手の内に置いて下さっているのだから、迫害する人間をではなく、この神様をこそ恐れなさい、というのが4~7節の教えです。そういう教えを受けて本日の8節以下でも、人々を恐れることなく、その前で、自分をわたしの仲間であると言い表しなさい、と語られているのです。

同じ言葉を語る
 「わたしの仲間であると言い表す」という言葉ですが、これのもとの言葉は、「同じ言葉を語る」という意味です。相手と同じ言葉を語る、それはその人の語ることに同意し、自分も同じ思いであると言い表すこと、つまり仲間であると言い表すことです。その言葉はしかし人間どうしの関係においてよりも、神様や主イエスとの関係において用いられていきました。父なる神様や主イエスのみ言葉に同意し、それを信じ受け入れることを表明する時にこの言葉が使われていったのです。その場合には「告白する」と訳されることが普通です。「信仰告白」の「告白」です。信仰を言い表すことを「告白する」と言うわけですが、その「告白する」は「同じ言葉を語る」という意味の言葉から来ているのです。このことを知っておくのは大事です。なぜなら日本語における「告白」という言葉の意味は通常、「心の中に隠していることを表明すること」だからです。今「告白」という小説が映画になって上映され始めましたが、あれなどまさに「隠している自分の恐しい秘密を言い表す」という意味で使われています。しかし私たちが信仰を告白するというのは、そういう「告白」とは違うのです。私たちの信仰告白は、自分が思いついたことや考えたこと、あるいは秘めた思いを語ることではなくて、代々の教会が信じ、言い表してきたその信仰の言葉を受け継ぎ、それと同じ言葉を語っていくこと、同じ信仰に生きていくことなのです。

人々の前で信仰を言い表す
 これは少し脱線でしたが、人々の前で主イエスへの信仰を告白し、主イエスの仲間、というより弟子であることを言い表すことが求められています。そうするならば、「人の子も天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」とあります。「人の子」というのは主イエスがご自分のことを言われる言葉です。私たちが主イエスへの信仰を人々の前で告白するなら、主イエスご自身が天で、私たちのことを、ご自分と同じ言葉を語る者、仲間、弟子であると言い表して下さるのです。しかしもしも私たちが人々の前で主イエスを「知らない」と言うなら、つまり主イエスとの関係を否定し、拒むなら、主イエスも私たちのことを「知らない」と言うのです。ここに語られていることのポイントは、「人々の前で」主イエスと自分の関係をどう言い表すか、です。心の中では信じていて、イエス様のことを愛しているのだけれども、人々の前ではそれを表明できない、というのではやっぱりだめなのです。信仰は、心の中に隠し持っているだけでは本物にならないのであって、それを人々の前で言い表すことが必要なのです。そのことが、1~3節にも語られていました。そこには、ファリサイ派の人々の偽善に注意しなさいという教えがありました。ファリサイ派の人々の偽善は、表面をきれいに取り繕っているが、心の中は貪欲や悪意に満ちているというものでした。しかし主イエスがここで弟子たちに警戒させようとしておられる偽善はそれとは違います。それは主イエスを信じる信仰を心の中だけの事柄として隠してしまい、人々の前でそれを言い表そうとしないことです。人々を恐れ、迫害を恐れて、主イエスの仲間であるとはっきり言い表さないことです。そういうことは、ファリサイ派の人々が人前で自分を取り繕おうとする偽善と同じなのだ、と主イエスはおっしゃったのです。このように、12章は1節からずっと、人々の前で主イエス・キリストを信じる信仰を言い表すこと、自分が主イエスを信じる者であることをはっきりと表明することの大切さを語っています。ローマの信徒への手紙第10章10節でパウロは「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と語りました。心で信じた者は、それを口で公に言い表すのです。そこにこそ救いが与えられます。洗礼を受けることの一つの意味はそこにあります。私たちは、洗礼を受けることによって、人々の前で、自分を主イエスの仲間、主イエスを信じる者であると言い表すのです。その私たちに対して主イエスも、この人は私の仲間、友人、私と共に生きる者だと宣言して下さるのです。

聖霊を冒涜するとは
 さて10節には「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」とあります。これは謎のような言葉です。8、9節とのつながりも分かりにくいです。唯一分かることは、こういうことをしても赦されるが、こういうことをしたら赦されない、と語られていることです。赦されない罪がある、と語られているのです。それでこの言葉は私たちを不安にします。ひょっとして私は、「赦されない罪」を知らないうちに犯してしまっているのではないだろうか、そうしたらもう赦されることはなく、救われることもないのではないか、という不安を感じてしまうのです。
 「赦されない」と言われているのは、「聖霊を冒涜する者」です。それはどういうことなのでしょうか。なぜここに突然「聖霊」が出て来るのでしょうか。この10節は、10節だけを眺めていても意味が分かりません。前後の流れ、文脈をよく考えていく必要があります。聖霊は12節にも出てきます。そこには「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」とあります。10節に聖霊が登場することの意味を考える上での大事なヒントがここにあります。つまり聖霊は、言うべきこと、語るべき言葉を教えてくれるものとして見つめられているのです。聖霊は私たちに、語るべき言葉を与えてくれる。先ほどまで見てきましたように、この12章の1節からずっと、人々の前で自分を主イエスの仲間、弟子であると言い表すこと、つまり信仰を告白することの大切さが語られてきました。ですからこのあたりのテーマは、人々の前で、しかも迫害が迫る状況の中で、信仰を言い表す言葉を語ることの大切さです。11、12節も、「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたとき」に何を語るか、という話です。それは信仰のゆえに迫害を受け、逮捕され、裁判を受けるという状況を意識しています。そういうせっぱつまった場に立たされた時に何を語るか、そこで自分を主イエスの仲間、信仰者であるとはっきりと言い表すことができるか、それとも、自分の身を守るために「イエスなんて知らない、関係ない」と言ってしまうか、が試されるのです。1節における状況の設定から始まって、ここは一貫してそのように、人々の前で信仰を告白するか、それとも主イエスとの関係を否定するか、ということを見つめているのです。10節の「聖霊を冒涜する」という言葉もその文脈の中で読まれるべきです。つまりそれは、人々の前で信仰を告白する、という場面においてこそ生じることなのです。ですから、知らず知らずのうちに犯してしまう罪が聖霊を冒涜することに当ってしまうのでは、などと心配する必要は全くないのです。それでは、どのような言葉を語ることが聖霊を冒涜することになるのでしょうか。

聖霊が与えて下さる言葉
 聖霊は私たちに、信仰の言葉、信仰を言い表す言葉を与えて下さいます。ルカは聖霊のそのような働きを強調しています。そのことはこの福音書の続きとして書かれた使徒言行録において特に顕著です。その第2章に、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生したことが語られていますが、その時弟子たちは、聖霊によって、主イエスによる救いを語る新しい言葉を与えられたのです。使徒言行録は、この聖霊のお働きによって伝道が進展し、各地に教会が生まれていった様子を語っています。その聖霊が今に至るまで働いて下さっているのです。教会の二千年の歴史は、聖霊が信仰の言葉を与え続けて下さった歴史であると言うことができるのです。福音書は教会の誕生以前のことを語っていますが、ルカによる福音書のこれまで読んできた所にも、聖霊が信仰の言葉を与えて下さることが語られていました。11章13節に、「求めなさい、そうすれば、与えられる」という教えのしめくくりとして、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とありました。神様が、父としての愛によって私たちに与えて下さる良いものの中心が聖霊なのです。聖霊が与えられるとはどういうことか、それについては、ここを読んだ時に二つの箇所を引用してお話ししました。一つはローマの信徒への手紙第8章14、15節です。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。もう一つはガラテヤの信徒への手紙第4章6節です。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」とあります。この二つの箇所から分かるのは、聖霊によって私たちは、神様に向かって「アッバ、父よ」と呼びかける言葉を与えられるということです。「アッバ」というのは、小さい子供が父親を呼ぶ言葉です。子供が親の愛を無条件に信頼して「お父さん」と呼ぶ、そのような愛と信頼をもって神様に呼びかけ、語りかけていく言葉を、聖霊が私たちに与えて下さるのです。聖霊が与えてくれる信仰の言葉、信仰を言い表す言葉とはこの「アッバ、父よ」に代表される神様への信頼の言葉です。聖霊は私たちと神様との間に、父と子としての信頼関係を築いて下さるのです。そうすると、聖霊を冒涜する言葉というのは、この信頼関係を否定するような言葉、神様の父としての愛を否定し、神様との関係を否定するような言葉であると言うことができます。それはつまり、人々の前で「イエスなど知らない」と言うこと、自分が主イエスの仲間、弟子、信仰者であることを否定し、主イエスとの関係を拒んでしまうような言葉を語ることです。そのように主イエスとの関係を否定してしまうなら、主イエスによって与えられた神様の愛への信頼、神様を父と呼ぶ恵みを失ってしまうことは当然です。「聖霊を冒涜する者は赦されない」というのはそういうことです。それはいくら神様でもこれだけは赦すことのできない大きな罪がある、というのではなくて、神様が独り子イエス・キリストによって差し出しておられる救いの恵みを私たちが拒んでしまうなら、それにあずかることはできない、ということなのです。

人の子の悪口を言う者は皆赦される
 しかし私たちは、自分がまさにそういう、神様の父としての愛を疑い、それを否定してしまうような言葉、聖霊を冒涜するような言葉を語ってしまっていることを感じます。人々の前で、「イエスなど知らない」と言ってしまうこと、そうはっきり言葉に出さなくても、そういう態度、振る舞いをしてしまうことがある、と感じます。そのような自分はもう赦されない、滅びるしかないのだろうか、とやはり思ってしまうのです。しかしそこで私たちに与えられているのが、「人の子の悪口を言う者は皆赦される」というみ言葉です。人の子、主イエスの悪口を言っても赦される。しかし主イエスの悪口を言うというのは、主イエスが救い主であることを否定し、神様の父としての愛を拒むこと、つまりまさに聖霊を冒涜することなのではないでしょうか。私たちは、消極的に、主イエスのことを知らないような態度を取ってしまうことがあるけれども、悪口を言うというのはもっと積極的に敵対することです。それでも赦されるということと、聖霊を冒涜する者は赦されないということはどう結びつくのでしょうか。

ペトロに起ったこと
 このことは抽象的に考えていても分かりません。一人の人の具体的な例によって考えたいと思います。それは主イエスの第一の弟子だったペトロのことです。ペトロは、主イエスが逮捕され、大祭司による裁きを受けている時に、その中庭に入ってそっと成り行きを伺っていました。その時、周りの人から、「あなたもあのイエスの仲間だろう」と言われて、三度「そんな人は知らない」と言ったのです。まさに、人々の前でわたしを知らないと言う者、になってしまったのです。主イエスとの関係を否定する言葉を語ってしまったのです。先ほど申したことからすれば、もう彼は主イエスの救いにあずかることはできないというのが当然の帰結なのです。しかしペトロは、主イエスの復活の後、再び弟子として、信仰者として歩み出すことができました。そして、初代の教会の最大の指導者の一人となったのです。それは彼が、主イエスを知らないと言った罪を赦されたということです。彼はどのようにして赦され、新しくされたのでしょうか。それはひとえに、復活なさった主イエスが彼に出会い、語りかけ、招いて下さったからです。主イエスは「あなたが私のことを『知らない』と言ったその罪を、私は全て背負って十字架にかかって死んだ。そのことによってあなたの罪は赦されている。あなたは私との関係を否定してしまったけれども、私は十字架の死と復活によってそのことを乗り越えて、あなたとの関係をもう一度結び直したい」と言って彼に手を差し伸べて下さったのです。ペトロは、その主イエスの手を自分からも握り返しました。そのことによって彼は罪を赦され、主イエスを信じ従う者として新しく生き始めることができたのです。私たちはこのペトロの姿から、「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」というみ言葉の意味を知ることができます。私たちはペトロのように、主イエスを知らないと言ってしまうことがあります。神様の愛を疑い、主イエスとの関係を否定するようなことを言ったり、そういう行動に出たりしてしまいます。しかしそのような罪人であり、滅びるしかない私たちのために、その私たちの罪を全て背負って、主イエスは十字架にかかって死んで下さり、私たちの罪を赦して下さっているのです。聖霊なる神が、今私たち一人一人に働いて、この主イエスによる罪の赦しの恵みを示し、与えようとして下さっています。主イエスが、聖霊のお働きによって、私たちに、手を差し伸べて下さっているのです。私たちが、その救いのみ手を、自分からも手を伸ばして握り返すならば、私たちの全ての罪が赦されます。どんなに人の子の悪口を言っていたとしても、赦されるのです。聖霊を冒涜するとは、この主イエスの差し伸べて下さっているみ手を振り払うことです。主イエスの十字架の死による赦しを拒み、そんな救いは必要ない、自分には関係ないと宣言することです。そうでないならば、主イエスの十字架による罪の赦しにすがっていくならば、私たちは主イエスの恵みによって与えられる赦しにあずかることができるのです。

信仰を告白する言葉
 私たちはこの礼拝において、聖霊のお働きを受け、主イエス・キリストによる赦しの恵み、救いにあずかり、そこから、それぞれの生活へと、人々の前へと、遣わされていきます。そこで、人々の前で、どのような言葉を語るか、自分を主イエスの仲間、信仰者であるとはっきりと言い表す言葉を語ることができるか、が問われています。それが私たち信仰者の日々の課題です。それは重い課題ではありす。けれども心配することはありません。「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」のです。信仰を告白する言葉は、聖霊が私たちに与えて下さるものです。その聖霊のお働きを信じて、心配しないで身を委ねることこそが、私たちに求められているのです。本日は、詩編42、43編を共に読みました。この詩を歌った詩人は、人々から絶え間なく「お前の神はどこにいる」という嘲りを受けています。その苦しみの中で、神様のお姿を見失い、「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか」という嘆きの声をあげています。水を求めて谷に降りて来たけれども川は涸れていて渇きを癒すことのできない鹿のように、彼の魂は命の神を求める渇きに苦しんでいるのです。しかしそのような渇き、嘆きの中で、彼は繰り返し、自分の魂に向かって信仰の言葉を語っていきます。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」。私たちも、このような信仰の告白の言葉を繰り返し与えられていくのです。

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