主日礼拝

内側の清さ

「内側の清さ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第103編1-22節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第11章37-44節
・ 讃美歌:342、149、411

ペンテコステ
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日と呼ばれる日です。クリスマス、イースターと並ぶ、教会の三大祝祭日の一つです。このペンテコステがどのような出来事を記念する日なのかということは、新約聖書使徒言行録の第2章に語られています。復活した主イエスが天に昇られてから十日目、弟子たちが集まっていると、彼らの上に聖霊が降り、彼らは聖霊の力を受けて主イエス・キリストによる救いを宣べ伝え始めた、そのようにして聖霊の働きによって教会が誕生したことを記念するのがこのペンテコステの日です。しかし本日のこの礼拝では、そのペンテコステの出来事を語っている箇所ではなく、今礼拝において読み進めておりますルカによる福音書の続き、第11章37節以下を読むことにしました。その理由は後で申します。

ファリサイ派の驚き
 ここには、主イエス・キリストが、あるファリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着いた時のことが語られています。38節に「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」とあります。食事の席に着くに際して主イエスが身を清めることをなさらなかったのを、このファリサイ派の人は不審に思ったのです。「不審に思った」という言葉はもっと単純に「驚いた、びっくりした」という意味です。身を清めることをせずに食事の席に着いた主イエスに彼はびっくり仰天したのです。この人の驚きを理解するためにはいくつかのことを知らなければなりません。先ず、「身を清める」ということについてですが、前の口語訳聖書ではこれは「洗う」と訳されていました。水で洗うことによって身を清める、という意味であり、日本で言えば「斎戒沐浴」というようなことです。そういうことが食事の前にもなされていたのです。しかし食事の前に全身を水で清めたというわけではなかったようで、マタイによる福音書の15章を読むと、主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないためにやはりファリサイ派の人々に批判されたことが語られていますから、「手を洗う」ことによって全身の清めを象徴させていたのでしょう。ですから食事の前に身を清めなかったとは、具体的には手を洗わなかったということです。ファリサイ派の人はそのことに驚いたわけですが、それは「なんと非衛生的な」という驚きではありません。この「清め」は宗教的な事柄です。食事の前に手を洗うのは、お腹をこわさないためではなくて、宗教的な汚れを身に負ってしまわないためです。そしてそこに、この人がファリサイ派だったことが関係してきます。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ人たちの中で、神様の掟である律法を厳格に守ることによって、神様の前に出ることができる清い者であろうとすることに、逆に言えば汚れた者となることを防ぐことに熱心であり、そのような生活を人々にも教え勧めていた宗教的グループです。つまりこの人々は人一倍清さにこだわり、そのために律法を守ることに熱心であり、倫理的、道徳的な戒めのみでなく、こういうものを食べると汚れる、こういうものに触れると汚れる、という祭儀的な戒めをも厳格に守っていたのです。だからこそこの人は、神の教えを宣べ伝えているはずの主イエスが、そのような宗教的清さに無頓着に、手を洗いもせずに食事の席に着いたことにびっくりしてしまったのです。

ファリサイ派の不幸
 そのように驚いているこのファリサイ派の人に主イエスが語った言葉が39節から44節です。ここには、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」ということが、42、43、44節に三度繰り返して語られています。「不幸だ」は口語訳聖書では「わざわいである」と訳されていました。つまりこれは「かわいそうに」という同情ではなくて批判です。主イエスはファリサイ派の信仰のあり方を厳しく批判なさったのです。その批判のポイントは最初の39節に示されています。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。外側ばかりをいっしょうけんめいきれいにするが、内側は汚れに満ちているのがファリサイ派の人々の姿だと主イエスは言われたのです。食事の前に身を清めることにこだわることを主イエスはそのように、内側をないがしろにして外側ばかりをきれいにしようとすること、と捉えておられるのです。そしてこれと同じような批判が42節以下に繰り返されていきます。42節には、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」とあります。自分の得た収穫の十分の一を神様に献げるべきことが律法に定められています。主イエスはこの定めを決してどうでもよいとか、こんなものは守らなくてよいとは言っておられません。「もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」とあります。収入の十分の一を神様に献げるというのは、私たちにおいても、神様への捧げもの、献金について考える上での基準となることです。しかしここで主イエスはファリサイ派の人々が、「薄荷や芸香やあらゆる野菜」の十分の一を量って献げながら、「正義の実行と神への愛」をおろそかにしていることを問題にしておられます。収穫の十分の一を献げるという掟を厳格に守っていても、「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」のでは何にもならない、それでは外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じだ、ということです。また43節には、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」とあります。会堂で上席に着くとか広場で挨拶されるというのは、人々に尊敬され、一目置かれるということです。神様の教えを語っている人に対してそういうことが自然に起ってくることはあるでしょう。しかしここでは、そういうことを「好んでいる」とあります。つまり、人に褒められ、尊敬され、重んじられることが、結果ではなくて目的になっているのです。つまり彼らファリサイ派は神様に従い仕える生活を教え、神様にこそ誉れ、栄光を帰すことを主張していますが、それは実は建前でしかなくて、本音においては自分の誉れ、栄光、自分が人から尊敬され褒められることを求めているのです。それは外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じです。ファリサイ派の人々は、外側においては神様を重んじてその掟に従っているように見えるが、内側においては、神様との関係における本当に大切なことをないがしろにし、むしろ自分の誉れを求めているのです。そして彼らは他の人々をもそのような生き方へと引き込もうとしています。そのことが44節に、一つのたとえによって語られているのです。「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」。律法には、死体に触れた者は汚れる、という教えがあります。それゆえにユダヤ人たちにおいては、死体を葬る墓というのは汚れた場所でした。だから間違って墓の上を歩いたりして汚れを身に受けるようなことがないように、墓にはちゃんと「ここは墓だ」と分かるような目印を着けたのです。ところがここには「人目につかない墓」とあります。人目につかないのでそこに墓があることが分からずにその上を歩いてしまって汚れた者になってしまう。つまり「人目につかない墓」とは、見た目には汚れていないように見えて実は人を汚すものを表すたとえです。ファリサイ派の人々は、神様に従って生きる生活を教えているように見えて、実は神様ではなくて自分の誉れのために生きる人間を作り出しているのです。「内側は強欲と悪意に満ちている」というのはそういうことです。別にファリサイ派の人が私利私欲に走り、神様を利用して金儲けをしていたわけではありません。しかし彼らは、自分の清さ、正しさを求めることによって、神様よりも自分の栄光を追い求め、人よりも立派な者になることに誇りと喜びを見出すような生き方に陥っているのです。

私たちこそファリサイ派?
 このようなファリサイ派の人々の姿は私たちと無縁ではないでしょう。現代の私たちの社会において、ファリサイ派に最も近い生き方をしているのは、真面目で熱心なクリスチャンではないでしょうか。世間の人々もそう見ています。つまりクリスチャンというのは、品行方正で、真面目で親切だけれどもあまり融通のきかない、時として教条主義的な人、というイメージが作り上げられています。クリスチャン自身もそういうイメージを持っていて、一生懸命真面目に品行方正に、要するにキチンとして生きようとします。そういう中でいつしか、真面目で品行方正に清く正しく生きることが信仰だと勘違いをしてしまうことが起ります。そして自分の清さ正しさを量り、それをいつも他の人と見比べながら、誇ったり落ち込んだりという一喜一憂を繰り返すことになります。そうなると信仰をもって生きることは窮屈なことになり、伸び伸びと自由に喜んで生きることができなくなります。苦しい修行に耐えて生きることが信仰のイメージになるのです。そしてそこには、自分はこんなに修行を積んでキチンと信仰者らしく生きている、という誇りと自負が、それに比べてあの人はだらしがない、という人への批判や軽蔑が生まれます。このような信仰のあり方はまさにファリサイ派そのものです。そこには、主イエスがおっしゃったように、外側だけをきれいにして内側は汚れに満ちているような、建前だけの、病んだ、屈折した、喜びのない生き方しか生まれないのです。今の日本の社会において、このような生き方に最も陥りやすいのは私たちクリスチャンではないかと思います。私たちは、ここに語られている主イエスのみ言葉を、自分自身に対するみ言葉として聞かなければならないのではないかと思うのです。

外側と内側
 主イエスは40節で、「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」とおっしゃいました。杯や皿のことが語られているわけですが、外側だけで内側のない杯や皿はあり得ません。そしてその外側と内側は勿論私たち人間の外側と内側、外面と内面、人に見える部分と心の中をたとえているわけで、外面だけをきれいにしても、内面、心の中が汚れに満ちていたのでは何にもならない、ということを言っているわけです。それは誰にでも分かる当たり前のことだとも言えます。しかし私たちがこのお言葉から本当に聞き取るべきなのはむしろ、外側も内側も神がお造りになった、と言われていることです。主イエスはそのことにこそ私たちの目を向けさせようとしておられるのです。
 私たちの外側も内側も神様がお造りになった。そのことで思い起こすのは旧約聖書創世記の第2章7節です。そこには神様が人間をお造りになったことについて、このように語られています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神様が土の塵で人を形づくられた、それが「外側」を造られたことに当ると言えるでしょう。そしてそこに「命の息を吹き入れられた」、それが「内側」を造られたことに当るのではないでしょうか。土の塵で造られたのは私たちの外面、肉体です。神様はそこに命の息を吹き入れることによって、私たちを生きる者として下さいました。それは私たちに内面を、魂を与えて下さったということです。そのことは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編103編も語っています。その14~16節には、「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ、生えていた所を知る者もなくなる」とあり、人間が土の塵から造られた、弱くはかないものであることが見つめられています。しかしこの詩は1節で「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ」と歌っています。土の塵で造られた人間に、魂が、「内にあるもの」が与えられており、その魂において人間は神様をほめたたえることができる、神様との交わりに生きることができることが歌われているのです。「外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」というみ言葉はこのことを見つめています。つまりそれは単に外側のことだけでなく内側のことも考えよ、と言っているのではなくて、あなたがたは外側も内側も神様によって造られた者であり、特に内側、魂において、神様との交わりに生きるべき者なのだ、あなたがたは単に肉体において生きているのではなくて、魂においてこそ生きているのだ、と言っているのです。

ペンテコステの出来事
 神様が命の息を吹き入れて下さり、それによって私たちに魂が与えられ、それによって私たちは生きた者となった。実はこのことこそ、本日このペンテコステの礼拝においてこの箇所を読もうと思った根本的な理由です。神様が吹き入れて下さった命の息、それは「霊」を意味する言葉でもあります。つまり私たちは、土の塵である肉体に、神様の霊によって命を与えられているのです。その命とは単なる肉体的な生命ではなくて、魂とか心、つまり私たちの内面の命です。神様の霊、聖霊によって魂を、心を、内面の命を与えられて生きている、人間とは基本的にそういうものだと聖書は語っているのです。そしてその人間に、神様が再び新たに聖霊を注ぎ、新しい命を、新しい魂を、新しい内面を与えて下さり、新しく生かして下さったのがペンテコステの出来事です。ペンテコステの日に弟子たちが体験したのはそういうことだったのです。彼らは聖霊が降ったことによって力を与えられ、主イエスによる救いを宣べ伝えていきました。それは彼らが新しい命を、新しい魂を与えられ、主イエスによる神様の救いのみ業を語り、ほめたたえる新しい言葉を与えられたということなのです。

聖霊の息吹によって
 このことによって教会が誕生しました。キリスト教会は、聖霊によって与えられた新しい命、新しい魂に生きる者たちの群れです。なぜ新しい命、新しい魂が必要だったのか。それは私たちが、本来神様との交わりに生き、神様をほめたたえるために与えられたはずの命を、他のことのために、自分が主人となり、神様の栄光よりも自分の誉れを追い求めるために用いてしまっているからです。それが私たちの罪です。その罪のために私たちの命は、魂は、神様とのよい交わりを失い、それに伴って隣人とのよい交わりをも失い、本来の活力と喜びを失っています。その私たちの罪を身代わりになって背負い、赦しを与えて下さるために、神様の独り子イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さいました。父なる神様はその主イエスを復活させることによって、私たちのための新しい命を、罪を赦されて生きる新しい魂を実現して下さったのです。その新しい命、新しい魂は、聖霊の息吹によって私たちに吹き込まれます。ペンテコステの日に弟子たちに降った聖霊が、私たち一人一人にも降り、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みを信じる信仰を与え、その救いにあずかることの印である洗礼へと私たちを導き、キリストの体である教会の一員として下さるのです。本日も一人の姉妹がこの聖霊の息吹を受けて洗礼を受け、新しい命、新しい魂を与えられて生き始めます。主なる神様が、外側を造り、これまで生かしてきて下さった姉妹に、新しい内側を造り与えて下さるのです。

聖霊による新しい命
 キリスト信者、クリスチャンとして生きるとは、神様が御子イエス・キリストによって実現し、聖霊によって与えて下さる新しい命に生きることです。その新しい命は、私たちが自分の外側をどれだけ清く保ち、品行方正に、真面目に、いわゆるクリスチャンらしいと世間で言われているような生活をキチンとしていくか、ということとは何の関係もありません。新しい命は神様が造り与えて下さるのであって、私たちが自分で造り上げたり守ったりするものではないのです。41節のみ言葉がそのことを語っているし、またそのようにこそ読まれるべきものです。「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」と主イエスは言われました。これは、自分の持っているもの、財産を貧しい人に施すという立派な行ないをすることによってあなたは外側だけでなく内側も本当に清い者となることができる、ということではありません。そのように考えたら、それは結局施しによって自分の清さ、誉れ、名誉を求めるということになります。「器の中にある物を人に施す」ことのポイントは、立派な慈善行為をすることにではなく、それによって自分という器の中には何もなくなる、からっぽになる、ということにあるのです。それは、自分が自分の器の中に持っているもの、財産だけでなく、清さ、正しさ、人に尊敬される立派さなども含めて、自分が何を持っており、どのようにキチンと生きているか、ということを拠り所、生き甲斐、誇りとして生きることをやめる、ということです。そのように自分はからっぽになり、そこに、私たちの外側をも内側をも造り、命を与え、養い守り導いて下さる神様の恵みをいただくのです。「そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」。自分の清さを溜め込もうとするのでなく、からっぽになって神様の恵みをいただき、自分に与えられたものを感謝して用いていくことによって、全てのものが清いものとなるのです。つまり、これは汚れているのではないか、こんなことをしたら汚れるのではないか、などとびくびく恐れることなしに、神様に与えられている自分の人生を大胆に、自由に、伸び伸びと生きることができるようになるのです。神様の独り子である主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さることによって罪の赦しを与え、神様の子どもとして生きる新しい命を与えて下さった、その神様の愛を信じる者は、大胆に神様に信頼して生きることができます。そしてその信頼の中でこそ、自分のものを喜んで人に施すこともできるようになるのです。自分の誉れや評判のためではなく、心から隣人を愛し、隣人に仕えることを喜びとする者となることができるのです。聖霊によって私たちは、このような新しい命、新しい魂を与えられます。ペンテコステに弟子たちに降り、教会を誕生させた聖霊なる神様が、今私たちにも降り、新しい命の息吹を私たちに吹き込み、ファリサイ派的な、外側をきれいにしても内側は強欲と悪意に満ちているような生き方から解放して下さり、喜んで、大胆に、自由に、伸び伸びと、神様と隣人を愛して生きる者として新しく生かして下さることを、共に祈り求めていきたいと思います。

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