主日礼拝

生きた水

「生きた水」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ゼカリヤ書 第14章8-19節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第7章37-39節
・ 讃美歌:50、137(1-4、6)、432

仮庵祭と水汲みの儀式
 本日ご一緒に読むヨハネによる福音書第7章37節以下の冒頭に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」とあります。この祭りとは、ユダヤ人の大きな祭の一つである仮庵祭です。ヨハネ福音書第7章には、仮庵祭の時に主イエスがエルサレムに上り、神殿の境内で人々にお語りになったことが記されています。仮庵祭は、秋の収穫の祭りで、9月から10月にかけての頃に行われています。一週間行われるこの祭りの間、ユダヤ人たちは仮庵、つまり仮小屋を立ててそこに住んだのです。それは収穫の最盛期に農夫たちが畑に急ごしらえの小屋を建てて寝泊まりしたことから来ているようですが、そこにはもう一つの意味が加えられました。それはイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から主なる神によって解放され、約束の地へと荒れ野を旅していく間、天幕つまりテントに住んで、それを持ち運びつつ旅をしていったことを覚える、ということです。それによって仮庵祭は収穫を感謝するだけでなく、主なる神によるエジプトからの救いの恵みを覚える祭として祝われていったのです。この祭の時にエルサレムにおいては、町の外にあるシロアムの池から汲んで来た水を神殿の祭壇に注ぐという「水汲みの儀式」が行われました。これは元々は、翌年の春の収穫のための秋の雨を願ういわゆる「雨乞い」の儀式だったようです。つまり秋の収穫感謝において春の収穫を祈り願うという、農業を起源とする儀式だったのです。しかし仮庵に住むことに、エジプトでの奴隷状態からの救いの恵みを覚えるという意味が加えられたのと同じように、この水汲みの儀式にも新しい意味が加えられました。そのことを語っているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、ゼカリヤ書第14章8節以下なのです。ゼカリヤ書14章の1節に「見よ、主の日が来る」とあります。そしてこの14章には繰り返し「その日」という言葉が出てきます。「その日」とは「主の日」です。それは主なる神の全世界に対するご支配があらわになり、実現するこの世の終りの日であり、神の民であるイスラエルの救いが完成する日です。その日に起ることがここに語られているのです。その16節にこうあります。「エルサレムを攻めたあらゆる国から/残りの者が皆、年ごとに上って来て/万軍の主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝う」。つまり世の終りには、敵対していた全ての国の者たちがエルサレムに上って来て主なる神を礼拝し、仮庵祭を祝う、ということです。世の終わりの主による救いの完成において、仮庵祭が祝われるのです。このことと水汲みの儀式との関係は8節から分かります。「その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける」。主の日、世の終わりの救いの完成の日に、エルサレムで仮庵祭が祝われ、そのエルサレムから夏も冬も尽きることのない「命の水」が湧き出て、世界を潤していくのです。水汲みの儀式において神殿の祭壇に注がれる水は、この「命の水」を表しています。元々は雨乞いの儀式のためだった水が、世の終わりの主のご支配の完成において世界の人々を潤す「命の水」を待ち望む、という意味を持つようになったのです。
 仮庵祭はこのように、収穫感謝祭であるだけでなく、命の水を待ち望む祭でもありました。その仮庵祭が最も盛大に祝われる終わりの日に、主イエスはこのようにお語りになったのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。仮庵祭には多くのユダヤ人たちがエルサレムに来ていました。彼らは神殿で行われる水汲みの儀式を見るために来たのです。彼らの願いは、世の終わりにエルサレムから命の水が流れ出る、というゼカリヤ書の預言の成就です。その「命の水」を待ち望んでいる人々に向かって主イエスは、「わたしのもとに来なさい、わたしこそがあなたがたに生きた水を与える」とお語りになったのです。

主イエスの大声
 37節には、主イエスが「立ち上がって大声で言われた」とあります。律法の教師たちは普通は座って教えを語ったそうです。しかし主イエスは立ち上がって、しかも大声でお語りになりました。先週読んだ28節にも「大声で言われた」とありました。主イエスはご自分の声を、その場にいた人々に伝えようとなさっただけでなく、時代を越えて、場所の隔たりを越えて、今ここで礼拝を守っている私たちにまで届けたいと思っておられるのです。私たちにもこの言葉を聞いて、受け止めてほしいと願っておられるのです。その主イエスの思いが、「大声で言われた」ということに現れていると言うことができるのではないでしょうか。主イエスの大声は、二千年後の現代の日本で生きている私たちの耳には、かすかな声としてしか聞こえないかもしれません。しかしその声を私たちは耳を済まして聞き取りたいのです。

だれでも
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。このみ言葉は、旧約聖書のイザヤ書第55章1節に基づいています。旧約聖書の1152頁、イザヤ書55章1節にこうあります。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」。主なる神が、渇きを覚えている者をご自分のもとに招いて水を与えようとしておられることがここに語られています。ここで大事なのは、「銀を持たない者も来るがよい」と言われていることです。主なる神は、「銀を払うことなく」「価を払うことなく」、つまりタダで、ぶどう酒と乳とを与えて下さるのです。この神のみ心に基づいて、神の独り子であられる主イエスも、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」とおっしゃっているのです。「だれでも」という言葉が重要です。主イエスは誰にでも、タダで、生きた水を飲ませて下さるのです。この水を飲むのに、特別な資格など必要ありません。品行方正な、きちんとした生活をしている清く正しい人でなければこの水を飲ませてもらえない、などということはないのです。渇いている人ならだれでも、主イエスのもとに来て、生きた水を飲むことができます。そのためにただ一つ必要なことは、「わたしのところに来る」ことです。この水を求めて主イエスのところに来さえすれば、主イエスが恵みによって生きた水を与えて下さるのです。

主イエスのところに行くとは
 しかし当時の人々はともかく、私たちが主イエスのところに行くことはどうしたらできるのでしょうか。そのことを38節が教えています。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。主イエスのところに来るとは、「わたしを信じる」ことなのです。主イエスが生きた水を与えて、渇きを癒して下さることを信じて、主イエスにその水を求めること、それが主イエスを信じることであり、それによって私たちは主イエスのもとに来ることができるのです。私たちは今、主イエスによる救いを求めてこの礼拝に集っています。その私たちは皆、主イエスのもとに来ているのです。その私たちを主イエスは「わたしを信じる者」呼んで、生きた水を飲ませて下さるのです。私たちはそこで、自分がどれくらいちゃんと信じているだろうか、ということを気にする必要はありません。信じている度合いが足りないからわたしのもとに来た者とは見なさない、などと主イエスはおっしゃることはありません。渇きを覚えて主イエスのもとに来た者を主イエスはだれでも、「わたしを信じる者」と呼んで、生きた水を与えて下さるのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」という主イエスのお言葉はそのような恵み深い招きの言葉なのです。

命の水の源となる
 主イエスが与えて下さる水は、私たちの渇きを一時(いっとき)癒すだけのものではありません。その水を飲んだ者は、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。つまりこの水を飲んだ者自身が水の源となり、周囲を潤していくのです。あのゼカリヤ書14章8節に、「その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける」と語られていたことが、主イエスの与える生きた水を飲む人に実現するのです。これこそ、仮庵祭にエルサレムに来ていた人々が願い、待ち望んでいたことです。生きた水によって渇きを癒され、また自らがその命の水の源となって周囲の人々をも潤していくことができる者となるという彼らの願いが、主イエスのもとに来ることによって実現するのです。ここに「聖書に書いてあるとおり」とあるのは、このゼカリヤ書14章8節のことであり、またそれが一人ひとりに起ることを語っている箇所としては、イザヤ書58章11節をあげることができます。そこには「主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」とあります。これらの預言が主イエスにおいて、主イエスのもとに来て信じる者たちにおいて実現するのです。

永遠の命に至る水
 仮庵祭における水汲みの儀式を意識しつつ主イエスがお語りになったこのことは、既に4章13、14節においても語られていました。サマリアのヤコブの井戸の傍らでの一人の女性との会話においてです。そこで主イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃいました。主イエスが与えて下さる水は、一時渇きを癒してもしばらくしたらまた渇きを覚えていくようなものではないことがここにはっきりと告げられています。その水は、それを飲む者を、もはや決して渇くことのない者とするのです。それは、その水がその人の内で尽きることのない泉となるからです。主イエスの与える水は尽きない泉となるので、それを飲む者は決して渇くことがないのです。サマリアの女性は、その水があればもう井戸に水を汲みに来なくてよくなると思いました。しかしこの「決して渇くことがない」というのは、その水が「永遠の命に至る水」であるということを意味しています。飲んでもそのうちにまた渇く水は、今は元気でもそのうちに必ず肉体の死を迎える私たちの地上の命を指し示しています。その私たちが、主イエスのもとに来て、主イエスが与えて下さる水を飲むことによって、つまり主イエスを信じることによって、もはや決して渇くことがない者となる、それはもはや死ぬことのない永遠の命を生き始めるということです。その永遠の命は、主イエスの十字架の死と復活によって私たちに与えられています。父なる神が独り子主イエスをこの世に遣わして下さったのは、主イエスの十字架と復活によって私たちをもはや渇くことのない者とするため、つまり永遠の命を与えるためでした。その神のみ心がこの福音書の3章16節に語られていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。このみ言葉を私たちは毎週振り返っています。ヨハネによる福音書は、この神のみ心を私たちに告げているのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という主イエスのお言葉も、独り子を信じることによって私たちが永遠の命を得ることへの招きの言葉なのです。

聖霊を受けることによって
 さてこの招きの言葉に続く39節にはこう語られています。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」。この39節は何を語っているのでしょうか。37、8節の招きの言葉とこの39節とはどう繋がっているのでしょうか。
 39節には、括弧に入れられた「霊」という言葉が二度出て来ます。このような括弧は原文にはないのであって、これは新共同訳聖書において、「霊」という言葉が明らかに聖霊を意味している場合に付けられている括弧です。しかし括弧が付けられていなくても聖霊を意味している場合もあり、紛らわしくなっています。なので新しく出た聖書協会共同訳ではこのような括弧は廃止されています。それはともかく、39節では聖霊が大事な役割を負っているわけです。
 39節前半の「イエスは、御自分を信じる人が受けようとしている“霊”について言われたのである」という文章は、38節で主イエスがお語りになった、私が与える水はそれを飲む者の内で泉となり、生きた水が川となって流れ出る、という約束は、主イエスを信じる人々が受けようとしている聖霊が降ることによって、その聖霊の働きによって実現するのだ、ということを語っています。聖霊を受けることによってこそ、主イエスからの命の水をいただくことができるのです。そしてこの時点ではその聖霊がまだ与えられていなかったので、38節の主イエスのお言葉も、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という、これから起ることの約束として語られたのです。私たちにおいても、主イエスが与えて下さる生きた水によって渇きを癒され、周囲の人々をもその水によって潤していくことができるようになるのは聖霊を受けることによってです。主イエスが与えて下さる生きた水とは聖霊のことである、と言うこともできるのです。

主イエスが栄光を受ける時
 その聖霊はいつ与えられるのでしょうか。そのことを語っているのが39節の後半です。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」。聖霊がまだ降っていなかったのは、主イエスがまだ栄光を受けておられなかったからだ、ということです。主イエスが栄光をお受けになる時こそ、主イエスを信じる人々が聖霊を受ける時なのです。その時はいつでしょうか。この福音書の17章1節に、その時が来たことが語られています。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください』」。私が栄光を受ける時がついに来た、と主イエスは言っておられるのです。ヨハネ福音書は次の18章から、主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺される、いわゆる受難の話となります。17章はそのことを覚えつつ主イエスが弟子たちのために祈られた「執り成しの祈り」です。つまり「時が来ました」というのは、主イエスが十字架にかけられて死ぬ時がいよいよ来た、ということです。主イエスが父なる神から栄光を受けるのはその時なのです。ここには、ヨハネ福音書が主イエスの栄光をどのように捉えているかが示されています。主イエスの栄光は、主イエスが私たち罪人のために十字架にかかって死んで下さったことにこそ示され、あらわされているのです。その主イエスを、父なる神は復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。それはあの3章16節が語っているように、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためでした。父なる神のこの愛のみ心の実現のために、独り子である主イエスが、人間となってこの世を歩み、そして私たちのために十字架にかかって死んで下さり、私たちの先駆けとして復活して永遠の命を生きておられる、ヨハネ福音書はそこに、独り子なる神としての主イエスの栄光を見ているのです。

イエスの時
 十字架と復活によって主イエスの栄光が示される、その時にこそ聖霊が降るのです。それ以前にはまだ主イエスの栄光が示されていないので、聖霊もまだ与えられていないのです。主イエスの栄光が示され、聖霊が降る時がいつかは父なる神がお決めになります。父なる神によって定められているその時が来るまでは、主イエスが栄光をお受けになることはない、つまり主イエスの十字架の死と復活は起らないのです。このことは、先週読んだ箇所の30節に「人々はイエスを捕えようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」と語られていたことと同じです。「イエスの時」とは、主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺され、そして復活するその時です。その時こそ主イエスが栄光を受ける時であり、聖霊が弟子たちに降り、教会が誕生する時なのです。主なる神がお定めになっているその時までは、人間がどんなにイエスを憎み殺そうとしても、そのことは実現しないのです。

聖霊を信じて祈り求めつつ証しする教会
 このことが38節の「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という主イエスのみ言葉と結び合わされています。主イエスを信じる者に生きた水が与えられ、渇きを癒され、さらにその水がその人の内から川となって流れ出て、周囲の人々をも潤していく、そのことも、十字架の死と復活によって主イエスの栄光が現され、そして主イエスを信じる者たちが聖霊を受けることによってこそ実現するのです。それはつまり教会において、ということです。教会は、あの3章16節に語られていた、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という父なる神の愛を信じる者の群れです。私たちがこの神の愛を信じているだけでなく、十字架の死と復活によって栄光をお受けになった主イエスが、聖霊を私たちに注ぎ、与えて下さっているのです。私たちは聖霊によって主イエスのもとへと導かれ、信仰を与えられ、教会に連なる者とされています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と主イエスが大声で語られた招きのみ声が、聖霊のお働きによって私たちの耳に届いているのです。そのみ声を聞いた私たちは、主イエスのもとに来て、主イエスを信じて、生きた水を飲み、渇きを癒されます。その水によってもはや渇くことのない者とされ、死によって失われることのない永遠の命を生き始めます。それも、聖霊が私たちの内でして下さることです。そしてその主イエスの水、言い替えれば聖霊は、私たちの内で泉となり、尽きることのない命の水の源となり、私たちを生かすだけでなく、私たちの内から川となって流れ出て、この世を、人々を潤し、永遠の命へと至らせていくのです。私たちが主イエスによる救いを証しし、キリストの福音を宣べ伝えていくことによって、そういうことが起るのです。それも私たちの力ではなくて、聖霊のみ業です。私たちは本年度、「聖霊を信じて祈り求めつつ証しする教会」という主題を掲げて歩んでいますが、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という主イエスのみ声は私たちをまさにこの主題のように生きることへと招いているのです。

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