主日礼拝

正気になって

「正気になって」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第119編97-104節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第8章26-39節
・ 讃美歌: 4、113、492

ゲラサ人の地方への上陸
 先週の礼拝において私たちは、主イエスが「湖の向こう岸に渡ろう」とおっしゃって弟子たちと舟に乗り込み、ガリラヤ湖を渡っていかれた話をご一緒に読みました。その船旅の途中で突風が起り、舟が沈みそうになりましたが、主イエスが風と波をお叱りになると湖は静まり、彼らは無事に向こう岸に着くことができたのです。本日ご一緒に読む26節以下には、そのようにして到着した向こう岸における出来事が語られています。主イエスと弟子たちが到着したのは「ゲラサ人の地方」でした。聖書の後ろの付録の地図の6「新約時代のパレスチナ」というのをご覧いただきたいのですが、ガリラヤ湖の西側がガリラヤ地方で、主イエスはそこの町や村を巡ってみ言葉を宣べ伝え、奇跡を行っておられました。拠点としておられたのは、ガリラヤ湖の北の岸にあるカファルナウムです。舟に乗って漕ぎ出したのもその近くからだと思われます。そして湖を渡って到着した「ゲラサ人の地方」は、ガリラヤ湖の南東に広がる地域です。ゲラサという町がはるか南東にあります。マタイによる福音書においてはこの地は「ガダラ人の地方」となっています。ガダラという町は湖のもっと近くにあります。ゲラサとかガダラという町のある地方に主イエスの一行は到着したのです。この地域は通常デカポリス地方といって、この地図にもそのように書かれています。デカポリスの「デカ」は十という数字、ポリスは町、都市という意味のギリシャ語です。つまり「十の町の地方」という意味です。この地域には当時、ギリシャ・ローマ文明の影響を受けた十の町があって、ゲラサやガダラもその一つです。私も、かれこれ二十年前ですが、聖書の地を巡る旅行に参加して、このゲラサにもガダラにも行ったことがあるのですが、いずれにも大変立派な遺跡があり、当時はギリシャ風の都市として栄えていたことが実感できました。本日の所の話だけを読んでいると、ガリラヤ湖の向こう岸の、豚しか住んでいない辺鄙な田舎に行ったように錯覚してしまいがちですが、当時のこの地方はむしろ文明の進んだ先進的な地域だったのです。しかしそこはもうユダヤ人の国ではありません。異邦人、異教の民の住む外国です。主イエスと弟子たちは苦しい船旅を経て、知る人のいない全くの異教の地である外国に上陸したのです。

教会全体修養会
 本日の午後から明日にかけて、教会全体修養会が行なわれます。本日の礼拝は、その修養会の開会礼拝をも兼ねて守っています。つまり、修養会に参加することのできない方々も開会礼拝にだけは参加することができるというわけです。この修養会の主題は、指路教会の歴史を振り返りつつ、日本伝道150年の歩みについて学ぼうということです。150年前の1859年、何人かの宣教師たちが、アメリカから東周りで、地球を半周以上する苦しい船旅を経てこの日本にやって来ました。そのことによって日本におけるプロテスタント・キリスト教の伝道が始まったわけです。とりわけこの10月は、私たちの教会の創立者であるヘボン夫妻が横浜に上陸した月です。ヘボンは、勿論知る人の一人もいない全くの異教の地、キリシタン禁制下の日本に上陸したのです。ヘボン夫妻の横浜上陸を、本日の箇所における主イエスと弟子たちのゲラサ人の地への上陸と重ね合わせることができるのではないでしょうか。そういう意味でここは、今回の修養会の開会礼拝に相応しい箇所であると思うのです。  ヘボン夫妻の上陸と主イエスの一行の上陸を重ね合わせるならば、ヘボンたちを迎えた日本の人々と、主イエスの一行を迎えたゲラサ地方の人々とを重ね合わせることができます。ある日突然外国から舟に乗ってやって来た見知らぬ人々を迎えたその土地の人々は、いったいこの人たちは誰で、何をしに来たのだろうかと、興味と恐れの入り交じった好奇の目で見つめていたに違いありません。主イエスと弟子たちを迎えたゲラサ地方の人々も、ヘボンやその他の宣教師たちを迎えた日本の人々も、その点で同じだったろうと思うのです。

悪霊に取りつかれた人
 そのような好奇の目で遠くから様子を伺っている人々が多い中で、主イエスのもとにやって来た一人の男がいました。それは、「この町の者で、悪霊に取りつかれている男」でした。悪霊に取りつかれたこの男がどんな生活をしていたのかがここに語られています。彼は、「長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」のです。また29節には、「何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた」とあります。服を着ないで、裸で、墓場に住み、鎖を引きちぎるほどの力で暴れ、荒れ野をさまよっている、まことにすさまじい姿です。私たちはこれを読むと、この人は大変重い心の病にかかっていたのだろうなどと考えます。しかし聖書がこの人の姿を通して語ろうとしているのはそんなことではありません。この人は、服を着ることも家に住むこともできませんでした。それは、人々の間で、人間関係を保って生きることができなかったということです。世間において普通の、常識とされている人間関係が保てないのです。それで彼は墓場を住まいとしていた。墓場は、死んだ人の場所です。生きている人はそこにはめったに足を踏み入れない。つまりこれも、彼が生きている人間との関係、交わりを持つことができずにそれを避けていることを示しています。墓場に住むなんて恐いだろうと私たちは思うけれども、彼にとっては、生きている人間といることの方がよほど恐いのです。死んで物言わぬ骸(むくろ)となった人の方がずっと親しいのです。人々は彼を鎖でつなぎ、足枷をはめて監視しました。鎖や足枷は、この人を人間社会の秩序の中につなぎ止めておくための手段です。そうしないと彼は、周囲の人々を傷つけ、秩序を破壊してしまいます。それをさせないために、人々はこの人を縛り付け、自由を奪い、監視するのです。しかしこの人はその鎖を引きちぎり、足枷を壊してしまいます。彼は社会の秩序や人間の決まりの中に身を置いて生きることができないのです。その束縛をふりほどき、そこから逃げ出し、しかし結局居ることができる場所は人のいない荒れ野だけなのです。このように考えてくる時、この人の姿はそんなに特別な珍しい話ではないように思えてきます。この地方は当時の文明の先進地域だったと申しました。文明が発展し、社会が複雑化し、ストレスの大きい社会になるにつれ、このような人は増えていくのではないでしょうか。それは他人事ではなくて、私たち一人一人の中にも多かれ少なかれ、このような要素があるのではないでしょうか。この男に取りついていた悪霊は、今も、私たちのこの社会において活動しているのです。
 主イエスは30節でこの人に「名は何というのか」とお尋ねになりました。すると彼は「レギオン」と答えました。それは、「たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである」と語られています。「レギオン」というのは、ローマ帝国の軍隊における「軍団」を意味する言葉です。一軍団には六千人の兵隊がいたと言われます。「レギオン」という名前は、彼にたくさんの悪霊が取りついていることを意味しているのです。このやりとりを含めて、主イエスとこの人との対話はいろいろなことを考えさせられます。そもそも主イエスとこの人とが話をしているように見えますが、実は主イエスと話をしているのは彼に取りついている悪霊です。28節で「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言っているのもそうです。「頼むから苦しめないでほしい」というのは悪霊の言葉です。この人に取りついて苦しめている悪霊がそう言っているのです。「レギオン」も、この人がもともとそういう名前だったのではなくて、彼に取りついた悪霊が、「我々は軍団と言えるほど大勢なのだ」と言っているのです。

心と言葉を支配する悪霊
 ここには、悪霊に取りつかれた人間がどうなるのかが印象的に示されています。この人は自分自身の言葉を語ることができなくなっています。この人の口から出る言葉は全て、彼に取りついている悪霊の言葉です。本当は主イエスに「自分を苦しめている悪霊を追い出してください」と言いたいはずなのに、口から出るのは「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」です。それは彼の本心からの言葉ではありません。悪霊が彼の心と言葉を支配しているのです。悪霊はこのように、私たちの心を支配し、私たちの本心からの言葉ではない、悪霊の言葉を語らせるのです。そういう目で自分自身の言葉を振り返って見たらどうでしょうか。私たちはいつも自分の本心からの言葉を語っているでしょうか。何かに支配され、捕われ、本当の思いとは違うことを語っていることはないでしょうか。いやむしろ私たちは、この人もそうだったと思うのですが、自分の本当の思い、本心が何なのかがそもそも分からなくなっていることが多いのではないでしょうか。自分の口から出る言葉が、自分の思いによる自分の言葉なのか、それとも悪霊に支配された悪霊の言葉なのかが分からなくなるのです。自分の本心が何なのか、自分が本当に思い、求めているのは何なのかが分からなくなってしまうのです。この人の中に「レギオン」と呼ばれるほどたくさんの悪霊が入っていたというのはそういうことを意味しているのだと思います。様々な違った悪霊に心が支配されていて、いろいろな思いが自分の中に混在しており、ある時にはこの思い、別の時には別の思いによって突き動かされてしまう。思いや言葉や行動が一つに統合されていない。それが嵩じればいわゆる「多重人格」ということになるのでしょうが、そこまで行かなくても、自分という人間の軸が定まらずにふらふら揺れ動いてしまうことを私たちは体験するのではないでしょうか。悪霊はそのように私たちにいろいろな思いを与えてあちらへこちらへと引き回すことによって私たちを支配するのです。その力は、情報化時代と呼ばれる今日ますます強くなっていると言えるでしょう。私たちは様々な情報に振り回され、欲望を刺激され、自分が本当に何を求めているのかも分からなくさせられています。自分がこうしたい、このように生きたいと思って歩むのではなくて、コマーシャルや情報番組によって自分の欲しいもの、したい事、さらには生き方までも示されて、それを自分の願いや思いと勘違いして右往左往している、それはまさに多くの悪霊に取りつかれたような有り様だと言うべきでしょう。悪霊に取りつかれたこの男の姿は、私たちにとって決して他人事ではないのです。

悪霊からの解放
 ところでこの人は、主イエスがこの地方に上陸するとすぐにそこへやって来ました。主イエスの救いを求めてやって来たのではありません。彼は言葉も行動も悪霊に支配されているのですから、これは悪霊の行動です。悪霊の方から、主イエスのもとにやって来たのです。悪霊は、主イエスが何者であるかを知っています。この人は主イエスに「いと高き神の子イエス」と呼びかけています。悪霊は、主イエスが神様の独り子であられることを知っているのです。そして「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言っています。29節には、それは「イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである」とあります。悪霊は、主イエスが神の子であり、自分たちを追い出して人々を解放する救い主として来られたことを知っているのです。そして自分たちが主イエスにとうていかなわないこと、主イエスが自分たちを滅ぼす力を持っておられることを知っているのです。それを知っていながらどうしてノコノコとやって来るのか。それは、そうせざるを得ないからです。それが主イエスの力です。主イエスが来られる時、悪霊は主イエスを無視していることはできないのです。夏の虫が焚火に引き寄せられるように、悪霊は主イエスのもとに引き寄せられて、そして滅ぼされていくのです。ここに語られているのは主イエスと悪霊の戦いではありません。戦いになどならないのです。レギオンと豪語しているほど数の多い悪霊も、主イエスお一人に立ち向かうことができずに、最初から負けを認めています。彼らが願ったのは、この人から追い出されるのは仕方がないとして、底なしの淵に落とすのではなくて、せめてあの豚の群れに入らせてくれということです。その許しを主イエスに求めたのです。主イエスの許しなしには彼らは何も出来ないのです。主イエスがお許しになったので、彼らはその人から出て豚の群れに入りました。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだとあります。それはつまり、主イエスが豚の群れを用いて結局この悪霊たちを底なしの淵に落とし、滅ぼしたということです。この地に上陸された主イエスは、このように悪霊を滅ぼして、捕われていた一人の男を解放なさったのです。

正気になってイエスの足もとに座る
 主イエスによって悪霊を追い出していただいたこの人はどうなったのでしょうか。35節に、「悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て」とあります。衣服を身に着けずに墓場や荒れ野をさまよっていた彼が、今や、服を着て、正気になって主イエスの足もとに座っているのです。「服を着て」という一言に、彼が正常な人間としての社会生活と人間関係を回復したことが込められています。しかし彼が与えられた癒し、救いの中心は、人間関係を回復されたことにあるのではありません。「イエスの足もとに座っている」ということこそが、彼に与えられた救いの最も重要な点です。主イエスの足もとに座る、それは、主イエスのみ言葉に耳を傾けるということです。彼は、主イエスの足もとでそのみ言葉を聞く者となったのです。そのことによって彼は「正気になった」のです。それまで心がバラバラに分裂し、いろいろな思いや情報に振り回され、自分の本当の思いが何なのかも分からなくなり、自分の語っている言葉が自分の言葉なのか悪霊の言葉なのかも定かでなかった彼が、自分を取り戻し、自分の本当の思い、願いに基づく自分の言葉を語ることができるようになった、自分という人間の軸が定まり、一本の筋がそこに通り、自分が自分であることを受け止めて歩むことができるようになったのです。それが正気になるということです。そしてそれは、主イエスの足もとでそのみ言葉を聞く者となることと表裏一体の関係にあります。正気になったから主イエスの足もとに座ったとも言えるし、主イエスの足もとに座ってみ言葉を聞いたからこそ正気になることができたとも言えるのです。私たちは今こうして礼拝に集い、主イエスの足もとに座って神様のみ言葉を聞いています。そのみ言葉は私たちに、天地の造り主である神様が、私たちを罪の支配から解放するために独り子イエス・キリストを遣わして下さったことを告げています。そしてその救いが、主イエスの十字架の死と復活によって与えられたことも、み言葉が私たちに告げ知らせてくれるのです。この恵みのみ言葉、主イエス・キリストによって与えられた救いを告げる福音を聞くことによって、私たちは神様に愛され、罪を赦され、支えられ生かされている自分を見出すことができます。そのことによってこそ、私たちは本当に自分を取り戻すことができます。自分という人間の軸が定まり、一本の筋が通り、自分が自分であることを受け止めることができるようになるのです。そしてそうなってこそ、私たちは他の人との交わりに生きることができるようになります。人間関係を正常に保つことができるようになるのです。それゆえに、正気になるとは、主イエスの足もとに座る者となることなのです。

悪霊に取りつかれた人々
 しかしこの救いの出来事を見たゲラサ地方の人々はイエスに、「自分たちのところから出て行ってもらいたい」と願いました。「彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである」と37節にあります。彼らは何を恐れているのでしょうか。悪霊に取りつかれ、正常な社会生活を送れなくなっていた同胞の一人が、正気になり、普通に生活できるようになったのです。何も恐れることなどない、むしろ喜ぶべきことではないでしょうか。彼らが恐れたのは、仲間が飼っていた豚の群れが皆湖に身を投げておぼれ死んでしまったことによるのだと思います。それは彼らにとって大きな損害です。こんなことが繰り返されたらたまらない、と彼らは思ったのでしょう。この豚の群れの犠牲は、一人の人が悪霊の支配から解放され、救われて正気になるためには犠牲が必要であることを示しています。何の犠牲も払うことなく、安易に簡単に救いが得られるわけではないのです。しかし私たちの救いのために必要な犠牲は、主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによって果たされたのです。神様の独り子であられる主イエスがその命を犠牲にして下さったことによって、私たちに救いが与えられたのです。救いのためにはそのように犠牲が必要です。ゲラサ地方の人々は、豚の群れ大群の犠牲によって、一人の同胞が救われたことを見たのです。しかし彼らは、自分たちの豚が犠牲になったのを見て恐れました。仲間の一人がそれによって救われたことを喜ぶよりも、豚を失った経済的損害の方を重く見たのです。簡単に言ってしまえば、人間よりも豚の方を、財産を大切に思っているのです。そのような思いで生きている人は、主イエスの救いのみ業を見た時、恐れに取りつかれるのです。こんなことを繰り返されたらたまらない、自分が損をしてしまう、自分の生活が成り立たなくなってしまう、と思うのです。しかしそのような恐れに取りつかれて「自分たちのところから出て行ってもらいたい」と主イエスに語ったこの人たちの姿は、先ほど悪霊に取りつかれていた人が「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言ったのと全く同じなのではないでしょうか。つまり悪霊は今度は彼らに取りついているのです。彼らの思いと言葉が悪霊に支配されてしまっているのです。恐れに取りつかれて主イエスに出て行ってくれと言っている人々と、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っている人、そこに、悪霊に取りつかれている人間と、そこから解放されて正気になった人間の対比が描き出されているのです。

日本伝道150年
 主イエスによって救われ正気になったこの人は、主イエスの一行が再び舟に乗って戻っていこうとするのを見て、お供したいとしきりに願いました。しかし主イエスはこう言って彼をお帰しになったのです。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」。彼はこの主イエスのご命令に従って、「イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」のです。つまり彼は自分の住んでいる所で伝道をしていったのです。150年前、ヘボンら宣教師たちがこの横浜に上陸し、キリストの福音を宣べ伝えていったことによって起ったことは、本日のこの物語に語られていることと同じです。彼らの働きを通して、聖霊なる神様が力強いみ業を行なって下さり、日本人の中に、悪霊の支配から解放され、正気になって主イエスの足もとに座り、み言葉に耳を傾ける人々が興されていったのです。彼らは、主イエスによる神様の救いの恵みを示され、神様に愛されている自分を見出し、本当の自分を確立することができました。そしてその主イエスが自分にして下さったことを、この国の人々に宣べ伝えていったのです。このような人々が次から次へと興されてきたことによって、日本伝道150年の歴史は今日までつながってきたのです。今、まさに私たちが、その聖霊による救いのみ業にあずかっています。主イエスは今私たちに、「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」と語りかけておられるのです。悪霊の力がますます猛威を振っているこの世において、主イエスのみ言葉の力によって正気を与えられ、礼拝において主イエスの足もとに座ってみ言葉をいただきつつ、このご委託に応えていきたいのです。

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