主日礼拝

幸いと不幸

「幸いと不幸」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第55章1-13節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第6章20-26節
・ 讃美歌: 322、577、502

平地の説教
 ルカによる福音書の第6章20節、つまり本日の箇所の冒頭から6章の終わりまでには、主イエス・キリストのお語りになったお話、私たちの言い方で言うと説教が記されています。これまで読んできた所にも、主イエスの語られた言葉はいろいろと示されていましたが、それらはいろいろな出来事の中で、その状況や人との関わりの中で語られたものでした。主イエスが腰を落ち着けて人々を教えられた説教はここに初めて記されているのです。この説教はしばしば、マタイによる福音書第5~7章の、いわゆる「山上の説教」と並べられます。内容においても重なっている部分が多いのです。私たちが今用いている新共同訳聖書は区切りごとに小見出しをつけており、その下の括弧に、内容的に同じようなことを語っている他の福音書の箇所を記してくれていますが、その括弧の中を見ていっても、この20節以下と重なる内容はマタイの5章から7章にあることが分かります。そして同時に分かることは、マルコ福音書にはこれに当たる箇所がない、ということです。この説教はマタイとルカのみが記しているものなのです。マタイの方のこの説教が、ある山の上で語られたとされていることから「山上の説教」と呼ばれるのに対して、ルカのこの説教は、17節に、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあることから「平地の説教」と呼ばれます。本日から何回かに渡って、この「平地の説教」をご一緒に読んでいくのです。

幸いと不幸
 さて、この説教の冒頭に語られているのは、「山上の説教」と同じように、「幸い」についての教えです。こういう人々は幸いである、ということを主イエスはこの説教の冒頭で語っておられるのです。マタイの方ではこの「幸いである」が八回に亘って語られています。八つの幸いについての教えが語られたのです。これについては以前家庭集会においてお話ししたものが教会のホームページに「聖書が教える幸せ」というタイトルのもとに載せられていますのでそれを覧いただければと思います。ルカ福音書では、その幸いが22節も含めて四つ語られています。そして後の四つの代わりにと言うのは変かもしれませんが、24節以下には、マタイにはない、「このような人々は不幸である」という教えが、26節も含めてやはり四つ語られているのです。つまりマタイが八つの幸せを語っているのに対して、ルカは幸せと不幸を四つずつ語っているのです。そしてこの幸せと不幸はそれぞれ対応しています。「貧しい」に対して「富んでいる」、「飢えている」に対して「満腹している」、「泣いている」に対して「笑っている」、「人々に憎まれる」に対して「すべての人にほめられる」です。つまりルカはここで四つの事柄をとりあげ、それぞれの事柄において幸いな人と不幸な人とが生じると語っているのです。ですからマタイとルカでは、似たような表現が用いられていても、語ろうとしていることはかなり違っているのです。

貧しい人々の幸い
 ルカにおいて主イエスは先ず、「貧しい人々は幸いである」と語り、それと対にして、「富んでいるあなたがたは不幸である」と言っておられます。「貧しい人は幸いであり、富んでいる人は不幸だ」と言っておられるのです。マタイにおいてはここは「心の貧しい人々は幸いである」となっています。このマタイとの比較においてよく語られることは、主イエスがもともとお語りになったのはルカのようにただ「貧しい人々は幸いである」だった、主イエスご自身はまさに経済的に貧しい人々、その日の暮らしにも困っているような人々のことを「幸いだ」と言われたのだ、マタイはそこに「心の」をつけ加えることによって、この教えを内面化、精神化して、富んでいる人であっても心が貧しいならばその人は幸いなのだという教えに変えたのだ、ということです。この考え方に立つならば、ルカ福音書のこの教えこそが主イエスご自身の教えであり、マタイはそれに変更を加えた、もっと言えばねじ曲げたのだ、ということになります。果してそうなのでしょうか。
 このことを考えていくための手がかりとなるのは、主イエスがこの説教を誰に向かって語られたのか、ということです。この説教の聞き手は誰だったのでしょうか。20節に「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」とあるように、それは弟子たちです。つまり主イエスに従ってきている人々です。主イエスを信じる信仰者と言い換えてもよいでしょう。この説教において「あなたがた」と言われているのは、先ずは弟子たちなのです。ですからここには、主イエスを信じ、従っている弟子たちが、その歩みにおいて幸いであると呼ばれる場合と、不幸であると呼ばれなければならない場合とに分かれる、ということが語られているのです。つまりルカは、経済的に貧しい人は幸いだけれども、金持ち、富んでいる人は不幸だ、と単純に言っているわけではないのです。そのことは、貧しい人々に対して、「神の国はあなたがたのものである」と語られていることからも分かります。貧しい人々が幸いであるのは、神の国、つまり神様のご支配が彼らに与えられており、彼らが神様のご支配の中を生きているからです。貧しい人の方が自分の財産をどう守ろうかとかどう殖やそうかという心配をしないですむ、失うものがない分身軽に生きることができる、だから幸いだ、などということが語られているのではないのです。彼らの幸いは神様のご支配の下で生きる幸いです。それはまさに主イエスの弟子、信仰者にこそ与えられる幸いなのです。

富んでいる人の不幸
 一方、富んでいる人が不幸だと言われているのはなぜでしょうか。24節には「あなたがたはもう慰めを受けている」とあります。経済的に豊かであることによって既に慰めを受けてしまっている、それが不幸だというのです。この「受けている」という言葉は、既に十分に受けており、これ以上はいらない、という意味です。ということはこの人たちは、富んでいることによって、既に慰めを十分に受けており、これ以上の慰めはもういらないと思っているのです。弟子たち、信仰者がそうなってしまったらそれは不幸です。なぜならばそれは、神様からの慰めはいらない、ということだからです。神様に慰めてもらわなくても、自分の持っているもの、財産で十分な慰めがある、安心や平安を得ているのです。それは言い換えれば、自分の持ち物、財産に依り頼んで生きているということです。信仰者がそうなってしまったら、もう信仰を持っている意味がありません。信仰とは、神様を信じるとは、神様にこそ依り頼み、信頼して、神様からの慰めをこそ求めて生きることだからです。その神様からの慰めを求めなくなった信仰者はまことに不幸です。何か災いが起るという意味で不幸なのではなくて、その人の目が神様を見失い、この世のことしか見えなくなっていることが不幸なのです。この世のことしか目に入らなくなる時、私たちはこの世の事柄、例えばお金や地位や名誉などに捕われ、束縛されてその奴隷になってしまいます。そこに、富んでいる者の不幸があるのです。逆に貧しさの中でひたすら神様からの慰めを、守りと導きを求めるところにこそ、この世の事柄からの自由が、束縛からの解放が与えられます。神の国、神様のご支配の下で生きるところに、この世の力からの解放があるのです。貧しい者が幸いであるのはそのためなのです。
 このように、この教えが弟子たち、つまり主イエスを信じ従っている信仰者たちに向けて語られたものであることを見つめていくならば、「貧しい人々」に「心の」がついていてもいなくてもあまり大きな違いはないことが分かってきます。経済的に貧しいか富んでいるかによって人間の幸いと不幸が決まる、などとはルカも言っていないのです。そもそも経済的に貧しいか富んでいるかということで人を二種類に分けるのは困難です。自分は貧しいと思うか富んでいると思うかは人によって違う主観的なことであって、例えば年収いくら以上の人は富んでいる人であり、それ以下の人は貧しい人だ、などと線を引くことはできないわけです。

私たちの課題
 けれども、この第一のことをベースにした上で、私たちはこの「平地の説教」において主イエスがとりあげておられる第二、第三の事柄をもしっかりと受け止めていかなければなりません。「今飢えている人々は、幸いである」と主は言われました。それと対になっているのは「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である」です。また「今泣いている人々は幸いである」と言われました。それと対になっているのは、「今笑っている人々は、不幸である」です。この「飢えている、泣いている」というのは、先ほどの「貧しい」よりもずっと即物的、具体的であり、感じ方の違いなどの入る余地のないことです。今乏しさの中で苦しみ、悲しみに泣いている人々に対して、主イエスは「あなたがたは幸いである」と言われたのです。それに対して今満腹し、満足し、喜び、笑っている、そういう人々に対して「あなたがたは不幸だ」と言われたのです。私たちは、主イエスが語られたこの幸いと不幸の対比を真剣に受け止めなければならないでしょう。主イエスは明らかに、神様の祝福、恵みは、貧しく、乏しく、困窮の内にあり、悲しみ、泣いている人々にこそ与えられるとお語りになったのです。逆に今、豊かさの中で満足し、喜び、笑っている者は神様の祝福、恵みから遠いと言われたのです。私たちは果してどちらの部類に入るのでしょうか。いや私たちは、などとここにいる二百人を超える方々をいっしょくたにすることはできません。それぞれの方がそれぞれなりの困窮、苦しみ、悲しみ、つらさ、不安をかかえておられることを私も知っています。こうして礼拝に集っている姿だけを見ていると、誰もがみんなとても善良で、幸せそうで、余裕があり、満たされているように見えるものです。だから深い苦しみや嘆きを抱いて礼拝に来た人が、ここは自分のような者の来る場所ではない、という疎外感を抱いてしまうということが起ります。それは本当は錯覚なのであって、表面的には平穏無事なように見えていても、私たちそれぞれがいろいろな苦しみ、悲しみ、心配事をかかえて、主イエスの恵み、導き、救いをいただきたいと願ってここに集っているのです。だから「貧しく、飢えており、泣いている人々というのはまさに私たちだ」とも思います。それはそうなのですけれども、しかし同時に言えることは、私たちの教会、いや日本の教会は全体的に見て、どちらかと言えば豊かな生活をすることができる人々が、飢えていたり、泣いているよりも、満腹して笑っていることができるような者が多く集う場となっている、ということです。先週私は、横浜海岸教会で行われた、日本キリスト教会と日本キリスト改革派教会が共同で催した「日本プロテスタント宣教150周年記念講演会」に行ってきました。そこで講演をなさった改革派教会の牧師が、1897年、つまり19世紀の末に、日本、中国、朝鮮の教会の現状を視察したアメリカ長老派教会外国伝道局の幹事が本国の教会に提出した報告書の内容を紹介して下さいました。そこには、日本における伝道の第一の問題として、「日本においてはこれまで貧しい人たちに目が向けられて来なかった」ということが指摘され、教会を建てるのは家を建てるのと同様に、まず下の方から、そして建築が進むにつれて中層から上層へと進んでいくことこそ相応しいのだと語られていました。それは、貧しい人々、社会の下の方に位置づけられている人々から伝道がなされ、それが進んでいく中で次第に中層、上層に位置する人々にも福音が伝えられていく、ということです。今から百年少し前に、日本の教会とその伝道のあり方について既にそういう分析と批評がなされていたのです。それから百年以上経ち、伝道150年を記念しようとしている今、ここに指摘された問題点は百年前と全く変わらないと言わざるを得ません。このことは、昨年の秋に壮年会がお招きして講演して下さった古屋安雄先生が語られたことでもあります。古屋先生は、日本のクリスチャンが人口の一%を超えないことの大きな原因の一つがそこにあると指摘しておられました。伝道150年を覚え、新たな思いで伝道に励もうとしている私たちは今、150年の歩みの中で私たちが受け継ぎ、背負っているこの問題点をしっかりと意識していく必要があるでしょう。それは、本日の箇所で主イエスがお語りになった幸いと不幸についてのみ言葉をありのままにしっかりと聞く必要がある、ということです。私たちが信じ、従い、その弟子として生きる主イエスは、貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々こそが幸いであると語られたのです。その幸いこそ、神の国、神のご支配の下で生きる信仰者に与えられる幸いであると語られたのです。そして逆に、信仰者でありながら、自分の富によって慰めを受けてしまっている者、今満腹しており、今笑っている者は不幸だと言われたのです。この不幸ではなく、あの幸いにこそあずかって生きる者となることを、私たちは真剣に求めていかなければなりません。そのために私たちが先ずしなければならない課題は、自分が富んでおり、満腹しており、笑っていられればそれでよい、という不幸な思いを捨てることでしょう。そして、貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々のことを目を開いて見つめることでしょう。そしてそこで自分に何が出来るのかを問うていくことでしょう。

今と将来
 ところで主イエスは、「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」とおっしゃり、それに対応して「今満腹している人々、あなたがたは不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」と言われました。どちらにおいても、今こうであることが将来には逆転する、と語られています。「今」を生きている人々に、「将来」を見つめさせようとしておられるのです。将来を見つめることによってこそ、本当の幸いと不幸とが分かるのです。今の現実のみを見つめているならば、富んでおり、満腹しており、笑っている人こそが幸いです。しかし将来を見つめるならば、貧しく、飢えており、泣いている人こそが幸いだと言えるのです。その将来というのは、私たちのこの世における人生の中のいつか、ではありません。これは、地上の人生が終わった後のことです。そのことは、第四の幸いと不幸について語っている23節に、「天には大きな報いがある」と語られていることから分かります。この世の人生が終わり、天において、神様のみ前に出る時に、神様が報いて下さるのだというのです。この天における神様の報いによって、今の貧しさ、飢え、悲しみが、満腹と笑いとに逆転するのです。ルカによる福音書には、そういうことを語っている話があります。16章19節以下の「金持ちとラザロ」の話です。生前贅沢に遊び暮らしていた金持ちは、死ぬと陰府の苦しみに落とされ、その金持ちの門前で乞食をしていたラザロは、死ぬと天においてアブラハムのすぐそばに迎えられて慰めを与えられる、という話です。この話と、本日の箇所の幸いと不幸についての教えとは重なり合うと言えるでしょう。これらの話から私たちが読み取るべきことは、死んだ後の世界はどうなっているか、ということではありません。そうではなくて、今のこの地上における人生とその目に見える現実だけを見つめて生きることはまことに愚かな、また不幸なことだ、ということをこそ私たちはこれらの話から読み取るべきなのです。本日の幸いと不幸の教えも、今の人生の目に見える現実のみを見つめるならば不幸としか思えないような人が、肉体の死を経て神様のみ前に出る将来に与えられる救いに目を向けることによって、本当の幸いを知り、それにあずかることができる、ということです。また今の人生の現実において幸いであると思える人も、その目に見える幸いに依り頼み、そこに幸いの根拠を求めていくなら、神様が自分の人生の終わりを宣言なさる将来、その幸いは失われ、究極の不幸に陥る、ということです。つまりここに語られている幸いとは、この世を、そして私たちの命と人生とを支配し導いておられる神様を見つめて、その神様との交わりの内に生きていくところに与えられる将来の幸いであり、ここに語られている不幸とは、神様を見つめることなく、自分の人生をこの世の目に見える事柄の中でのみ見つめていくことによって将来陥る不幸なのです。

人々に憎まれることとほめられること
 そのことは、第四の幸いと不幸についてのみ言葉を読むことによってはっきりします。22節に「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」とあります。これと対応しているのは26節、「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」です。人々に憎まれることとほめられることが対照されていますが、それは自分の罪によって憎まれたり、自分の業績によってほめられることではありません。憎まれるとは、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられることです。人の子とは主イエス・キリストのことです。つまりこれは主イエスを信じる信仰に生き、それを貫くために人々に憎まれ、共同体から追い出され、ののしられ、汚名を着せられることなのです。ですからそれと対になっている「すべての人にほめられるとき」の意味は、主イエスを信じる信仰を曖昧にして、人々に迎合し、神様のみ心に従うよりも人々が喜ぶような生き方をすること、そのことによって人々からほめられる時、ということです。信仰を貫いて生きるならば、人々に憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられ、場合によっては殺されてしまうかもしれません。しかしその時あなたがたは幸いだと主イエスはおっしゃるのです。それは、この世の命と人生を超えて私たちを支配し、導き、天において大きな報いを与えて下さる神様がおられるからです。その神様の目に見えないご支配を見つめ、この神様との交わりに生きるところに、信仰者の幸いが見えてくるのです。しかしこの神様のご支配を見つめることなく、この世を生きる人生において人々からほめられることをのみ追い求めていくならば、神様と対面しなければならない死において、私たちは大いなる不幸に陥るのです。

本当の幸い
 この幸いと不幸の教えにおいて主イエスは弟子たちに、つまり私たちに、この世の人生の終わりである死をも超えてその先まで私たちを支配し、導き、報いを与えて下さる神様を見つめて生きる本当の幸いを与えようとしておられます。この幸いを私たちに与えるために、主イエスは人の子としてこの世に来て下さり、人々に憎まれ、ののしられ、汚名を着せられて十字架につけられ、この世から追い出されて殺されたのです。この主イエスの苦しみと十字架の死とによって私たちは罪を全て赦され、神様の前に安心して出ることができるようになったのです。あの金持ちのように陰府で苦しむのではなくて、ラザロのように神様の宴席に迎えられる約束を与えられたのです。私たちはそのことを見つめ、そこに希望を置いて、今のこの地上の人生を、主イエス・キリストを信じる者として歩むことができます。そこに、本当に幸いな人生が与えられていくのです。先ほど見つめた私たちの課題、貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々のことをしっかりと見つめ、自分に何が出来るのかを問うていくという課題も、私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さり、そして復活して下さった主イエス・キリストが、肉体の死を超えた彼方で私たちに新しい命、永遠の命を与えて下さることを信じて、その信仰を曖昧にすることなく、本当の幸いにあずかって歩むことの中でこそ果たしていくことが出来るのです。

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