「使徒を選ぶ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第126編1-6節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第6章12-19節
・ 讃美歌:309、310、510
十二人を選ぶ
主イエス・キリストには、十二人の弟子たちがいた、ということはよく知られています。主イエスのもとに集まって来て、教えを聞き、従っていた人々はもっと沢山いました。しかしその中から十二人の人々が、主イエスご自身によって特別に選ばれたのです。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書はいずれも、その十二人の名前を記しています。本日の箇所、ルカによる福音書第6章12節以下が、ルカにおいてその十二人の名が語られている所です。「十二人を選ぶ」という小見出しの下の括弧の中に書いてあるのが、マタイとマルコ福音書において同じことが語られている箇所です。十二人の弟子のリストがこのように三つの福音書それぞれにあるのですが、よく見るとどれも少しずつ名前が違っています。それで、この人とこの人は名前が違うけれども多分同一人物なのだろう、という推測がなされているのですが、本当のところはよく分かりません。また新約聖書は、この十二人の一人一人について、どのような人でどのような働きをした、ということを語っているわけではありません。このリストにだけ名前があり、どんな人かは全然分からない、という人もいるのです。そのように主イエスの十二人の弟子たちについては分からないことも多いのですが、とにかく三つの福音書が共通して語っていることは、主イエスが十二人の人々を特別に選んだ、ということです。その十二人が、主イエスと常に行動を共にし、そして主イエスが十字架にかかって死なれ、三日目に復活し、天に昇られた後、この十二人によって、イエスこそ神様の独り子、救い主キリストであるという福音、救いの知らせが、宣べ伝えられていったのです。この十二人の働きによって、今日に至るキリスト教会の歴史が始まりました。彼らは教会の礎となったのです。十二人という数は、イスラエルの十二の部族の数です。つまり彼らによって、新しいイスラエル、新しい神の民である教会が誕生したのです。
ルカの立っているところ
この福音書を書いたルカは、この福音書の続きとして使徒言行録をも書きました。それは、主イエスの昇天から始まり、弟子たちに聖霊が降って教会が誕生し、そして彼らがイエスこそキリストであるという福音を宣べ伝えていったその様子を語っているものです。その最後のところは、パウロがローマに到着し、そこで伝道をしたことで終わっています。つまりルカは、主イエス・キリストのご生涯とその働きやみ言葉を語るだけでなく、その後の教会の誕生と成長、ローマ帝国の首都ローマにまでキリストの福音が伝えられていったことをも語っているのです。言い換えればルカは、キリストを信じる人々の群れである教会が、地中海世界の全体に既に広まっているという時点に立って語っているのです。ルカによる福音書は、そこから振り返って、主イエスのご生涯を描いています。このことを頭に置いて読むことが、ルカによる福音書を理解するための大事な鍵となります。
使徒
本日の箇所の13節に「その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」とあることの意味も、そこから分かって来ます。「使徒」というのは、「遣わされた者」という意味の言葉です。マタイとマルコ福音書では、選ばれた十二人の弟子が「使徒」と呼ばれている所はほとんどありません。「十二人」とか「十二弟子」と呼ばれることが普通です。ルカだけが、この十二人のことを何度も「使徒」と呼んでいます。彼らが「使徒」と呼ばれるようになったのは、ペンテコステの出来事によって彼らが聖霊の力を受けて伝道へと遣わされていったことによってです。ルカがこの福音書の続きとして書いた書物は「使徒言行録」と呼ばれています。ルカがそういう表題をつけたわけではなくて、後にそのように呼ばれるようになったのですが、そう呼ばれるように、そこには使徒たちの働きが語られているのです。この使徒たちが宣べ伝えた信仰が教会の信仰、キリスト教信仰であり、私たちはそれを受け継いでいるのです。毎週礼拝において唱えている信仰告白の文書が「使徒信条」と呼ばれているのも、それが使徒たちの信仰を伝えているからです。つまり「使徒」というのは、後の教会における言葉なのです。ルカはその言葉を、十二人の弟子が選ばれた本日の箇所で用いており、主イエスご自身が彼らを使徒と名付けられた、と語っているのです。それは厳密に言えば時代がずれている、とも言えます。しかしルカはこのように語ることによって、ここで主イエスがお選びになった十二人が後に教会の信仰の礎となったことを読者に見つめさせ、主イエスのみ業とみ言葉とが、この人々を通して現在の教会へとつながっているのだということを示そうとしているのです。
徹夜の祈り
この十二人の使徒たちの選びを語るルカ福音書の話がマタイ、マルコ福音書と違っているもう一つの大事な点は、彼らが選ばれたことに先立って12節が語られていることです。そこには「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」とあります。主イエスは十二人を選ぶのに先立って、「神に祈って夜を明かされた」、つまり徹夜の祈りをなさったのです。このことは、マタイにもマルコにもない、ルカのみが語っている特徴的なことです。十二人の使徒たちは、主イエスの徹夜の祈りによって選び出され、任命されたのです。
主イエスがこのように熱心に祈りをなさったことをしばしば語るところに、ルカによる福音書の一つの大事な特徴があります。私たちがこれまで読んできたところにも、先ず3章21節の、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったことを語る所に、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」とありました。洗礼を受けた主イエスは祈っておられた、そこに、聖霊が鳩のような姿で降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が聞こえたのです。また、5章16節には、主イエスが重い皮膚病を癒されたことを聞いて多くの人々が集まって来た時に、「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」とありました。癒しのみ業が評判になり、多くの人々が押し寄せて来るようになった時、主イエスはそのような人々を避けて退き、人里離れた所、人々のいない所で静かに祈り、その後また癒しのみ業をしていかれたのです。つまりそのような癒しの業も、父なる神様との祈りにおける深い交わりの中でこそすることができるし、また意味のあるものとなる、ということです。そして本日の所では、山に行って徹夜で祈られました。山も「人里離れた所」と同じで、人々に妨げられずに祈り、父なる神様と語り合うことができる場、ということでしょう。そのような祈りを経て、十二人の使徒をお選びになったのです。このようにルカは、主イエスが、その歩みの大切な節々で、父なる神様との祈りにおける交わりを大切にしておられたことを語っています。この後にも、主イエスが祈られたことがしばしば語れていくのです。主イエスの最後の祈りは、23章46節です。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」。十字架の上で息を引き取る、その時に叫ばれた「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉、これも、父なる神様への祈りです。ヨハネから洗礼を受けたことに始まる主イエスの救い主としての歩みは、祈りに始まり祈りに終わったのだ、とルカは語っているのです。そのように祈る主イエスのお姿をしばしば語るルカですが、世を徹して祈られたとあるのは、本日の箇所と、もう一つは捕えられる直前のいわゆる「ゲツセマネの祈り」のみです。十二使徒の選びがいかに大切な、深い祈りによって備えられなければならない事柄であるか、が示されているのです。
イスカリオテのユダ
しかし主イエスはそこで何を祈っておられたのでしょうか。なぜ、夜を徹してまで祈らなければならなかったのでしょうか。それは、この十二人を選ぶことが、それほど大変なことだったことを示しています。何がそんなに大変だったのでしょうか。多くの人々が従って来ている、その中から十二人のみを選ぶのは大変だ、この人もあの人も甲乙つけ難い、それほどすばらしい人材が沢山いたのか、あるいはどんぐりの背比べだったのか、いずれにしても、十二人のみを選ぶことに苦労した、ということなのでしょうか。そうではないでしょう。この十二人の選びが大変なことだったのは、ひとえに、十二番目の人のためだったのだろうと思うのです。これはどの福音書においてもそうですが、十二人のリストの最後に来るのは、イスカリオテのユダです。この人は、16節に語られているように、「後に裏切り者となった」人なのです。彼は後に祭司長たちや律法学者たちに主イエスを売り渡し、主イエスの逮捕の手引きをしました。主イエスが捕えられて十字架につけられることの直接の原因となったのはこの人なのです。三つの福音書はどれも、選ばれた十二人のリストの最後のこのイスカリオテのユダをあげ、このユダが裏切り者となったことを語っています。それは、後で振り返ったら結果的にそうなった、というのではなくて、主イエスは最初から、このユダが裏切り者となることを知っておられた、知っていて、十二人に加えたのだ、ということを語るためでしょう。ルカが、この人々を選ぶに際して主イエスが徹夜で祈られたことを語っているのも、このことと関係があると思うのです。裏切り者となるイスカリオテのユダを十二人に加えることを決断するために、主イエスは夜を徹して、父なる神様に祈られたのです。
十字架の死への一歩
それは、祈りにおける神様との格闘であったと言ってよいでしょう。ユダを十二人に入れることは、そのユダの裏切りと、それによるご自分の十字架の死を受け入れることを意味します。言い換えれば、今既に始めており、これらからも進めていく、救い主としての働き、神様による解放、自由を告げ、その解放のしるしとして、人々を捕えている病や悪霊から人々を解き放つ癒しの業を行っていくこと、その働きの行きつく先が、十字架の苦しみと死であることを受け入れるということです。本日の箇所の直前の11節には、「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」とありました。「彼ら」とは、ユダヤの宗教的指導者、律法学者やファリサイ派の人々です。彼らがイエスを「何とかしよう」と話し合った、それは「殺してしまおう」ということです。主イエスに対する明確な殺意がここで示され、十字架へと至る暗い調べが流れ始めたのです。それに続くこの箇所で、主イエスが、それと知りつつ、裏切り者となるユダを十二人の一人としてお選びになったのは、主イエスご自身も、十字架の死に向かって決定的な一歩を踏み出したということです。主イエスは徹夜の祈りにおける父なる神様との格闘の末に、この一歩を踏み出されたのです。そのことを、ご自分をこの世にお遣わしになった父なる神様のみ心として受け入れたのです。ですからこの徹夜の祈りは、もう一つの徹夜の祈りであるあの「ゲツセマネの祈り」と内容が同じであると言うことができます。捕えられる直前のあのゲツセマネの祈りにおいて主イエスは、十字架の苦しみと死という苦い杯を自分から取り去って下さいと父なる神様に祈られました。それが主イエスご自身の正直な願いです。しかしそれに続いて、わたしの願いではなく、父よあなたのみ心のままに行ってください、と祈られたのです。この祈りを夜を徹して祈ることによって、主イエスは十字架の死への道を最終的に選び取られたのです。十二人を選ぶに際しての徹夜の祈りも、このゲツセマネの祈りにつながるものです。この祈りによって主イエスは、使徒として選んだ弟子の一人に裏切られて十字架につけられて殺されることへと向かう道を選び取られたのです。本日は棕櫚の主日、今週は受難週です。主イエスがユダに裏切られて逮捕され、死刑の判決を受け、十字架につけられて殺されたことを特に覚える週です。そのご受難への歩みは、本日のこの十二人の使徒を選ぶ場面から始まっていると言うことができるのです。
全ての病気を癒す
さて17節以下には、主イエスが弟子たちと共に山を下りて平らな所に立つと、大勢の弟子とおびただしい群衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、またティルスやシドンの海岸地方から、教えを聞くため、また病気を癒してもらったり、汚れた霊を追い出してもらうために押し寄せて来たことが語られています。主イエスは彼らの病気を癒し、悪霊を追い出されました。19節の最後には、「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」とあります。主イエスが、ご自分の中から出る大いなる力によって、多くの人々を、病気や汚れた霊の支配から解放し、救って下さった、そういう目覚ましいお働きがなされたことが語られているのです。
山の上と山の下
この話は、16節までの、十二人の使徒を選んだ話と特に関係はない別の話であるように思われます。けれども、この二つの箇所を結びつけている言葉があるのです。それは「山」という言葉です。12節には「山に行き」とあります。それは山の上で、ということでしょう。それに対して17節には「山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあります。山の上と下という場面の転換がことさらに語られているのです。しかも山を下りたというだけでなく、わざわざ「平らな所に立った」とあります。なぜそんなことをわざわざ語るのだろうと不思議に感じます。それは、「山の上」との対比ためとしか考えられません。ルカはこのように語ることによって私たちに、山の上での十二人の選びと、山の下での、多くの人々に対する目覚ましいお働きとの関係を意識させようとしているのです。それはどんな関係なのでしょうか。
17節以下の、山の下での主イエスのお働きについてもう少し細かく見ていきたいと思います。多くの人々があちこちから集まって来たとありますが、やって来たのは、「大勢の弟子とおびただしい民衆」です。つまり、ただ病気を癒してもらったり悪霊を追い出してもらおうとして来る人々だけではなくて、弟子たち、つまり主イエスの教えを聞き、従っていこうとする人々が大勢集まって来たのです。ですから主イエスがここでなさったのは癒しのみ業だけではありません。み言葉を語って人々を教えることと、癒しのみ業との両方がなされたのです。先ほど、主イエスの救い主としてのお働きとは、神様による解放、自由を告げ、その解放のしるしとして、人々を捕えている病や悪霊から人々を解き放つ癒しの業を行うことだと申しました。まさにその両方のことが、この山の下でもなされたのです。このように17節以下には、主イエスの救い主としてのお働きがより一層力強くなされていったことが語られています。そのことを象徴的に語っているのが「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていた」という所です。主イエスに力が漲り、救いのみ業が大いに前進している様子がこのように描かれているのです。
このことが、あの山の上での、十二人の選びと関係しているのです。十二人の使徒をお選びになったことによって、主イエスの救いのみ業が力強く前進していったのです。それはしかし、伝道の業を共に担ってくれる十二人の側近が出来たことによって、それまでは主イエスがお一人でしておられた伝道が、使徒たちの働きをも得てチームとしての業となり、それによって大いに前進した、ということではありません。17節以下に使徒たちの働きのことなど全く語られてはいないのです。彼らが用いられていくのはもっと先になってからです。今ここで、主イエスの救いのみ業の大いなる前進をもたらしているのは、先ほどの、あの十二人を選ぶことにおいて主イエスが父なる神様との祈りの格闘の末に、神様のみ心に従って、裏切り者となるユダを使徒たちの一人に加える決断をなさったことによって、十字架の死へと至る道を選び取り、歩み出された、その決断です。主イエスが受難への、十字架の死への道を歩み出して下さったことによって、救いのみ業が大いに前進した、両者の間にはそういう関係があるのです。
主イエスによる救いのみ業
このことによってルカは何を語ろうとしているのでしょうか。ここで大いに前進している主イエスの救いのみ業とは、繰り返し申していますように、神様による解放、自由を告げ、その解放のしるしとして、人々を捕えている病や悪霊から人々を解き放ち癒すことです。その救いのみ業が本当に前進するのは、人々を捕え、縛り付けている苦しみを、そしてその苦しみの根本にある人間の罪を、主イエスが全てご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さることによってなのだ、ということこそ、ルカがここで語ろうとしていることなのではないでしょうか。私たちを捕え、縛りつけているものの根本にあるのは罪です。罪とは、私たちが神様のことを思わず、感謝もせず、み心に従おうとせずに、自分の思い、願いのみによって生きていることです。生まれつきの私たちは、神様から自由になって、自分が主人になって、自分の思い通りに生きようとしているのです。その罪によって私たちは、貪欲に捕えられ、自分の様々な欲望や願いの奴隷となり、人に対して自分を誇ろうとするプライド、虚勢に陥り、自分の誇りを傷つけられることに対しては過剰に反応して逆に人を攻撃したり、あるいは自分の心に固い壁を作ってその中に閉じ籠ってしまったりするのです。そのような中で私たちは周囲の人々とよい交わりを築けなくなります。人の愛や善意を信じることができなくなり、隣人を傷つけ苦しめる者となってしまうのです。主イエスがここで病人や悪霊に苦しめられている人々をお癒しになったのは、罪に捕えられ、縛りつけられて神様をも隣人をも愛することができなくなっている私たちを解放し、神様をも隣人をも愛する自由を与えて下さる、その救いのみ業の象徴です。そしてその救い、解放は、私たちの罪と、それによる私たちの様々な苦しみを、主イエスが背負って下さって、私たちに代わって十字架にかかって死んで下さることによってこそ実現するのです。弟子の一人に裏切られ、十字架にかけられて死ぬという受難への道を選び取り、歩んで下さった主イエスこそ、私たちを罪から解放し、救って下さる方です。山の上で、徹夜の祈りによって神様のみ心に従うことを決断し、裏切り者となるユダを含む十二人を使徒として選んで下さった主イエスは、その山を下りて、罪に支配された私たちの現実のまっただ中に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架の死への道を歩んで下さったのです。それによって、私たちのための救いのみ業は大いに前進したのです。
受難週からイースターへ
私たちは今週、その主イエスが歩んで下さった十字架の死への苦しみの道を覚えつつ歩みます。そして来週には、主イエスの復活の記念日、イースターを迎えます。私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった主イエスは、父なる神様によって復活させられ、新しい命を与えられました。私たちもこの新しい命にあずかりたいのです。そのためには、主イエスが私たちのために十字架の死への道を選び取り、歩み通して下さったことをしっかりと覚えなければなりません。そのことによってこそ、主イエス・キリストによる救いのみ業が、私たちの中で力強く前進していくのです。そして私たちも、主イエスによって選ばれ、遣わされた使徒たちのように、この世における神様の救いのみ業の前進のために仕える者となることができるのです。