主日礼拝

罪人を招く主

「罪人を招く主」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第51編1-21節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第5章27-32節
・ 讃美歌:295、115、442

徴税人レビ
 本日ご一緒に読む、ルカによる福音書第5章27節以下には、レビという名前の徴税人が主イエスの弟子となったことが語られています。5章のはじめのところには、シモン・ペトロをはじめとする何人かのガリラヤ湖の漁師たちが弟子となったことが語られていました。それに続いて本日の箇所では、徴税人レビが弟子になったのです。徴税人が主イエスの弟子になるというのは驚くべきことでした。なぜなら当時徴税人は、30節のファリサイ派の人々の言葉に「徴税人や罪人」とあるように、罪人の代表とされていたからです。彼らは文字通り税金を徴収する人でしたが、その税金は自分たちユダヤ人のために使われるのではなく、彼らを支配しているローマ帝国、つまり敵である外国のためのものでした。敵に支払う税金を同胞であるユダヤ人が取り立てるのですから、彼らはユダヤ人たちの中で、裏切り者の売国奴として憎まれ、神様に背く罪人として蔑まれていたのです。そのように皆に嫌われる仕事を敢えてするのは、役得があったからです。決められた分さえローマに納めれば、残りは自分の懐に入れることができるのです。ですから人々から多めに徴収することによって私腹を肥やすことができます。背後にはローマの軍隊が控えていますから、誰も逆らうことができません。このようなわけで、徴税人は皆金持ちでした。しかしユダヤ人の同胞からは罪人の代表として憎まれ、軽蔑されていたのです。このレビも同じだったでしょう。収税所に座っている彼の姿は、金はあるけれども誰も友人のいない、孤独なものだったと思います。主イエスはそういうレビを見て、「わたしに従いなさい」とお招きになりました。すると彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った、と28節にあります。徴税人として収税所に座っていたレビが、立ち上がって主イエスに従う者となったのです。それは、徴税人としての生活を捨てて主イエスに従う弟子、信仰者となったということです。主イエスに招かれたレビは全く新しい者へと変えられたのです。

何もかも捨てて
 これと同じ話はマタイとマルコ福音書にもあります。マタイにおいては、名前がレビではなくてマタイとなっており、マルコでは「アルファイの子レビ」と丁寧に書かれているという多少の違いはありますが、これらは同じ話だと言ってよいでしょう。三つの福音書はそろって、漁師たちに続いて徴税人が主イエスの弟子となったことを語っているのです。しかし他の二つの福音書と読み比べてみますと、ルカがこの話を語る上で特に強調しようとしていることが見えてきます。他の二つにはなくてルカのみにある言葉がいくつかあるのです。その一つは、28節の「何もかも捨てて」です。レビは全てのものを捨てて主イエスに従っていった、そのことをルカは強調しているのです。これと同じことは11節にも語られていました。ペトロらガリラヤ湖の漁師たちが弟子になった場面です。「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」。ペトロたちも、全てを捨てて主イエスの弟子になったのです。ルカはこのように、主イエスの弟子、つまり信仰者となることは、「全てを捨てて従っていく」ことだということを強調しているのです。
 私たちはこの「何もかも捨てて」という言葉を聞くとすぐに、「自分にはとてもそんなことはできない」と思ってしまいます。何もかも捨てて主イエスに従っていくことが信仰であるならば、自分はとても信仰者にはなれない、と思ってしまうのです。しかしこの言葉をそのように簡単に「できない」と言ってしまう前に、もう少し、聖書の語ることに耳を傾けていきたいと思います。ルカは「何もかも捨てて」という言葉によってどのようなことを語ろうとしているのでしょうか。この福音書の9章57節以下に、主イエスの弟子となるに際して求められる覚悟について語られているところがあります。そこを読んでみたいと思います。9章57~62節です。「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた」。ここには、主イエスの弟子となるとは、主イエスご自身が、枕する所もないような歩みをしていかれる、その歩みについていくことであり、そのためには親の葬式を出すという子供としての基本的な義務さえも放棄することだと言われています。これなどは、親不孝を奨励している、と思われてしまいかねないところですが、しかし聖書は十戒において「あなたの父母を敬え」と教えているのですから、主イエスもここで親をないがしろにすることを教えておられるわけではありません。ここに示されているのは、死者を葬るという、基本的には過去を振り返る業よりも、主イエスによって新しく始まっている現実に生きることを大切にする、ということです。主イエスによって今や、神の国、神様の恵みのご支配が始まっています。その新しい事実を言い広めることこそが、主イエスに従う者が第一に大切にすべきことなのです。「鋤に手をかけてから後ろを顧みるな」というのもそれと同じです。新たに始めたなら後ろを振り返るな、というのです。過去を見つめるのではなく、将来に目を向けていくことが、主イエスに従っていく弟子としての歩みなのです。
 これらのみ言葉を合わせて読むときに、「何もかも捨てて立ち上がり」ということに込められている意味がはっきりしてきます。それは、これまでの歩み、生活からの訣別です。レビは、徴税人として生きてきたこれまでの人生を捨てて、新しい歩みを始めたのです。主イエスを信じる信仰者になることにおいて、私たちも、このレビと同じように、それまでの歩みとは違う新しい人生を始めるのです。それは「とてもできない」ことのようにも思われますけれども、実際に信仰者となって生きている人の多くはそういうことを多かれ少なかれ体験しています。そもそも洗礼を受けるというのは、古い自分が死んで、新しく生まれ変わるということです。そこには、それまでの自分との訣別ということが必ずあるのです。

盛大な宴会
 「何もかも捨てて」という言葉に私たちがヒステリックに拒否反応を起こす一つの理由は、「全財産を放棄して無一文にならなければ信仰者にはなれないということか」と思ってしまうことにあるのではないでしょうか。しかしここには、何もかも捨てて主イエスに従ったレビが、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した、と語られています。つまりレビにはなお家があり、盛大な宴会を催す財産があるのです。「何もかも捨てて」というのは、財産を全て放棄しなければならない、という話ではありません。財産を持っている人は信仰者になれない、などと考える必要はないのです。むしろここで注目すべきなのは、レビが主イエスのために盛大な宴会を催したということです。これが、他の福音書にはない、ルカのみが語る特徴的な第二の言葉なのです。他の二つの福音書も、主イエスがレビの家で食事の席に着かれたことは語っています。しかしレビが「盛大な宴会を催した」と言っているのはルカだけなのです。このことによってルカは、何もかも捨てて主イエスに従ったレビがどのように変わったのかを印象的に描いています。彼は、主イエスを家に招いて宴会を催す者となったのです。それは、お金の使い方が変わったということです。彼は金持ちなのですから、それまでにも宴会を開くことはあったでしょう。そこに集まっていたのは徴税人仲間のみです。他の人は、招いたって来てくれはしません。人々に嫌われ、軽蔑されている徴税人の仲間どうしで、脛に傷を持つ者が互いに慰め合い、酒の力で憂さ晴らしをするような宴会を彼は催していたのです。しかし今、彼はそれまでとは全く違う宴会を催す者となりました。主イエス・キリストを食卓の主人とする宴会です。それまで自分が主人となり、自分の喜びや楽しみのために生きてきた彼が、人生の本当の主人と出会い、この方に従っていくことに人生の新しい意味と本当の喜びを見出したのです。そのまことの主人であるイエス・キリストを中心とする宴会を彼は催したのです。これは、それまでの、やけ酒によって憂さ晴らしをするような宴会とは全く違う、本当の喜びに満ちた宴です。レビは、何もかも捨てて主イエスに従ったことによって、財産を捨てたのではなくて、このようなまことの喜びのために財産を用いる者となったのです。
 そしてその宴会には、「徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」とあります。レビはこの宴会に、これまでと同じように徴税人の仲間たちを招いたのです。しかしその招待の意味はこれまでとは全く違ったものとなっています。この宴会はもはや、お互いに傷をなめ合い、愚痴をこぼし合い、酒によって憂さを晴らすためではありません。彼は自分の仲間たちを、これまでの自分と同じように収税所に寂しく座っているだけの人々を招いて、主イエス・キリストに紹介しようとしているのです。主イエスとの出会いの場を作ろうとしているのです。自分が主イエスとの出会いによって、それまでの罪と、そのもたらす孤独から抜け出して全く新しく歩み出すことができた、人生の意味を見出すことができた、その喜びを彼らにも分け与えようとしているのです。それゆえに招かれたのは徴税人のみではありませんでした。「ほかの人々」も大勢いたのです。「ほかの人々」とは、徴税人と同じように、「あんな罪人の仲間にはなりたくない」と言われて嫌われ、軽蔑されていた人々です。レビは、それらの人々を大勢招いて、主イエスと出会わせようとしているのです。つまり彼がこの宴会を催したことは、シモン・ペトロが「人間をとる漁師」になったのと同じことを意味していると言うことができます。また、先週読んだ17節以下には、友人たちに床を担がれて主イエスのもとに連れて来られた人が、中風を癒されて立ち上がり、自分の床を担いで歩いて行ったという話がありましたが、先週の説教において、この話は、人に担がれて主イエスのもとに連れて来られた人が、主イエスによる救いにあずかり、今度は人を担いで主イエスのもとに連れて来る人となることを象徴していると申しました。それと同じことがレビに起っているのです。レビは、主イエスのもとに人々を連れて来る伝道のために、自分の財産を用いる者へと新しくされたのです。

つぶやき
 このレビの家での盛大な宴会の様子を見たファリサイ派の人々や律法学者たちがつぶやきました。30節によれば彼らは、イエスの弟子たちに向かって「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と言ったのです。この人たちは、先週の所でも、主イエスが「あなたの罪は赦された」と救いの宣言をなさったことに対して、「罪を赦すことができるのは神お一人のはずなのに、そんなことを言うのは冒涜だ」などと言いました。主イエスが人々を罪や苦しみから解放なさるその救いのみ業にことごとく「これは問題だ」とケチをつけようとする人々です。彼らが「つぶやいた」とあります。つぶやきというのは、正々堂々と批判することとは違います。陰でぶつぶつとつぶやくのです。彼らの言っていることは明らかに主イエスへの批判ですが、それを弟子たちに向かって語っています。本人には言わないで、周辺の者に、より言いやすい者に言うのです。それがつぶやきの特徴です。こういうつぶやきは、ファリサイ派の専売特許ではありません。私たちもしばしば、このようにつぶやくことがあるし、このようなつぶやきの声が耳に入ります。人に与えられている救いを喜ぶのでなく、自分の規準によって人のことを「ここが問題だ、あそこがいけない」と批判ばかりする精神にとりつかれると、私たちもこのファリサイ派の人々と同じようにつぶやく者となってしまうのです。
 主イエスは、彼らのつぶやきにお答えになりました。それが31、32節のお言葉です。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。これはとても分かりやすいお言葉です。医者を必要としているのは、健康な人ではなく病人である。自分はその病人のために来た医者なのだ、と主イエスは言われたのです。その病人とは罪人のことです。例えば徴税人であったレビは、同胞を苦しめることによって私腹を肥やす罪に陥っていました。その根本には、彼が主なる神様から目を背け、自分が主人になって生きているという神様に対する罪があったのです。その罪という病を癒す医者として、主イエスは彼のところに来て下さったのです。そして、彼が催した、同じような病人である徴税人や罪人たちが集まる宴会の席に喜んで連なって下さっているのです。そのことにつぶやいているファリサイ派の人々は、「あの医者はいつも病人ばかり相手にしている」と批判しているようなものなのです。

悔い改めへの招き
 この主イエスのお言葉の中に、マタイ、マルコにはなくてルカのみに出てくる特徴的な言葉の三つ目があります。それは、「悔い改めさせる」という言葉です。主イエスは、罪人を招いて悔い改めさせるために来られた、この「悔い改めさせる」ということにルカは強調を置いているのです。主イエスは医者として、病人である罪人を治療なさる、その治療とは、悔い改めさせることなのです。このことを私たちは軽んじてはなりません。主イエスによる救いとは、私たちの悔い改めが起ることです。そのためには、私たちは、自分の罪をはっきりと知らされなければならないのです。自分の罪を知り、自分がその罪を赦していただかなければならない者であることを知り、罪と訣別して新しくなることを求めていくところに、悔い改めが起ります。レビはそのようにして、徴税人として生きてきたそれまでの歩みから離れ、主イエスの弟子となったのです。あのシモン・ペトロも、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という告白を与えられることを通して主イエスの弟子となりました。あの中風で寝たきりだった人に対して主イエスが語られた救いの宣言も、「あなたの罪は赦された」だったのです。罪を知らされ、そしてそれを赦されて新しくされるという悔い改めによってこそ、私たちは主イエスの弟子、信仰者となるのです。「何もかも捨てて」ということの中心はこの悔い改めにこそあります。自分は罪人ではない、神様に赦してもらわなければならないような者ではない、という自負、プライドを捨てて、自分が病人であることを認めて、主イエスによる治療を受ける者となること、それが悔い改めなのです。そういう意味では主イエスはここでファリサイ派の人々に、「あなたがた健康な人には医者はいらないが、この罪人たちは病気なのだから私という医者が必要なのだ」とおっしゃったのではありません。自分はこの人々のような罪人ではない、と思っているあなたがたは、自分は健康だと思い込んでいる病人と同じで、自分の病気を自覚しているこの人々のように治療を受けることができない、悔い改めて救いにあずかることができない、と言われたのです。主イエスのこのお言葉は私たちに対する問いでもあります。このお言葉を聞いて、「イエス様はかわいそうな病人である罪人たちを癒すために来られたのだな。私は病気でなくてよかった」と思うのか、「イエス様私こそ、あなたに癒していただかなければならない病人です。罪人である私をどうか救って下さい」と告白して主イエスに従っていくのか、そのことが問われているのです。

罪人を招く主
 そして最後に、この主イエスのお言葉における一番大事なポイントを指摘したいと思います。これは、マタイもマルコも共通して語っていることです。それは「わたしが来たのは、罪人を招くためである」ということです。主イエスが、罪人を招いて下さっているのです。病人である私たちが、医者である主イエスを招いて、往診をしてもらうのではないのです。私たちは招いてはいないのに、いやそもそもこのファリサイ派の人々と同じように自分が病人、罪人であることに気付いてすらいなかったのに、主イエスの方から私たちのところに来て下さり、私たちを招いて下さったのです。レビは、主イエスによる救いを求めていたのではありません。彼は普段の日と同じように、収税所に座っていたのです。そこに主イエスが来られて、「わたしに従いなさい」と声をかけて下さったのです。それは、彼に対する主イエスの招きのみ言葉でした。彼はこの招きに応えて立ち上がり、何もかも捨てて従って行ったのです。どうしてそんなに簡単に何もかも捨てて従っていくことができたのか、私たちは不思議に思いますが、その理由はただ一つ、主イエスが招いて下さったからです。彼が何を悩み、考え、決断したかは大した問題ではありません。そのような人間の思いの中から信仰が生まれるわけではないのです。悔い改めも同じです。私たちが自分のことをあれこれ反省することの中から悔い改めが生じるのではありません。レビがそうだったように、私たちも、主イエスご自身が、「わたしに従いなさい」と招いて下さることによってこそ、悔い改めることができるのです。主イエスの招きは、ただ言葉だけで与えられているのではありません。主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、肉を裂き血を流して死んで下さいました。私たちの罪はこの主イエスの十字架の死によって赦されたのです。ご自身の命を私たちのために与えて下さる、その恵みによって主イエスが招いて下さっているから、私たちは悔い改めて主イエスに従っていくことができるのです。
 主イエスこそが私たちを招いて下さっている。そのことが見えてくると、レビがここで催した盛大な宴会の本当の意味も見えてきます。この宴会は、レビが催したものです。彼が主イエスを招き、またそこに徴税人の仲間たちや、罪人たちをも招いたのです。そのようにして催されたこの宴会はしかし、「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という主イエスのみ言葉によって、主イエスご自身がレビを、そして多くの徴税人や罪人たちを招いて下さる宴席となりました。主イエスこそがこの宴席の主人として、罪人たちを招き、悔い改めへと導いて下さるのです。そのことを私たちは本日この後、聖餐の恵みによって味わいます。聖餐は、主イエスが十字架にかかって肉を裂き、血を流して死んで下さったことによる救いの恵みを私たちが体をもって味わい、それによって養われ、生かされるための、主が招いて下さる恵みの食卓です。主イエスの招きに応えて、古い自分と訣別し、新しく生まれ変わることの印である洗礼を受け、主の恵みを味わう喜びの宴である聖餐にあずかりつつ生きること、それが主イエスに従っていく弟子、信仰者の歩みなのです。

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