夕礼拝

天の国の逆転

「天の国の逆転」  副牧師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: イザヤ書 第57章14-21節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第20章1-16節
・ 讃美歌 : 51、436

後にいるものが先に、先にいる者が後に
 「後にいるものが先になり、先にいるものが後になる」。本日朗読された新約聖書の最後で、主イエスがお語りになっている言葉です。ここには、一つの逆転とでもいうべき事態が示されています。私たちの常識、人間が支配する世の価値観からすれば、後にいるものは後、先にいるものは先です。近年言われるようになり、しばしば耳にする言葉に、「勝ち組」、「負け組」というものがあります。日本社会の雇用体系が変化する中で、自分の能力を生かして他者との競争に打ち勝ち成功する人と、反対に、自分の能力を生かしきれずに、社会の中で十分に評価されない人を表す言葉です。この言葉は、現代社会が、個人の能力、業績によってのみ人間が評価されるようになりつつあるということを示しています。そのような中で、他者と自分を比較し、勝つか負けるかに多くの関心が置かれるようになっているのです。社会の状況は、私たちの心、行動、生き方に影響を与えます。私たちは多かれ少なかれ、「先にいるもの」と「後にいるもの」を区別し、人々と自分を見比べ、どちらが先にいるのかを判断し、「先にいるもの」となろうとすることがあるのです。そのような者にとって主イエスの言葉は、異質なものであり、奇異にさえ思えます。しかし、そのように感じるのは、当然と言えば当然です。今日お読みした最初の箇所には、「天の国は次のようにたとえられる」とあります。主イエスはここで、この世の常識や倫理ではなく、天の国についてお語りになっているのです。天の国と言う場所が、どこかにあるのではありません。「国」と言われている言葉は、支配を意味します。神様の御支配が実現しているところが天の国なのです。神様の御支配が、人間の常識や価値観と同じとは限りません。もし、その御支配が、罪ある人間の常識に照らして妥当なものであれば、それは、もはや神様の御支配とは言えないでしょう。人間の常識と異なっているからこそ、神様の御支配なのです。つまり、神様の御支配、天の国には、私たちから見た時に逆転があるのです。

何度も出向く主人
 実際、主イエスがお語りになる、天の国のたとえ話は、私たちにとって、あまりにも現実離れしたものです。主イエスは天の国を、一日に何度も広場に赴き、自らのぶどう園に労働者を呼びいれる主人にたとえます。夜明けごろに、一日につき一デナリオンの約束をして労働者を雇った後、九時ごろ、十二時ごろ、三時ごろ、五時ごろと一日に五回も、労働者を雇いに広場に出て行くのです。収穫期が来て、多くの人手が必要であったということを考慮しても、一日に五回も労働者を雇うのは不自然です。夜明けから三時ごろまでの四回はともかく、最後は五時ごろに出かけるのです。五時から働いたとしても労働が終わる夕方までに働けるのはほんの一時間です。しかも、主人は、基本的には三時間ごとに広場に出かけますが、最後の一回は三時から二時間しか経っていない五時に出かけるのです。このことは何を意味するのでしょうか。ここには、雇われず広場にいる労働者を何としても雇いたいという主人の意志が表れています。主人は、ぶどう園の収穫のためという以上に、広場で立っているだけのものをなんとしても雇いたいという思いで、広場に出向いて行くのです。広場に集まる日雇い労働者たちは、雇い主が現れる時にはじめて、その日の働きが与えられ、一日を生きるための糧を得ることが出来ます。ですから、この主人の振る舞いは、労働者の内、誰一人として雇われないで一日を終えることがないようにとの慈しみに満ちたものだと言っても過言ではありません。たとえの中の、昼間の内に雇われない人とはどのような人でしょうか。何らかの理由でぶどう狩りのような炎天下での肉体労働に十分に従事できない人であることが想像できます。おそらく、病気や体の不自由を抱えている人であったかもしれません。この人たちは、雇われないということを予感しながらも、もしかしたら雇い主が現れるかもしれないというかすかな希望を抱きつつ、広場にやってきたことでしょう。希望がある人ならまだいいでしょう。5時に雇われた人というのは、朝の段階では、広場に立っていることもしなかったのです。どうせ雇ってもらえないと決め込んで、早々と出て行くこともしないでいたのかもしれません。希望もなく、広場にやって来て、雇い主がやってこないまま、何もすることが出来ずに立ち尽くしていたのではないでしょうか。この人たちに主人は問いかけ、次のようなやり取りがなされます。「なぜ何もしないで、一日中ここに立っているのか」。「誰も雇ってくれないのです」。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」。雇い主が見つかり、自分のその日の糧が与えられる。ここに労働者の喜び、真の慰め、があります。

先にいる者の怒り
 しかし、この出来事は、もう一方で、激しい怒りと憎しみを生むことになります。夕方になり、報酬が支払われるときのことです。主人は監督に、労働者たちを呼んで、最後に来たものから始めて最初に来た者まで順に賃金を払うように指示するのです。最初に五時に来た人が一デナリオンずつ受け取ります。それを見て、最初に来た人たちはもっと多くもらえるだろうと思うのです。しかし、彼らも一デナリオンずつだったのです。彼らは、一デナリオンを受け取ると、主人に対して不平を言います。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。この時の最初に来た人々の憤りは、当然呼びかけられるべき「ご主人様」という呼びかけも忘れていることからも想像できます。我を忘れて、主人に詰め寄るのです。この最初に来た人たちの怒りは、この世の常識から考えれば当然のものです。私たちの社会において、決してあってはならないことです。自分の労働が他者と比べて正当に評価されないことに私たちは怒りを覚えるのです。日が暮れた涼しい中で一時間しか働かなかったものたちと、炎天下の中を丸一日働いたものが同じように扱うことは「不公正」としか言いようのない振る舞いです。しかし、この怒りの中に、聖書は人間の内側にある罪を見つめていると言うことが出来るでしょう。明け方から働いた人々が発した「最後に来たこの連中」という言葉の中には、明らかに最後に来たものを侮蔑する思いがこめられています。人間が主張する公正さとは、自分の権利を主張して、他者をないがしろにするための手段でしかないことがあります。それは自己主張と他者への軽蔑と怒りを生み出します。しかも、彼らの怒りは、自分自身の身の程を知らないことによって生じたものです。彼らは、雇われなければ、「何もしないで広場に立っているだけの人」でしかありません。他者との比較において自分を見ようとする中で、自分自身が、主人と一デナリオンで約束を交わして雇われたものであるということを忘れてしまっているのです。雇われる喜びや、一日の糧を与えられることの感謝はどこかに吹っ飛んでしまっているのです。そこで、自分は何事かをなしたものであるかのように思い違いをして、自分を過大評価してしまうのです。

神の支配の公正さ
 主人は言います。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい」。怒りと憎しみに満ちて詰め寄る人々に対して、主人は「友よ」と慈しみに満ちた呼びかけをします。主人は決して、最初から来た人々を軽んじているわけではないのです。実際、この主人は不当なことはしていません。明け方から働いたものにも、約束の一デナリオンを払ったのです。そして、この時、誰一人として一デナリオン以上の報酬を受け取ったものはいないのです。主イエスは、14節で、「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それともわたしの気前の良さをねたむのか」とおっしゃいます。最後に来たものにも同じように、その日必要な一デナリオンを支払ってやりたい。決して、あなた以上に支払うのではない。あなたと同じようにしてやりたい。それが主人の意志です。その意志によって、最後のものも一日に必要な一デナリオンを受け取るのです。ここに神様の御支配における公正さがあります。自分のものを自分のしたいようにする。私たちの間でも、しばしば語られる言葉です。しかし、私たちがこの言葉を使う時、それは、自分の欲求を満たす時や、わがままを主張する時に、自分を正当化しようとして使うことがほとんどです。しかし、この主人は、最後に来たものが、今日一日を生きるために必要な一デナリオンを支払ってやりたいという慈しみを示すためにこの言葉を語るのです。

目が悪くなる
 何故、この主人のふるまい、即ち、神の御支配における公正さに対する、怒りが生じるのでしょうか。それは、人間が罪に支配されており、神の公正さを受け入れられないからです。私たちは時に、神が不公正であると嘆きます。しかし、実は、そのような時、むしろ神様の真の公正さに躓いているのです。主人は、「それとも、わたしの気前よさをねたむのか」と語ります。「ねたむ」とはどういうことでしょうか。この文を直訳すれば、「わたしが良いので、あなたの目が悪くなってしまったのか」となります。ここには、ねたみの本質が示されていると言っても良いでしょう。それは、神の善、公正を前にして、人間の目が悪くなることです。見るべきものが見えなくなることです。事実、明け方から働いていたものは、既に、主人に見出され、恵みの中に入れられているということが見えなくなって不平をもらしているのです。神の恵みに生かされている自らの姿が見えていないのです。神様のほうをしっかりと見て、神様と自分の関係に目をやることをしていないのです。だからこそ、他人と自分を比較して、心は怒りと不満で満ちあふれるのです。私たちが、罪に支配されていること、見るべきものを見ていないことが明らかとなるのは、神様の恵みが自分ではなく、自分の周囲にいる他者を選んでいると感じる時ではないでしょうか。しかも、自分の目から見て、自分よりも後にいる者だと思っている人を神が選んでいると感じる時ではないでしょうか。そのような時、自分が正当に評価されていないと怒り、不満をもらすのです。しかし、その不満は、私たちの目が悪いことの証拠であり、見るべきものを見ていないことを明確に示しているのです。自分も又、選ばれたものであること、広場に立っているしかなかった時に声をかけられた者であること、更には、その時の喜びと感謝を忘れてしまっているのです。主イエスを殺そうとした、当時の律法学者やファリサイ派といった、自ら律法を守ろうとして信仰深く生きようとした人々は、主イエスが罪人と徴税人と共に食事をしているのを見た時、そのことに躓きました。自分が見下している者の下に主イエスが赴いたからです。自らも招かれ、声をかけられていることを忘れ、神様の救いを得るべき資格を隣人と自分の業を比較することにおいて主張しようとする時、私たちは罪に支配され、知らず知らずの内に真の天の国から遠くかけ離れたものになっているのです。

主イエスの十字架
 目が悪くなっている者、主なる神様の気前の良さ、神様の御支配が見えていない者の目が開かれることは、天の国のたとえをお語りになっている、主イエスに目を向けることをおいて他にはありません。このたとえをお語りになった時、主イエスは、どのような状況であったのでしょうか。今日お読みしたたとえ話の直後には、主イエスが三度目に自らの死と復活について予告をされたことが記されています。そして続く21章からは主イエスがエルサレムに迎えられます。つまり、このたとえは、主イエスの御受難が本格的に始まる、エルサレム入城の直前に語られたたとえなのです。主イエスの十字架の苦しみが徐々に近づいて来ているのです。なぜ主イエスは、この世で苦しまれなければならなかったのでしょうか。それは、人々が真の神の御支配、神の恵みに躓くものであるからです。主イエスが恵みに満ちた愛の業を示し、神の国について語ったことによって、人々は主イエスに憤りと憎しみを覚えるようになりました。遂には侮辱し、鞭打ち、十字架にまで追いやったのです。主イエスの方は、何の抵抗を示すこともなく、ご自身を十字架で捧げきっくださったのでした。全く公正である主が、主の公正さに躓く私たちのために最も貧しく暗い十字架で裁かれる。主の真の公正さが、私たちの偽りの公正さによって裁かれたのです。しかし、主イエスはこの十字架を克服して復活され、それによって、死ぬべき罪人に、真の命を与えて下さったのです。私たちから見れば最も暗く恥辱に満ちた十字架において、神様の栄光が示されているのです。この主イエスの業の中に、キリストによって実現される天の国、神様の救いの御支配が現されています。神と等しい方である主イエスが低くされたことによって、罪の中におかれている私たち人間が、罪赦され高く上げられるものとなるのです。このことによって、私たちの正しさの中に、神の正しさが示され、人間の罪の中にキリストの救いが溢れるのです。そして、この出来事の中で、私たちは、自らが、主の気前よさ、主の公正さ、主の御支配によって生かされている者であることであることを知らされるのです。

おわりに
 私たちは、主イエスに救われ、ぶどう園の中に入れられています。しかし、そのような中で、時に、先のものとして歩んでしまいます。教会の中において、信仰の歩みの中においてもそのことは起こります。主は、たとえによって、この世の常識や社会の在り方を問題としているのではありません。まさに、信仰生活の中で起こることを問題とされているのです。私たちは主に仕える時でさえ、他者と比較することから自由ではありません。何も出来ずに広場にいた時、主に声をかけられたものであることを忘れて、自分が何事かをなしたものであるかのように錯覚してしまうのです。自分が何か隣人より、より多くを受ける資格があると思ったり、自分の業を主張して優越感に浸ったりするのです。しかし、私たちが先のものとして振舞おうとする時、自己の正しさを主張し続ける時、主の救いが見えていないのです。そのような者に向かって、主イエスはたとえ話を通し、又、御自身の命を差し出すことを通して、天の国の御支配を示しておられるのです。私たちは、私たちが今日一日を生きるために本当に必要な一デナリオンを捧げて下さる方がいることを示されなくてはなりません。命を捧げてまでして、私たちに示して下さった愛が既に私たちにも及んでいることを思い起こさなくてはならないでしょう。私たちの誰一人として、「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」とおっしゃる主の気前の良さによらずに救われる者はいないのです。そして、この救いにあずかる時、この世にあって天の国、神様の御支配を映し出して行く者とされるのです。共に、主の救いにあずかっている者として、その恵みを喜びながら歩む者でありたいと思います。

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