主日礼拝

恵み深い言葉

「恵み深い言葉」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 列王記上第17章8-24節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第4章16-30節
・ 讃美歌:255、365、280

郷里の人々の反応
 先週のクリスマス礼拝に続いて、主イエスがガリラヤで伝道をお始めになり、ある安息日に故郷であるナザレの町の会堂でみ言葉をお語りになった、その場面を読みます。主イエスはイザヤ書61章の言葉を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお語りになりました。先週は22節までを読みましたが、その22節には、主イエスの言葉を聞いた人々の反応が語られています。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」とあります。これは基本的に、好意的な反応であると言ってよいでしょう。人々は主イエスが語られることを、「恵み深い言葉」として聞いたのです。しかし、「驚いて」というところから、少し雲行きが怪しくなります。恵み深い言葉を聞いたなら、そこに起るべき反応は「喜んで」であるはずです。しかし彼らは喜んだのではなくて驚いたのです。何に驚いたのでしょうか。22節後半の彼らの言葉がそれを物語っています。「この人はヨセフの子ではないか」。これは、主イエスのお育ちになったナザレの町の人々だからこその反応です。ナザレの人々は、主イエスの家族を皆よく知っているのです。両親がヨセフとマリアであり、イエスは三十歳で家を出て伝道を始めるまで、父ヨセフと共に、マルコ福音書によると大工の仕事をしていたのです。そのように、小さい頃からよく知っているヨセフの子イエスが、自分たちの会堂でこのようなことを語ったことに彼らは驚いたのです。主イエスは既にガリラヤの諸会堂を回って教えを語っておられましたが、この郷里ナザレでの話のみをルカが記しているのは、この郷里の人々ならではの反応と、それに対する主イエスのお言葉を語るためなのです。

しるしを求める
 主イエスは23節で「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」と言われました。ここにカファルナウムという町の名が出てきますが、これはガリラヤ地方の中心の町で、この後の31節以下にはそこにおける主イエスの活動が語られていきます。「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが」とあるように、主イエスは既にこの町で伝道をし、31節以下に語られているような奇跡を行なっておられたのです。「あなたがたはそういう奇跡を、郷里のここでもしてくれと私に求めているに違いない」と主イエスは言っておられるのです。この主イエスの言葉から、郷里ナザレの人々が主イエスに対してどのような思いを持っていたのかが伺えます。つまり彼らは、主イエスの言葉が恵み深い言葉であると認めながらも、それを喜んで受け入れるのではなくて、自分たちのよく知っているあのイエスがこのような言葉を語るとはどういうことか、あのイエスに神の教えを語る権威や資格があるのかと疑い、イエスが神から遣わされた証拠、印を見せてもらいたい、と思っているのです。具体的には、我々をあっと驚かせるような奇跡を見せてくれるなら、お前の言葉を恵み深い言葉として信じてやろう、ということです。そのような彼らの思いを見抜いておられる主イエスは24節で「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言われました。預言者というのは、神様によってみ言葉を語るために遣わされた人です。ですから主イエスも広い意味で預言者です。その預言者は自分の故郷では歓迎されない。それは、自分のことを小さい頃からよく知っている人々の間では、神様のみ言葉が神様のみ言葉としてではなくて、「あの人の言葉」として聞かれてしまいがちであるということを語っています。主イエスのみ言葉も、「あのヨセフの息子イエス」の言葉として聞かれてしまったのです。それゆえにこの24節の言葉はしばしば、牧師は自分の出身教会には赴任しない方がいい、ということが語られる時に用いられます。私なども母教会である藤沢北教会に行きますと今でも「あら順ちゃん立派になって」なんて言われてしまうのです。

郷里の人々の殺意
 けれどもここで主イエスが語っておられるのは、そんな笑い話で済まされるようなことではありません。25節以下で主イエスは、旧約聖書における二つの事例をあげて、このことを具体的に示していかれるのです。そこで引かれたのは、預言者エリヤとその後継者エリシャにまつわる話です。エリヤについての話が、本日共に読まれた列王記上17章8節以下です。三年以上に及ぶ旱魃によって飢饉が起った時、エリヤはシドン地方のサレプタに住む一人のやもめの所に遣わされ、彼女の家族を救い、同時に自分も養われたのです。シドン地方のサレプタというのはイスラエルの外、外国です。ですからこのやもめはユダヤ人ではない異邦人です。多くのユダヤ人が飢饉で苦しんでいた時に、預言者エリヤは異邦人のところに遣わされ、そこで救いの業を行なったのです。エリシャの話は列王記下の第5章にあります。アラム即ちシリアの軍司令官だったナアマンが、エリシャによって重い皮膚病を癒されたのです。この人も異邦人、しかもイスラエルをしばしば脅かす敵の国の軍司令官です。イスラエルにも同じ病を負っていた人が大勢いたのに、この異邦人のみが癒されたのです。つまりこれら二つの話は、自分たちこそ神様の民であり、神様の救いにあずかるのは自分たちだ、と思っている人々には救いが与えられず、むしろその人々が異邦人として蔑んでいる人々にこそ救いが与えられた、という話なのです。そういうことが今このナザレで起っている、と主イエスは語ったのです。つまりナザレの人々は、自分たちはイエスが何者であるかも知っている、そのイエスが神の教えを語っていると言うなら、自分たちを納得させるだけの証拠を示せ、と思っている、しかし彼らがそんなことを言っている間に、神様の救いはイエスの恵み深い言葉を信じた他の町の人々に与えられているのです。主イエスの言葉にそういうことを聞き取ったナザレの人々は憤慨しました。単にちょっと腹を立てたのではありません。彼らは総立ちになってイエスを町の外に追い出し、崖から突き落として殺そうとしたのです。しかし主イエスは「人々の間を通り抜けて立ち去られた」とあります。具体的にどのようにしてこの危機を脱出したのかはどうでもよいことです。まだ、主イエスの死ぬべき時は来ていなかったというだけのことです。
 これが、本日の箇所の、特に後半のあらましです。ここには、主イエスの故郷ナザレの人々が、主イエスの言葉を恵み深い言葉と認めながら、結局それを受け入れることができず、むしろ主イエスに対して敵意を、殺意をすら抱くようになったことが語られています。このことは、私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。私たちはナザレの住民ではないし、主イエスのことを小さい頃から知っているわけでもありません。その私たちには、このナザレの人々に起ったことは関係がないようにも思われます。しかしそれなら、なぜルカはこの話をわざわざ福音書に記したのでしょうか。ルカはこの話を、この福音書を読む全ての人々にとって意味のある事柄として語っているのです。私たちはこの記事から何を聞き取っていったらよいのでしょうか。

ヨベルの年
 そのことを考えていくために、主イエスがお語りになった恵み深い言葉の内容をもう一度振り返ってみたいと思います。主イエスがご自分で選んで朗読されたイザヤ書61章の始めの所は、「わたし」と言っているある人が、自分は神様によって遣わされ、主の霊、聖霊が自分の上におられる。この霊の力によって自分は、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げることができる、と語っている所です。この預言の言葉が、今日、あなたがたが耳にしたときに実現した、と主イエスはお語りになったのです。イザヤが語っている、解放と自由の実現する主の恵みの年とは、「ヨベルの年」のことです。ヨベルの年については、新共同訳聖書の後ろの付録の「用語解説」を見ていただきたいと思います。そこに説明があるように、ヨベルの年のことはレビ記25章に語られています。まず、7年ごとに、土地を休ませる安息の年を設けることが定められていました。その安息の年を7回繰り返した翌年、つまり50年目が「ヨベルの年」です。その年には、過去49年の間に、借金のかたにとられて人手に渡っていた土地は元の所有者に返却され、同じく借金によって身売りしていた奴隷は解放されるのです。そういう解放、自由が告げられる年が五十年目のヨベルの年です。先日のクリスマス愛餐会において、受洗五十年を迎えられた井上巌さんが、受洗から五十年目をこのヨベルの年として受け止めておられることを語られましたが、まさに聖書において五十年目とはヨベルの年なのです。この年に、借金によって失われた土地が返され、奴隷となっていた人は解放される、それは要するに、借金、負債の免除ということです。ヨベルの年に告げられる解放、自由とは、この負債からの解放、その免除であり、それによって、社会に生じた不公平、格差を是正し、神の民全員がもう一度新しく同じスタートラインに立って歩み出せるようにする、ということなのです。主イエス・キリストは、このヨベルの年の到来を告げるイザヤ書の言葉を朗読し、そして「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお語りになりました。救い主イエス・キリストによって、主の恵みの年、ヨベルの年が来る、負債の免除による解放と自由が実現する、それが、主イエスがお語りになった恵み深い言葉なのです。

キリストによる救い
 ヨベルの年における負債の免除、そこからの解放の恵みは、主イエス・キリストにおいて実現します。旧約聖書におけるヨベルの年は、主イエスによって実現する救いを前もって指し示していたのです。主イエスによる救いと、負債の免除とがつながるのは、聖書において人間の罪がしばしば、神様に対する借金、負債になぞらえられるからです。借金は返さなければいつまでも残るように、罪も、償わなければ決して消えることはありません。人間の罪は、いわゆる「禊」によって水に流してしまえる「汚れ」とは違って、償わなければならないものだ、というのが聖書の罪理解です。なぜならそれは神様に対して、また隣人に対して、損害を与え、それによって関係を破壊することだからです。与えた損害を償うことなしには関係の回復はないのです。しかし私たちは、その償いを自分でして関係を回復することができません。なぜなら私たちは神様に対しても隣人に対しても日々罪を重ねており、返さなければならない借金がどんどん積み重なって、自分の力ではとうてい返済できないくらい大きくなってしまっているからです。そのように負債即ち罪によって首が回らなくなっている私たちのために、神様はその独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。主イエスは私たちの罪、負債を全て代わって引き受け、肩代わりして支払って下さったのです。それが主イエスの十字架の死です。主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは全ての罪を赦され、負債を免除されて、身軽になり、新しく、神様に感謝して生き始めることができるのです。それがイエス・キリストによる救いです。主イエスはこのようにご自分の命を与えて下さることによって、私たちのためのヨベルの年を、解放と自由を宣言して下さったのです。この解放と自由とが、今や主イエス・キリストによって実現しようとしている、それがここで語られた恵み深い言葉なのです。

金融危機を脱却するために
 先週23日と24日に行われたクリスマス讃美夕礼拝のメッセージにおいて、最近ある方に紹介されて読んだイギリスの経済新聞の記事についてお話をしました。アメリカのハーバード大学の教授である経済の専門家が、現在の世界的金融危機にどう対処したらよいか、という提言を語っている記事です。讃美夕礼拝に出席していない方もおられますので、もう一度説明をしておきますと、その人は、現在の金融危機の根本には、国にしても企業にしても個人にしても、莫大な借金、負債をかかえてしまっているということがあり、その負債がどんどん大きくなっている、ということを指摘しています。そのために金融市場が窒息状態に陥ろうとしているというのです。借金、負債は返済をしなければなりません。それが正義であり、その正義が貫かれることによってこそ、市場の公平性、公正さが守られるのです。しかし現在の状況において、その正義を貫き、公平さをあくまでも追求するなら、そこには、倒産、破綻という消極的、否定的な結果しか生まれない、とその人は言います。そこでその人が提言するもう一つの選択肢、それは、負債の免除ということです。具体的には、抵当が設定されている債務の全部ないし一部を、低利率に固定された長期の債務に転換する、ということのようですが、そのようにして、抵当にとられて資産を失うことを防ぎ、また利息の重荷から人々を解放するのです。これらはまさに、ヨベルの年に行われること、借金によって失われた土地や自由を回復し、もとの持ち主に返す、というのと同じことです。讃美夕礼拝の時には、話が複雑になるので申しませんでしたが、この学者はこの主張においてはっきりと旧約聖書の「ヨベルの年」に言及して、2009年をヨベルの年とすることこそが、五十年に一度どころか百年に一度と言われるこの金融危機から抜け出していくための道だ、と提言しているのです。ヨベルの年は、先ほどの用語解説に語られているように、神の民イスラエルの理想的な状態を描くために語られたのであって、古代イスラエルにおいてこれが実際に行われたかは疑わしいものです。しかし聖書が語るこの理想は、現在の世界経済の危機的な状況の中で、もう一度新しい意味を持ってくるのではないか、ここに、世界が模索していくべき道を見いだすためのヒントがあるのではないかということを示している点でこの記事は大変興味深いものです。そしてヨベルの年は実は主イエス・キリストによる救いを指し示しているのですから、この記事は根本的には、主イエス・キリストによる救いこそが、現在のこの金融危機を脱却していく道を示唆しているのだ、と語っているのです。勿論、信仰による救いと経済政策の問題とは違うのであって、両者を混同してはなりませんが、主イエスの救いの持つ構造が、人々が解放され、自由となり、身軽になって新しいスタートラインに着くための道を示していると言うことができるのです。

み言葉を信じて受け入れる
 主イエス・キリストは、ヨベルの年の到来を告げる預言がご自分によって実現すると宣言なさいました。しかしナザレの人々はこのみ言葉を信じなかった。主イエス・キリストによってヨベルの年が到来することを受け入れなかったのです。なぜ彼らはこの恵み深い言葉を受け入れなかったのか、そこには先ほど見たいくつかの理由があったわけですが、私たちが、自分たちのこととつながる問題として見つめておくべきことは、彼らが、イエスの言葉が神からの言葉であることの証拠、印を求めたことです。証拠を見たら信じ、受け入れてやる、というのが彼らの姿勢だったのです。それは言い換えれば、これが神からの言葉かどうかは、自分で判断する、ということです。様々な証拠をつき合わせて、最終的に自分が納得し、理解できたなら、初めてその言葉を神の言葉として受け入れるというのです。そのような考え方においては、要するに一番偉い主人は自分だということです。神様も、主人である自分にせっせと証拠を示して認めてもらわなければならない立場にあるのです。それは明らかに本末転倒です。そのような思いでいる限り、私たちは神様と出会うことはできません。その救いにあずかることもできません。そして救いは、私たちではなく、み言葉を信じて受け入れる他の人々に与えられていくのです。あのシドンのサレプタのやもめも、シリア人ナアマンも、エリヤやエリシャの言葉をそのままに受け入れてその通りにしたところ、救いにあずかったのです。ナアマンは、エリシャが「こうすればあなたの皮膚病は直る」と語った言葉があまりにも簡単なことだったので、腹を立てて帰ろうとしましたが、供の者たちに、「簡単なことなのだから試しに一度やってみたら」と言われてその通りにしたことによって癒されたのです。これらのことによって示されているのは、神様の救いを告げるみ言葉は、私たちが証拠を求め、それが本当に救いを与えるものなのかどうかを確かめようとしている間は救いをもたらさないということです。そのみ言葉を信じて受け入れ、それに従って歩み出していく中でこそ、私たちはその救いを体験することができるのです。恵み深いみ言葉を本当に喜ぶことができるのです。

損をすることを引き受ける
 さらにもう一つ、これも讃美夕礼拝においてお話したことですが、ヨベルの年の到来、負債の免除による解放、自由の宣言を受け入れ、それにあずかるためには、私たちは、人が自分に対して負っている負債、借金、つまり罪を免除する、赦す、ということが同時に求められるということです。私たちは神様と隣人とに対して、自分の力では到底返すことのできない負債を負っています。と同時に、他の人が自分に対して負っている負債、他の人によって自分が被っている損害というものもあるのです。主イエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪、負債を全て肩代わりして、それを償い、赦して下さいました。その救いにあずかるならば私たちは、人が自分に対して負っている罪をも主イエスが赦して下さったことをも受け止めることが求められます。自分の罪は赦していただくけれども、人の罪は赦さないということは通らないのです。人の罪を赦すことは、自分が受けた損害を引受けることであり、償いの要求を放棄することです。ヨベルの年が来た時には、人に貸していた人、借金のかたに人の土地を得ていた人は、それを返し、貸していたものを免除しなければならないのです。皆が新しいスタートラインに着くためには、そのように損をしなければならない人、債権を放棄しなければならない人がいるのです。それはいやだ、何故自分が損をしなければならないのか、と思っているなら、私たちはこの主イエスの言葉を恵み深い言葉として喜び受け入れることはできません。金融危機から抜け出すためのあの提言も、そういうことを含んでいます。債権の放棄、貸したものが返って来ない、あるいは担保物件が取れない、ということが伴うのです。しかしそのように損をすることをも引き受けるという決断を社会全体がすることによってこそ、この危機によって生じようとしている悲劇を最小限に止めることができる、とその記事は語っているのです。
 ヨベルの年の到来を告げる言葉は、今日、私たちに対して語られています。それを耳にした私たちが信じて受け入れるならば、この救いは今日、私たちの現実となるのです。そして神様との関係において、私たちは、決して損をしてしまうことはありません。誰でも皆、自分では到底返すことのできない罪、負債を神様に対して負っているのです。神様はその罪を全て赦して下さいます。隣人が私に対して負っている罪は、どんなに大きなものであっても、それに比べたら小さいのです。それは私たちの思い次第で赦すことのできるものです。主イエスの十字架による神の大きな赦しの恵みの中で私たちは、人の罪を赦す者となることができるのです。そのようにして、ヨベルの年、主の恵みの年が実現していくのです。

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