クリスマス讃美夕礼拝

ベツレヘムの星

「ベツレヘムの星」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 85編9-14節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第2章1-12節
・ 讃美歌 : 255、262、263、267、261

平和を失い、不安の中にいる私たち
 教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。皆さんと共にクリスマスを喜び祝うことができますことを感謝します。今年も、教会の正面に「クリスマスに平和の祈りを」と書かれたバナーを掲げました。今年のクリスマスも、これが私たちの切実な祈りです。この一年の間にも、世界各地で、争い、戦い、テロによって多くの人々が傷付き、犠牲になりました。私たちのこの社会においても、あの秋葉原の事件に代表されるような悲惨な出来事が日常茶飯事になっています。戦争は起っていないけれども、平和では全くない、という時代を今私たちは生きています。先ほど、旧約聖書の詩編第85編が朗読されましたが、その9節に「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に。彼らが愚かなふるまいに戻らないように」とありました。まことに私たちは、愚かなふるまいに陥り、平和を失ってしまっていると言わなければならないでしょう。
 それに加えて今年は、世界的な金融危機の中で終わろうとしています。百年に一度とか、未曾有のと言われる経済的危機が世界全体を覆っているのです。あのトヨタでさえ赤字に転落するという不況の中で、派遣切り、内定取り消しなどの雇用不安が生じています。人々の生活の基盤が崩壊していくという不安の中に私たちはいるのです。
 そのような不安、危機の暗闇の中で今私たちはクリスマスを迎えました。右を見ても左を見ても暗闇ばかり、明るい光などどこにも見えないような状況の中で、せめてこのクリスマスに、一時でも、明るく暖かい光を見たい、というのが私たちの偽らざる思いなのではないでしょうか。

東の国の学者たち
 先ほど、マタイによる福音書第2章の、クリスマスの物語が朗読されました。イエス・キリストがユダヤのベツレヘムでお生まれになった時、東の国の占星術の学者たちが、ユダヤ人の王の誕生を告げる星が現れたのを見て、その新しい王様を拝むために、はるばる旅をして来たのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」とありますが、ただユダヤ人だけの王なら、外国人である彼らには関係のないことです。この方は、ユダヤ人の王としてお生まれになる世界の救い主なのです。彼らは、世界の救い主を拝むためにやって来たのです。彼らは、星に導かれて、ベツレヘムの、馬小屋と言われますが、お生まれになったイエス・キリストのもとへとたどり着くことができました。そして幼子を拝み、贈り物をささげたのです。10節に、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。星に導かれて救い主イエス・キリストのもとへと集うことができた喜び、暗闇のようなこの世界に輝いたまことの光を見ることができた喜びに彼らは満たされたのです。私たちも今日、このベツレヘムの星を見たいと願っています。ベツレヘムの星が私たちの心の中にも輝いて、私たちをまことの喜びへと導いてくれることを願って、ここに集っているのです。

ベツレヘムの星
 推理小説作家として有名なアガサ・クリスティーの書いた「ベツレヘムの星」という短編があります。殺人事件などが出てくる推理小説ではなくて、クリスマスのお話です。飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんイエスを見守っている母マリアもとに、光輝く天使が現れるのです。天使はマリアに、「この子の未来を見せてあげよう」と言います。天使が先ず見せたのは、成長したイエスが、ゲツセマネの園という所で祈っている姿でした。イエスはまもなく捕えられ、死刑の判決を受け、十字架につけられようとしているのです。その恐れに苦しみもだえつつ祈っているイエスの傍らで、三人の弟子たちは眠りこけています。弟子たちにも支えてもらえずに、イエスは一人で苦しんでいるのです。天使が次に見せたのは、三人の人々が十字架につけられて処刑されている場面でした。そのまん中がイエスでした。イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息絶えました。マリアは自分の息子が、神様にすら見捨てられて死ぬところを見たのです。第三の場面は、少し時間は戻りますが、イエスが大祭司によって裁判を受けている場面でした。裁判長である大祭司はイエスに、「この男は神を冒涜した」と有罪を宣告したのです。つまりマリアは、自分の子イエスが、弟子たちにも支えられずに、深い苦しみと孤独の中で十字架につけられて処刑される、それは神を冒涜したという重大な罪状によってである、そういう未来を見たのです。これらの場面をマリアに見せて、天使は言いました。「私にこの子を預けるなら、このような苦しみに遭わないですむように、今すぐにこの子を天国に連れていってあげる」。マリアは動揺します。こんな苦しみの生涯を送るぐらいなら、いっそのこと赤ちゃんのうちに死んでしまった方がこの子にとって幸せなのかもしれない、と思ったのです。しかしその時、先ほど見た場面の別の面が見えてきたのです。イエスと一緒に十字架につけられた二人の内の一人が、イエスのことを、愛と信頼に満ちた目で見つめていたこと、眠り込んでしまっている弟子たちを見つめるイエスの目が慈愛に満ちていたこと、そして大祭司の裁きを受けているイエスの顔に、罪の意識は全く感じられなかったことです。それらのことに気付いたマリアは、天使の申し出を断ります。その天使は実は悪魔で、イエス・キリストを亡き者にするためにマリアに語りかけてきたのですが、その目論見はこのように失敗に終ったのです。

キリストの自己犠牲によって
 アガサ・クリスティーのこの短編が語っているように、クリスマスにこの世にお生まれになったイエス・キリストは、苦しみ多い生涯を送られました。最後には、神を冒涜する者として断罪され、十字架につけられて死刑に処せられてしまったのです。そのような生涯に果して意味はあるのか、という疑問が生じるのも当然です。しかし実はこのような生涯を歩んだからこそ、イエス・キリストは私たちの救い主なのです。キリストの苦しみは、自身の罪の結果ではありませんでした。何の罪もない神の独り子であられるイエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って、苦しみと死とに至る道を歩み通して下さったのです。このキリストの私たちのための自己犠牲の苦しみと死とによって、私たちの救いが実現したのです。イエス・キリストが私たちの救い主であられることは、キリストが私たちの罪のために苦しみを受け、私たちの身代わりとなって死んで下さった、そのキリストの自己犠牲によって実現したのです。神様の独り子であるイエス・キリストが、この自己犠牲の生涯を歩むためにこの世に来て下さったのがクリスマスの出来事です。ベツレヘムの星は私たちを、このイエス・キリストのもとへと導いていくのです。私たちはこの星に導かれてキリストと出会い、その十字架における自己犠牲の死による救いを示されるのです。それによってこそ、暗闇に閉ざされている私たちにクリスマスの光が輝くのです。

負債の免除
 このことは、今私たちが置かれている具体的な現実とかけ離れた別世界の話ではありません。キリストによる救いは、この世の現実と深く関わり、結び合っているのです。先日ある方から、イギリスの経済新聞に載ったある記事を紹介されて読みました。ハーバード大学の教授である経済の専門家が、現在の、百年に一度と言われる金融危機にどう対処したらよいかという提言をしている記事です。現在の金融危機の根本には、国にしても企業にしても個人にしても、莫大な借金をかかえて首が回らなくなっている状態がある、負債が増え続けることによって窒息状態が始まろうとしている、とその人は指摘しています。負債は返さなければならない、それが公平ということであり、要するに正義です。しかしその公平性、正義を貫こうとするところには、もはや破産、破綻という消極的、否定的な結果しか生まれないのです。そこでこの人がもう一つの選択肢としてあげるのは、負債の免除ということです。負債を免除し、要するに借金をチャラにすることによって、負債の負担にあえぐ国や企業や人々を身軽にして新しく出直させる、ということが、この世界的金融危機を乗り越えていくための一つの具体的現実的提言として語られているのです。

キリストによる救い
 実はこの経済の専門家が提言していることと、イエス・キリストによる救いとは重なり合うのです。聖書はしばしば、人間の罪を、神様に対する負債、借金になぞらえて語っています。罪は、水に流してしまうことができる「汚れ」とは違って、償いをしなければ消えることはないものです。負債も、返さなければいつまでも残るものであって、その点で罪と負債は相通じるのです。借金は返さなければならないように、罪は償わなければならない、それが正義というものです。しかし私たちは、自分の罪を自分で償い、借金を返すことができないのです。むしろ日々罪を重ねているので、私たちの負債はどんどん増えていくばかりなのです。そのようなに負債によって首が回らなくなっている罪人である私たちを救うために、神様は独り子イエス・キリストを遣わし、その主イエスが十字架の苦しみと死とによって、私たちの負債即ち罪を全て肩代わりして下さったのです。このキリストの自己犠牲によって、私たちは罪を赦され、借金をチャラにしていただいたのです。それがキリストによる救いです。キリストによる救いは、負債の免除になぞらえることができるのです。この救いによって、罪のために身動きが取れなくなっていた私たちが、身軽になり、新しくされ、神様に感謝して生きることができるようになったのです。あの経済専門家が指摘し提言しているのは、このキリストによる救いと同じことが、今世界の経済において、金融市場においてなされることこそが、現在の金融危機から脱却して世界が新しく歩み出すための道だということなのです。
 私は経済のことは詳しくありませんから、この指摘が経済政策においてどのような意味を持つのか、あるいは実現可能なのかは分かりません。しかし素人の私も感じるのは、現在の世界経済の状況は、景気が悪いから景気てこ入れの政策を、という程度のことで解決できるような事態ではないだろうということです。今私たちは、時代の大きな転換点に立っているのではないでしょうか。それに即した、抜本的、根本的な変化が、大胆な発想の転換が必要だと思うのです。そういう意味でこの提言は、世界がこれから歩むべき道を、少なくとも模索していくべき方向性を示していると言えるのではないでしょうか。

自己犠牲の意志
 この道を模索していく中で見落としてはならない大切なことは、私たちの罪という負債が免除されるために、神の子イエス・キリストが十字架の苦しみと死という犠牲を払って下さったということです。そのことがなければこの免除は実現しなかったのです。つまり、負債の免除においては、その負債を肩代わりする人、あるいは債権を放棄することによって損をする人、そのように他者のために犠牲を払う人が必要なのです。その犠牲を積極的に担い、背負おうとする意志、つまり他者のために自分を犠牲にしようという意志が起ることが、この救いには不可欠なのです。クリスマスの出来事、イエス・キリストの誕生は、神様が、そのような自己犠牲の意志をもって独り子をこの世に遣わして下さったことを示しているのです。
 救い主イエス・キリストのこの自己犠牲によって罪を赦され、負債の重荷から解放され、新しくされた私たちは、今度は私たちも、他の人のために犠牲を払おうという思いを与えられていきます。私たちの中に、世界の人々の中に、このような思いが生まれていかなければ、先ほどのあの学者の提言は実現しないでしょう。特に弱く貧しく、経済的危機のしわ寄せを最も過酷に受けなければならない人々のために、進んで犠牲を払おう、損をしよう、自分の債権を放棄しよう、そういう思いが世界の国々の人々の心に起っていくことが、あの提言の実現のためには不可欠なのです。つまり、先ほど申しましたあの根本的な発想の転換は、私たちが、イエス・キリストの自己犠牲によって実現した救いにあずかって、キリストに従って自分も自己犠牲の意志をもって生きていく者となるところでこそ現実となるのです。イエス・キリストによる救いによってこのような発想の転換を与えられ、新しい意志を与えられることによって、私たちは、今のこの未曾有の金融危機を、別の目で見つめ、そこに、人々を生かす新しい秩序を築いていくための契機を見出していくことができるのではないでしょうか。暗闇に閉ざされたこの状況の中に光が見えてくるのはそのようにしてなのです。

私たちを平和の道具として
 平和を祈り求めていくことにおいても同じことが言えます。今年もこの後皆さんとご一緒に、アッシジのフランシスコの平和の祈りを祈りたいと思っています。この祈りによって教えられるのは、まさに私たちの発想の転換です。慰められることよりは慰めることを、理解されることよりは理解することを、愛されるよりは愛することをこそ求める者となる、それは要するに、イエス・キリストが私たちのために歩んで下さった、十字架の苦しみと死への道、自己犠牲の道を私たちも歩んでいくということに他なりません。そのような発想の転換、新しい思いに生きることによってこそ私たちは、憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致をもたらす者となることができる。つまり、平和の道具となることができるのです。
 私たちは今日、ベツレヘムの星に導かれて、救い主イエス・キリストのもとに集いました。主イエス・キリストを礼拝し、そのみ言葉を聞くことによって、私たちは、主イエスが私たちのために命を犠牲にして成し遂げて下さった救いの恵みにあずかることができます。そして私たちも、その救いの恵みに押し出されて、自分の権利を放棄して、自分に与えられている力やお金や時間を、自分のためではなくて他の人のために用いていこうとする発想の転換を与えられていくのです。そこに、クリスマスの喜びが満ちあふれます。その喜びの中で神様は、私たちを、平和の道具として用いて下さるのです。闇に閉ざされたようなこの世界の中で、神様は私たち一人一人を用いて、明るく暖かい光を輝かせようとしておられるのです。

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