夕礼拝

キリストの内にいる者

「キリストの内にいる者」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: エレミヤ書第9章22-23節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙第3章2-11節
・ 讃美歌 : 271、469

キリストを信じる
 フィリピの信徒への手紙第3章2-11節が朗読されました。この箇所は先週も読まれましたが、本日は、その後半部分である7節以降を中心に、御言葉に聞きたいと思います。新共同訳聖書は、3章の始めに「キリストを信じるとは」と言う表題を掲げています。ここには、キリストへの信仰に生きるとはどのようなことなのかが語られているのです。ここで、パウロは自らに起こった変化を語っています。キリストを信じるとは、私たちに変化が起こることなのです。それは、単純に、それまで自分が信じていた信仰の対象が変えられると言うことではありません。他宗教の神を信仰していた者や、特定の神を信じていなかった者がキリスト教の神を信じるようになったというようなことではないのです。もっと根本的には、私たちの信じる態度、信仰の姿勢がキリストとの出会いの中で、根本的に変えられるのです。この変化によって私たちに起こることを、パウロの言葉で言うと、「キリストの内にいる者」となるということになります。キリスト者、キリストを信じる信仰に生きるとは、「キリストの内にいる者」とされることなのです。私たちは、パウロが語る「キリストの内にいる者」とはどのようなものなのかを見つめることを通して、信仰に生きる姿勢を示されていきたいと思います。

信仰者における変化
 パウロは、自身がキリストに出会ったことによって生じた変化を7節で次のように語ります。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」。変化と申しましたが、自分が有利だと思っていたものが、損失となったと言うのですから、180度の転換とでも言うべきかもしれません。パウロは以前から信仰を持って歩んでいました。しかし、その歩みが、キリストと出会って、大きく変えられたのです。パウロが、これまで自分にとって有利だったのにもかかわらず、損失と見なすようになったものとは何なのでしょうか。その具体例は5~6節に語られています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン属の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。ここで、ユダヤ教の律法に従って割礼を受けていることや、自分の血筋、信仰の熱心さが見つめられています。パウロはそれらのものによって、自分が神様の救いにあずかっていることの根拠としていたのです。自分は、純粋なユダヤ人の家計であり、誰よりも熱心に信仰に生きている。それ故に自分は救われると思っていたのです。しかし、パウロは、キリストと出会ってから、それらは損失であったと思うようになったのです。損失と言うのは、自分にとって害になるとと言うことです。ですから、パウロは、自分が頼りにしていたものは、確かに良いもので、自分の得になるけれども、キリストという新たに与えられた良いものと比べると見劣りしてしまうと言っているのではないのです。今まで自分が有利だと思っていたものは、自分にとっては害になるものであると知らされたのです。なぜなら、それらは、キリストの救いに与って生きることから離れさせるからです。キリストの救いにあずかって生きることと、自分が持っているものを頼っていく歩みは両立しないのです。だからこそ、8節の後半では、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いました、それらを塵あくたと見なしています」と語るのです。キリストの救いにあずかったことによって、今まで自分が頼りとしていたものは、損失にしかならない、塵あくたなのです。

肉に頼る信仰
 パウロがここで自分が誇りにしていたものを損失と見なすようになったと語るのは、この時、フィリピ教会には、以前のパウロのように自分自身の持っているものによって救いを得ていると主張していた人々がいたからです。本日の箇所は、パウロの警告から始まっています。3章2~3節で、「割礼を持つ者たちを警戒しなさい」とあります。当時、教会には、ユダヤ教の儀式である割礼を受けている者がいました。彼らは、旧約聖書の定めに従って割礼を受けている自分たちこそ、神様の救いを獲得していると主張していたのです。パウロは、そのような人々の信仰の姿勢を見つめ、警告を発しているのです。ここで、パウロが警戒しているのは、自分が持っているものによって救いを得ようとする姿勢、自分の内側に救いの根拠を保持しようとする姿勢です。このような信仰を、人間の肉によって救いを得ると言う意味で、「肉に頼る信仰」と言うことが出来ます。この肉に頼る信仰は、何も、割礼を受けている者だけのものではありません。この世で信仰に生きる者は誰でも、この信仰の態度から自由ではありません。私たちも、信仰生活を、自ら修練し、神様の前に相応しい者として歩んで行くことによって救いを得るもののように捉えてしまうことがあるのではないでしょうか。割礼を受けていなくても、自分自身の行いの清さを保ち、信仰の熱心さを貫くことが、肉の業になったりするのです。自分は、取り立てて良い行いもしていないし、信仰熱心でもないと思う方もあるかもしれません。しかし、そのような場合でも、人間の内側にある相応しさを見つめることは良くあることです。教会において時々、耳にする言葉に、「自分は学びが足りない」というようなことがあります。求道生活をしていて、洗礼を受けることをためらっている方だけでなく、信仰生活を長く送っておられる方からも聞かれる言葉です。もちろん信仰生活において、聖書を学ぶことが大切なのは言うまでもありません。しかし、このようなことが語られる背後に、聖書や信仰についての知識が一つの肉による救いの確かさのように捉えられているということがあるように思います。ある一定の聖書の知識を得ることによって信仰における相応しさを自分の中に得られるという思いがあるのです。このようなことにも、私たちが、信仰生活を、自分の内側を見つめ、自分が獲得したものによって救いに到達しようという姿勢があることが分かります。

自己完結した信仰
 この肉に頼る信仰に生きる時、どのような態度が生まれるのでしょうか。この手紙が書かれた当時、「割礼を持つ者たち」は、自分たちは救いに至る知識を持っているが故に、完全な者となっていると主張していました。救いについて自分は完全であるということを誇っていたのです。つまり、自分の持っているものよって救いの根拠とする態度は、必ず、自分が救いの根拠を保持していると言う、自分への誇りを生みます。更には、自分の内側のみを見つめることによって、自己完結した態度に陥るということが出来ると思います。自分のみを見つめ、神様に対しても隣人に対しても閉ざされてしまうのです。既に与えられている知識によって救いにおける完全さを主張するのであれば、そこで神様からの語りかけを新しく聞くことは起こらなくなってしまいます。更に、自分を見つめ、自分が持っているものを他者と比較し、自分の完全さを何らかの形で誇って行くようになるのです。そのように、自分が得ている知識を頼り、自分を誇りつつ歩む時、実は、隣人を見下したり裁いたりしているのです。そのような歩みは、聖書が語る真の救いには至らせるものではありません。聖書が語る信仰は、人間が、自分の内に救いの根拠を持つことではなく、むしろ、そのようにして、肉に頼ろうとする人間の思いが打ち砕かれて、キリストの救いにあずかって行く者になることなのです。私たちがキリストと出会い、その救いにあずかる時、自分自身の内側に救いの確かさを見出そうとすることを止めて、自分自身の外にある救い、神から来る救いに目を向けて行く者へと変えられるのです。

キリストの中に入る者
 自らの肉の誇りを損失と見なすようになったと語るパウロは、8節で「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」と語ります。パウロに変化をもたらしたのは、パウロが主キリスト・イエスを知ったからです。パウロは、キリストを知ってから、キリスト以外の一切は損失になったと言うのです。かつてのパウロは、割礼を持つ者たちと同様に、割礼によって自分たちは救いに至る知識を得ていると考えていました。しかし、パウロは、キリストを知ることこそ救いだと示されたのです。キリストを知ると言われていますが、それは、単純に、主イエスについての知識を身につけるということではありません。ここで知ると言われているのは、キリストについての知識を得ることによって、自分の内にある救いの根拠を獲得出来るというようなものではないのです。そうであるならば、パウロは、キリストという新しい知識を身につけただけで、自分の得ている知識を誇り、それによって救いを確信する姿勢は変わっていないことになります。キリストを知るとは、キリストとの交わりに入れられると言うことです。自分がキリストを知ると言うことであると共に、自分がキリストに知られているということなのです。パウロは、自分とキリストとの相互の愛の交わりに入れられたことを見つめているのです。この出来事を9節では、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」と語っています。自分が、救いの根拠としてキリストを得る時、キリストの中に自分が置かれるのです。自分の内にキリストを獲得するというよりも、自分がキリストの中に入れられていることを示されると言えるでしょう。具体的には、キリストが世に来て、私たちの罪のために十字架にかって死んで下さり、復活によって永遠の命を与えて下さったことによって、自らが完全に贖われ、キリストの者とされているというのです。そのようにキリストの者とされる時、自分の肉の誇りではなく、キリストにのみ頼る者とされます。9節には、「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と記されています。義というのは、神様の前で正しいものとされることです。「律法から生じる自分の義」即ち、自分の行いによって獲得する義ではなく、「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」、即ち、キリストとの交わりに生きる時に与えられる義を与えられるのです。そのような自己認識を与えられる時、人間は、神との関係において開かれている新しい自分が形作られるのです。

キリストの十字架にあやかりながら
 そして、そのように、信仰によって与えられる義に生かされる者の歩みが、10~11節に記されています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。ここには二つのことが言われています。一つは、復活の力を知る、即ち、キリストを復活させることによって人々の罪を贖った父なる神の力を知らされることです。もう一つは、キリストの死の苦しみに与って、その死の姿にあやかることです。これら二つのことは切り離して考えることができません。キリスト者は、キリストの苦しみにあずかり、十字架の死にあやかって行くことで、永遠の命と言う救いにもあずかる者とされるのです。復活に与ることは、キリストと一つにされて、キリストが世で経験した苦難に与ることを通してのみ実現されるのです。それは、自分の誇りを捨てていくことに他なりません。そのような歩みには、苦しみも伴いますが、真の救いに至る道なのです。2章6~9節において、キリストの救いの御業が次のように語られていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。キリストが私たちの罪のために十字架で死んだこと。又、それによって、神はキリストを復活させて高く上げられたことが語られています。私たちがこの十字架と復活に示されたキリストの救いにあずかってキリスト者とされる時、私たちも、このキリストに倣う者とされるのです。そこで、キリストの苦しみにあずかり、自らへりくだる愛に生かされる中で、キリストの復活の命にもあずかる者とされるのです。

将来の救いを待ち望みつつ
 キリスト者とされる時、私たちは、救いにおいて、自分のみを見つめ、自分の中にあるものによって救いの根拠としようとする歩みから自由にされます。キリストの救いが示され、それにあずかりつつ本当の救いであるキリストによる真の命を受けつつ歩む者とされるのです。そのような歩みをしていく中で、神がキリストに与えたように、復活の命が与えられていくのです。ここで注意したいことは、このことは、キリストの苦しみを担う者は、そのご褒美として救われると言うことではないと言うことです。真に自分の肉を頼り、自分の力で自らを高めて行くことで救いを獲得して行こうとする歩みではなく、自分自身の誇りに頼らず、キリストの救いにあずかって行くことを通して、真の救いが与えられていくのです。ですから、この救いは、私たちが完全に獲得することが出来るようなものではありません。絶えず求めて行くものなのです。パウロは11節で、「何とかして死者の中からの復活に達したい」と語ります。ここから分かることは、将来の復活にパウロ自身が与り得るかどうかは確かではないと考えていることです。キリストの救いは、確かに、現在、パウロを捉え、パウロはそれに与っているのです。しかし、キリストの救いは、その確かさを示されていると共に、将来の完成に向けて求め続けるものなのです。つまり、パウロは、自分が救いを得て完全なっていると主張するのではなく、終末における復活を強調して、現在不完全であることを強調しているのです。自分の中のものを頼る歩みは、現在の自分を見つめる歩みです。それに対して、キリストの救いに頼る歩みは、将来の救いを待ち望む歩みです。将来の復活に至ろうとする歩みなのです。
 私たちは、この世にあって、絶えず自分自身の内に救いの根拠を見出そうとあくせくしています。そのような中で、自分を誇る思いが生まれたり、信仰生活における様々な対立が生じたりするのです。しかし、そのような私たちの歩みの中にキリストが示されるのです。このキリストとの交わりの中に入れられ、キリストに捕らえられて行く自らを知らされて行く中で、私たちは、それまで自分が頼りにしていたものを損失と見なすようになります。そこで、真にキリストとの愛に生かされて行く者とされるのです。そのような中で、自分の獲得したものを救いの根拠とすることを止めて、御言葉を絶えず新しく聞き、共に救いにあずかる人々との交わりを深めながら、救いの完成を待ち望む信仰に生かされていくのです。

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