主日礼拝

主イエスの系図

「主イエスの系図」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書第56章1-8節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第3章23-38節
・ 讃美歌:229、236、353

三十歳
 本日はクリスマスに備えていくアドベント、待降節の第二の主の日です。今年はアドベントからクリスマスにかけての礼拝においてもルカによる福音書の連続講解を続けていくことにしました。今私たちは、主イエスがいよいよ教えを宣べ伝える宣教の活動を開始しようとしておられるところを読んでいます。本日の箇所の冒頭23節に、「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」とあります。先週読んだ21節で主イエスはヨハネから洗礼をお受けになりました。そしていよいよ、救い主としての活動を開始されるのです。その時、およそ三十歳だった、とここに書かれています。本日は先ず、この三十歳という年齢に注目したいと思います。
 旧約聖書において、祭司が聖所で奉仕を始めることができる年齢は三十歳とされています。またダビデが王になったのも、何人かの預言者が神様によって立てられたのも三十歳の時だったとあります。いわゆる成人、大人になる年とは別に、神様の大切なご用に当たることができるようになる年齢として、三十歳というのがある意味を持っていたようです。主イエスもその年齢に達した頃に活動を開始されたのです。主イエスが人々に教えを語っていかれた期間のことを「公の生涯、公生涯」と呼んだりしますが、それは長くても三年間ぐらいだったと考えられています。つまり、主イエスはおよそ三十歳で活動を始め、およそ三十三歳で十字架につけられたのです。そうしてみると、主イエスのご生涯の中で、活動を始める前の三十年間が、とても大きな割合を占めていることに気づきます。しかし福音書に語られているのはほとんど最後の三年間のことのみです。三十歳までの主イエスの歩みを、私たちは殆ど知らないわけです。福音書は主イエスの伝記ではない、ということを前にも申しましたが、このことからもそれが分かるのです。しかし私たちが今読んでいるルカによる福音書には、三十歳になるまでの主イエスのお姿が僅かながら語られています。主イエスの誕生の物語と、あの十二歳の時のエピソードについては、これまで説教において触れて来ましたが、触れてこなかった箇所もありますので、それを振り返っておきたいと思います。

三十歳までの主イエス
 まず、2章の40節です。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」とあります。同じようなことが52節にもあります。そこには「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とあります。主イエスが、神様の恵みに包まれて、心も体もすくすくと育ち、知恵に満ち、神様と人々とに愛される者となったことが語られているのです。これらの言葉は、主イエスがいろいろな意味で健康に育っていかれたことを示していますが、それ以上のことを語っているわけではありません。主イエスは幼い時からいかにも神の子らしい特別な力を持った方だった、ということではないのです。十二歳の時の話も、主イエスをいわゆる神童として描いているのではなくて、学者たちの話を聞き、質問をして、学んでいる姿を語っているのだということを前に申しました。その時にも指摘しましたが、2章51節に「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」とあることが大事です。ルカはある意味でこの言葉によって、三十歳までの主イエスの歩みをまとめているのです。つまり、健康に、すくすくと育ち、神と人とに愛されつつ、両親に仕えて暮らしていた、それが三十歳までの主イエスのお姿なのです。今日の私たちの社会の状況から見た時に、これだけで既に希有な、まことに幸せな姿であると言わなければならないわけですが、それは私たちの現実の方が病んでいるということなのであって、むしろこれは人としてごく普通の、当たり前の姿だと言うべきでしょう。主イエスは人の目を引くような特別な人としてではなくて、ごく普通の、どこにでもいる、心も体も健康な一人の男として育ったのです。そこに、この三十年の意味があると言えると思います。主イエスは、その誕生の物語において語られているように、神様の子として、ダビデの王座を受け継ぐメシアとしてお生まれになったのでした。しかし三十歳で活動を始める前までのそのお姿は、私たちと変わることのない、普通の人間だったのです。その主イエスが、三十歳になって、神様の導きによっていよいよ救い主としての活動を開始されるのです。

系図
 しかしその活動を語る前にルカは本日の所で、主イエスの系図を語っています。主イエスから始まって、その父へ、そのまた父へと遡っていき、最初の人間アダムにまで至る長い名前の羅列がなされているのです。この系図にはいったいどんな意味があるのでしょうか。聖書の中に主イエスの系図はもう一つあります。そちらの方がよく知られていると言えるでしょう。それは新約聖書の冒頭、マタイによる福音書の1章1節以下です。「聖書を読もう」という志を持って開き、読み始めた人が、直ちに挫折してほうり出してしまう原因の筆頭がこの系図です。聖書は、あるいは神様はと言うべきでしょうが、聖書を読もうとする者の前にまことに大きな躓きの石を置いておられると感じずにはおれません。もうちょっと人の興味を引くような、読み進めようと思わせるような始め方があるだろう、と私たちは思うのです。しかしまさにそこに、聖書という書物の特徴が現れていると言うことができます。聖書を読み、理解していくことは、一筋縄ではいかないのです。そこには入り口において既に躓きがあるのです。そこで躓いてしまったら何も得ることはできません。その躓きを乗り越えて読み進めていくことによってこそ、神様のみ言葉の世界が開かれていくのです。

食い違う系図
 それはともかくとして、主イエスの系図はマタイ福音書の冒頭とルカ福音書の3章の終わりにあります。そしてこの二つが食い違っているのです。そもそも構成が違います。マタイの方は、アブラハムから始まって主イエスまで降ってくる形であるのに対して、ルカのこの系図は、主イエスから始めて先祖へと遡っていく形をとっています。そしてアブラハムを通り越してアダムにまで至るのです。ですからこの二つの系図を見比べるためには、名前の順序を逆にして読んでいかなければなりません。そのようにして主イエスからアブラハムまでを比較してみると、そこに出てくる名前が全然違っていることが分かります。重なっているのはごく一部です。最も特徴的な違いは、ダビデ以後の系図をどう構成しているかにあります。マタイの方では、ダビデの後を継いで王となったソロモンの名が挙げられ、その後はいわゆる南王国ユダの歴代の王の名前が連なっています。この系図は、アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン捕囚まで、そしてバビロン捕囚からキリストまでと三つの区分を考えて構成されており、その第二区分はユダ王国の王の名前と重なっているわけです。しかしルカにおける系図では、そもそもダビデの子としてソロモンではなくてその兄弟の一人であるナタンが挙げられています。その後にもユダの王の名前は出てきません。つまりマタイとルカでは、ダビデ以降は全く別の系統をたどっているのです。しかしどちらも最後には主イエスの父となったヨセフにたどりついています。つまりヨセフの父の名が二つの系図で違っているのです。主イエスの系図を表にして作ろうとする人にとっては、「何なんだこれは」という状況です。それで昔から苦し紛れに、マタイの方はヨセフの系図で、ルカの方は実は母マリアの系図ではないか、などと言われたりしてきましたが、そんなことはどこにも書いてないのです。

福音を語るために
 このように二つの系図を比較していくと、にっちもさっちもいかない感じになってしまうのですが、そこで意味を持ってくるのが、先程も申しました、福音書は主イエスの伝記ではない、ということです。伝記ならば、その人の先祖についての情報を提供するために、正確な系図を示すことが一つの大事な課題となります。二つの伝記の系図が食い違っていたら、どちらが正しいのか、という話になるのです。しかし福音書はどれも、主イエスの伝記を書こうという意図で書かれたものではありません。それでは何のために書かれたのか。ルカ福音書にはその意図が明確に示されています。1章4節です。そこに、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」とあります。これが、ルカがこの福音書を書いた理由、目的です。「お受けになった教え」、それは主イエス・キリストの福音です。主イエスこそ神の子、救い主メシアである、という知らせです。その教えが本当にその通りなのだ、真理なのだということを示すために、ルカはこの福音書を書いたのです。ですからこの福音書に書かれていることはどれも、この目的のために意味があることです。系図だってそうです。マタイにしてもルカにしても、系図を記しているのは、主イエスの先祖についての正確な情報を読者に提供することが目的なのではありません。その系図を通して、彼らは主イエスの福音を語ろうとしているのです。系図の構成の違いは、彼らがそこで福音をどういう視点から語ろうとしているかの違いの現れです。マタイは、アブラハムから始まり、ダビデを経て主イエスに至る神の民イスラエルの歩みを見つめ、その中に救い主イエス・キリストを位置づけようとしています。ルカはそれとは別の視点から、やはりこの系図を用いて福音を語ろうとしているのです。ルカがここで何を見つめ、何を語ろうとしているのかを読み取ることが本日の私たちの課題です。それこそがこの系図を正しく理解することなのであって、マタイの系図と比較してどちらが正確か、というようなことを考えることにはあまり意味はないのです。

ヨセフの子と思われていた
 さてそこで、ルカがこの系図によって何を語っているのかを考えていくわけですが、この系図は「イエスはヨセフの子と思われていた」という言葉によって始まります。ここは口語訳聖書では「人々の考えによれば、ヨセフの子であった」となっていました。「思われていた」というのは、「人々はそう思っていた」ということです。そこには、実際は違うのだけれども、という意味が込められています。主イエスはヨセフの子であると人々は思っていたが、実際はそうではないのだ、というのです。このことによってルカは何を語ろうとしているのでしょうか。これまで読んできた所には、母マリアは夫ヨセフによってではなくて聖霊によって主イエスを身ごもり、産んだということが語られていました。遺伝的に言えば、ヨセフは主イエスの父ではない、そこに血のつながりはないのです。「ヨセフの子と思われていた」というのはそのことなのでしょうか。もしそうなら、その後にヨセフの先祖の系図を語るのはおかしなことです。主イエスがヨセフの子だというのは人々がそう思っていただけで実際は違うのなら、ヨセフの血筋を遡ることに意味はないはずです。いったいルカは何を考えてこの系図を語っているのでしょうか。その答えに到達するために、今はまず、この系図がどういう文章で語られているのかについて見ていきたいと思います。

主イエスは誰の子?
 「イエスはヨセフの子と思われていた」の後は、「ヨセフはエリの子、それからさかのぼると」とあり、24節からは名前の羅列になっています。日本語に訳すとこのようにならざるを得ないのですが、ここを原文で読みますと、「イエスはヨセフの子と思われていた」の後には、「エリの、マタトの、レビの…」という言葉がずっと並んでいるだけなのです。ということは、この系図は、「イエスはヨセフの子」という文章が中心にあり、そこには「人々の考えによれば」という言葉がつけ加えられていますが、その後には「誰々の子」という言葉は全くなくて、「エリの、マタトの、レビの…」と続いていくだけなのです。それは「エリの子、マタトの子、レビの子…」という意味になります。そのような言い方で、「ヨセフはエリの子、エリはマタトの子、マタトはレビの子…」というふうに、子から父へと遡る系図が語られていると理解されてこのように訳されているのです。しかしこの文章の構造からすると、「誰々の」という言葉は全て「ヨセフの」と同格であると考えることができますので、これらは全てイエスにかかる、と読むこともできます。つまりイエスはヨセフの子であり、エリの子、マタトの子、レビの子でもある、というふうにも読めるのです。そのように読むならば、ここに出てくる人々は皆、主イエスの父であり、主イエスはこの全ての人々の子である、と言うこともできるのです。それは別におかしなことではありません。何代も前の先祖のことを「父」と呼んだり、何代も後の子孫のことを「子」と呼ぶことはよくあります。例えばこの福音書の1章32節で天使は、生まれてくる主イエスについて「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と言っています。この裏返しが、救い主メシアはダビデの子である、という言い方です。ダビデの子孫として生まれるメシアはダビデの子なのです。この系図はそういう意識に基づいて語られており、それをダビデのみならず全ての先祖たちにあてはめているのです。

主イエスは神の子
 このことが大きな意味を持ってくるのは、最後の所です。38節は「エノシュ、セト、アダム。そして神に至る」となっています。皆さんはこの38節を読んでどう思われるでしょうか。私は以前から、ここは不思議な言い方だなと思っていました。アダムにまで遡る系図はよいとして、その後に「そして神に至る」とあるのはどういうことだろうか。神様がご先祖様だというわけではあるまいに、と疑問に思ったのです。しかしここの原文はまことに単純です。先ほど申しました、「誰々の」という言葉がずっと続いてきて、最後にあるのも「神の」という言葉です。ですからそれまでの所と合わせるならこの38節は「エノシュ、セト、アダム、神」と訳すべきなのです。意味としては、「セトがアダムの子であるのと同じようにアダムは神の子である」ということになるし、先ほど申しましたことからすれば、「イエスは最終的には神の子である」ということにもなるのです。ちょっと複雑なことをお話してしまいましたが、まとめて言うならば、この系図は、主イエスの父の名をヨセフから始めて一人一人遡って並べており、その最後に神を置いているのです。「そして神に至る」という訳文は、この系図は神に至る、という意味に理解すべきです。つまりこの系図は、主イエスからアダムまでの系図ではなくて、神にまで至る系図なのです。そういう系図を語ることによって、ルカは、主イエスが、アダムに至る数多くの先祖たちの子であると同時に、神の子でもあることを語っているのです。

血のつながりの有無ではなく
 先ほどの、「ヨセフの子と思われていた」という言葉の意味もここから見えてきます。ルカはここで、主イエスは処女であるマリアから生まれたのであってヨセフとは血のつながりがない、ということを言おうとしているのではありません。ルカがここで見つめているのは、ヨセフとの血のつがなりの有無ではなくて、主イエスはヨセフの子、つまり一人の人間の子であると思われているが、実は神の子なのだ、ということなのです。
 少し脱線になりますが、主イエスが処女であるマリアから生まれ、従ってヨセフとは血がつながっていないということを語っているのはマタイとルカだけです。その両方に、ヨセフを父とする主イエスの系図が語られていることは興味深いことです。マタイもルカも、主イエスが処女マリアから生まれたことと、ヨセフを父として系図を記すことの間に何の矛盾も感じていないのです。マタイ福音書においてヨセフは、天使のお告げに従って、聖霊によって身ごもったマリアを妻として迎え入れ、マリアと幼子主イエスを守る働きをしています。ルカによる福音書のクリスマス物語では、マタイと比べるとヨセフの影は薄いのですが、それでも、マリアの傍らに常にヨセフがいます。また生まれた主イエスを連れて神殿に上ったのも、十二歳の主イエスを連れて過越祭に神殿に上ったのも「両親」であると記されています。ヨセフは、主イエスの父としての役割をしっかりと果しているのです。その意味で、主イエスをヨセフの子と呼ぶことはマタイにとってもルカにとっても自明の前提なのです。この系図はそのことを前提としつつ、だから人々は主イエスのことをヨセフの子である一人の人間と思っているが、実はこの方は同時に神の子でもあられるのだ、ということを語っているのです。

神の子とされる
 しかし主イエスが神の子であるということだけなら、クリスマスの出来事においても、また十二歳の時の出来事においても既に語られていました。大事なのは、ルカがそのことを、この系図の中で語っていることです。つまり主イエスはヨセフの子であることから始めて、先祖たちへと遡りながら、その一人一人の名を挙げ、主イエスはそれら一人一人の子である、とも読めるような書き方をしていって、その最後に、実は主イエスは神の子であると語っているのです。主イエスはこれらの人々の子であると同時に神の子なのです。それは言い換えれば、主イエスが神の子であられることは、主イエスの本質における神との直接の関係においてのみ成り立っているのではなくて、これらの全ての人々の子孫としてこの世にお生まれになったことを通して実現したことでもあるのだ、ということです。そのように語ることによってこの系図は、ここに並べられている全ての人々もまた神の子であることを示そうとしています。彼らは主イエス・キリストの系図につながる者とされたことによって、神の子とされたのです。そこに、これから始められようとしている主イエスの救い主としての活動の意味、目的が示されています。主イエスは、もともと主なる神様の独り子であられる方です。しかしその神の子が、アダムの子孫として人間となってこの世にお生まれになり、救いのみ業を行なって下さったのです。この主イエスによる救いにあずかり、主イエスとつながることによって、私たちも神の子とされるのです。

異邦人の救い
 マタイと違ってこの系図が、アブラハムからさらに遡ってアダムにまで至っていることの意味がそこに見えてきます。主イエスとつながって神の子とされる恵みは、アブラハムから始まるイスラエルの民にのみ与えられているのではなくて、アダムの子孫である全ての人々に、つまり全人類に与えられているのです。私たちは、ユダヤ人ではありませんからアブラハムの子孫ではありません。しかしアダムの子孫ではあります。それは先ほどから申していますように、血のつながりという話ではありません。アダムが神様によって造られ、生かされたように、私たちも神様によって命を与えられ、生かされているのです。そしてアダムが神様に背いて罪を犯したように、私たちも神様に対して罪を犯しているのです。私たちがアダムから受け継いでいるのは罪であると言わなければなりません。しかしそのアダムの子孫として神様の独り子主イエス・キリストがお生まれになり、アダムから受け継いだ罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって、イスラエルの民ではない異邦人である私たちも、今や神の子とされ、その祝福の内に生きることができるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第56章には、異邦人もまた主なる神様の民に加えられるという恵みが語られています。そこには、異邦人が律法を守るなら、と語られていますが、今や私たちは、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けることにおいて、主イエスの系図につながる者とされ、神の子とされるのです。そして、本日も共にあずかる聖餐によって、主イエスの恵みを豊かに受け、それによって養われつつ、神の子として生きていくことができるのです。

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