主日礼拝

わたしよりも優れた方

「わたしよりも優れた方」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編第89編20ー38節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第3章7ー20節
・ 讃美歌:19、165、516

洗礼者ヨハネの教え
 先々週の礼拝において、ルカによる福音書の第3章1~14節を読みました。そこには、洗礼者ヨハネが、神様のみ言葉を受けて活動を開始したことが語られていました。ヨハネは、荒れ野で人々に教えを語り、ヨルダン川で人々に洗礼を授けたのです。この洗礼者ヨハネによって、イザヤ書40章の預言が実現したのだ、と4節以下は語っています。ヨハネは、イザヤが預言した、荒れ野で叫ぶ者の声であり、主の道を整え、それをまっすぐにする者です。彼の働きは、主の道を整えること、つまり救い主イエス・キリストの到来への備えをすることだったのです。その備えのために彼は、人々に悔い改めを求め、罪の赦しを得させるための洗礼を授けたのです。救い主を迎えるためには、つまり神様による救いにあずかるためには、悔い改めて、罪を赦していただかなければならない、とヨハネは語ったのです。悔い改めるというのは、まず第一に、自分が神様に赦していただかなければならない罪人であると認めることです。このことは、先々週も申しましたが、自分はあんな悪いことをした、こんな過ちを犯した、という個々の悪行を認めるということではありません。勿論それら一つ一つも罪であり、それを悔いることも大切ですが、求められているのは、それらの根本にあること、つまり神様に対する罪を認めることです。私たちに命を与え、養い導いておられる神様から顔を背け、神様を見つめようとせず、そのみ心を思わず、それに従おうとせず、自分のことだけを見つめ、自分の願い、欲望の実現ばかりを求めて生きている、そこに人間の根本的な罪があるのです。そこから、自分だけを愛し、神様をも隣人をも本当に愛することができず、むしろ憎んでしまうような様々な個々の罪、過ちが生じるのです。悔い改めるというのは、まず第一に神様に対する罪を認めることです。そして第二に、神様の方に向きを変えることです。自分のこと、自分の思いや願いばかりを見つめている目を神様の方に向け直して、神様のみ心を求め、それに聞き従おうとする者となることです。そのように悔い改めることこそ、救い主を迎えるための備えなのだとヨハネは語ったのです。

我々の父はアブラハム
 ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と3節にあります。洗礼は、罪の赦しを得させるために授けられるものです。全身を水に浸すことによって行われたこの洗礼は、体の汚れが水で洗い清められることとの類似性によって、罪が清められ、赦されることを象徴する儀式として行われました。洗礼を受け、全身を水に浸されてそこから出てきた者は、罪を赦され、生まれ変わって新しく生きることができるのです。ヨハネがそのような洗礼を授けていることを伝え聞いた人々は、続々とヨハネのもとに洗礼を授けてもらいに来ました。7節に「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆」とあるのがそのことを語っています。ヨハネはその人々に向かって、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と語りました。大変厳しい激しい言葉です。「あなたがたは蝮の子らと言うべき罪人であり、神の怒りがあなたがたに迫っている。それを免れることはできない」と言ったのです。彼がそう言ったのは、悔い改めることを本当にせずに、ただ洗礼を受けて罪の赦し、清めのみを得ようとする人々がいたからです。8節に「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」とあります。悔い改めにふさわしい実を結ぶことなしに、ただ洗礼のご利益にあずかるなどということはできないのです。そういう思いは「我々の父はアブラハムだ」という考えに集約されています。アブラハムは神様の民イスラエルの最初の先祖です。つまりこれは、「我々はもともと神様の民なのだから、救いにあずかることができるはずだ」という思いです。それは言い換えれば、「悔い改める必要はない」ということです。自分の罪を認め、心の向きを変えることなどしなくても、つまりあるがままの自分のままで救いにあずかることができる、そういう思いです。

「ありのまま」の罪
 そのように考えてきますと、この「我々の父はアブラハムだ」という思いは、イスラエルの民だけの話ではなくて、私たちの周りに今蔓延している、現代人の陥っている感覚であると言うことができます。ありのままの自分を肯定することが必要であり正しい、という感覚が今日の社会において一般的となっています。誰もが「ありのままの自分」を肯定することから事を始めようとします。それが「自分捜し」などという言葉に現れており、若者たちも、ありのままの自分を捜さなければという強迫観念に振り回されています。教育も、子供たちのありのままを肯定し、それを伸ばすのが使命とされ、教師たちも、子供たちの「ありのまま」を否定してはいけない、という呪縛にかかっています。しかし聖書が教えているのは、ありのままの人間とは罪人である、ということです。ありのままの人間は、悔い改めて罪の赦しを得なければ、祝福されて生きることはできないのです。ヨハネが語ったのはそういうことです。それが、彼に降った神の言葉でした。この神様のみ言葉は、今日私たちの社会を支配している風潮と真っ向からぶつかり合います。しかしこのみ言葉が語ることこそが、聖書が私たちに教えている、神様の前での人間の真実なのです。このみ言葉は今日の社会を支配している風潮とぶつかり合うと申しましたが、それは決して今日だけの話ではありません。本日の箇所の最後に語られているように、ヨハネは、このみ言葉を語ったために、領主ヘロデの怒りをかい、牢に閉じ込められてしまったのです。彼はヘロデに対しても、神様のみ言葉を曲げることをしませんでした。19、20節に「ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた」とあります。「自分の兄弟の妻ヘロディアとのこと」と簡単に語られていることの内容は、マルコ福音書の6章14節以下にもっと詳しく語られています。ヘロデは、兄弟フィリポの妻だったヘロディアを、フイリポと別れさせて自分の妻としたのです。これはヘロデが、ありのままの自分の欲望に従って行動したということです。ヨハネはそのことを「律法で許されていない」つまり神様のみ心に反する罪であると指摘し、悔い改めを求めたのです。そのことによってヨハネは牢に入れられてしまいました。ありのままの人間のあり方に現れている罪を指摘し、悔い改めを求めることは、このように、いつの時代においても、人々の怒りや反感をかうのです。しかしこのみ言葉がはっきりと語られ、聞かれることこそが、救い主を迎えるために必要な備えなのです。

どうすればよいのですか?
 ヨハネの言葉を真剣に聞いた人々は、10節にあるように、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねました。これはとても大切な問いです。神様のみ言葉を聞き、それによって自らの罪を示され、悔い改めを求められた者は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と問うのです。この問いを抱くことが、信仰への第一歩であると言えます。「悔い改めにふさわしい実を結べ」という勧めに対してこの問いが発せられたのですから、これは、本当に悔い改めるとはどういう生活をすることなのか、という問いです。悔い改めるとは具体的にどういうことかがこの問いによって示されていくのです。  この問いに対するヨハネの答えは、ある意味で私たちをがっかりさせる、拍子抜けさせるようなものだと言えるかと思います。彼は、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と言ったのです。これは要するに、貧しい人々に施しをしなさい、ということです。それは勿論すばらしい愛の行為であり、私たちが実践していくべき大切な教えであると思います。しかし、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」、つまり自分の罪を本当に悔い改めて神様の方に向き直って生きるとはどういうことか、という問いへの答えとしては、「それだけでいいの?」という感じがするのではないでしょうか。

悔い改めの実
 このヨハネの言葉から私たちが受け止めるべきことは何よりも、悔い改めは日々の具体的な生活の変化をもたらす、ということでしょう。神様の方に心の向きを変えることが悔い改めだと申しましたが、そのように言うと何か精神的な、心の中の問題という感じがしてしまいます。勿論それは心の問題なのですが、心の向きが変わることは、生活が具体的に変わることでもあります。生活が変わっていかないなら、心の向きが本当に変わったとは言えないのです。ヨハネがここで非常に身近で具体的なことを語っているのは、そのことを示し教えるためだと言えるでしょう。つまり、悔い改めは、それにふさわしい実を結ぶことがなければ本当ではないのです。そしてその実は、日々の具体的な生活の中に結ぶものなのです。つまり、私たちの日々の生活が、そこで考えること、することが、神様の方に心を向けたものとなるのです。それまでは神様のことなど思わず、そちらに顔を向けることなく、神様のみ心を意識することなしに営まれていた私たちの生活が、神様を意識し、その目の前での歩みとなるのです。その時に、自分に与えられているもの、自分が持っているもの用い方が変わっていくのです。「下着を二枚持っている」、それは決して裕福な、ゆとりのある生活ではありません。むしろ貧しい生活です。しかしその貧しさの中でも、自分に与えられているものを神様からの恵みとして受け止め、「一枚も持たない者」つまり自分よりもなお貧しく、困っている人に分けてやるという生き方が生まれるのです。そこに、心の向きの変化、自分のことを見つめていた目が神様の方に向き変わったことの現れがあるのです。

構造的な罪の中で
 12節には、徴税人が洗礼を受けようとして来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と問うたとあります。徴税人はこの福音書の19章に出てくるザアカイに代表されるように、規定以上の税金を取り立てて私腹を肥やしている、しかも支配者であるローマ帝国の手先となっている、罪人の代表とされる人々です。その人々に対してヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言いました。これもある意味で拍子抜けするような教えです。徴税人こそ「蝮の子ら」の代表であって、そのような仕事は即刻やめなさい、と言ってもよさそうなものだと私たちは思うのです。しかしヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」とのみ言ったのです。それは、悔い改めは、自分が今生きている生活の現実とかけ離れた理想を掲げて、一気にその理想を達成しなければならないようなものではない、ということでしょう。悔い改めは日々の具体的な生活から始まります。しかし私たちの日々の生活は罪にまみれたものです。社会が複雑になればなる程、構造的な罪と言うべきものがあり、その中でしか私たちは生きることができないという現実があります。そういう意味ではなお罪にまみれた生活を送りつつ、しかし心を神様に向けて、そこで自分に出来ることをして、悔い改めにふさわしい実を結んでいくことをヨハネは求めているのです。14節以下の、兵士たちに対する、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」という教えも同じです。兵士などはやめてしまえ、と言うのではなくて、その仕事の中で、神様に心を向けて歩み、自分に与えられている力や武器を恐喝や詐欺のために用いるな、と言っているのです。徴税人が規定以上のものを取り立てることも、兵士が恐喝をすることも、当時は当たり前のこと、皆がしていることだったのだと思います。そのような中で、神に心を向け変えた者として、皆がしている悪事から離れるのはとても大変なことであり、同僚たちに嫌われ、仲間外れにされるようなことにもなるでしょう。しかしそのような具体的な日々の生活の中で神様の方を向いて生きる者となることこそ、本当に悔い改めるということなのです。

貪欲に抗して
 この14節の「自分の給料で満足せよ」という教えについて最近改めて考えさせられています。先日テレビで、アメリカにおけるカード破産の実態が紹介されていました。クレジットカードを何枚も持ち、そして支払いはいわゆる「リボ払い」というので、毎月一定額のみの引き落としになっている、そういう中で、自分の収入を考えずに欲しいものはどんどんカードで買っていく、というのです。引き落としが一定額なので気付かないけれども、実際にはどんどん借金がかさんでいき、どこかで破綻して破産するわけです。学歴もあり、社会的な地位もけっこうある人々がそのようにしてカード破産に陥っていく実態がある。そのような中で印象的だったのは、教会が、それらの人々のための教育活動をしている、という話です。そこで教えているのは、「収入に見合った生活をしましょう」ということです。そんなことでよければいつでも教えてあげるのに、と思いつつ見ていました。そういうことを改めて学ばなければならない社会にアメリカはなっている、日本ももうじきそうなるのでしょうか。この根本にある問題は、自分の給料で満足できずに、どこまでも欲望の充足を求めていく、という貪欲です。先頃までのアメリカの好景気がそういう消費活動に支えられていたとすれば、それはまさにどこまでも拡大する欲望という罪の現れであり、収入という実体を伴わないまさにバブルの上に成り立っていたわけで、現在の金融危機はその必然的な結果であると言わなければならないでしょう。ヨハネがここで、悔い改めにふさわしい実りとして、自分の給料で満足せよ、と教えていることは、欲望が際限なく肥大していく、またそのことを煽っているこの社会を生きている私たちに、神様を見つめ、み心に従って生きるところに与えられる新しい生き方を示唆している大切な言葉であると言えると思うのです。

わたしより優れた方
 ヨハネはこのように、人々に悔い改めを求め、悔い改めて罪の赦しにあずかる印である洗礼を授け、また悔い改めにふさわしい実りとしての新しい生き方を、それぞれの生活に即して具体的に教えました。そのようなヨハネのことを、人々は、「もしかしたらこの人がメシアではないか」と思った、と15節にあります。メシアというのは、旧約聖書においてその到来が予告されている救い主のことです。以前の口語訳聖書の15節冒頭は「民衆は救主を待ち望んでいたので」となっていました。この「メシア」あるいは「救主」を人々は待ち望んでいたのです。4~6節のイザヤ書の引用の言葉も、この人々の待望の信仰の中で、メシア、救い主の到来に備え、その道を整える者のことを語っていると解釈されたのです。このように救い主メシアを待ち望んでいた人々は、ヨハネこそがその救い主なのではないか、という期待を持ったのです。しかしその人々に向かってヨハネは、自分はメシア、救い主ではなくて、その到来の備えをし、主の道を整える者だ、と語りました。つまり、メシア、救い主はこれから来るのであって、自分はその前座を勤めているに過ぎない、ということです。それが16節の「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」という言葉です。履物のひもを解く、というのは、奴隷の務めの中でも最もいやしい仕事とされていることです。私の後から来る、私よりも優れた方と比べたら、私は奴隷よりもなお卑しい者でしかない、とヨハネは言ったのです。ヨハネはこのように、「自分よりも優れた方」の到来を意識しており、そのために備えをすることこそ自分に与えられた使命であることをわきまえていました。その「わたしより優れた方」こそ、この後登場する主イエス・キリストです。ヨハネは、主イエスのために道を整えよと荒れ野で叫ぶ者の声だったのです。

ヨハネと主イエス
 ヨハネと主イエスの違いが、その授ける洗礼の違いとしてここに語られています。このことについては次回に考えたいと思います。本日は、先ほどの、ヨハネが語った悔い改めにふさわしい実りについての教えとの関連で、ヨハネと主イエスの違いについて最後に考えておきたいと思います。ヨハネは人々に悔い改めを求めました。つまり、神様に背いて生きている人間の根本的な罪を指摘し、神様の方に向き変わるようにと教えたのです。そしてその悔い改めが、人々の生活の中にどのように実を結ぶのか、生活がどのように変わっていくのかを具体的に示しました。ヨハネは、具体的な生活の変化を伴う悔い改めを通して与えられる罪の赦しを宣べ伝え、その印としての洗礼を授けたのです。このヨハネの教えは、先ほど申しましたように、神様に背いている罪人であるありのままの自分が心の向きを変え、神様の方を向いて生きる者となる時に、生活がどのように変わっていくのかを考えさせてくれるゆえに、現代を生きる私たちにとっても意味深い教えです。しかし私たちが聖書を通して与えられているのは、このヨハネの教えだけではありません。このヨハネよりも遥かに優れた方である救い主イエス・キリストによる救いの恵みが、私たちには既に与えられています。その救いの恵みについて、ルカによる福音書はこれから語っていくわけですが、結論を先取りして言うならばそれは、神様の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、罪の赦しを与えて下さったということです。この、ヨハネよりもはるかに優れた方である主イエスによって、このような救いが実現していることを私たちは示されているのです。私たちが受ける洗礼は、この主イエスの十字架による罪の赦しの恵みにあずかる洗礼です。悔い改めによって罪の赦しにあずかるヨハネの洗礼とはそこが違うのです。それではどうなのでしょうか。主イエスによる罪の赦しにあずかった私たちは、もはやヨハネが教えるような悔い改めにふさわしい実を結ぶ必要はないのでしょうか。そうではありません。むしろ私たちは、主イエスによる罪の赦しの恵みにあずかっているがゆえに、悔い改めることができるのです。神様の方に向き変わることができるのです。自分自身のことばかりを見つめている目を、神様に向けることができるのです。そしてヨハネが教えたように、日々の生活において、神様に心を向けて歩むことができるのです。主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、罪が赦され、神様の祝福の中に生かされている、その恵みの中で生きる時に、私たちの、自分に与えられているものの用い方が変わっていくのです。自分のものを自分のためだけに使うのではなくて、自分の生活は決して豊かではなくても、より貧しい者を支えていくことができるようになるのです。構造的に罪にまみれた生活を完全に抜け出すことは出来なくても、その中で自分に出来ることをして罪と戦い、与えられている地位や力を人々のために用いていくことができるようになるのです。また、どこまでも欲望をかき立てようとするこの社会の中で、貪欲に支配され、振り回されるのでなく、与えられているものに感謝して生きていくことができるようになるのです。ヨハネよりもはるかに優れた方である救い主イエス・キリストの恵みの中で、私たちは、ヨハネが教えた悔い改めにふさわしい実を実らせていくことができるのです。

関連記事

TOP