主日礼拝

主を試すな

「主を試すな」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第6章1-19節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第4章1-11節
・ 讃美歌:268、76

霊に導かれて
 主イエス・キリストが伝道を開始される直前に、荒れ野で悪魔の誘惑を受け、それに打ち勝たれたことを語っているマタイによる福音書第4章1~11節を、12月11日の礼拝に続いて本日も読みます。前回はふれませんでしたが、1節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。悪魔から誘惑を受けるために主イエスを荒れ野へと導いたのは「霊」であった、と語られているのです。この「霊」は3章16節に出てきた「霊」です。主イエスは、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。すると天がイエスに向かって開き、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になったのです。次の17節には、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたとあります。神の霊が主イエスに降り、神ご自身が、主イエスこそわたしの子である、と宣言なさったのです。その神の霊が、主イエスを荒れ野へと導いたのです。つまり主イエスが荒れ野で悪魔の誘惑を受けたことは、父なる神のみ心だったのです。神は何のために主イエスを悪魔の誘惑にあわせたのでしょうか。

私たちのために誘惑を受けて下さった主イエス
 それは一つには、これから救い主としての活動を始める主イエスに備えをさせるためだったと言えるでしょう。悪魔からの誘惑に打ち勝つことによって、主イエスが父なる神のみ心に従って救い主としての歩みを始める準備が整うのです。つまり神が主イエスを荒れ野の誘惑へと導いたのは、救い主として歩み出そうとしている主イエスの備えのためだったのです。
 しかしそれは主イエスのためであると同時に私たちのためでもありました。主イエスが悪魔の誘惑を退けたことによって、主イエスが与えて下さる救いとはどのようなものかが私たちに示されたのです。つまり神が主イエスを荒れ野へと導いて悪魔の誘惑にあわせたのは、主イエスの備えのためだけでなくて、私たちに、主イエスによる救いとは何かを示すためでもあったのです。このことは、主イエスがヨハネから洗礼を受けたこととも繋がります。その時に主イエスは、3章15節にあるように、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃいました。主イエスは、「正しいことをすべて行う」ために洗礼をお受けになったのです。ヨハネの洗礼は、罪を告白して悔い改め、神による赦しを求めることの印でした。それは私たちが神と共に生きるためになすべき「正しいこと」です。主イエスはご自分のためではなくて、私たちが神と共に生きるためになすべき正しいことを示すために、洗礼を受けて下さったのです。荒れ野の誘惑もそれと同じです。主イエスは悪魔の誘惑を受け、それを退けることによって、私たちに、主イエスによる救いとは何か、それを信じて生きるとはどういうことかを示して下さったのです。つまりここに語られている悪魔の誘惑は、主イエスが受けた誘惑であると同時に、主イエスを信じて信仰者として生きていく私たちにも襲いかかってくる誘惑なのです。主イエスはその誘惑に打ち勝って下さることによって、私たちが信仰者として歩む中で戦わなければならない誘惑を示し、それにどのように立ち向かうべきかを教えて下さったのです。

救い主である証拠を示してほしい
 このように荒れ野の誘惑の話は、主イエスによる救いとは何か、その救いを信じて生きるとはどういうことかを私たちに教えています。前回は主に第一の誘惑「石をパンに変えろ」について、そのことを見つめました。本日は第二、第三の誘惑を取り上げたいと思います。第二の誘惑は、悪魔が主イエスを神殿の屋根の端に立たせて、「神の子ならここから飛び降りてみろ。天使たちがちゃんと支えてくれると聖書に書いてあるではないか」と言ったということです。「石をパンに変えろ」もそうですが、私たちにとってはこんなことは誘惑になりません。主イエスだからこそこれが誘惑となるのです。しかしそこに、私たち自身が受ける誘惑が示されている、と先ほど申しました。それはどういうことでしょうか。悪魔がここで飛び降りてみろと言っているのが「神殿の屋根」であることがミソです。荒れ野には高い崖も沢山あったでしょうが、悪魔はわざわざ主イエスを「聖なる都」つまりエルサレムの神殿の屋根に連れて行ったのです。神殿には多くの人々が集まっています。その多くの人々の前で、屋根から飛び降りて、天使たちに支えられて無事に地上に降り立つことができるところを見せてやれ、と悪魔は言っているのです。だからこれは、荒れ野の、誰も見ていない崖から飛び降りるのではだめなのです。つまりこの誘惑は、自分こそ神の子、救い主であり、神としての力と権威を持っているのだということを、人々に、見える仕方で分からせ、納得させてやれ、ということです。神殿の屋根から飛び降りることができる力を示せば、誰もが、この方こそ救い主だと思うだろうということです。これは、救い主としての活動を開始しようとしておられた主イエスにとって確かに誘惑だったでしょう。それと同時に、これは私たちにとっても誘惑です。私たちは主イエスに、ご自分がまことの神の子、救い主であられることを、はっきりと示してほしいと思っているのではないでしょうか。はっきりとした証拠によって、主イエスを信じ、従っていけば安心なのだということを納得させてほしいと思っているのではないでしょうか。悪魔がここで主イエスに囁いたのは、人々のそういう求めに応えてやれ、ということです。こういう求め、願いは、私たちも、二千年前の人々も、同じように持っているのです。人々が主イエスに「しるしを見せてください」と求めたことがこの福音書の12章38節以下に語られています。それは、あなたが神から遣わされた救い主であることのはっきりとした証拠を示して欲しいということです。神殿の屋根から飛び降りることは、まさにそのしるしとなるでしょう。そういうしるしによって納得できれば、主イエスを信じ、従っていくことができる、という思いは、昔も今も少しも変わらずに私たちの中にあるのです。
 そのようにしるしを求めた人々に対して主イエスは、12章39節で、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言ってそれを拒絶されました。これと同じことが、この第二の誘惑においてなされたのです。主イエスは、ご自分が神の子、救い主であることの目に見えるしるし、証拠を示したらよいという悪魔の誘惑を退けました。それによって主イエスは、ご自分が神の子、救い主であることの目に見えるしるしや証拠を示すことはしない、と宣言なさったのです。

主を試してはならない
 主イエスがこの誘惑を退けたのは、「あなたの神である主を試してはならない」という聖書の言葉によってでした。しるしを求めること、証拠を求めることは、主なる神を試すことです。神を試す、あるいは試みる、とはどういうことでしょうか。この言葉は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第6章の16節です。そこには「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」とありました。マサにいたときのことは、出エジプト記の17章に語られています。エジプトを出て荒れ野を歩んでいたイスラエルの人々は、飲み水がなくなると、モーセと主なる神に向かって不平を言ったのです。そのとき人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言った、それが主を試したということです。「主は我々の間におられるのかどうか」、つまり、神は本当に共にいて下さるのか、私たちを導き、守り、支えていて下さるのか、苦しみの中で、そのことが疑わしくなってしまう、そして、そのことを確かめたくなる、そのことを確かめるためのしるし、証拠が欲しくなる、そのようにして、主を試すことが起るのです。しかし聖書はそれに対して、「あなたの神である主を試してはならない」と語っています。主が共にいて下さることを疑い、しるしを求めることは、主を試すことであって、主なる神との正しい関係を破壊することなのです。主イエスも悪魔の誘惑に対して、このみ言葉によって、自分は主を試そうとする求めに応えて人々にしるしを与えるつもりはないとおっしゃったのです。つまり神は私たちに、目に見える証拠、しるしなしに主イエスを信じることを求めておられるのです。

おめでたい人?
 しかし私たちはこう思うのではないでしょうか。「主よ、それは酷です。何のしるしも、証拠もなしに主イエスを救い主と信ぜよと言われても無理です。あなたは私たちに、疑うことを知らないお人好し、おめでたい人になれとおっしゃるのですか」。実際世の中には、信仰を持って生きている人のことを、疑うことを知らないおめでたい人、と思っている人が沢山います。神など信じている人は、よほどおめでたいお人好しだ。そのように疑うことを知らないから、統一教会のようなものに騙されて多額の献金をさせられてしまうのだ、と思われているのです。私たち自身もそんなふうに感じてしまうことがあります。だから私たちも、神の恵みを確かめたくなる、納得できるしるし、証拠が欲しくなる、つまり神を試したくなるのです。そのようにしるしを求めるのは人間として自然な思いなのではないでしょうか。

神を利用しようとする思い
 しかしそこでよく考えなければなりません。私たちは、どんなしるしを見れば納得するのでしょうか。神殿の屋根からダイブして無事に地上に降り立つ主イエスの姿を見れば、それで主イエスの前にひれ伏して従っていくでしょうか。いや、その前に私たちはきっとこう言うに違いありません。「イエス様、そんなお力をお持ちなら、今度は私のこの悩み苦しみを取り除いて下さい、私や家族のこの病気を癒して下さい、私の願っているこのことを実現させて下さい、それをしていただけるなら、あなたが神であり、恵み深い方であると納得できます」。私たちが神を試し、納得出来る証拠が欲しいと思う時に求めているのは結局そういうことなのではないでしょうか。つまり神が自分の願いをかなえてくれるかどうか、自分の思い通りに動いてくれるかどうか、です。私たちが納得するというのは、そのことを、つまり神が自分の願いをかなえてくれることを納得することなのではないでしょうか。逆に言えば、神がどんなに大きな力をお示しになったとしても、自分の願いを叶えてくれないなら、私たちはどこまでも納得しないのではないでしょうか。神を試みる思い、納得できる証拠を求めようとする思いというのは、実は、自分のために利用できる神を求める思いなのです。しるしを求めることは確かに人間として自然な思いですが、実はそれは、自分のために利用できる神を求める思いなのであって、それが神と人間との正しい関係を損なってしまうのです。自然な思いに生きることによって、神との正しい関係を破壊してしまう、そこに、私たち人間が負っている罪の深さが現れているのです。

神との真実な交わりに生きる
 しかし、生きておられるまことの神は、人間が願いをかなえるために利用できる手段ではありません。神はこの世界と私たちを造り、命を与えて下さっている方です。神によってこの世界はあり、私たちも神によって生きているのです。私たちが神を信じて、神と共に生きるのはそのためです。自分の願いをかなえてくれたり、幸福を与えてくれるから神を信じるのではありません。神は時として、苦しみや不幸をもお与えになります。どうしてこんなことが起こるのか、神の守りや導きなどどこにあるのか、と思うようなことが人生には起るのです。そういう苦しみの中で、真剣に神と向き合い、神に問いかけ、救いを求めて祈っていくならば、神と私たちの関係は深まります。しかしその苦しみの中で、神が自分の願いをかなえてくれるかどうかを確かめて神を試し始めると、私たちは、神を、自分の願いを叶え、幸福を得るための手段としてしまう間違いに陥るのです。そこに生まれるのは、ご利益を与えてくれそうな神を次から次へととっかえひっかえ求めていくような生き方です。そこには、生きておられるまことの神との真実な交わりはありません。主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」というみ言葉によって第二の誘惑を退けたことによって、私たちに、生きておられるまことの神と真実な交わりをもって生きることを教えて下さったのです。

第三の誘惑
 第三の誘惑において、悪魔は主イエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。この誘惑は、主イエスに、この世の国々とその繁栄を求めさせ、そのために悪魔の前にひれ伏させようとする、つまりいわゆる悪魔に魂を売り渡して、富や繁栄を求めさせようとしているわけですが、しかしそれは表面的な意味に過ぎません。悪魔はここで主イエスに、一つのことを認めさせようとしているのです。それは、この世の国々とその繁栄とは、自分、つまり悪魔のものだ、ということです。悪魔の前にひれ伏してそれを求めるというのは、それらが悪魔のものだと認めることです。それがこの誘惑において悪魔が目指している根本的なことです。しかしこの世の国々やその繁栄は、決して悪魔のものではありません。世俗的な国家権力や、物質的な繁栄は悪魔のものだ、などということを聖書は語ってはいないのです。国家も、その物質的繁栄も、全て主なる神のものであり、主なる神のご支配の下にあるのです。悪魔はそれが自分のものであり、自分の支配下にあると主イエスに認めさせようとしたのです。その誘惑を主イエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という、やはり申命記6章13節の言葉によって退けました。それは、拝むべき相手、仕えるべき相手は主なる神お一人だということです。今申しましたこととの関連で言えば、この世の全てのもの、その国々や繁栄の全ても、主なる神のものだということです。その神を信じ、礼拝し、その神に祈り願いつつ、その神と共に生きることが、神と人間との正しい関係なのです。
 悪魔は私たちにも同じ誘惑をしかけて来ています。私たちを、神との正しい関係から引き離そうとしているのです。でもその誘惑は、「悪魔を拝め」などという形では来ません。悪魔はとても狡猾です。悪魔の狙いは、主なる神以外の何かが自分の願う幸福や繁栄をもたらしてくれると私たちに思わせることです。それはお金かもしれないし、地位や名声かもしれません。あるいは悪魔はそのためにこの世界に、いろいろな占いを用意しています。「今週の何座の運勢」のような他愛もないものから始まって「霊感商法」に至るまで、自分の運勢は、幸福や不幸は、これによって左右されている、と思わせる占いはどれも、主なる神以外の何かが私たちの人生を、幸福や不幸を支配しているという教えです。そういうものに心引かれることは、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」という悪魔の誘惑に屈することなのです。つまり、主なる神以外のものによって幸福や不幸が決まると思うことは、悪魔を拝むのと同じなのです。

ヨナのしるし
 私たちが拝み、仕えるべき方はただ一人、主なる神のみです。その神がこの世界の全てを造り、私たちの人生をもみ手の内に置いて支配し、喜びや幸福も、苦しみや悲しみも、み心によって与えておられるのです。そのただ一人の神を信じることが聖書の教える信仰です。しかしそうだとしたら、私たちの人生は、神の気紛れに支配されているということなのでしょうか。それは「運命のいたずら」とどう違うのでしょうか。いや、神と運命とは全く違います。そのことを私たちははっきりと知っていなければなりません。先程読んだ13章39節で主イエスは、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とおっしゃいました。自分の願いがかなう、というしるしは与えられませんが、しかし神は私たちに「預言者ヨナのしるし」を与えて下さっているのです。それは次の40節にあるように、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」というしるしです。それは、主イエス・キリストが、十字架にかけられて死んで、三日目に復活する、ということです。主イエス・キリストの十字架の死と復活というしるしを、神は私たちに与えて下さっているのです。このしるしによって私たちは、神がご自分の独り子を与えて下さったほどに私たちを愛して下さっていることを知らされています。主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神は私たちの罪を赦し、神との良い関係を新しく築いて下さっているのです。さらに神は、十字架の死から主イエスを復活させて下さいました。それによって私たちにも、復活と永遠の命を約束して下さったのです。この「ヨナのしるし」によって、神の私たちへの深い恵みと愛が証しされています。私たちは、運命のいたずらに翻弄されているのではなくて、この神の恵みと愛の下に置かれているのです。この後共にあずかる聖餐も、主イエスによる神の恵みと愛のしるしです。聖餐にあずかることによって私たちは、十字架の死と復活によって救いを与えて下さった主イエス・キリストの恵みを、この体をもって体験するのです。これらのしるしによって私たちは、苦しみや不幸の中でも、神と向き合い、神に問いかけ、救いを求めて祈りつつ、神と共に生きることができるのです。

新しい年を迎えて
 今日1月1日、新しい年の最初の日、多くの人々が、自分の願いをかなえ、幸福を与えてくれる神を求めて初詣に出かけています。しかしこの日が主の日であることを知っており、主なる神のもとにに招かれて礼拝に集い、み言葉を聞き、聖餐にあずかる私たちは、神を試す必要はありません。自分の願いをかなえてくれる神を求める必要はありません。占いに頼って不幸を避け、幸福を得ようとする必要もありません。主イエス・キリストはそれらの誘惑を退けて、私たちのための救いを実現して下さったのです。その主イエスに従って生きることによって私たちはこの新しい年、喜びにおいても悲しみにおいても、ただ主イエス・キリストの父なる神を拝み、仕え、その神との交わりによって与えられる確かな支えと慰めと喜びを体験していくことができるのです。

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