主日礼拝

愛の実を結ぶために

「愛の実を結ぶために」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第1編1-6節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第15章11-17節  
・ 讃美歌:7、113、459

お説教と説教
 これから私がするお話は、礼拝のプログラムにおいては「説教」となっています。これはちょっとイメージのよくない言葉ですね。「お説教」というと、お小言を頂戴する、叱られる、というイメージがあります。しかもそこに込められているニュアンスは、大した問題ではないことでグチグチと文句を言われるという感じです。「あーまたお説教が始まったよ」などと言われるわけです。教会では毎週日曜日の礼拝で「説教」が語られています。クリスチャンたちは毎週説教を聞きに礼拝に通っているのです。随分物好きな人たちだと思われるかもしれません。しかし教会の礼拝における説教は、いわゆる「お説教」ではありません。説教は「教えを説く」と書きます。小言を言うのではなくて教えを説くためのお話が説教です。その教えというのは、語っている牧師である私の教えではありません。聖書の教えです。聖書が私たちに教えていることを語るお話が説教なのです。聖書はどんなことを私たちに教えているのでしょうか。

互いに愛し合いなさい
 今日皆さんとご一緒に味わいたいと思っている聖書の言葉は、新約聖書、ヨハネによる福音書第15章11節以下です。その12節には「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とあります。最後の17節にも「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」とあります。これらの言葉を読むと私たちは、ああこれが聖書の教えだ、聖書は「互いに愛し合いなさい」という教えを語っているのだ、と思うのではないでしょうか。「これがわたしの掟である」とか「これがわたしの命令である」とあります。ここで「わたし」と言っているのはイエス・キリストです。イエス・キリストが語った、「互いに愛し合いなさい」という掟、あるいは命令、それが聖書の教えだ、ここを読んでそのように思うのは自然なことだと思います。しかしその聖書の教えを皆さんはどう思われるでしょうか。「互いに愛し合いなさい」というのは素晴しい教えだ、ということには異議はないでしょう。私たちが互いに愛し合うことはとても大事なことであり、それがなされていけば、私たちは幸せに生きることができるし、社会の様々な問題も解決していくし、世界は平和になるでしょう。けれどもそう思いつつも、私たちはこの教えに、先程の「お説教」の響きをも感じてしまうのではないでしょうか。つまり私たちの現実、また私たちを取り巻くこの社会の現実においては、「互い愛し合う」ことが出来ずに、むしろ憎しみ合い、傷つけ合い、殺し合ってしまうようなことがいやという程あるのです。自分と周囲の人との人間関係に絞って振り返って見ても、互い愛し合いたいと願いつつも、いろいろな対立が生じ、ぶつかり合いが起り、怒りや憎しみ、あるいは軽蔑や嫉妬の思いが起り、赦せない、という思いに捕われてしまうことがしばしばです。「互いに愛し合いなさい」は、観念的、抽象的に捉えているうちは「すばらしい教え」ですが、具体的にあの人この人と愛し合えるか、ということになると、「それは無理」ということが必ず起ってくるのです。そういう現実に直面し、愛し合うことができない自分を深く意識していけばいくほど、「互いに愛し合いなさい」という教えは、お小言のように聞こえてきます。「お前はあの人と、この人と、愛し合えていないではないか、理解し合えていないではないか、良い関係を築けていないではないか」、と叱られているように感じるのです。そのように叱られて私たちは、「本当にそうだ、私は愛し合うことができていない」と反省し、「愛し合えるようにならなくちゃ」と思う反面、「そんなこと言われても」とも思うのではないでしょうか。「それは誰とでも愛し合って生きることができればとは思うけれども、でもそれがどうしても出来ない相手だってやっぱりいる。それが人間の現実ではないか。だからこそ、人と人との憎み合いから生じる様々な事件はなくならないのだし、集団と集団、国と国、民族と民族の間の紛争もなくならない。『互い愛し合いなさい』という教えは、目指すべき理想ではあるが、現実においては不可能なこと、そういう意味では『絵に描いた餅』であって腹の足しにはならないものではないか」、それが私たちの正直な思いなのではないでしょうか。

キリストが立てて下さった
 実は私が今日皆さんとご一緒に味わいたいと思っている聖書の教えは、この「互いに愛し合いなさい」という所ではありません。「ではありません」というのは、確かにそういう教えがここに語られているのですからちょっと言い過ぎですが、この箇所から私たちが先ず聞くべき教えはそれではないと思っているのです。先ず聞くべきなのは16節の教えです。16節の途中からですが、こう語られています。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。聖書は、こういうことをこそ教えているのです。「わたし」とは先程申しましたようにイエス・キリストです。イエス・キリストは私たちに、「わたしがあなたがたを任命した」と言っておられます。「任命した」というと何かの務めに任命したという感じですが、今ご一緒に読んでいる「新共同訳聖書」の前に読まれていた、私が生まれる直前ぐらいに翻訳された「口語訳聖書」ではここは「わたしがあなたがたを立てた」となっていました。イエス・キリストが、私たちを立てて下さったのです。何のためにかというと、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと」です。私たちが実を結ぶ者となり、その実が残るように、そして私たちが神様にお願いすることは何でもかなえてもらえるように、キリストが私たちを立てて下さった。それこそが、私たちがここから先ず聞くべき聖書の教えなのです。

いつまでも残る実り
 この教えは「お説教」とは無縁です。ガミガミ叱ったり、あるいは何かをしなさいと命令するのではなくて、神様のすばらしい恵みが宣言されているのです。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと」という所は、先程の口語訳聖書では「あなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり」となっていました。「いつまでも」という言葉があったのです。これは聖書の原文にはない言葉ですが、ここのニュアンスをよく表している翻訳です。私たちが結んだ実りがいつまでも残る、それは私たちが心から願っていることです。今は昔よりも時代の移り変わりがとても早くなっていて、せっかく作り出した実りもすぐに古くなり、廃れていってしまいます。数年前までは最新式だった携帯電話も、今では「ガラパゴス携帯」なんて言われてしまうのです。次から次へと新しいものが生み出され、その実りもすぐに古くなり、廃れていき、残らない、そういう時代を私たちは生きているのです。その中で、自分の結んだ実りがいつまでも残るというのはすばらしいことです。そのような実を結びたいと私たちは願っています。イエス・キリストは私たちにそのような実を結ばせて下さると言っておられるのです。これを「お説教」として読んではなりません。すぐに廃れないでいつまでも残るような実を結ぶように頑張りなさい、と言われているのではないのです。これは命令ではなくて、わたしがあなたがたをそのような者として立てた、という宣言です。私たちの頑張りによってではなくて、イエス・キリストの恵みによって、私たちはいつまでも残る実を結ぶ者とされているのです。でもその実りっていったい何なのでしょうか。私たちはどんな実を結ぶ者へと立てられているのでしょうか。

愛の実り
 そこであの「互いに愛し合いなさい」という教えが意味を持ってくるのです。12節と17節にそれが語られていました。あなたがたが実を結び、その実が残るようにと私があなたがたを立てた、という16節は、「互いに愛し合いなさい」という教えに挟まれているのです。ここで私たちが結ぶ実りとは、互いに愛し合うという実り、愛の実りです。あなたがたが互いに愛し合うという実を結ぶことができるように、私があなたがたを立てた、互いに愛し合う者へと私があなたがたを任命した、とキリストは言っておられるのです。そしてその愛し合うという実りこそ、いつまでも残る実りです。私たちが生み出す実りは、どんな製品であれ、サービスであれ、システムであれ、必ず古くなり、廃れていくものです。今はそのスピードが以前より早くなっているというだけで、いつまでも残るものなどもともとありはしないのです。しかし愛は、互いに愛し合うところに生まれる喜びは、古くなることがない、廃れることがない、いつまでも残るものです。新約聖書、コリントの信徒への手紙一の第13章13節に「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と語られています。いつまでも残るのは、信仰と希望と愛であり、その中で最も大いなるものが愛であると聖書は語っているのです。その愛こそ、いつまでも残る実りです。その実を結ぶ者へとキリストが私たちを立てて下さっているのです。

願うものは与えられる
 「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと」ということの意味もそれによって分かってきます。これは、イエス・キリストの名によって神様に祈れば何でも欲しいものは手に入る、ということではありません。もしそうなら私だって一億円の宝くじに当たるようにお祈りします。でもここにいるみんながそう祈ったら、一等のくじが何本あっても足りないことになります。キリストはそんなことを言っておられるのではありません。「わたしの名によって父に願うもの」、それは「互いに愛し合う」ことです。なかなか愛し合うことができず、かえって憎しみに陥り、互いに傷つけ合ってしまい、お互いがお互いを赦せないと思ってしまうことの多い私たちにとって、互いに愛し合うことができるようになることこそ、神様に願い求めるべき最も大事なことです。それは一億円の当りくじよりもずっと価値のある、私たちにとって必要なことであり、そして自分の力では得られないものです。宝くじなら、何千万円ぐらいつぎ込んで買えば、確率からして一回ぐらい当たるのかもしれません。しかし互いに愛し合うことは、いくらお金をつぎ込んでも、何を努力しても、私たちの力でできるようにはならないのです。それは神様に祈って願うしかないことです。そして神様は、その願いを聞いて下さり、私たちを、互いに愛し合うことができる者として下さる、そうキリストは約束して下さっているのです。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」という16節のキリストの言葉は、そういうすばらしい恵みを語っています。これこそが聖書の教えなのです。

喜びと愛
 しかしイエス・キリストはこの恵みをどのようにして私たちに与えて下さるのでしょうか。私たちはどのようにして、互いに愛し合う者として立てられていくのでしょうか。本日の箇所の最初の所、11節に、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とあります。「わたしの喜び」つまりキリストの喜びが、「あなたがた」つまり私たちの内に与えられ、私たちがその喜びによって満たされていくのだと語られているのです。このことが、次の12節の「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という教えの土台となっています。11節と12節は同じ構造を持っているのです。つまりキリストの喜びが私たちに与えられて私たちの喜びとなるように、キリストの愛が私たちに与えられて私たちの愛となるのです。12節の「互いに愛し合いなさい」という教えは、「わたしがあなたがたを愛したように」とあるように、キリストが私たちを愛して下さった、その愛が先ずあって、その愛が私たちに与えられて、互いに愛し合う私たちの愛が実現していくのです。そのことの土台にあるのが、11節の、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」ということです。キリストの喜びによって私たちが喜びに満たされる、そのことの中で、キリストが愛して下さったように私たちも愛し合う者とされていくのです。もう少し丁寧に言うならば、キリストが喜びをもって私たちを愛して下さることによって、その喜びが私たちの内にも満たされ、私たちも喜びに生きる者とされます。私たちはその喜びによって、互いに愛し合う者として立てられていくのです。つまり喜びこそ愛を生むものであり、愛という実を実らせるものです。喜びのない所に愛は生まれません。互いに愛し合うことは、喜びの中でこそ実現していくのです。喜びに満たされることなしに、互いに愛し合う者となることはできないのです。キリストは私たちの内にご自分の喜びを私たちに満たして下さることによって、私たちを互いに愛し合う者として立てて下さるのです。それが具体的にはどのようなことなのでしょうか。

友のために命を捨てる
 13節には、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。これは、「わたしがあなたがたを愛したように」と12節にある、そのキリストの私たちへの愛とはどのようなものであるのかを語っている言葉です。イエス・キリストは、私たちの罪を全て背負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さいました。ご自分の命を捨てるという「これ以上に大きな愛はない」愛をもってキリストは私たちを愛して下さったのです。しかしそのことをキリストは、「私は友のために命を捨てるのだ」と言っておられます。「友のために」というのは、言い換えれば、愛のゆえに喜んで、ということです。つまり主イエス・キリストは私たちのために十字架にかかって死んで下さることを、ご自身の喜びとして下さっているのです。それは、決死の覚悟で人々のために自分を犠牲にするという使命感や悲壮感によることではありません。私たちを友として愛して下さる、その愛の喜びのゆえに、主イエスはご自分の命を捨てて下さったのです。

友となって下さった主イエス
 そしてこの主イエスご自身の喜びが、私たちの内に満たされていきます。そのことを語っているのが14、15節です。「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。「わたしの命じること」とは、互いに愛し合うことです。それを行なうなら、あなたがたはわたしの友である、と言われています。これは、私たちが互いに愛し合うことによって、イエスが私たちを友として認めて下さる、というふうに読めますが、そうではありません。なぜならその前の13節で既に主イエスは私たちを友と呼び、私たちのために命を捨てると言って下さっているのです。主イエスが先に私たちを友と呼び、私たちのために命を捨てることを喜びとして下さっているのです。その主イエスの喜びが私たちの内に満たされていくことによって、私たちも、主イエスと共に、友のために命を捨てるという愛の喜びに生きる者となるのです。それは、私たちがもはや主イエスの僕ではなく、友となるということでもあります。僕と友の違いは何でしょうか。15節に語られていたように、僕は、主人が何をしているのか、その思いが何であるかを知らずに、ただ命令に従っているのです。「お説教」は、主人と僕の関係の中で語られる言葉です。それに対して友は、主イエスの思いをも、主イエスをこの世に遣わされた父なる神様の思いをもちゃんとわきまえており、そのキリストの思いを自分の思いとして、自発的に愛に生きていくのです。そこにこそ、キリストの喜びに満たされて自分も、隣人を友として愛し、友のために命を捨てる愛に生きていくということが起るのです。主イエスと私たちの関係は、本来は決して対等な友としての関係ではありません。神である主イエスは主人であり、私たちはその僕として従っていくべき者なのです。しかし主イエス・キリストは、私たちを僕として従わせるのではなくて、一人の人間となってこの世に来て下さり、私たちの友となって愛して下さり、喜びをもって私たちのために命を捨てて下さったのです。その愛の中で、私たちも主イエスの友として生きる喜びを与えられます。そして主イエスが本来友ではなかった自分の友となって下さったのと同じように、隣人の友となっていく。そのことによって、互いに愛し合うといういつまでも残る実を結んでいくことができるのです。

出かけて行って
 互いに愛し合い、友のために命を捨てるという愛の実を結ぶことは、私たちの力によって、努力によって出来ることではありません。またそのように命令されたり、お説教されたりしても出来るようにはなりません。罪人である私たちの友となって下さり、私たちのために喜んで、自発的に命を捨てて下さったイエス・キリストの愛を知り、その愛に生きて下さったキリストの喜びを共有するところにこそ、その実は結ばれていくのです。そこにおいて私たちは、「あなたがたが出かけて行って実を結び」という16節の言葉を深くかみしめたいと思います。愛の実は、「出かけて行く」ことによってこそ結ぶことができるのです。今いる所、自分が安心していられる所、これまで通り変わらないでいられる所に留まっていては、愛の実を結ぶことはできません。そこから出かけて行って、新しい出会いと交わりを築き、友でなかった人と友となることを求めていきたいのです。それこそ、神であられた主イエスがこの世に来て下さり、十字架にかかって死んで下さったことによってして下さったことです。そのように私たちも、隣人との人間関係において、自分の居心地のよい所から出かけて行く勇気を持ちたいのです。友のために自分の命を捨てるまことの愛に生きることは、そのように私たちが今いる所から出かけて行く一歩を踏み出すことから始まるのです。

わたしがあなたがたを選んだ
 16節の最初のところに、先程は読まなかった言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」という言葉です。その後に、「あなたがたが出かけて行って実を結び…」と続いているのです。私たちは、愛の実を結ぶ者として、イエス・キリストによって選ばれ、立てられています。今この礼拝に集っている私たち一人一人が皆、キリストによって選ばれているのです。私たちが今日この礼拝に集ったのは、勿論私たちの決断によることです。指路教会で伝道礼拝というのがあるようだから行ってみよう、と思って今日初めてここに来られた方もおられるでしょう。こうして礼拝に集うことも、さらには洗礼を受けてクリスチャンとして生きていくことも、全て私たちが自分で選び取り、決断することです。誰かから強制されることではありません。しかしそのような私たちの決断は、実は主イエス・キリストが既に私たちを選んで下さっているからこそ起るのだ、とこの言葉は語っています。主イエス・キリストが、今日初めて来られた方をも含めて、私たち一人一人を、選んで下さり、この礼拝へと導いて下さったのです。それは、私たちが、出かけて行って愛の実を結ぶためです。主イエス・キリストが私たちを友と呼んで下さり、喜びをもってご自分の命を与えて下さり、その愛の喜びを私たちにも満たし、私たちをも互いに愛し合って生きる者として下さるために、私たちは選ばれ、この場へと導かれ、そしてここから立てられて、出かけて行くのです。

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