「安息の年」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: レビ記 第25章1-55節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第4章14-21節
・ 讃美歌:17、431
安息の年
本日は旧約聖書レビ記第25章を中心にみ言葉に聞きたいと思います。小見出しにありますように、ここには、主なる神様からイスラエルの民に与えられた、安息の年とヨベルの年に関する掟が記されています。 1~5節に、安息の年についての掟が語られています。そこを読んでみます。「主はシナイ山でモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない」。このように、七年目ごとに一年間、畑に一切種を蒔かず、手入れもしない年を設けなければならない、そのようにして全き安息を土地に与える、それが安息の年です。六年間作物を造り、七年目はそれをやめて休みの年とするのです。これを読んですぐに思い起こされるのは安息日の掟です。六日の間働いて、七日目の土曜日は安息日として一切の仕事を休まなければならない、と十戒にも命じられています。それと同じように、土地にも、七年目には、作物を生み出す仕事を休ませて安息の年を与えるように主は命じておられるのです。 私は農業のことはよく分かりませんが、このことは、土地を休ませて力を回復させるという点で、農業技術的にも意味のあることだったのかもしれません。しかし、ここに語られているのはそういうことではありません。七年に一度土地を休ませた方がかえってその後の収穫があがる、ということが考えられているのではないのです。七日目の安息日もそうですが、この安息の年も、第一の目的は、人間の利益や都合ではありません。4節に「これは主のための安息である」とあるように、この安息は「主のため」であり、主なる神様との関係が第一に見つめられているのです。毎週の安息日を守ることも、自分たちが主なる神様の民であり、主の下で、主を礼拝しつつ生きる者であることを目に見える仕方で示し現すためなのであって、週に一日は休日があった方が仕事の効率が上がる、というようなことではありません。同じように、七年目に土地の安息の年を設けるのも、その方がより収穫があがるということではなくて、その土地が主なる神様のものであって人間のものではないことを確認するためなのです。2節に「あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば」とありました。つまりこの掟は、イスラエルの民が、神様が与えて下さる約束の地カナンに入ってからのことを語っています。あなたがたが生きているその土地は、主なる神様が与えて下さった恵みであり、本来神様のものである。神様がその地を与え、養って下さっていることを忘れず、その土地を、自分の思いや都合のままに用いるのではなく、神様のみ心に従って用いなさい、というのがこの掟の趣旨なのです。そのことは23節の後半にもこのように語られています。「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない」。イスラエルの民が住む約束の地の本当の所有者は主なる神様であり、民はその神様の土地に、恵みによって寄留し、滞在を許されているのです。七年に一度そのことを確認するために、この安息の年の掟が定められているのです。
主に信頼して生きる
七年目には一切種を蒔くことも手入れすることもしてはならないとしたら、その間はどうやって生きていけばよいのか、と誰もが思います。そのことが18~22節に語られています。「あなたたちはわたしの掟を行い、わたしの法を忠実に守りなさい。そうすれば、この国で平穏に暮らすことができる。土地は実りを生じ、あなたたちは十分に食べ、平穏に暮らすことができる。『七年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうか』とあなたたちは言うか。わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。あなたたちは八年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を得るまでそれに頼ることができる」。六年目には三年分の収穫を与えるから、八年目に種を蒔き、九年目に収穫するまであなたがたは飢えることはない、と神様は約束して下さっているのです。しかしこれは、必ずそうなることが保証されているわけではありません。そういう約束のみ言葉のみが与えられているのです。つまり、安息の年を守るとは、神様の約束のみ言葉を信じて、神様に信頼して生きるということに他なりません。週に一日仕事を休むという安息日にしても、この安息の年にしても、神様が自分たちご自分の民として下さっており、それゆえに必ず守り養って下さることを信じて、神様に信頼して生きることを求め、促しているのです。
ヨベルの年
8~12節にはヨベルの年についての掟が語られています。そこを読んでみます。「あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。この年は聖なるヨベルの年だからである。あなたたちは野に生じたものを食物とする」。ヨベルの年というのは、安息の年を七回数える、つまり七×七=四十九年ごとに来る年です。このヨベルの年の数え方についてはいろいろな考え方があり、10節の「五十年目の年」を尊重すれば、七回目の安息の年の翌年ということになります。しかしそうなると、この七回目においては、安息の年の翌年がヨベルの年となり、11、12節にあるようにこの年も種を蒔いたり収穫ができませんから、二年連続して種蒔きも収穫もできないことになります。そうではなくて、七回目の安息の年がヨベルの年なのだ、という考え方もあります。七日目の安息日、七年目の安息の年、とくれば七回目の安息の年がヨベルの年、と考えるのが自然でもあります。しかしその場合には五十年目ではなくて四十九年目ということになるわけです。いずれにせよ、このヨベルの年は、五十年に一度やって来る特別な安息の年です。そして9節にあったようにその年の第七の月の十日の贖罪日、これについては16章に語られていました、民全体の罪の贖いのために大祭司が年に一度特別な犠牲をささげる日ですが、その贖罪日に、国中に雄羊の角笛を鳴り響かせるのです。「ヨベル」とはこの「雄羊の角」という意味です。この角笛の音と共に、「全住民に解放の宣言をする」のです。この「解放」は前の口語訳聖書では「自由」となっていました。五十年に一度、解放、自由が告げられる年、それがヨベルの年なのです。
解放とは
解放とか自由とは具体的にはどういうことなのでしょうか。10節の後半には「あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」とありました。これが解放、自由の内容です。先祖伝来の所有地、それはイスラエルの民が神様の祝福によって約束の地カナンに入った時にそれぞれの家族に分け与えられた土地です。つまり先祖伝来の所有地と言っても、もともと始めからその土地を所有していたわけではなくて、主なる神様がイスラエルの民に約束の地を与えて下さった時から、つまり主なる神様の恵みによって与えられた土地なのです。その土地に「帰る」ということは、そこから離れてしまっている人々がいるということです。それは、様々な理由によってその土地を手放さなければならないほどに落ちぶれ、貧しくなってしまったということです。その人々が、このヨベルの年には、先祖伝来の所有地、主なる神様が恵みによって与えて下さった土地に帰ることができる、つまり人手に渡ったその土地を返してもらうことができるのです。それがここでの「解放、自由」です。貧しさの中で財産を失ってしまった者に対する回復、やり直しの機会がこうして与えられているのです。
土地は神のもの
この掟の根拠となっているのは、イスラエルの民にとって、土地は、自由に処分できる資産ではない、ということです。土地は神様がそれぞれの家族を子々孫々に至るまで養うために与えて下さったものであって、それを他人に売り渡すことなど基本的にあり得ないのです。このことを前提とした、イスラエルにおける土地売買についての掟が13~17節、それから23~28節に語られています。13~17節だけを読んでおきます。「ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。あなたたちが人と土地を売買するときは、互いに損害を与えてはならない。あなたはヨベル以来の年数を数えて人から買う。すなわち、その人は残る収穫年数に従ってあなたに売る。その年数が多ければそれだけ価格は高くなり、少なければそれだけ安くなる。その人は収穫できる年数によってあなたに売るのである。相手に損害を与えてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである」。このようにイスラエルの民においては土地を売買する値段は「ヨベルの年まであと何年か」によって決まります。土地の値段は、その土地から取れる一年の収穫物の値段にヨベルの年までの年数をかけたものなのです。つまり土地を売る人は、ヨベルの年までにその土地から取れる収穫を売るのです。16節の終りに「その人は収穫できる年数によってあなたに売るのである」と語られているのはそういうことです。このように、イスラエルの民における土地売買は、土地そのものではなくて、その土地から取れる収穫が売買の対象となっており、土地そのものの所有権は動いていないのです。買う人は言ってみればその土地の使用権を、ヨベルの年まで、という期限つきで買うのであって、ヨベルの年になれば土地はもとの所有者に返され、イスラエルの民が最初に約束の地に入り、土地が分配された時の状態が回復されるのです。このような土地に関する掟の根本にあるのが、先程読んだ23節の、「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない」というみ言葉です。イスラエルの民の土地は全て本来神様のものであり、神様の恵みによってそれぞれの家族に与えられているものだから、強い者、金持ちが、弱い者、貧しい人の土地を買い占めて格差が広がっていくようなことはあってはならないのです。その格差を是正し、神様が本来与えて下さっていた祝福の状態を回復するために、五十年に一度のヨベルの年が定められているのです。
奴隷の解放
さて先程の10節には、先祖伝来の所有地に帰ることと並んで、家族のもとに帰る、ともありました。そのことについて語っているのが39節以下です。39?41節を読んでみます。「もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができる」。これは、やはり貧しさのゆえに、土地ばかりでなく自分の身をも奴隷として売らなければならないような事態のことを語っています。そのようにして奴隷となった同胞を自分のもとで働かせる時には、奴隷としてではなく、雇い人か滞在者として共に住まわせるようにと語られています。つまり43節にあるように「彼らを過酷に踏みにじってはならない」ということです。そして身売りして奴隷となった人も、ヨベルの年には解放され、家族のもとへ帰ることができるのです。つまり身売りする場合も、土地の場合と同じように、自分自身を完全に売り渡してしまうのではなくて、労働を、ヨベルの年までという期限つきで売るのです。そのことの根拠が42節に語られています。「エジプトの国からわたしが導き出した者は皆、わたしの奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない」。イスラエルの民はかつてエジプトで奴隷とされていました。主なる神様が彼らをそこから解放し、救い出して下さったのです。それによって彼らは、主なる神様のもの、神様の民となりました。それは神様の奴隷となったということです。主なる神様は、彼らは私の奴隷なのだから、人間が彼らを奴隷にすることは許さない、と言っておられるのです。これは先程の土地に関する掟と同じ論理です。土地は本来神様のものであり、神様がそれぞれの家族に分け与えているものなのだから、人間がそれを金に任せて自分のものとして奪うことは許されないのです。同じように、イスラエルの民は神様の奴隷なのだから、人間が自分の奴隷にしてしまうことは許されないのです。貧しさの中で土地や自分自身を売り渡さなければならないようなことが起っても、それは神様と民との基本的な関係にまで及ぶことではなくて、五十年に一度、ヨベルの年には本来の神様の恵み、祝福が回復され、人間どうしの間の借金は免除されて、神様の恵みによって再出発することができるのです。
人間のまことの解放と自由
ヨベルの年はこのような意味で解放の年、自由の年です。しかし見てきたように、その解放、自由というのは決して、人間が自分の好き勝手に生きるためのものではありません。あるいは、人間の基本的権利を保証するということでもありません。人を奴隷にするのは基本的人権の侵害だ、というような話ではないのです。ヨベルの年に宣言される解放、自由は、自分たちが生きて行くベースとなっている土地も、また自分たち自身も、主なる神様の所有物であり奴隷であることを確認し、主なる神様の奴隷としての生活を回復することなのです。そこにこそ、人間社会における力関係による様々な支配、被支配からの解放、自由があるのです。私たちは、人間どうしの関係において、様々な力関係の中を生きています。そこにおいて、人を支配したり、支配されたりしています。支配しようとは思っていないのにそういう立場に置かれてしまい、それによって人の恨みをかってしまうこともあれば、支配されたくないのにやむを得ずその屈辱に甘んじなければならないこともあります。とかく不本意なことの多い私たちの人生ですが、そこにおける真実な解放、自由は、自分が神様のもの、神様の奴隷であるということを知るところにこそあるのです。自分の主人、支配者は自分であると思っている限り、私たちは、人間社会の力関係による支配と被支配の世界から自由になることはできません。そこからの解放、自由は、自分の主人、支配者は自分はなくて神様であるということを知り、神様を自分の主人、所有者、支配者としてお迎えすることによってこそなのです。安息の年やヨベルの年の掟はそのことを教えようとしています。主なる神様こそが主人、支配者であることを受け入れ、主の奴隷となって生きる時にこそ、支配する立場に置かれた者は、「彼らを過酷に踏みにじってはならない。あなたの神を畏れなさい」というみ言葉の下で歩むことができるし、支配される立場に置かれた者は、自分も、自分を支配している者も、共に主なる神の奴隷であり、神は自分たちを対等な者として見つめていて下さり、そして解放の約束を与えて下さっていることを信じて希望をもって生きることができるのです。 またこのことは経済のあり方にも大事な指針を与えます。格差が広がり、一部の人々に富が集中し、多くの者たちが貧しさにあえいでいくような経済のあり方はおかしい、全ての人々の生活が支えられ、希望をもって生きることができるように、富は配分されていかなければならない、という主張も、富はそもそも神様のものであり、神様がそれぞれの家族を養い支えるためにそれを分配して下さっている、そういう神様の祝福を信じ、その下で生きる民のあり方を回復していこうという信仰においてこそ、自己責任、経済活動の自由という原則を主張する弱肉強食の新自由主義に対抗してそれとは別の社会を築いていくためのしっかりとした根拠を得ることができるのです。安息の年、ヨベルの年によって示されている神様のみ心はそのように人間のまことの解放と自由への道を示しているのです。
主の恵みの年を告げる
本日は、ルカによる福音書第4章14節以下を共に読む新約聖書の箇所として選びました。ここには、主イエス・キリストが、お育ちになったナザレの会堂でお語りになった言葉が記されています。主イエスはこう言われました。18、19節です。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にする「主の恵みの年」、それはヨベルの年のことです。ヨベルの年はしかし、イスラエルの民の実際の歴史において行われたことは殆どなかったようです。つまりこの掟は神様の民として歩むイスラエルの理想の姿を描いたものであって、実際の歴史においては実現しなかった、青写真に終わってしまったのです。しかし主イエス・キリストは21節で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお語りになりました。主の恵みの年、解放と自由の年、ヨベルの年が、主イエスがこの世に来られたことによって成就、実現したのです。つまり、人々が主なる神様のもの、神様の奴隷として生きるところにこそ与えられる解放、自由が主イエスによって実現したのです。それは、この時点で既に実現したということではなくて、十字架の死と復活に至る主イエスのご生涯の全体によって実現する救いとはこのような解放と自由であるということです。主イエスは、父なる神様が、私たちの本当の主人、所有者として、私たちに対する支配を確立するためにお遣わしになった神の独り子です。主イエスはどのようにしてその神様のご支配を確立して下さったのでしょうか。それは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによってでした。そのようにして私たちの罪を赦し、神様の恵み、祝福の下で生きる神の子としての新しい歩みを私たちに与えるために、主イエスは十字架にかかって死に、そして復活して下さったのです。この主イエス・キリストによって私たちは、主なる神様が既に自分の全ての罪を赦して下さり、自分を神様のもの、神様の奴隷として下さっていることを知らされるのです。神様の奴隷とされて生きることは、人間の奴隷として過酷に踏みにじられるような生活とは全く違うものです。それは神様の愛によって養われ、支えられ、守られていく生活です。神様の祝福に感謝し、希望を持って生きることができる生活です。そしてそこには、金銭を初めとする人間の様々な力による支配、この世的価値基準や世間の常識、人の目や評判、あるいは自分の見栄や誇り、その裏返しとしての劣等感やひがみなどからの解放があるのです。主イエス・キリストによってこそ、安息の年、ヨベルの年が私たちにも告げ知らされているのです。