主日礼拝

あらゆる苦難に慰めを

「あらゆる苦難に慰めを」 伝道師 岩住 賢

・ 旧約聖書: 哀歌 第3章19-33節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第1章3-7節  
・ 讃美歌:351、451、483

わたしたちは歩みの中で多くの苦難に直面することがあります。それは、パウロの言うように、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるようになるためです。神があらゆる苦難の際に慰めてくださった慰めにまさるものはありません。わたしたちが、かつて経験し、それらを通して神様の慰めを頂いた時と同じような苦難に直面している人に出会うとき、わたしたちはその人を慰めることができる。慰めの中心には、主イエス・キリストがおられます。主イエス・キリストはあらゆる苦難をその身に負ってくださいました。そして今もわたしたちのあらゆる苦難に慰めを与えてくださっています。 わたしたちは主イエス・キリストにわたしたちの苦難を共に負って頂きました。「わたしのもとに来なさい」と呼びかてくださった主のもとで主イエス・キリストと軛でつながれて一つとなり、わたしたちは慰められ、苦難の重荷は軽くなる。そして荷が重くて立ち上がれなかったわたしたちは、立ち上がって歩くことができるようになりました。主はわたしたちに希望をも与えてくださいました。そして、今、わたしたちは同じように苦しんでいる隣人の苦難を共に担い、彼らを慰め、共に立ち上がることができる。なぜなら同じ軛につながれたものは、共に苦難をあずかっている人であると共に、慰めと希望をも共に与っている人だからです。 わたしたちは歩みの中で多くの苦難に直面することがあります。その苦難は、様々なものがあります。ある時は自分の傲慢さから、他者関係が崩れ苦難におちいる、そのような苦難。時には、自然災害のように突然自分の身に降りかかるような苦難もあります。苦難とは一体なんのでしょうか。パウロは、じつはこのコリントの人々へ手紙を書く前にとてつもない苦難にあっていたそうです。それは1章8節に書かれています。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」。ここに書かれている苦難は、実際どのような苦難であったかは、定かではありません。ユダヤ人による迫害であったとか、使徒言行録にあるパウロが投獄されたあの事件のことであると、そのような推測することはできますが、やはりそれは定かではありません。ですが、8節にはどのような苦難であったかを、具体的には書いておりませんが、パウロはその苦難を8節において言葉で表現しています。ここで、パウロは、その苦難を「耐えられないほどひどく圧迫」するような苦難であると語ります。ここで「圧迫されて」と訳されている言葉の元の言葉をみてみると、これは重荷、重さで沈むという言葉であります。この言葉は、船に荷を積み過ぎて、その重みで船が沈んでしまう様を表します。ですから、この船を人に置き換えるとわかりやすいと思います。自分が自分に荷を積み過ぎて、重みで立てなくなってしまう。 わたしたちは、この世の歩みでもしばしばそのようなことをします。色々と自分の肩に荷を乗せてしまうことが多いと思います。その荷は仕事であったり、なにかの責任であったりします。人はある程度は荷を持つことができますが、自分の持つことのできる荷の重さには限界があります。しかし、わたしたちは、努力や熱心さでその限界を超えて肩に荷をのせ続けます。最初は誰かのためや社会のためにと、努力し熱心にはたらいていた、しかし、荷を負うごとに疲れ、そのうち目的がよくわからなくなってしまう。なんでわたしは働いているのだろう。そしてわけがわからないまま、働き続けると、知らないうちに、自分を誇ろうとする気持ちや他人に認められたいという気持ちが湧き出そうになる。そのように最初に努力や熱心さで荷をのせ続けたわたしたちは、次第に疲労困憊し、ついには膝が折れて、地面に倒れ、歩けなくなります。このように、苦難は、わたしたち自身で招いていることが多い。 しかし、わたしたちは降りかかる災難や他人にその荷を背負わされて、急に色々なことが自分の肩にのしかかることもあります。ですがその時も、自分のせいではないが、やはり荷の重さで、疲れで、もう何も考えられなくなり、なにか先にある未来も、将来も、希望も見いだせなくなる。生きる気力が失われる。 パウロも8節で「生きる望みさえ失ってしまいました」といっています。これがわたしたちの苦難だと思います。 しかしパウロは6節で、おどろくべきことを述べています。 6節「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。」パウロはわたしたちの苦難が、隣人の慰めと救いになると語ります。ただ単純に、この言葉だけを聞くと、「ああ、自分の苦難を、自分で克服した方法を伝えれば隣の人は慰められるのね」と思ってしまうかもしれません。しかし、そうではありません。その答えは4節にあります。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」わたしたちは苦難をわたしたち自身で克服したから隣人を慰められるのではなく、自分の苦難に対して神様が慰めてくださったから、苦難にある隣人を慰めることができるといっています。もし、わたしたちは自分の力で、苦難を克服したら、苦難の中にある隣人の前では、わたしたちは苦難を克服した強い者としてしか立つことができません。それは、上から下を見下ろすようにしか、隣人を見ることができません。いや、自分はそのような目で隣人を見はしないと豪語しても、苦難の中にある隣人がその人を見るとき、やはり隔たりを感じてしまう。 聖書は、自分で苦難を克服しなさいとは語っていません。「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」と語っています。わたしたちは苦難を解決したのではなくて、その苦難を未だ背負っています。荷は肩に乗っかっています。ですから、あらゆる苦難にある隣人と同じ高さのままです。隣人と目線は一緒です。しかし、苦難で何も見えなくなっている隣人が気づいていないことをわたしたちは知っています。それは神様がわたしたちの苦難に際して慰めてくださるということです。 ここで、「では神様の慰めとは一体何のだろうか」ということをわたしたちは疑問に思います。慰めとは、元の言葉を探ると新共同訳では、「励まし」や「勧め」と訳されることがあります。しかし、ここでの、「励まし」や「勧め」と訳されていないように、この二つの意味とは違う意味で使われていることがわかります。じつは慰めという言葉の意味には、もう一つ意味があります。それは「招き」という意味です。「では、「招き」という言葉が、どうして私たちの慰めになるのだろうか」という疑問がここで湧いてきます。その疑問を解く言葉を、主イエス・キリストが語っておられます。それはマタイによる福音書11章28~30節に書かれています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」私のもとへ来なさいと主イエス・キリストは私たちを招いてくださる。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」私たちを主イエス・キリストに招かれて、何をするかというと、主イエス・キリストは私たちに軛を負いなさいといっておられます。ですが、軛とはいったい何でしょうか。軛というものを生で見たことがある人は、少ないと思います。じつは私は見たことがありません。軛、これは主イエス・キリストが生活しておられた地方で、二匹の牛を農耕に使ったり、あるいは、車を引かせたりする時に、勝手な動きをしないように、この二匹の牛の首のところに木または鉄で作った道具を、くくり付けて、二匹が一緒に動くようにするための農耕の道具です。  そして聖書の中には実際にその道具そのものの事を語っている言葉がたくさん出てきます。そしてまたこの言葉をたとえとして使っていることもあります。たとえば旧約聖書の中に「バビロンの軛」という言葉があります。これはどういう事かと言いますと、南ユダの人たちがバビロンに攻め滅ぼされて、捕虜になって連れていかれた。そしてそこで捕虜の生活をしなければならない。捕虜ですから自由はない。そこから逃れたいと思っても、バビロンの支配の下にありますから、逃れることができない。そういう苦しみ、自由にはならないということを「バビロンの軛」と旧約聖書はたとえています。このように聖書が軛をたとえに使う時には、重荷とか、束縛とか、苦しみとか、そういう意味で使っています。そこで私たちがこの主イエス・キリストの御言葉を読む時も「わたしの軛を負い」とこう言われると、ああ、バビロンの軛を負うように重荷を負うことだろうか。何かイエス様のために、辛い事も辛抱してやっていきなさいと、そういう意味じゃないかと、そのように思ってしまいがちなのです。今日与えられた御言葉の5節「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちに及んでいるのとおなじように・・・」 これも軛と同じように、主イエス・キリストの苦しみがわたしたちの方に向かってきて、なにかわたしたちもその苦しみの一端を担わなくてはいけなくて重荷を負わされるのかと。「あぁ、やっぱり主イエス・キリストに従って歩むと、なにか苦しいことを味わい、それを我慢して歩まなければいけないのかぁ」と、そう読めてしまうと思います。ですが、苦しみも同様なのですが、軛という言葉を受け取る時の一つの間違いがあります。 実は「わたしの軛」と言われていますこの言葉は「バビロンの軛」と言う時とは、全く違う意味で使われています。それはどういうことかといいますと、ここでは軛というものの本来の使い方にそくして使われているのです。軛というものは二匹の牛を一緒に動かすための道具です。一つの牛ともう一つの牛が同じように行動をする、そのための道具であります。「キリストの軛」というのは、バビロンの軛のように他人に負わせた、軛ではなくて、主イエス御自身が負っている軛です。「バビロンの軛」という時には、バビロンは軛を負っていないで、人に負わせている。けれども、主イエス・キリストが「わたしの軛」と言う時は、主イエス・キリストが人に負わせる軛ではなくて、主イエス・キリスト御自身が負っている軛、その軛の片方に「あなたは繋がれなさい」と呼びかけていらっしゃるのです。言葉を換えて言えば、「連帯」ということです。「主イエス・キリストと一つに結ばれる」、そういう意味で主イエス・キリストはこの言葉を使っておられます。そして「わたしに学びなさい」というのは、牛がこの軛に繋がれて使われる時には、一方にはよく仕事に慣れた牛を繋いで、一方にはまだ余り慣れてない牛を繋ぐ。そうすると、ちゃんと慣れた方の牛が、うまく行動しますので、もう片方の牛も、それにつられて、すべての行動が、慣れた牛と同じ行動になるわけです。ちょうどそのように主イエス・キリストと全く一つになって全く一つにつながって生活をしていく。そういう事をここで主イエス・キリストは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われたのです。  この事によって私たちは今まで気付かなかった大事な事を知らされます。それは、自分はこんなに苦しい思いをし、苦しい目に会っていることを、誰にも分かってもらえない。そういうふうに思って嘆くのですけれども、実はそうではない。この私の負っている重荷、この軛を主イエス・キリストが一緒に負ってくださっている。「キリストの軛」を負うということは、逆の方から見れば、私の軛を主イエス・キリストが負っておられるという事です。「どんな時にも私はあなたと離れません」と主イエス・キリストはおっしゃっているのです。その事に気づいた時に、私たちは「本当の慰め」を得ることができます。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と主イエス・キリストはおっしゃいます。ああ、私は一人ではない。主イエス・キリストが一緒にこの軛を負ってくださっている。どこへ行ったらいいか分からないで、戸惑っているけれども、主イエス・キリストが私を義しい道に連れて行ってくださると、そういう事に気づかされた時に、私たちは本当に平安を得ることができるのです。  この事柄を知った時、わたしたちは、今日の御言葉の5節の理解が変わります。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる」と最初に聞いた時は、連帯している主イエスの苦難を負わされているのだと思っていた。しかし、同じ軛に繋がれている主イエス・キリストは私たちの苦難の重荷を背負ってくださっている。5節で書かれている主イエス・キリストの苦しみとは、まさにわたしたちの苦しみなのです。主イエス・キリストの苦しみとは、わたしたちと連帯してくださったために起こった苦しみです。ですから、わたしたちが担わされているのではなく、そもそもわたしたちが担っていた重荷を主イエス・キリストが共に担ってくださっているということがわかるようになります。  主イエス・キリストと軛で繋がれて一つになる。このことは、じつは、私たちの苦しみ、その苦しみを主イエス・キリストが一緒に負ってくださる、助けてくださるという、その事だけではなくて、言わば神様の救い全体にかかわる事だという事に気づかされます。 私たちと一つになったために、私たちの持っているすべての罪の責任とすべての苦しみを主イエス・キリストは、自分のものとして背負われました。私たちは神様に対して罪を犯しています。その罪を神様はお裁きなります。そうしなければ、神様の義が通らないのです。どんな悪い事をしても、目をつぶって、裁きを行わないというのでは、神様の義が通らないのです。どうしても裁かなくてはならないのですが、その私たちに対する裁きを主イエス・キリストが御自分でお受けになった。これが十字架の贖いであります。罪のない主イエス・キリストがなぜ十字架におかかりになったのか、それは私たちのすべての罪とすべての苦しみを連帯して負われたからなのです。これが聖書の中で贖いと言われていることであります。罪のない主イエス・キリストが私たちの罪を負って神様の裁きをお受けになったのです。 主イエス・キリストは私たちと一つになってくださることによって、もう一つの問題から救われることになりました。その問題とは肉体を持った私たちは死ぬということです。人間というものは、どんな人でも必ず死ぬことになります。神の子である主イエス・キリストが十字架の上で殺されて死んで、墓に葬られた。そのすべては主イエス・キリストが私たちと連帯をされ、一つになられ、同じ軛を負われたために起こったことであります。しかし、そのような言わば破滅に向かっての連帯だけでなくて、主イエス・キリストと連帯することによって、もう一つの事が起こりました。それは私たちの身に起こった事です。主イエス・キリストが死人の中から甦られたことによって、私たちが甦ることができたのです。軛でつながれているからこそ、主イエス・キリストとともに、主イエス・キリストに導かれて、復活できるのです。 あの「ラザロの復活」という話しの中で、主イエス・キリストはラザロの姉のマルタにおっしゃいました。ヨハネによる福音書11章25節にあります。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」これは決して空の約束ではありません。まさに主イエス・キリストは命であります。十字架につけられて死に、葬られた主イエス・キリストが、死人の中から復活をされた。私たちはこの主イエス・キリストの復活を信じております。しかし、その主イエス・キリストの復活が、実は私たちの復活であるということを、わたしたちは忘れがちになります。主イエス・キリストの復活を信じる。永遠の命を信じると言いながら、私たちは身近の者の死に出会った時に、何かもう永遠にその命がなくなってしまうのではないかというように考えてしまいます。あるいは、自分が苦難のなかで、また重荷を背負いすぎて先が見えなくなるとき、その先にある死しか見えなくなる時に、わたしたちは絶望的な思いをするのではないでしょうか。しかし「わたしを信じる者は死んでも生きる」「およそ、生きてわたしを信じる者は永遠に死なない」と主イエス・キリストは約束をしてくださり、そうして甦られたのです。私たちは主イエス・キリストが、人間になってくださって、私たちと連帯してくださったゆえに、死に勝つことができるのです。 荷をのせ続けたわたしたちは、次第に疲労困憊し、ついには膝が折れて、地面に倒れ、歩けなくなります。またわたしたちは苦難に直面すると、苦しみ悩み、立ち止まり、足が動かなくなり、塞ぎこんでしまいます。しかし、主イエス・キリストはあらゆる苦難の中にいるわたしたちに近づいて来てくださり「わたしのもとへ来なさい」と招いてくださっています。そこで共に軛でつながってくださり、重荷を共に担ってくださって、わたしたちに慰めを与えてくださいます。そこではじめて、わたしたちは主イエス・キリストに共に背負っていただいて荷が軽くなり、立ち上がることができます。そして、その慰めの主は、絶望で終わるはず人生を、絶望の先にある希望を、復活という希望をわたしたちに示し、立ち上がり歩く力与えてくださいました。 7節「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」 パウロが7節で語る、パウロが抱いている希望も、主イエス・キリストが与えてくださる希望のことをいっています。また7節で、「あなたがたが苦しみを共にしてくれている」「慰めをも共にしている」ということは、まさに軛によって連帯している様子です。わたしたちは、主イエス・キリストと軛で繋がれていますが、同時に、隣人とも軛で繋がれています。わたしたちが、苦難で立ち上がれなくなっている時、主はわたしたちとつながって共に苦しんで共に倒れて下さいました。しかし、主はわたしたちの手を引いて立ち上がってくださり、連なるわたしたちを立ち上げてくださります。今もそうです。あらゆる苦難の中にいるわたしたちと共につながってそうしてくださいます。そのわたしたちの右には主イエス・キリストがおられ、左には隣人がいます。左の人が苦難で倒れている時は、わたしたちもつながっているので倒れます。わたしたちが倒れている時は同じように隣人も倒れます。しかし、苦難にあるわたしたちが主イエス・キリストの手によって立ち上がろうとしている時に、その姿を見て、左の隣人は希望を持ちます。左の隣人は見ているだけでなく、つながっていますから、その人も一緒に持ち上げられます。担っているわたしたちはそれを時々重いと思ってしまったりします。でも、そこは忍耐です。右の主イエス・キリストは同じように重い私を持ち上げるために忍耐してくださったのですから。忍耐です。忍耐の先には希望があります。左の人が立ち上がり、わたしたちも立ち上がる。そして主イエス・キリストの慰めを共に受け、感謝して喜びます。なぜなら同じ軛につながれたものは、共に苦難をあずかっている人であると共に、慰めと希望も共に与っている人だからです。 今、主イエス・キリストは、立ち上がったわたしたちを見ておられます。 この慰めの主とともに、隣人ともに、立ち上がって、終わりの日の復活の希望を目指して、弛みなく、歩みましょう。 祈ります

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