夕礼拝

贖いの儀式

「贖いの儀式」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第16章1―34節
・ 新約聖書: ヘブライ人への手紙 第9章1―14節
・ 讃美歌 : 4、309

贖罪日
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書のレビ記を読み進めています。本日は第16章よりみ言葉に聞きたいと思います。レビ記第16章は、旧約聖書の中でも大変大事な章の一つです。ここには、イスラエルの民、ユダヤ人たちが最も大切なものとして守ってきた一つの宗教的儀式のことが語られているのです。それは「贖罪の儀式」です。贖罪とは、罪の贖いです。神様と隣人とに対して犯してきたもろもろの罪を拭い去られ、帳消しにされ、赦される、それが罪の贖いです。そのための儀式が一年に一度行われます。そのことが29~31節にこのように語られています。「以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留している者も同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである」。一年に一度、第七の月の十日に「贖いの儀式」が行われ、一年の間犯してきた全ての罪責が清められ、赦されて、新しく歩み始めるのです。この日のことを、16章の小見出しにあるように「贖罪日」と言います。この日はユダヤ人の信仰生活において一年の内で最も大切な日です。ユダヤ人の祭りとしては、「過越祭、七週祭、仮庵祭」などがありますが、これらはいずれももともとは農業における区切りを祝う祭で、そこに歴史的ないろいろな出来事を記念するという意味が加えられてきたものであり、「喜びの時」として祝われます。しかし「贖罪日」はそれらとは違って、自分たちの罪を意識し、それを悔い、悲しみ、その赦しを神に願う時です。ですから今読んだ所にあったように、この日には「苦行」をするのです。それは具体的には断食をすることです。そして「最も厳かな安息日」としてこの日を守るのです。毎週の土曜日が安息日ですが、この大贖罪日は、一年の中で最大の安息日として守られるのです。ですからこの日を「祭」と呼ぶのは相応しくありません。喜び祝う「祭」とは別の、しかし信仰において最も大切な日なのです。
 第七の月の十日とありますが、それは現在の暦では9月の終わりから10月の初め頃のことです。ですから丁度今頃か少し前ぐらいです。ユダヤ人の間では今でもこの「贖罪日」が大切に守られています。ユダヤ教徒といってもその信仰には当然ながらいろいろなレベルの違いがあり、皆が厳格に毎週土曜日の安息日を守っているわけではありません。安息日でも外国人の観光客のためのガイドをして働いている人もいます。私が以前にイスラエルを旅行した時の現地人ガイドもそういう人でした。しかしその人も、一年に一度、贖罪日にはシナゴグ、つまりユダヤ教の会堂に行って礼拝するということでした。ユダヤ人はこの時期を新しい年の始めとして意識しており、日本人で言えば元旦に初詣に行くような感覚で、贖罪日を、前の年の罪を拭い去られ、新しい思いで新年を始める、という感覚で守っているようです。また、1973年10月の第4次中東戦争において、アラブ側がこの日を狙って攻撃を仕掛けたことがあって、その時ばかりはイスラエル側の対応が遅れ、当初かなり苦戦したということもありました。贖罪日のことをヘブライ語で「ヨーム・キップール」と言いますので、この第4次中東戦争のことを「ヨーム・キップール戦争」とも言います。そのようにユダヤ人の生活に大きな意味を持っている贖罪日のことが、このレビ記第16章に語られているのです。

大祭司のための贖い
 さて、この贖罪日にはどのような儀式が行われるのでしょうか。2節に「あなたの兄アロンに告げなさい」とあるように、この贖罪の儀式を行うのは、祭司たちの頭として立てられたアロン、つまり大祭司です。大祭司アロンが、イスラエルの民全体を代表して、罪の贖いのための犠牲を捧げるのです。しかし、これは前にも語られていたことですが、大祭司といえども一人の人間である以上、自分自身の罪の贖いを先ずしなければなりません。そのことが6節に「アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行う」と語られています。また11~14節にこう語られています。「アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく」。ここに「垂れ幕の奥に入り」とありますが、この垂れ幕が「臨在の幕屋」において、「聖所」と「至聖所」とを隔てている幕です。この幕の内側が、「至聖所」と呼ばれる最も聖なる場所です。この日大祭司はそこに入って香を炊き、「香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる」のです。「掟の箱」とは、十戒を刻んだ石の板を入れた箱です。至聖所にはこの掟の箱のみが置かれています。その箱の上の「贖いの座」とは、「掟の箱」の蓋の部分のことです。この場所こそが、主なる神様が人間に現れ、出会って下さる場でした。従って罪の贖いもここでなされると考えられ、それゆえに「贖いの座」と呼ばれているのです。そこを香の煙で覆い、雄牛の血を振りまくことによって、大祭司は自分の罪の贖いの儀式を行うのです。

「臨在の幕屋」のための贖い
 さていよいよ民の贖罪の儀式に入るわけですが、そのためには雄山羊が用いられます。7節以下に、二匹の雄山羊が用意されることが語られています。そしてくじを引き「主のもの」となった方の山羊は、「贖罪の献げ物」として15節で屠られ、その血がやはり贖いの座に注がれるのです。先ほどの雄牛とこの山羊の血を大祭司が贖いの座に注ぐことの意味は16節にこのように説明されています。「こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする」。「人々のただ中にとどまり」というのは、「臨在の幕屋」が、幕屋つまりテント生活をしているイスラエルの人々の宿営の真ん中に建てられ、民の出発と共にそれはたたまれて背負われ、次に宿営する所で再び建てられる、というふうにして、荒れ野を旅している民と共に移動していることを指しています。そのようにしてこの一年間イスラエルの人々のただ中にとどまり、彼らのさまざまな罪や汚れにさらされてきた「臨在の幕屋」とその中の「聖所」の清めのためにこの血は注がれるのです。18、19節には、この雄牛と雄山羊の血が、「祭壇」の清めのためにも注がれることが語られています。祭壇は聖所に置かれており、そこで「焼き尽くす献げ物」などが献げられる所です。至聖所と聖所の全体のためにも罪の汚れからの清め、つまり贖いがなされるのです。

スケープ・ゴート
 このようにして民の贖罪のための準備が整えられます。20節に「こうして、至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと」とあるのは、準備が全て整ったということです。いよいよ、贖罪の儀式の中心へと入っていきます。そのために、7節で用意された二匹の山羊のもう一方が引いて来られます。この山羊は、殺されて祭壇に献げられるのではありません。21、22節を読んでみます。「アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる」。大祭司アロンはこの山羊の頭に両手を置き、「イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移」すのです。そしてその山羊や荒れ野へと追いやられる、イスラエルの民の全ての罪、悪を担って、この山羊が荒れ野へと追いやられることによって、民の一年間の罪が拭い去られ、赦しが与えられるのです。この山羊が、人間の罪を背負って荒れ野に追いやられ、そこで死ぬことによって、罪の贖い、赦しが実現する。この山羊のことを「スケープ・ゴート」と言うのです。「ゴート」とは「山羊」です。「スケープ」は「贖罪、罪の贖いのための犠牲」という意味です。ここから、皆のために犠牲とされる者のことを「スケープ・ゴート」と言うようになったのです。
 この山羊は「アザゼルの山羊」と呼ばれています。8節におけるくじ引きは、一匹を「主のもの」、他の一匹を「アザゼルのもの」と決めるためになされるのです。また26節には、「アザゼルのための雄山羊を引いて行った者は」とあります。アザゼルというのはおそらく、荒れ野に住む魔物のようなものとして意識されていたのでしょう。もともとは、この魔物に犠牲の動物を捧げることによって災いを防ぐという原始的な儀式があったのだと思われます。それがイスラエルの民の罪の贖いの儀式に取り入れられたのです。民の罪を背負った山羊がアザゼルのもとに追いやられる儀式は、民の中の罪や悪をその本来あるべき所に送り返す、という意味を持っています。つまりイスラエルにおいてはこの儀式は、アザゼルに犠牲を捧げるというのではなくて、民の罪を山羊に背負わせて荒れ野の魔物の所に送り返すことによって、民の罪を拭い去るという儀式であり、贖罪の儀式の中心がここにあるのです。
 これが、一年に一度の贖罪日に行われる儀式です。その中心的なことは、まず第一に、大祭司が至聖所に入って犠牲の動物の血を注ぎ、香を炊くことです。至聖所には、一年に一度、この贖罪日にのみ、大祭司ただ一人が入ることができるのです。第二は、アザゼルの山羊が荒れ野に追いやられることです。これらのことによって、イスラエルの民全体の一年間の罪の贖いがなされるのが贖罪日なのです。今のユダヤ教には神殿がありませんから、これと同じことは行われていませんが、ユダヤ人たちは先程も申しましたように、今もこの贖罪日を別の仕方で大切に守っています。普段ほとんど会堂に礼拝に行かない人も、あるいは安息日を厳密に守らない人も、この日ばかりは断食をし、神様を礼拝しているのです。

キリストによる贖いの完成
 キリスト教はこのユダヤ教を母体として生まれたわけですが、キリスト教会の暦には「贖罪日」はありません。それは、贖罪日に行われてきた罪の贖いの儀式が、神様の独り子である救い主イエス・キリストによって決定的に実現したからです。そのことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第9章の1節以下なのです。その11、12節を読みます。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。ここには、レビ記第16章に語られている大祭司による贖罪の儀式を土台として、主イエス・キリストによる贖いのみ業のことが語られています。しかも、主イエス・キリストによる贖罪が、大祭司による贖罪を完成するものとされているのです。レビ記における大祭司アロンに対して、主イエス・キリストが「既に実現している恵みの大祭司としておいでになった」とあります。キリストこそ、罪の贖いの恵みを実現し、それを私たちにもたらして下さる大祭司なのです。その大祭司キリストが、「人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り」とあります。この「幕屋を通り」は、レビ記第16章でアロンが垂れ幕の奥の至聖所に入り、贖罪の儀式を行なったことを受けています。アロンが通ったのは、人間の手で造られた、この世のものである垂れ幕でしたが、主イエス・キリストがまことの大祭司として通られた幕屋は、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋だったのです。それは主イエスが十字架にかかって死んで下さったことを指しています。主イエス・キリストは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、死という垂れ幕を通って、私たちの罪の贖いのために、12節にあったように、「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」のです。至聖所における贖罪の儀式は、年に一度、大祭司によって行なわれました。それは逆に言えば、そこで行われる贖罪の儀式の効力は一年間しか続かなかったということです。だからそれは毎年繰り返されなければならなかったのです。しかし主イエス・キリストは、「ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられ」ました。神様の独り子、まことの神であられる主イエスの十字架の死は、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げる力のある、永遠に続く効力を持つものだったのです。それゆえに、主イエスが十字架の上で死なれた時、エルサレム神殿の聖所と至聖所とを隔てていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたということをマタイ、マルコ、ルカ福音書が語っています。それは、もはや大祭司による至聖所における贖罪の儀式は必要がなくなったということです。私たちはもはや、贖罪日という特別な日に、大祭司という、自らの贖罪をも必要とする一人の人間の仲立ちによってではなく、神様の独り子イエス・キリストによって、罪の贖いの恵みにあずかることができるのです。その贖いのみ業は、山羊や雄牛の血によってではなくて、主イエスの血によってなされました。その贖いが永遠のものであることが、ヘブライ人への手紙第9章の13、14節にこのように語られています。「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」。贖罪日になされていた儀式はこのように、主イエス・キリストの十字架の死によって、比べ物にならないくらい素晴しい仕方で完成されたのです。それゆえに私たちキリスト教会には「贖罪日」はないのです。
 このことは裏返して言えば、私たちが主イエス・キリストによる罪の贖いの恵みを正しく知るためには、このレビ記第16章に語られている贖罪の儀式をしっかりと知り、両者の関係を正しく受け止めなければならないということです。レビ記第16章は、旧約聖書の中でとても大事な章だと最初に申しましたが、実は新約聖書も含めた聖書全体の中でとても大事な章でもあるのです。ここに語られている贖罪の儀式が、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みを前もって指し示し、予告しているのです。あの「アザゼルの山羊」も主イエス・キリストを指し示し、予告しています。この山羊が人間の罪を背負わされて荒れ野へと追いやられ、そこで死ぬことによって贖罪の儀式が完了するように、主イエス・キリストが私たちのためのまことの「スケープ・ゴート」となって下さったことによって、私たちは罪の赦しを与えられ、神様の恵みを受けて新しく生きることができるのです。

主の日の礼拝において
 ヘブライ人への手紙第9章の14節の終わりには、「キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」と語られています。十字架において流された主イエス・キリストの血によって私たちは、生ける神を礼拝するようになるのです。それが、毎週の主の日の礼拝において起こっていることです。礼拝において私たちは毎週、十字架において流されたキリストの血によって、つまり神の独り子イエス・キリストが死んで下さったことによって、私たちの罪が贖われ、赦されていることを知らされています。そして、感謝と喜びをもって主イエスの父である神様を礼拝しています。私たちはこの毎週の礼拝において常に新たに、主イエスによる贖罪の恵みにあずかっているのです。イスラエルの民に年に一度与えられていた贖罪日が、私たちには毎週与えられているのです。主の日の礼拝ごとに贖罪、罪の赦しの恵みを与えられて、私たちは新しいイスラエル、神様の恵みによって召し集められ、救いを与えられた民として、この世の荒れ野を歩んでいくことができるのです。

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