夕礼拝

み心がなりますように

「み心がなりますように」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編第115編1-18節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第6章10節
・ 讃美歌: 220、432

わたしたちはイエス様に教えて頂いた主の祈りを共に聞いておりますが、本日は 第三の祈りである「み心が行われますように、天のおけるように地の上にも」を共 に味わいます。わたしたちがいつも祈っている言葉で言えば、「み心の天になるご とく、地にもなさせたまえ」です。わたしたちは、主の祈りの最初で神様に驚くほ どの親しさ「父よ」と呼びかけ、次に神様の御名をあがめる祈りを第一に願い、続 いて、このわたしたちの内にも外にも確実に始まっている神様の支配の完成を願い 求めました。イエス様を信じて、恵みにより、神様の支配に入れられているわたし たちが次に祈るように求められていることは、「神様の御心がなるように、行われ るように」とお祈りすることです。
「御心」というのは、神様のご意志のことです。神様のご意志が、その通りにな りますように、というのがこの祈りの意味です。神様がそうしようとなさる思い、 ご意志、それがその通りに実現しますようにとここで祈ることをすすめられていま す。わたしたちは、普段生活をしている時に、誰の意志が実現することを求めてい るでしょうか。おそらく、自分の意志の実現を一番に追い求めるのではないかと思 います。そうでない時は、自分の身近の人、親しい人の、志の実現を願っている程 度はないかと思います。しかし、その身近の人の思いや志の実現も、自分の意志や 志の実現と妨げとなるのならば、その身近な人の志の実現よりも、自分の志の実現 を望んでしまう現実があるのではないかと思います。わたしたちは、「自分の心が 、自分の意志が、自分の志が実現しますように」という思いに生きていますし、実 際神様に祈るときも、「自分の思いや志が実現しますように」と祈ることが多いの ではないかと思います。実際にわたしたちが願い求めているのは、神様のみ心では なくて、自分の心、自分の志や思いであるという現実があります。そのことを見つ めていく時、この第三の祈りを祈ることは決してたやすいことではないということ がわかってきます。そこにおいてわたしたちは、自分の心、自分の意志が成就する ようにと求めることをやめて、神様のご意志、み心がなることを求めるように方向 転換をすることを求められています。

それはなぜなのか。わたしたちの意志や思いの行き着く先に救いは無いからです。 創世記に記されている通りに、人は神様に背き、罪人になり、人は神様の御心、神 様の意志がわからなくなってしまいました。そのために、神様は、人が生きていく ための規範として律法に御自分の意志を示し、イスラエルの民に預言者と聖書を通 して教えました。ところが、福音書に書かれている時代のイスラエルにおいては、 律法学者やファリサイ派の人々がそれらについて誤った解釈をしていたように、神 様の御心は間違って受け取られてしまいました。その律法に表わされた御心は正し く理解されるどころか、神様の御心と正反対のことが実践されていました。たとえ ば、それはこれまでに共にききましたように、「目には目を、歯には歯を」という 戒めは、個人的な復讐、復讐の連鎖を食い止める神様の救いの御心として教えてい るのに、当時の律法学者やファリサイ派の人々は、全く逆に、個人的な復讐、私的 な仕返しを正当化するものであるとし、さらにそれを神様が承認しているものだと 理解していました。また、前に共にききましたように、祈りにおいては、目に見え ない神様に心をむけて、目に見えない神様からの報いを受けることを願って行うこ とが目的、要するに神様との交わり、コミュニケーションを取るためことが目的で ありそのように神様が望まれているのに、当時の人々は、人々に祈る姿を見せて、 人々からの誉れを受ける目的のために行っていました。当時のイスラエルの人たち は、形の上では、神様の民でしたが、内実は、神様の御心、神様の意志から全く離 れ、また神様からも離れてしまっていました。ここからわかることは、神様の御心 が律法や聖書に文字にして示されて与えられている、ユダヤの人々さえも、神様の 御心を受け止めることができなかったのです。これが神様の御心であるといって、 自分の意志を貫き通そうとまでしてしまいました。わたしたち人は、創世記のアダ ムに示されているように、罪によって、神様の意志がわからなくなっただけでなく 、自分の意志を一番に実現させようする思いに縛られることになってしまったので す。その罪の結果、人は死ぬものとなり、罪と死に縛れるものとなってしまいまし た。罪に縛られた古いわたしたちの内から湧き出る願いや意志は、間違いなく善な るものではありません。それは、罪により捻じ曲げられた心や意志なのです。自分 の意志なのに、自分を本当に活かすこともできない、救うこともできない意志なの です。この世の誰が、自分の意志や志を全うして、死を克服したでしょうか。不老 不死を実現したいという意志をもって、努力したり研究したりすることは、古い時 代から今の時代になっても続いていますが、誰も死を克服してはいません。ここに 、わたしたちは、自分の意志による、救いの実現がないことが示しされているでし ょう。
わたしたちの心や意志は、そのようなものですが、神様のご意志は、真に善なるも のです。『ハイデルベルク信仰問答』の問124は、この第三の祈りを、「わたし やすべての人々が自分自身の思いを捨て去り、ただあなたの善きみこころにのみ、 何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください」ということだと解説し ています。ハイデルベルク信仰問答は、神様の御心は、善き御心であるとしていま す。「善きみこころ」と言われているのは、父なる神様のみ心です。願う前から、 わたしたちに必要なものをご存知で、それを与えてくださろうとされる父なる神様 です。その父なる神様がわたしたちを子として愛し、必要なものを必要な時に与え て養い、導こうとしておられる。そのような父として愛のみ心のことです。それが 、ハイデルベルクで言われている善き御心です。
しかし、このことを考えるとある疑問が起こってきます。神様のみ心は天の父とし ての愛のみ心である、ということはいったいどうして言えるのか、神様は御心によ って、守り導き、支え、救われようとなさる愛のみ心であるなら、どうして、苦し みや不幸が自分を襲うのだろうか。「み心が行われますように」と祈っていても、 苦しむことはなくならない、このような苦しみの現実がある。そのようなことが、 神様のみ心なのかという疑問です。この疑問に真剣に向き合われた方がおられます 。それはイエス様です。そのことを語っているのが、このマタイによる福音書の26 章36節以下の、「ゲッセマネの祈り」の場面です。捕えられ、十字架につけられて いく直前に、イエス様はゲッセマネという所でこのように祈られたのです。38、39 節を読みます。
「そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わた しと共に目を覚ましていなさい。』少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言 われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。し かし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに』」。
ここでイエス様は神様に、わたしたちにすすめられたのと同じく「父よ」と呼び かけておられます。イエス様こそ、本来神様を父と呼ぶことのできるただ一人の方 です。神様のみ心は、父としての恵みと愛のみ心であることを誰よりもよく知って いるのはイエス様です。しかしそのイエス様が今、死ぬばかりに悲しんでおられる 。そして、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っ ておられます。この後にイエス様は捕えられ、十字架につけられて殺されます。そ のことをイエス様はこの時点で、悟っておられました。神の子であるイエス様にと っても、それらのことは耐え難い苦しみなのです。これは神様の父としての善きみ 心を見失ってしまうほどなのです。目の前に控えているこの受難の数々のどこに、 愛のみ心、恵みのみ心、善きみ心などあるか、と思われるようなことなのです。し かしその苦しみの中でイエス様は、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心 のままに」と祈られました。み心がわからない、見えない、その中で、「み心が行 われますように」と祈られたのです。そのように祈りつつイエス様は十字架の死へ の道を歩み通されたのです。そのことによって、わたしたちの罪を赦して下さる神 様の恵みのみ心が実現したのです。
わたしたちは、苦しみの中で自分に対する神様の恵みのみ心があるということを 忘れ、見失うことがあります。その苦しみの時に、神様の善きみ心はどこにあるか と思ってしまうことばかりです。しかしその時こそ、このイエス様の祈りに目を向 けるべきです。神様の独り子であられるイエス様ご自身が、苦しみの中で、「み心 が行われますように」と祈られたのです。そしてそのみ心は、つまりイエス様に対 しての神様のご意志は、この苦しみの杯を過ぎ去らせることではなくて、イエス様 がこの杯を飲み干すこと、即ち捕えられ、苦しみを受け、十字架にかけられて殺さ れることだったのです。しかしそのことによって、わたしたち人が救われるという 神様の恵みのみ心が実現していったのです。神様のみ心は、わたしたちがこうなっ て欲しいと願っていることとは違っていることがしばしばです。わたしたちが、こ れが神様の恵みだと思うこととは全く違う仕方でみ心は行われることが多い。それ が、わたしたちにとっては、苦しみや悲しみと感じられることである場合もしばし ばです。しかしそこに最終的に実現していくのは、神様の恵みのみ心、善きみ心な のです。

「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」とわたしたちは祈っています。 この祈りは、み心が天においては実現している、そのように地の上にも、というこ とです。み心が天において行われているとは何を意味するのでしょうか。天という 場所は、神様のみ心、ご意志が完全に実現している場所で、地上とは逆にその御心 が完全になされていない場所であるということではありません。天において知られ ている神様のみ心は、地上のわたしたちと無関係なものではありません。天には天 用の特別な御心があるということではないということです。天において実現してい る神様のご意志、み心、それは、独り子であるイエス様を人間としてこの世に生ま れさせ、その十字架の苦しみと死と、そして復活によって、わたしたちの罪を赦し 、わたしたちを神の子として下さるという、その救いのみ心です。その神様のご意 志によって、イエス様はこの世にお生まれになったのです。クリスマスの晩に、天 使の大軍が羊飼いたちに「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心 に適う人にあれ」と歌ったのは、天の全体がこの神様のみ心、ご決意をほめたたえ たということです。天においては、神様の救いのご意思は理解され、知られている のです。ですから、天使たちは、イエス様がこの世を救うためにお生まれになった ことを喜び、褒め称えることができたのです。天においてみ心がなっているという ことはそのみ心が完全に知られているということでもあります。その救いのみ心の 実現は、この地上においてイエス様という形で表わされ、十字架の死と復活におい て成し遂げられました。イエス様が、天において知られている人を救うという神様 のご意志を受け入れ、ご自分の願いどおりではなく、父のみ心が行われますように とゲッセマネで祈られました。父の御心が行われるために、自分の願いを捨て、苦 しみを受け、十字架にかけられ、死なれ、復活させられました。つまり、天におけ るように地の上にもみ心が行われる、そのための道を切り開いたのはイエス様であ り、それは「わたしの意志ではなく、神様のみ心が行われますように」という祈り によって、この地上において受難という形で、救いのみ心の実現が始まったのです 。
わたしたちはイエス様によって実現したこの救いの恵みのみ心を信じて、神様の子 どもとして、「天の父よ、み心が行われますように」と祈りながら歩みます。その 祈りには苦しみに耐える忍耐と、自分の古い意志との戦いを伴います。「わたした ちの意志ではなく、神様のみ心が行われますように」と祈っていくことは、「自分 自身の思いを捨てる」という戦いが起こります。イエス様はその祈りの戦いをわた したちに先立って戦って下さいました。また、神様の御心に従うために起こる苦し みを先立って味わってくださいました。
イエス様が苦しみ忍耐され戦われたのは、全世界の全時代の人の罪のため、罪の結 果である滅びから救うためです。その戦いにイエス様は勝利されました。わたした ちが戦うのは、わたしたち自身に残る罪が引き起こす自分中心の意志に対してです 。そのようにさせる罪は、イエス様によって滅ぼされることがわかっています。わ たしたちはの戦いは、勝利が約束された戦いです。主の御心をなることを求める時 、わたしたちは苦しみます。己の罪の意志の根深さに愕然とします。しかし、ただ イエス様によることで、また与えられている聖霊なる神様の働きによって、真に一 番に神様の御心を願うことができるように変えられていくのです。それが約束され ています。わたしたちは、イエス様と共に、またそのイエス様に倣って、「わたし の願いどおりではなく、御心のままに」と祈っていくのです。

父なる神様の御心、つまり神様のご意志が、行われることが途絶えてしまうという ことはありません。父なる神様の御心やご意志は、今もなお、聖霊なる神様の力に より、教会に働き、またそこに連なる信仰者によって示され続け、歴史の終わりま で力強く続いていきます。父なる神様は、御自分を信じるものたちを、恵みによっ て世界中に起こそうとされ、実際に起こされています。父なる神様は、ご自分を信 じるものを起こすためにわたしたちを用いておられています。天においては、父な る神様の救いのみ心が完全に知られているように、地の上でも、同様に父なる神様 の救いのみ心が知られていくために、わたしたちは父なる神様から、このみ心を宣 べ伝える務めを任せられています。その救いのみ心とは、イエス様です。イエス様 の誕生から死、復活、昇天、再臨。そのすべてに父なる神様の恵みのみ心が示され ています。ですから、わたしたちはイエス様が、この地において知らされていくこ とを主に祈り、またそのために生きることが、主の祈りの第三の祈りの中に込めら れている、わたしたちのあるべき姿であり、使命です。誰も、父なる神様の愛の御 心、つまりイエス様と出会わなければ、父なる神様によってさされた救いを信じる ことはできません。父なる神様の救いを信じることなければ、救いに与ることはで きません。地上の人々が救いに与ることがなければ、神様の御心は地においてなり ません。ですから、この御心が地になることを祈るものは、必然的に伝道の使命を 負っているです。また、わたしたちが心から御心が地にもなるようにと祈る時、わ たしたちは祈りと共に、イエス様を伝える伝道者としての自覚が呼び起こされるの です。恵みによって救われ、信仰者とされたもの、またこれから信仰者にされてい くものは、神様の御心、意志を、聖霊の力によって、宣べ伝えていくためのなくて はならない大切な器です。そのように神様は見ていてくださっています。「わたし は弱い、小さい、汚れている、欠けが多い」と、自分でどんなに思っていたとして も、神様は「あなたはわたしの目には値高い」といってくださっています。さらわ たしたちは、そのような欠けの多い汚れた器なのに、神様のもっと大切な宝をその 器に乗せるためにわたしたちを用いてくださいます。もっとも大切な宝、それがイ エス様です。わたしたちには、イエス様が乗ってくださっています。神様の御心が 表わされている、また救いそのものである宝を乗せて、わたしたちは生きているの です。主なる神様を信じているものには、その宝が乗せられています。その宝を乗 せた器として、隣人と出会っていく時に、隣人はその宝と出会います。それが神様 の御心との出会いです。この地上にも、神様の御心が実現しますように主に祈り、 そして宝を乗せて、神様の御心乗せて歩いてまいりましょう。

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