「ギデオンの栄光と挫折」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:士師記 第8章1-35節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第5章18-21節
・ 讃美歌:2、451
ギデオンの勝利
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書士師記からみ言葉に聞いています。本日は第8章を読みます。士師とは、イスラエルが王国となる前、国が他民族によって脅かされ、人々が苦しみに陥った時に、主なる神が立て、遣わして下さった指導者です。士師の手によって主はイスラエルの人々を敵の手から救い出して下さったのです。その人々の活躍を語っているのが士師記であり、その第6章以下にはギデオンという士師のことが語られています。本日の第8章はギデオンの物語の最後の部分です。
ギデオンが戦った敵はミディアン人でした。イスラエルの民がミディアン人によって支配され、苦しめられていた時に、主なる神がギデオンを用いて民を救って下さったのです。先月読んだ第7章に、ギデオンのもとに集まった軍勢とミディアン人の軍勢との戦いのことが語られていました。ミディアンの軍勢は十三万五千人でした。それに対してギデオンの呼び掛けに応えて集まったイスラエルの軍勢は三万二千人でした。十三万五千人対三万二千人ですから、イスラエルは圧倒的に劣勢だったわけです。ところが主なる神は、ギデオンのもとにいる軍勢は多すぎるとおっしゃいました。そしてその数は最終的には三百人に絞られました。ギデオンは三百人の手勢を率いて十三万五千人のミディアン軍と戦い、そして勝利したのです。三百人で十三万五千人の敵を打ち破った。それはギデオンが天才的な軍事指導者だったからではありません。三百対十三万五千というのは、いかなる人間の能力をもってしても補い得る差ではありません。ギデオンの勝利は、人間の力によるのではなく、ただひたすら主なる神の力によることであり、主が共にいて戦って下さったことによるものでした。主がギデオンの軍勢を三万二千から三百に削減なさったのは、そのことをはっきりと示すためでした。7章2節に、「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」という主のお言葉があります。三百人による勝利は、それが主なる神の力によることであって、ギデオン自身やイスラエルの人々の力によることでは全くないことを示しているのです。
エフライムの人々の文句
さて本日の8章の10節にはこの戦いにおけるミディアン軍の戦死者の数が示されています。「ゼバとツァルムナは、約一万五千の軍勢を率いてカルコルにいた。すべて東方の諸民族の全軍勢の敗残兵であった。剣を携えた兵士十二万が、既に戦死していた」。戦死者十二万人です。しかしこれは、ギデオンが率いた三百人のみによるものではありません。7章23節以下にそのことが語られていました。「イスラエル人はナフタリ、アシェル、全マナセから集まり、ミディアン人を追撃した。ギデオンは、使者をエフライム山地の至るところに送って、言った。『下って来て、ミディアン人を迎え撃ち、ベト・バラまでの水場とヨルダン川を占領せよ。』エフライム人は皆集まって、ベト・バラまでの水場とヨルダン川を占領した。彼らはミディアンの二人の将軍、オレブとゼエブを捕らえ、オレブをオレブの岩で、ゼエブをゼエブの酒ぶねで殺し、ミディアン人を追撃した。彼らはオレブとゼエブの首を、ヨルダン川の向こう側にいたギデオンのもとに持って行った」。つまり、最初にミディアン軍を混乱させ、敗走させたのはギデオンの率いる三百人でしたが、敗走していくミディアン軍を追撃し、あるいは迎え撃って滅亡させたのは、その後に集まって来た人々だったのです。その中にエフライムの人々がいました。エフライムはイスラエルの十二の部族の一つです。彼らは今読んだ7章24節におけるギデオンの呼び掛けに応えて集まり、ミディアンの二人の将軍オレブとゼエブを殺したのです。その戦いが終わった後、彼らエフライムの人々がギデオンに文句を言ったというのが、本日の第8章のはじめのところです。彼らはギデオンに、「あなたはミディアンとの戦いに行くとき、わたしたちを呼ばなかったが、それはどういうことか」と言ったのです。この「わたしたちを呼ばなかった」というのは、ギデオンがミディアンと戦うために最初に召集をかけた時のこと、6章34、35節に語られていることです。そこにはこうありました。「主の霊がギデオンを覆った。ギデオンが角笛を吹くと、アビエゼルは彼に従って集まって来た。彼がマナセの隅々にまで使者を送ると、そこの人々もまた彼に従って集まって来た。アシェル、ゼブルン、ナフタリにも使者を使わすと、彼らも上って来て合流した」。ギデオンの召集に先ず応じたのはアビエゼルでした。これはギデオンの出身地の人々です。6章11節にギデオンのことが「アビエゼルの人ヨアシュの子」と言われています。ギデオンの親族や同郷の者たちが先ず集まって来たのです。そして彼らはイスラエルの部族としてはマナセ族でした。ですから次に、マナセの隅々にまで使者が送られ、マナセ族の人々が集まったのです。さらにアシェル族、ゼブルン族、ナフタリ族にも声が掛けられました。彼らはだいたいイスラエルの北半分に住む部族です。新共同訳聖書の後ろの付録の地図の中で「カナンへの定住」というのを見ていただくと分かります。問題のエフライム族はマナセ族の南に位置する部族です。彼らにはこの時は使者が送られず、ギデオンの勝利が決定的になってから声が掛けられたのです。エフライムの人々はそのことに文句を言っているのです。
マナセとエフライム
このことの背後には、マナセとエフライムという二つの部族の間の微妙な関係があるように思われます。イスラエルの十二の部族は基本的に、イスラエルという名を神から与えられたヤコブの息子たちに起源がありますが、ヤコブの息子の一人であり、彼ら家族がエジプトに移住することによって飢饉から救われたことの立役者となったヨセフについては、その二人の息子マナセとエフライムが独立した部族となりました。つまりマナセとエフライムだけはヤコブの息子ではなくヨセフの息子たちの名前なのです。そういう意味でこの二つの部族はまさに兄弟であり、他の部族よりもより近い関係にあります。しかしだからこそ、両者の関係は必ずしもよくありませんでした。ヨセフは二人の息子たちがそれぞれ一つの部族の先祖となることを覚えて、年老いた父ヤコブに二人を祝福してもらおうとしました。そのことが創世記第48章に語られています。ヨセフは二人をヤコブの左右に立たせて、右手と左手を置いて祝福を受けさせようとしたのです。右手の方が左手よりも重要と考えられていたので、兄であるマナセをヤコブの右に、弟エフライムを左に立たせました。ところがヤコブは、祝福を与える手を交差させて、右手でエフライムを、左手でマナセを祝福しました。そして、弟エフライムの方が兄マナセよりも大きな部族になると預言したのです。ここに、マナセとエフライムの微妙な関係、そこにあった対立が現れています。マナセとエフライムの間に対立があったために、このような話が生まれたのでしょう。この二つの部族の間には対抗意識が、ミディアンとの戦いの場面にも現れているのです。
人間の罪の中で働く神の力
このことが示しているのは、神の民イスラエルの中にもこのような部族間の対立があった、ということです。マナセもエフライムも共にイスラエルの民、主なる神の選びと恵みを受け、契約を与えられた神の民です。その神の民の間にこのような対立がある。その根本にあるのは妬みの思いです。マナセ族であるギデオンがミディアンを打ち破る素晴しい働きをした、いくつかの部族がその戦いに共に参加したのに、自分たちエフライム族は呼ばれず、参加できなかった、自分たちはのけ者にされた、そういう妬みがこういう文句を生んでいるのです。これが神の民イスラエルの現実だった。神が選んで下さり、契約の相手として下さり、救いのみ業にあずからせて下さっている民も、このような人間としての弱さや罪をかかえていたのです。それは、そういうものなのだから仕方がない、ということではありません。このような対立は主なる神のみ心ではありません。しかし私たちがここで見つめるべき大事なことは、神の救いのみ業は、このような弱さや罪をかかえたイスラエルの民の中で行われ、前進している、ということです。ギデオンに神が与えて下さった勝利と、それによるイスラエルの救いも、部族間の対立の構図の中に取り込まれています。ギデオンもマナセ族の一員として行動しているという面は否定できません。しかしそのような弱さや罪をかかえた人間の限界ある歩みが、主によって用いられ、主がそこでみ業を行って下さって、神の民の歴史が刻まれ、神による救いのみ業が前進していくのです。そのことは、主イエス・キリストのもとに召し集められた新しい神の民である私たち教会の歩みにも当てはまります。私たち一人ひとりも、弱さや罪をかかえています。それによって教会の中にも、妬みの思いが起り、争い、対立が生じます。私たちはその現実を、そういうものなのだから仕方がない、と開き直ってしまってはなりません。主イエスによる罪の赦しを信じる信仰によって私たちは、お互いの罪と、それによって起る対立を乗り越えていかなければなりません。それが私たちの信仰の成長であり、それを祈り求めていくことが大切です。しかしそれと同時に私たちがわきまえておくべきなのは、人間の弱さや罪が、神の救いのみ業、恵みによる救いを破壊してしまうことはない、主の救いのみ業は私たちの弱さや罪の現実の中で力強くなされていくのだ、ということです。三百人が十三万五千人に勝利したというギデオンの戦いはそういうことを示しています。人間の弱さによって神の救いのみ業が潰えてしまうことはない。むしろその中でこそ神の力が働いて、神の恵みがよりはっきりと示されていくのです。
ギデオンの謙遜
文句を言ってきたエフライムの人々に対してギデオンはこう答えました。「あなたたちと比べて、わたしが特に何をしたというのか。エフライムに残ったぶどうは、アビエゼルが取ったぶどうよりも良かったではないか。神はミディアンの将軍オレブとゼエブをあなたたちの手に、お渡しになったのだ。あなたたちと比べて、わたしに特に何ができたというのか」。要するに、私のしたことはあなたたちの働きに比べたら取るに足りない、ということです。ギデオンはそう言うことによってエフライムの人々を立てています。本当ならこんなことは言わなくてもよいのかもしれません。「私はたった三百人で十三万五千の敵と戦ったのだ。君たちは我々を呼ばなかったと文句を言うが、呼んだらすぐに私のもとに馳せ参じたのか。君たちが戦いに加わったのは、こちらの勝ちがはっきりしていたから、その勝ちに乗じたということではないか。もし私がミディアンに打ち負かされていたら、君たちは知らん顔をして私を見殺しにしたに違いない」。そんなふうに答えることもできたでしょう。ギデオンの気持ちとしてはそう答えたいところだったのではないでしょうか。君たちは苦労もせずに良い所だけを取っている。この上何の文句があるのか…。しかし彼はそのように言うのではなくて、エフライムの人々に対して、卑屈と思えるほどに相手を立てています。それによってエフライムとの争いを避け、平和を築こうとしているのです。このギデオンの姿は、見方によっては、弱腰な事なかれ主義です。なぜもっと毅然とした態度を取れないのか、と思うかもしれません。しかし私はここに、自分の力によってでは全くなく、ただ主なる神の恵みによって勝利を与えられたギデオンの到達した境地があるように思います。エフライムの人々が言って来たことは理不尽な言いがかりです。反論しようと思えばいくらでもできる。しかしそうするなら、神の民イスラエルの間に対立が深まっていくばかりです。自分が自負や誇りを捨てて相手を立てれば平和が得られるならばそうする、そこに、自分の力ではなくただ神の恵みによって生かされていることを本当に味わい体験し、その感謝に生きている人こそが持つことのできる本当の強さ、また謙遜さがあるのではないでしょうか。
ギデオンの栄光
ギデオンのそのような謙遜が最もはっきりと現れているのは22節以下です。ミディアン人を打ち破り、その脅威から解放してくれたギデオンにイスラエルの人々は心から感謝してこう言っています。「ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください」。つまり、ギデオンにイスラエルの王になってほしい、ということです。この時代、イスラエルにはまだ王がいませんでした。危機の時にその都度士師が立てられて一代限り人々を治め、指導していたのです。しかしそのような不安的な、と人間の目には見えるあり方ではなく、常に自分たちを導き、守ってくれる目に見える王が欲しいという思いはいつもありました。人々は、ギデオンこそその王となるのに相応しいと思ったのです。しかしギデオンはそれに対してこう答えました。「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」。イスラエルには王がいないのではない。まことの王は主なる神だ。主こそが王としてこの民を治め、導いておられるのであって、自分はその王である主に用いられたに過ぎない、だから自分は王になるつもりはない、とギデオンは言ったのです。ここに、ギデオンの、主なる神に対するまことの謙遜が示されています。ミディアンとの戦いに勝利したことよりもはるかに優るギデオンの栄光がここに描かれていると言うことができるのです。
ギデオンの罪
ところが、ギデオンの話はそれだけでは終わりません。24節以下を読むと、ギデオンはミディアンとの戦いの戦利品の中の金製品を集めて、それでエフォドを作り、自分の町に置いたとあります。27節に、「ギデオンはそれを用いてエフォドを作り、自分の町オフラに置いた。すべてのイスラエルが、そこで彼に従って姦淫にふけることになり、それはギデオンとその一族にとって罠となった」とあります。エフォドとは、普通には祭司の着る祭服のことですが、いろいろな意味があって、ここでは、金で造られた神の像、つまり偶像という意味です。ギデオンは金の偶像を作り、それを自分の町に置いた、つまり偶像の聖所、神殿を自分のもとに作ったのです。イスラエルの人々はそこで姦淫にふけるようになった。それは偶像礼拝をしていったということです。この像を拝めば、ギデオンが得たあの素晴しい勝利にあずかれる、小さな力で大きな敵に立ち向かう力が与えられる、という思いで人々はこの像を拝むようになったのです。このような偶像礼拝は、主なる神にのみ信頼することをやめて他の神に心を向けることであり、姦淫と同じ罪です。またそれは、目に見えない神では心もとないので、目に見える神を作って自分の下に置いて、自分の願いを叶えてもらおうとすることです。ですからそれは、目に見えない神が王であるよりも、目に見える人間の王が欲しい、という人々の思いと通じるものがあります。ギデオンは、偶像を作って自分の下に置くことによって、イスラエルの人々の心を、ミディアンとの戦いに勝利を与えて下さった主なる神から離れさせて、むしろこの偶像を管理している自分へと向けさせようとしている、と思われるのです。そうすると、先程のあのギデオンの謙遜の言葉、主こそがイスラエルの王なのであって、自分や息子が王となるべきものではない、という言葉は果して本心だったのだろうか、という疑問が生じます。その疑問は、31節にある彼の息子の名前とも関係してきます。ギデオンには多くの妻がおり、息子は七十人を数えたと30節にあります。そのことは、ギデオンが欲望の強い人だったことを示していると共に、まるで王のように振る舞っていた、ということでもあります。そして31節には、側女の1人が生んだ息子にアビメレクという名を着けたとあります。アビメレクという名前は、「父は王である」という意味です。この子の父である自分は王である、という思いがそこに現れています。ということは、彼は、自分と息子を王にしようとした人々の申し出を断っているけれども、偶像を作って自分のもとに置き、それを拝みに来る人々の間に影響力を強めていって、ゆくゆくは王になるための布石を打っていったのかもしれないのです。
悪い者の支配下にあって
このようにギデオンに関する聖書の記述はなかなか複雑です。ギデオンを単純に信仰の偉人、神に用いられた英雄、神に対する謙遜のモデルとして描いているだけではありません。そういうギデオンの栄光も勿論語られていますが、同時に、口では信仰的なことを言い、謙遜を装いながら、実は自分の誉れを求め、王になろうという思いを持っていたという罪の面、ギデオンの信仰における挫折も同時に見つめられているのです。このギデオンの姿はまさに私たち自身の姿だと言えるでしょう。本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、ヨハネの手紙一の第5章18節以下を選びました。その19節にこのようにあります。「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」。ここには、「神に属する者」、つまり信仰をもって生きている者である「私たち」と、「この世」とが対比されています。しかしそれは、私たちは正しくてこの世は間違っている、ということではありません。この世全体が悪い者の支配下にあるのです。神に属する者とされた私たちも、この世にある限り、悪い者の支配下にあるのです。しかし、20節には、「神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです」とあります。神の子である主イエス・キリストがこの世に来て下さり、真実な方、主イエスの父である神を示して下さいました。この主イエスによって私たちは、この世を支配している悪い者から解放されて、神に属する者、「真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいる」者とされたのです。それが主イエスによる救いです。主イエスによって私たちは、悪の支配下から神の支配下へと移されているのです。神の支配下へと移された私たちは、「すべて神から生まれた者は罪を犯しません」と18節に語られています。それは私たちがもう罪を犯さない清く正しい者になるということではなくて、18節後半に「神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません」とあるように、主イエスの守りの内に置かれるということです。私たちが正しい者になるのではなくて、悪い者が支配しているこの世の中で、主イエスが私たちを守って下さるのです。地上を歩む限り私たちは、「神に属する者」とされてからもなお、この世支配している悪の力に捕えられ、信仰の挫折に陥ることがあります。そういう現実の中で私たちは、主イエスが守って下さることによって、神に属する者、御子イエス・キリストの内にいる者として歩むことを願い求めていくのです。「偶像を避けなさい」という勧めはそのために与えられています。私たちの周りにはいろいろな偶像があります。目に見えない神に信頼するよりも、目に見える安心や平安を自分の中に確保したい、という思いがあります。しかし、私たちを本当に支え、共にいて戦い、救いを与えて下さるのは、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪の赦しと永遠の命を与えて下さっている父なる神以外にはないのです。ギデオンの信仰における勝利と謙遜、その栄光と、罪による挫折を見つめることを通して私たちは、悪い者が支配しているこの世の現実の中で、神が私たちを御子イエス・キリストの内にいる者として下さり、主イエスが私たちを守って下さることを祈り求めていきたいのです。