「主の精鋭」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:士師記 第7章1-25節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第11章32-34節
・ 讃美歌:50、457
士師ギデオン
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書士師記からみ言葉に聞いており、先月は第6章を読みました。第6章から第8章にかけては、ギデオンという士師のことが語られています。士師とは、イスラエルが王国となる前、国が他民族によって脅かされ、人々が苦しみに陥った時に、主なる神が立て、遣わして下さった指導者です。士師の手によって主はイスラエルの人々を敵の手から救い出して下さったのです。先月読んだ第6章には、ギデオンが士師として立てられたことが語られていました。本日の第7章は、そのギデオンの戦いの様子が語られています。ギデオンが戦った敵はミディアン人です。7章1節にこう語られています。「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった」。ギデオンの率いるイスラエルの軍勢と、ミディアン人の軍勢とがこのように対峙したのです。ギデオンはエルバアルとも呼ばれています。その事情は6章に語られていました。またここに「エン・ハロド」とありますが、それは「ハロドの泉」ということです。ギデオンの率いるイスラエル軍はハロドの泉のほとりに陣をしいたのです。
十三万五千対三万二千
ところで、ミディアンの軍勢はどれくらいいたのでしょうか。12節にこうあります。「ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族は、いなごのように数多く、平野に横たわっていた。らくだも海辺の砂のように数多く、数えきれなかった」。いなごのように数多くの軍勢と、海辺の砂のように数多くのらくだがいた。その具体的な数は、次の第8章10節の記述から逆算することができます。そこにはこうあります。「ゼバとツァルムナは、約一万五千の軍勢を率いてカルコルにいた。すべて東方の諸民族の全軍勢の敗残兵であった。剣を携えた兵士十二万が、既に戦死していた」。ゼバとツァルムナというのは8章5節にあるようにミディアンの二人の王の名前です。7章におけるイスラエルとの戦いで彼らは打ち破られ、二人の王と共に逃れた敗残兵が一万五千人いたのです。戦死した者が十二万とありますから、元々ミディアンの兵士は十三万五千人いたということになります。いなごのような大軍とは、十三万五千人の軍勢だったのです。それに対してハロドの泉のほとりに陣をしいたイスラエルの軍勢はどれほどだったのでしょうか。7章3節の終りに、「こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った」とあります。つまりギデオンのもとに馳せ参じたイスラエルの軍勢は三万二千人です。十三万五千人対三万二千人の両軍が対峙し、今にも戦いの火蓋が切られようとしていたのです。
軍勢の削減
ところが、その戦いの直前になって、主なる神はとんでもないことをギデオンにお告げになりました。2節「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない」。三万二千人の軍勢は多すぎる、と主は言われるのです。十三万五千人に対するのに三万二千人が多すぎるとはどういうことでしょうか。ギデオンはおそらく、三万二千人でどうやって十三万五千人の敵を打ち破ることができるだろうかと日夜頭を悩まし、大いに不安を感じていたに違いありません。主なる神がどこかから援軍を送って下さって、何とかもう少しわが軍勢を増やしてくれないものだろうか、と思っていたのではないでしょうか。ところが主は事もあろうに、これでは人数が多すぎるから減らせ、とおっしゃるのです。その理由は2節後半に語られています。「渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」。イスラエルが、自分の手、自分の力で救いを勝ち取ったと思うことのないように、これが、この第7章の、そしてギデオンの物語全体の鍵となる言葉です。このことのために、主はイスラエルの軍勢の数をとことんまで削減なさるのです。
三万二千から一万へ
その削減は二段階に分けて行われました。先ず3節です。「それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と」。ギデオンの呼びかけに応えてミディアンとの戦いに馳せ参じたものの、内心では恐れおののいている者たちもいるから、その者たちは去らせよというのです。その結果、先程読んだように二万二千人が帰っていき、一万人が残ったのです。戦いに臨んで兵士をわざわざ去らせるというのは考えられないことだと私たちは感じますが、これは律法に定められていたことでもあります。申命記第20章に、イスラエルの民が戦争に臨む時の掟が定められていますが、その20章8節にこのように語られています。「役人たちは更に民に勧めて言いなさい。『恐れて心ひるんでいる者はいないか。その人は家に帰りなさい。彼の心と同じように同胞の心が挫けるといけないから』」。戦いの前に、恐れて心ひるんでいる者は家に帰れ、という勧めがなされるのです。それは、おじけづいている者がいると、その恐怖が他の兵士にも伝染して皆の心が挫けてしまうからだ、と言われています。恐れおののいている者は戦いにおいて足手纏いになる。だから数は減っても、強い信念と勇気を持っている者たちのみで戦った方がよい、というのは確かに一理あることです。けれども、この申命記20章に語られているのは、そのような、戦いにおいてより力を出せるため工夫ではありません。これらの教えの土台となっているのは、20章1節に語られていることです。このようにあります。「あなたが敵に向かって出陣するとき、馬と戦車、また味方より多数の軍勢を見ても恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導き上られたあなたの神、主が共におられるからである」。敵の数が多いとか、敵は馬や戦車を持っているなどということを恐れるな、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放して下さった主なる神が共にいて下さり、戦って下さるのだから、人間の力を恐れるな、ということです。このことが先程の8節の前提なのです。つまり、恐れて心ひるんでいる者は帰れ、というのは、足手纏いになる者は去らせて本当に勇敢な者だけで戦った方が力が出るということではなくて、主なる神が共に戦って下さる戦いにおいては、主を信頼していることこそが大事なのだということです。恐れおののいているということは主を信頼していないことであって、そのような者は主の戦いの妨げとなるのです。つまり戦いの勝利は兵士の数や装備などの人間の力によるのではない、主なる神こそ勝利が与えて下さる、それを信じて戦うのがイスラエルの戦いだ、ということです。このことは主がギデオンに言われた、あなたがたが自分の手で救いを勝ち取ったと思うことがないように、というお言葉と通じます。勝利は自分の手で勝ち取るものではなくて、主なる神によって与えられるものだ、ということを信じて、主を信頼している者のみを残すために、「恐れおののいている者は帰れ」という勧めがなされ、その結果イスラエルの軍勢は三万二千人から一万人に絞られたのです。
一万から三百へ
ところが主は4節においてギデオンに、「民はまだ多すぎる」とおっしゃいました。一万人でもまだ多い、と言われるのです。相手は十三万五千の軍勢です。主に信頼して恐れることなく勇敢に戦う者たちだったとしても、一万人で立ち向かうにはまさに決死の覚悟が必要です。それなのに主は、兵士の数をもっと減らせとおっしゃるのです。この二度目の削減は主ご自身の選別によって行われました。そこを読んでみます。4節後半から7節です。「『彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない』。彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。『犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。』」水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた。『手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい』」。このようにして、一万人の兵士の中から、九千七百人は帰され、三百人のみが残ったのです。主なる神はこの三百人をもって、イスラエルを、十三万五千のミディアン軍の手から救うとおっしゃるのです。そのようにしてこそ、イスラエルを救ったのは彼ら自身の力ではなくて、主なる神の力であることがはっきりする、ということです。
水をなめた者と手にすくった者
ところで、この三百人はどういう理由で選ばれたのでしょうか。彼らは、三万二千人の中から選りすぐられた三百人です。計算すると、107人に一人です。そういう超狭き門をくぐって選ばれた主の精鋭です。主の精鋭として選ばれた人々はどのような人たちだったのでしょうか。彼らは先ず第一次選考において、主なる神が共にいて下さることに信頼しており、恐れおののいていない、戦いへの強い意志を持っていることが確認されました。第二次選考は、泉の水をどうやって飲むかによってなされました。犬のように舌で水をなめた者と、水を手にすくってすすった者とが分けられたのです。6節に「水を手にすくってすすった者の数は三百人であった」とあります。これが、選ばれた三百人だったのです。犬のように舌で水をなめるというのは、要するに這いつくばって顔を水につけて飲むことでしょう。あまり行儀の良い姿ではありません。しかしそれは行儀の問題と言うよりも、これから戦いに臨む心構えと関わることです。這いつくばって水を飲むというのは、全く無防備な姿です。いつ敵が襲って来るか分からない、それに備えて警戒している者は、身を屈めて手で水をすくって飲むのです。つまり水を飲む姿勢には、戦いに臨もうとしている備えができているかが現れるのです。選ばれた三百人は、そういう備えがきちんとできている人たちだった、それゆえにまさに主の精鋭に相応しい人々だった、というのが一つの解釈です。新共同訳聖書はそういう解釈を明確に打ち出してこのように訳しているのです。
三百人はどちらか?
ところが、ここの原文はこのようにはっきりとはしていません。もっと曖昧な、理解の難しい文章となっています。以前の口語訳聖書はその難しさをそのまま現す訳になっていました。口語訳聖書で5-7節を読んでみたいと思います。「そこでギデオンが民を導いて水ぎわに下ると、主は彼に言われた、『すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい』。そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみなひざを折り、かがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた、『わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。残りの民はおのおのその家に帰らせなさい』」。この違いは一度聞いただけでは分かりにくいかもしれませんが、新共同訳は5節の「犬のように舌で水をなめた者」と「膝をついてかがんで水を飲んだ者」とを同じ者としており、6節の「水を手にすくってすすった者」を彼らとは区別して、そちらが三百人だったとしています。しかし口語訳は5節において、「犬のなめるように舌をもって水をなめた者」と「ひざを折り、かがんで水を飲んだ者」とを別のグループにしています。そして6節で、「手を口にあてて水をなめた者」が三百人だったと言っているのです。新共同訳はそこを「すすった」と訳していますが、原文の言葉は5節の「なめる」と同じです。水をなめた者が三百人だったのです。7節でも、新共同訳は「水をすすった三百人」と訳していますが、これも「なめる」という言葉ですから、口語訳の「水をなめた三百人」の方が原文に忠実です。つまり口語訳は、水をなめた者と膝をついて飲んだ者とが分けられ、水をなめた者が三百人だった、と読める訳となっており、こちらの方がどちらかというと自然な読み方なのです。その場合6節の「手から」という言葉をどう理解するかが問題となります。この言葉があるので、屈んで手で水をすくって飲んだ者が三百人だった、という新共同訳のような読み方が生まれるのです。新共同訳はその解釈に基づいて7節を「手から水をすすった三百人」と訳していますが、ここの原文には「手から」はありません。口語訳の「水をなめた三百人」の方が原文に忠実です。ですからここはどちらとも取れるような曖昧な表現になっていますが、どちらかというと、這いつくばって水をなめた者が三百人、屈んで水をすくって飲んだ者が他の九千七百人、と読む方が自然な書き方になっているのです。
勝利は神によってこそ与えられる
主によって選ばれた精鋭は、這いつくばって水をなめた三百人だったとしたら、それは何を意味しているのでしょうか。屈んで手で水をすくって飲むのは、確かに、戦いに備えて警戒を怠らない姿です。しかしそれは別の見方をすれば、自分の力や才覚で敵と戦おうとしている姿だと言うことができます。這いつくばって犬のように水をなめるというのは、兵士としては警戒心が足りない、訓練が行き届いていない、ということになるでしょうが、それも別の見方をすれば、神に全てを委ねて信頼し、安心している姿だとも言えるのです。そのような者が主の精鋭として選ばれたのだと捉えることもできるわけです。どちらとも取れるような曖昧な書き方になっていますが、私は、犬のように水をなめた者三百人、という読み方に魅力を感じます。そちらの方が、「自分の手で救いを勝ち取ったと思わないように」という、ここにおける主の基本的なみ心とも合うのではないでしょうか。主なる神はここで、107倍の難関を突破した選りすぐりの、一騎当千の強者三百人によってミディアンを打ち破ろうとしておられるのではなくて、主ご自身がこの戦いを戦っておられ、勝利はいかなる意味でも人間の力によってではなく、主のみ心によって与えられることを示そうとしておられるのです。三百人で十三万五千人の敵に勝利するなどということは絶対に不可能です。主はその不可能なことを行うことによって、主なる神から心が離れ、偶像の神を拝むようになってしまったイスラエルの人々の心をもう一度主の元へと立ち帰らせようとしておられるのです。そういう意味において、這いつくばって犬のように水をなめた者三百人と考える方が相応しいのではないかと思うのです。ですからそれは、その者たちの方が主に信頼する信仰が深かったから選ばれた、ということではありません。ここに語られているのは、神の民イスラエルは兵士の数や質、つまり軍事力によってではなく、信仰の力によって敵と戦い、勝利するのだ、ということでもありません。軍事力にせよ信仰の力にせよ、人間の持っている力が勝利をもたらすのではなく、主なる神によってこそ勝利は与えられるのだということをこの話は語っているのです。
主が示して下さったこと
主がそのことをギデオンに示して下さったことが9節以下に語られています。9-15節を読みます。「その夜、主は彼に言われた。『起きて敵陣に下って行け。わたしは彼らをあなたの手に渡す。もし下って行くのが恐ろしいなら、従者プラを連れて敵陣に下り、彼らが何を話し合っているかを聞け。そうすればあなたの手に力が加わり、敵陣の中に下って行くことができる。』彼は従者プラを連れて、敵陣の武装兵のいる前線に下って行った。ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族は、いなごのように数多く、平野に横たわっていた。らくだも海辺の砂のように数多く、数えきれなかった。ギデオンが来てみると、一人の男が仲間に夢の話をしていた。『わたしは夢を見た。大麦の丸いパンがミディアンの陣営に転がり込み、天幕まで達して一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった。』仲間は答えた。『それは、イスラエルの者ヨアシュの子ギデオンの剣にちがいない。神は、ミディアン人とその陣営を、すべて彼の手に渡されたのだ。』ギデオンは、その夢の話と解釈を聞いてひれ伏し、イスラエルの陣営に帰って、言った。『立て。主はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった』」。ミディアン人の兵士自身がこのように、主なる神が自分たちをギデオンの手に渡したことを感じて恐れている、その事実を示されたことによって確信を与えられたギデオンは、ミディアン人たちのこの恐れの思いを巧みに利用した作戦で彼らの間に同士討ちを起させ、敗走させたのです。
主の勇者、主の精鋭
ギデオンが敵の兵士の言葉によって示されたのは、主なる神がご自分の民イスラエルのために既に戦って下さっていることでした。そのことを示されたことによって彼は、三百人で一三万五千人を打ち破ることができ、6章において主が彼に最初に語りかけた時に言われた「勇者」となったのです。彼自身は勇者と呼ばれるような資質を持ってはいません。特に勇気があったわけでも、精神力が強かったわけでもありません。人一倍信仰が深かったわけでもないのです。むしろ彼は弱く、信仰の確信も弱く、いつも主にしるしを求めるような疑い深い者でしたが、主が共にいて下さり、その主ご自身が既に戦って下さっていることをはっきりと知らされ、その戦いに加えられたことによって、主の勇者となることができたのです。あの三百人の主の精鋭も同じです。彼らは選りすぐりの戦いのプロだったわけではありません。しかし彼らは、主ご自身の戦いのために選ばれ、用いられたことによって、主の精鋭となったのです。
主イエス・キリストの精鋭
本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第11章32節にギデオンの名前が出てきます。ギデオンを始めとするここに名前があげられている人々は、信仰によって戦いの勇者となり、敵軍を敗走させたのです。信仰によってとは、彼らが持っている何らかの力によって、ということではありません。知恵や力や権力はないが信仰だけは持っている、その信仰によって戦って勝利した、ということではないのです。信仰とは、主なる神が共にいて下さり、戦っていて下さり、勝利して下さることを知らされ、それを信じることです。私たちはそのことを、主イエス・キリストによって示されています。主イエスがご自身の十字架の苦しみと死、そして復活において、私たちを捕え支配している罪と死の力と戦って下さり、既に勝利して下さっているのです。そのことを知らされて、その救いを信じて受け入れ、感謝して生きること、その恵みにこそ依り頼み、自分の力で勝利して救いを得ようとする思いを捨てて、主イエス・キリストと共に、主イエスに従って生きる者となること、それが私たちの信仰です。その信仰に生きる時に、私たちは主イエス・キリストの精鋭となります。私たちの持っている知恵や力によってではなく、主が私たちを選び、ご自身のみ業のために用いて下さるので、そうなることができるのです。十三万五千対三百、それは現在の日本におけるキリスト者の人口比と言われる1%よりずっと少ない数です。主がみ業を行って下さるのに、あの三百で十分だったのなら、主は私たちを用いて、さらに大きなみ業を実現して下さるでしょう。