主日礼拝

真理の霊

「真理の霊」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: ヨシュア記 第1章1-9節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第14章15-24節
・ 讃美歌: 12、352、475

訣別説教の中で
 主イエスは、ご自身が十字架におかかりになる時を目前にひかえて、訣別説教をお語りになりました。自分は、もうすぐ十字架で死ぬことになる。一方、弟子たちは、地上に残されることになる。そのような中、弟子たちに向かって最後の説教をお語りになったのです。この説教の中で、主イエスが繰り返しお語りになったのは聖霊についてです。本日の箇所は、訣別説教の中で、初めて聖霊について語られる箇所です。聖霊と言うと、あまりピンと来ないと言う方もおられるかと思います。教会は、三位一体の神を信じています。使徒信条の中で、父なる神、子なるキリストと並んで、「われは聖霊を信ず」と告白している通りです。教会が信じている神様は、父、子、聖霊と言う三つの位格がある一人のお方だと言うのです。この三つの中で、父なる神と子なるイエス・キリストと言うのは、比較的分かりやすいと思います。人格的なイメージで捉えやすいと言うこともあるでしょう。それに比べて、聖霊と言うのは漠然としていてつかみ所がないようにも思います。実際、聖書においても様々な語られ方をしていますし、様々な説明が出来ると言えます。ヨハネによる福音書は、訣別説教と言う大切な御言葉の中心的な主題として聖霊について語ります。訣別説教に聖霊が登場することからも明らかなように、ここでの関心は、主イエスが世を去った後のことです。聖霊とは、肉を取って地上を歩まれた主イエスが地上から離れてしまった後、この世を生きる弟子たちと、主イエスはどのように結ばれるのかと言うことに関係するのです。つまり、ここで語られていることは、主イエスがこの地上を歩まれてから2000年たった、主イエスが地上におられない現代を生きる信仰者と主イエスとの関わりにおいて問題になることでもあります。ヨハネが記す聖霊を見つめることを通して、聖霊を信じつつ歩む信仰者の歩み知らされて行きたいと思います。

別の弁護者
 ヨハネは、独特な仕方で聖霊について語ります。16節には、次のようにあります。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。ここで、「別の弁護者」と言われているのが聖霊のことです。「弁護者」と言われると、漠然としていた聖霊についての印象が、より具体的になると思います。聖霊は、裁判で無実を立証するようにして、弁護して下さる方だと言うのです。更に、この弁護者と言う言葉は、「パラクレートス」と言う言葉で「傍らに呼ぶ」と言う意味の言葉です。又、この言葉を「慰める」と訳すことも出来ます。つまり、聖霊は、主イエスがおられない地上を歩む弟子たち、信仰者たちの傍に、主イエスに変わっていつもいて下さり、励まし、慰めて下さるのです。そのことを、より明確に記しているのが、18節です。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。「戻って来る」と聞くと、私たちは聖書が語る再臨、天に昇られた主イエスが終わりの日にもう一度、世に来られると言うことを語っているようにも思えます。しかし、ここでは、世の終わりのことが言われているのではありません。主イエスは世を去った後に、再び聖霊として、戻って来るとおっしゃっているのです。形は変わるけれども、これまでと同じように、弟子たちと共にいると言うのです。更に、主イエスが、16節の後半で、「永遠にあなたと一緒にいる」とおっしゃっていることに注目したいと思います。聖霊と言う形で、弟子たちと一緒にいると言うことは、永遠に共にいて下さると言うことなのです。肉を取って世を歩んで下さった主イエスは、世の限界、つまり時間と空間の制約の中に置かれますから、いつか必ず世を去る時が来るのです。しかし、天に昇られ、聖霊と言う形で弟子たちと共にいるのであれば、その関係は永遠に続くのです。そして、事実、主イエスが天に昇られた後、現在に至るまで、キリストは地上を歩む信仰者と共にいて下さったし、これからもいて下さるのです。だから、私たちは、2000年近く前を歩んだ、キリストを信じているのです。主イエスが世を去った後を生きる者で、信仰を与えられて歩んでいる者はすべて、聖霊と言う形を取られたキリストを弁護者、慰め主としているのです。

真理の霊を知る
 このようなことを、全く聖書の信仰と無縁な所で生きて来た方が、突然聞いたとしたら、それこそ、何を馬鹿なことを言っているのかとの思いがするでしょう。そのことは、聖書もはっきりと記しています。17節には次のようにあります。「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることが出来ない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」。「世」と言うのは、ヨハネによる福音書においては、キリストを信じる信仰の無い人々、又は、そのような人々によって形成される社会を表します。信仰の無い所では、聖霊が知られることはありませんし、それが受け入れられることもありません。ここから、聖霊は、信仰と密接に結びついていることが分かります。聖霊を知るか、知らないかが、聖書の語る信仰があるか無いかの分かれ道であると言うことが出来るでしょう。信仰を与えられることと聖霊を知ることは一つのことなのです。つまり、聖霊が働くことによって信仰が与えられ、信仰が与えられるのであれば聖霊を知っていると言うことになるのです。そして、これと同じことは、19節で繰り返されます。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。主イエスが世から去られ、肉体の目では見ることが出来なくなれば、世は、もう主イエスを見ないのです。しかし、信仰者は、聖霊という形で臨んで下さる、キリストを知るのです。このことが意味しているのは、信仰とは根本的には人間の業ではないと言うことです。世の一般的なイメージからすれば、信仰と言うのは人間がこの世で善く生きることによって救いを獲得したり、修行をつんで悟りを開いたりと、形は様々であるにせよ人間の営みとして受けとめられます。しかし、聖書の信仰によれば、キリストが聖霊を通して臨んで下さる時に、信仰が生まれるのです。もちろん、私たちは、信仰を求めて祈り、聖書の教えに生きようと務め、聖書について学んでいくのです。しかし、それらすべては、聖霊の働きと言う神様の御支配の中で行われているのです。聖霊の働きの中で、キリストを知らされ、キリストを知らされていると言うことは、そこに聖霊の働きがあるのです。

新しい命に生きる。
 これまで、キリストや聖霊について「見る」とか「知る」と言われて来ました。これらの言葉は、単純に認知すると言うことではありません。信仰と言うのは、ただ、歴史を学ぶように聖書を学び、キリストについての知識を増やすことではないのです。そうではなくて、聖霊の働きの中で、今、永遠なる方として天におられるキリストと結びつき、その命にあずかり、キリストによって生かされることなのです。つまり、聖霊によって、共にいて下さるキリストを知るとは、天におられるキリストと地上にいる信仰者が結びつけられて、全く新しい命に生き始めることを意味しているのです。19節の後半には、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」とあります。もちろん、私たちは地上で生きています。それは、信仰を持つ人だけでなく持たない人も同じです。ですから、ここで「あなたがたも生きることになる」と言われている命は、今、肉において生きている命とは全く別の次元での命が見つめられていることになります。それはキリストが生きている復活の命です。より詳しく言うと、神の子であり、天におられたキリストが世に来て下さり、人間の罪を贖うために十字架にかかり、罪を打ち破って下さるために三日目に復活して下さった。そのキリストの命にあずかるのです。それは、この世における限界の中を生きる命ではなく永遠と結びついている命です。信仰者は、キリストが生きていることによって、地上にありつつ、キリストの命に生きることになるのです。主が永遠において生きておられる。それ故、そのキリストと一体となって歩む者は、そのキリストと同じ命に生きる者となるのです。私たちが、この世を生きている命は、様々な肉の弱さを抱えています。日々衰えて行きますし。病の苦しみに襲われることがあります。そして、いずれ滅びて行くのです。それは、時間と空間の中にあり、罪ある人間が生きる命の限界です。しかし、聖霊によってキリストと結びつき、死を克服して下さったキリストの命に生かされるのであれば、この世にあって、既に、永遠へとつながる命を生き始めているのです。そうであれば、もはや、この世での様々な苦しみは根本的な苦しみではなくなるのです。

愛の紐帯
 これまで見つめて来たことから、聖霊の働きを次のように表現することが出来ると思います。弁護者である聖霊とは、「隔たりを取り除き、二つのものを結びつける」ものである。事実、聖霊のことを愛の紐帯、愛の絆と呼んだ神学者がいました。聖霊は、神とキリストを結びつけているものであり、そして、キリストと信仰者とを結びつけるのです。天におられるキリストと、地上を歩む弟子たちの間にある隔たりが聖霊によって取り除かれる、永遠と時間・空間の間の隔たりが聖霊によって取り除かれて、主と共に生きる者とされる。地上を歩む者が永遠の主なる神との交わりに入れられるのです。そのことは、今ははっきりとは示されていません。おぼろげに示されているのです。しかし、20節には次のようにあります。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」。「かの日」とは救いが完成する日です。その時、この世で、既に結ばれている、キリストとの結びつきが明らかになるのです。そして、それは、ただキリストと結びついているのではなくキリストが結びついている、父なる神さまとも結びつくことになるのです。
 聖霊は、ただ、キリストと信仰者を結びつけるだけではありません。この世にあって信仰者と信仰者を結びつける働きもします。17節に記されていた「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と言われていたことに注目したいと思います。「この霊があなたがたと共におり」と言った後、「あなたがた」という二人称複数形に「内にいる」と言う言葉が続けられているのです。聖霊が、共にいて下さると言うことは、「私たち」の内にいると言うことなのです。つまり、聖霊は「わたし」と言う個人をキリストと結びつけると共に、個人と個人の内で働き、それらを結びつけることを通して「わたしたち」の間に交わりを作り出すのです。

愛すること
 そして、聖書は、聖霊の結びつける働きと愛を結びつけています。聖霊による交わりがある所に、聖書が語る愛が生まれます。そもそも、本日の箇所の最初15節は、愛を語ることから始まっていました。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。ここで、「わたしの掟」と言われているのは、13章の34節で語られていた掟です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」。「互いに愛し合う」と言うと、私たちは、先ず男女の恋愛関係を想像するかもしれません。しかし、ここではもっと広く、全ての人々との間に結ばれる関係が見つめられています。そして、13章では、愛に生きる姿勢の見本として、主イエスが弟子たちの足をお洗いになったことが記されていたのです。それは、僕となって仕えることを意味し、具体的には、罪を担い合い赦し合って行くことが愛として見つめられていたのです。つまり、聖霊が働く所には、必ず、主イエスに倣い、互いに罪を赦し合う共同体が生まれて行くのです。
 私たちは、罪を赦すことがなかなか出来ない者です。むしろ、お互いに人々を裁きながら歩んでいるのです。私たちが隣人の罪を赦すよりもむしろ裁きながら歩んでいることの背後には自分自身の罪も深く関係しています。私たちが隣人を裁く時に、その隣人の姿の中に自分自身の罪の姿を見つめていると言う側面があるからです。隣人の姿に嫌悪感を覚え、それを裁く時は、自分自身の内に秘めた嫌な部分を、周囲の人々の振る舞いの中に見出す時であったりしあます。又、心の中に密かに持っている願望や欲望を自分の信念で自制している時に、隣人が、そのことを何のためらいもなく、欲望のままに行っている姿を見る時だったりするのです。そのような時、私たちは、周囲の人々を受け入れ、愛することよりも、拒絶し裁いてしまうのです。自分にも同じ罪があるのにも関わらず、それは棚に上げて、隣人を心の中で裁いている。そうすることで、自分は周りのあの人、この人よりもまだ善いと思ったりするのです。そのような所には、聖書が言う意味での愛の交わりが生まれることはありません。ただ、聖霊の働きの中でキリストを知らされる時、即ち、キリストによる真の罪の赦しが知らされる時に、私たちは自分自身の罪が赦されていることを知らされ、隣人も又、その赦しにあずかっている者であることを知らされます。そして、キリストと結ばれて、自らが赦された罪人であることを受けとめる所に、罪人である人間同士しが、愛によって結ばれ、本当に赦し合いながら歩む歩みが生まれるのです。

神への愛と隣人への愛
 この愛について、21節以下で詳しく展開されて行きます。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」。主イエスの「掟」、即ち隣人を愛することは、主イエスとの愛に生きることであり、それは、父なる神様との愛に生きることなのです。そして、隣人を愛する人には、キリストが現されると言うのです。この言葉に対して、「イスカリオテでない方のユダ」と呼ばれる弟子が問いかけます。「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」。ユダは、弟子たち、すなわち信仰者のみにキリストが現されることは何故かと問うたのです。これに対して、主イエスは、明快にお答えになりません。これまで語って来たことに続けて、次のようにおっしゃるのです。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである」。ここで何より注目したいことは、21節では、主イエスの掟を守る人は、主イエスを愛する者だと言われていたのに対し、23節では、主イエスを愛する人は、主イエスの言葉、即ち掟を守ると言われているのです。つまり、ここには、主を愛することと隣人を愛することは一つであり、どちらかを優先することは出来ないと言うことが見つめられているのです。21節では、隣人愛に生きる者は、それによって主を愛すると言われていたのですが、それは、隣人愛と言う善行つむことで、私たちは主イエスを愛し、それによって主イエスからも神様からも愛されると言う御利益が得られると言うのではありません。むしろ、23節にあるように、主イエスを愛することなくして、本当に隣人愛に生きることは出来ないのです。私たちが神様を愛する時にのみ、本当に隣人を愛する者とされるのです。聖霊の働きの中で、神と隣人を愛する所に、隣人と神様両方との間に愛の関係が結ばれて行くのです。

教会の交わりの中で
 ここでは、神様との愛の関係が隣人との愛の関係と重ね合わされています。聖霊が働く時、私たちは、キリストと結びつき、神様とも結びつきます。それ故、信仰とは、単なる知識ではなく、具体的なキリストとの交わり、愛に生きることなのです。そして、そのキリストとの愛と言うのは抽象的なものではなく、キリストが愛された隣人との愛という仕方で、この世に具体的な形を持つのです。そのようにして形作られる共同体こそ、主イエス・キリストの体である教会です。聖霊の働きの中で、人々がキリストと結ばれ、それによって、人と人が結び合わされる所に教会が建てられるからです。教会は聖霊の働きが生み出す愛によって形作られていると言うことが出来るでしょう。教会は、地縁や血縁、さらには人間的な親しさと言った、人間が結び合う諸々の要素によって結ばれているのではありません。聖霊の働きの中で、神と人とに結ばれた者たちが集められているのです。使徒信条で、聖霊への信仰を告白している箇所を思い起こしたいと思います。「われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信ず」、聖霊を信じるとは、教会を信じることです。そこに、神に選ばれ、罪赦された者たちの聖徒の交わりがあることを信じることです。そこには、本当の罪の赦しがあり、それ故に永遠の命に通じていく確かな道があることを受けとめることが出来るのです。共に、弁護者なるキリストに結びつき、真の命にあずかって生きる教会の群れを形作るものとして歩み出したいと思います。

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