主日礼拝

復活の希望によって

「復活の希望によって」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 出エジプト記 第22章27-29節
・ 新約聖書; 使徒言行録 第22章22節-第23章11節

 
主の復活の記念日

 私たちは今日、この日曜日に、教会に集い、共に礼拝を守っています。先週の日曜日は1月1日、元日でした。その元日にも教会は礼拝を守りました。元日だろうと大晦日だろうと、日曜日に、教会は礼拝を行うのです。それは、この日曜日に、主イエス・キリストが復活されたからです。主イエスの復活を記念し、感謝して、教会は日曜日に礼拝を守ってきたのです。日曜日が休日だから集まって礼拝をしたのではありません。順序は逆です。教会が迫害に耐えつつ300年にわたって日曜日に礼拝を守ってきたから、キリスト教を公認し、逆に国教にしていったローマ帝国において、日曜日を休日とすることが決められたのです。教会は日曜日のことを古くから「主の日、主日」と呼んできました。それは「主の復活の日」ということです。キリストの復活を祝う祭りはイースターですが、実は毎週の主の日、日曜日が、小さなイースターなのです。私たちは主の日の礼拝において、毎週、主イエス・キリストの復活を喜び祝っているのです。

キリストの復活の喜び

 私たちの信仰における最大の喜びは、キリストの復活です。先日クリスマスにおいて祝った、主イエスの誕生も勿論喜びです。主イエスがみ言葉とみ業によって様々なことを教え示して下さった、それも喜びです。主イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことも、心震えるような喜びです。しかし主イエスの復活は、それら全ての喜びを根底から支える、喜びの中の喜び、喜びの土台なのです。それは何故でしょうか。主イエスの復活が最大の喜び、全ての喜びの土台であるのは何故なのでしょうか。このように思っておられる方がいるかもしれません。イエス・キリストの復活は自分にはどうもよく分からない、半信半疑だ。でも、聖書を読み、礼拝で主イエスの教えやみ業のことを聞くことは自分にとって喜びだ。復活は抜きにしても、聖書から十分喜びを得ることができる…。そのように思っている方がおられるなら、その方に申し上げたいのです。「あなたの喜びはまだ小さい。あなたはまだ、信仰における本当の喜びを知らない」。主イエス・キリストの復活抜きの喜びは、たとえそれが聖書から、礼拝から与えられていても、独り善がりの自己満足に過ぎません。その喜びは、自分が喜べる状態にいるから喜んでいるに過ぎないのであって、困難や苦しみに打ち勝つ力を持った喜びではありません。ましてや、死の力に打ち勝つ喜びではあり得ないのです。死は、私たちのこの世の人生における全ての営みを括弧でくくって、その前につけられているマイナス符号のようなものです。私たちが自分の人生において、つまり括弧の中で、どんなに頑張ってプラスの要素を沢山作り出し、喜びを沢山得たとしても、その全てをマイナスに変えてしまうものが、括弧の外側にあるのです。それが死です。括弧の中のプラスが大きければ大きいほど、括弧の外のマイナス符号によって、最終的にはマイナスの値が大きくなってしまうのです。括弧の中だけでものを考え、努力し、自分には喜びがある、と思っていても、それは最終的には通用しない、独り善がりの自己満足に過ぎません。この括弧の外のマイナス符号である死を打ち破るものでなければ、本当に力を持ち、私たちの人生を支える喜びとは言えないのです。それが、主イエス・キリストの復活です。キリストの復活は、父なる神様が、十字架にかけられて死んだ主イエスを復活させて下さったという出来事です。つまり、父なる神様が、死の力を打ち破り、主イエスに新しい命を、復活の命を与えて下さったのです。神様の恵みが、死を滅ぼし、あのマイナスを塗り消して下さったのです。そこにこそ、喜びの中の喜び、人生を支える喜びがあるのです。

復活を信じるとは

 しかし今こう思っておられる方もいるでしょう。「キリストの復活が事実であるという前提に立って話が進められているが、そもそもそれが事実だったのかどうか、自分はそれにひっかかっている。死んだ者が復活するなど、常識では考えられないことだ。常識外れだからといって直ちに嘘だと決めつけるつもりはないが、もう少し、これが事実だったということを納得できるように示してほしい。あるいは、このように考えればキリストの復活を違和感なく受け止めることができる、という『考え方』を教えてほしい。その上で、キリストの復活こそ喜びだ、と言ってもらわないと、何でも素直に信じることができる、言っては悪いがおめでたい人はともかく、少し懐疑的な、要するに普通の人である私のような者は話について行けない」。そういう気持ちはよく分かります。しかし、敢えて申しますが、だからこそ、キリストの復活の喜びを先ずしっかりと見つめていくことが大事なのです。キリストの復活を信じるとは、それが歴史的な事実であったと認めることとは違います。それが歴史的事実だったか否か、という目でいくら聖書を読んでも、あるいは他の史料に当っても、決して満足のいく答えは得られません。客観的に言えば、キリストが復活したという決定的証拠もなければ、逆に復活しなかったという決定的証拠もないのです。キリストの復活が分かるというのは、それを歴史的事実と確認することではなくて、キリストの復活によって与えられる喜びに生きることです。信仰は、単なる知識ではありません。私たちの生き方がそれによって変えられるもの、喜びを与えられ、導かれていくものです。主イエスの復活を信じることも、それによる喜びに生きること抜きにはあり得ないのです。ですから、キリストの復活がよく分からない、という人は、キリストの復活によって与えられる喜びをこそ、もっと深く、聖書のみ言葉から学んでいく必要があるのです。この喜びが本物だということが分かれば、復活も分かります。逆に言えば、たとえ復活を歴史的事実だと信じていたとしても、それがその人の本当の喜びになっていないならば、復活など信じても何にもならないのであって、信じていないのと同じなのです。ですから、復活を信じるか否かは、常識離れした話を素直に信じるおめでたい非科学的な人間か、それとも納得するまでは受け入れない懐疑的な、あるいは科学的な人間か、という問題ではないのです。復活を信じるか否かは、私たちの人生を支える本当の喜びとは何なのか、という問題なのです。

パウロの弁明

 さて、本日の聖書の箇所である使徒言行録とは全く関係のない話をしているように思われるかもしれませんが、そうではない、ということは、23章6節を読んでいただけば分かります。このようにあります。「パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。『兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。』」。パウロはここで、「わたしは、死者が復活するという望みを抱いている」と言っています。この場面は、パウロがエルサレムの神殿でユダヤ人たちのリンチにあって殺されそうになり、身柄を保護されるような形で、ローマ帝国の守備隊に逮捕された翌日のことです。パウロを逮捕した千人隊長は、彼がローマ帝国の市民権を持つ者だと聞いて恐れました。当時、ローマ市民権を持つ者には様々な特別な権利が認められていたのです。そこで隊長は、ユダヤ人たちがパウロを訴えているのは何故なのかを調べるために、ユダヤ人の最高法院を召集し、パウロをそこに連れ出して、訴えの内容を聞こうとしたのです。23章の初めのところにあるように、そこにはエルサレム神殿の大祭司アナニアもいました。彼を代表とするユダヤ人の最高権威たちが今パウロを訴え、有罪を主張しているのです。パウロはその人々の前で弁明をする機会を与えられました。そこで彼は、自分が信じ、宣べ伝えていることの中心は何かをここで語っています。それが、「死者が復活するという望み」だと言っているのです。復活は、パウロにとっても、信仰の中心であり、命をかけて宣べ伝えている最も大事なことだったのです。

復活の望み

 パウロはここで復活を「望み」と言っています。先ほどは、キリストの復活こそ喜びだと申しました。喜びと望みは似たようなものであり、交換可能だと言えるでしょう。けれども違いもあります。望みは、将来に関わることです。「死者が復活するという望み」は、将来、自分自身が復活するという望みです。私たちは誰でも、いつか必ず肉体の死を迎えます。どんなに立派な人も、正しい人も、豊かな人もです。人生の括弧の外に死というマイナス符号が付けられているとはそういうことです。それに対して、死者が復活するとは、その死が私たちの歩みの終わりではない、ということです。人生の括弧の外に厳然としてあったはずのマイナス符号が打ち消される時が来る、ということです。パウロは、そういう将来の希望を見つめているのです。そしてその希望の根拠は、イエス・キリストの復活にあるのです。キリストの復活は、父なる神様が、主イエスを捕えた死の力を打ち破って、新しい命を、復活の命を与えて下さったということだと先ほど申しました。そのキリストの復活をパウロは、コリントの信徒への手紙一の15章20節で、「眠りについた人たちの初穂」と呼んでいます。初穂とは、その年の収穫の最初のものです。初穂によって、これから与えられる収穫の豊かさがわかるのです。そのように、キリストの復活は、眠りについた人たち、つまりいつか必ず死んでいく私たち自身に与えられる復活の恵みの初穂、先駆けです。キリストの復活を信じる者は、死の力を打ち破る力を持っておられる神様が、私たちにも、新しい命、復活の命を与えて下さることを信じて待ち望むことができるのです。キリストの復活は、それゆえに、喜びの中の喜び、私たちの喜びと希望の土台なのです。

冷静な判断

 パウロは、キリストの復活によって与えられているこの復活の希望に生きていたし、それを宣べ伝えていました。彼がどんな困難や苦しみ、命の危険にも怯むことなく伝道を続けることができたのは、この希望によるのです。彼の目は、地上の人生の営みという括弧の中だけを見つめていたのではなく、その外を見つめていました。その括弧の外にもともとあった、死の支配というマイナス符号が、キリストの復活によって打ち滅ぼされ、復活の命の約束というプラス符号に変えられていることを見つめていたのです。それゆえに、括弧の中がどんなに苦しみや恐れに満ちたものであっても、それによって絶望してしまうことがなかったのです。常に希望と喜びを失わずに歩むことができたのです。今彼が置かれている状況も、大変困難な、危機的な状況であると言えるでしょう。いかにローマ市民権を持っているとは言え、最高法院の議員たちが一致してパウロを死に値する者だとしたなら、千人隊長も、ユダヤの治安を守るために彼を処刑してしまうかもしれません。彼はもはやローマ帝国の囚人なのですから、その運命はこの隊長や彼の上司である総督の手に握られているのです。そういう命の危険の中で彼はしかし全く動じていません。23章5節までの大祭司アナニアとのやりとりにもそのことが現れています。5節で彼は「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした」と言っています。目の前にいる人が大祭司だとわからないなどということはあり得ないでしょうから、これは彼の皮肉でしょう。神様の民イスラエルの指導者、代表者たる大祭司が、神様の救いの恵みを宣べ伝えている自分をこのように断罪し、裁こうとしているとはいったいどういうことか、それでもあなたは大祭司と言えるのか、という思いが、この言葉には込められているのです。また、彼はこの最高法院の議場の様子を冷静に見極めています。彼が「死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」と言ったことには、彼の冷静な判断に基づく策略が働いているのです。彼が見極めたのは、6節の初めにあるように、「議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って」ということです。ファリサイ派とサドカイ派は、どちらもユダヤ人の宗教的指導者層ですが、お互いに対立していました。その対立の一つの焦点が、復活の問題だったのです。8節にあるように「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである」ということです。パウロは議員たちの構成を見極めて、その対立を利用するために、「わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」と言ったのです。すると案の定議場はファリサイ派とサドカイ派の対立によって混乱しました。議場が一致してパウロを有罪とすることができなくなったのです。パウロは冷静な判断力と機転によって、この窮地を逃れたと言うことができるのです。

現世主義に抗して

 パウロが死者の復活の希望を語ったことには、このように議場を混乱させるための策略という面が確かにあるのですが、それだけではないでしょう。パウロはここで、ユダヤ人の最高法院の議員たちに、彼の信仰の中心である復活の希望をぜひ証ししたいと思ったのです。その思いは、サドカイ派の人々の存在によって刺激されたと言えるでしょう。サドカイ派は先ほど読んだ8節にあったように、復活とか天使とか霊を否定していたのです。それはつまり、人間の常識を超えた事柄を否定していたということです。彼らの目は、目に見える世界を超えた事柄には向けられておらず、徹底的にこの世の事柄に向けられていたのです。サドカイ派は徹底した現世主義者です。この世の人生という括弧の中だけで勝負しようとする人々です。このサドカイ派はエルサレム神殿の祭司たちを中心とする集団です。神様への礼拝を司る祭司が、目に見える世界を超えた事柄を否定する現世主義者である、というのは奇異なことのように思えますが、しかし宗教が現世主義に犯されてしまうことは私たちの周りにいくらでもあります。いわゆるご利益宗教は皆そうです。たとえどんなに神秘的な、荘厳な、摩訶不思議な儀式や祈祷が行われていても、そこにおいて見つめられ、求められていることは家内安全、商売繁盛、学業成就、病気快癒、といった現世的利益である、ということは多いのです。ご利益宗教の本質は徹底した現世主義です。現世においてどんなご利益があるかが勝負なのです。つまり、宗教と名のつくものならどれも、現世を超えた、人間の世界を超えた事柄を見つめていると思ったら大間違いです。この世の生活、この人生における幸福、平安、満足しか見つめていない宗教、信仰もあるのです。いやむしろその方が多いかもしれません。私たちの信仰だって、そのようになってしまっているかもしれません。私たちの信仰の目が、今のこの人生、この世での生活のことにのみ、つまりあの括弧の中のことだけに向けられていて、それを超えること、人生の全ての営みをくくる括弧の外にどのような符号がつけられているのかに目が向いていないならば、私たちの信仰も、ご利益宗教と何ら変わることがない、サドカイ派の信仰と同じだと言わなければならないのです。

復活の希望によって

 パウロは、今のこの人生のことしか見つめようとしない人々に対して、「死者が復活するという望み」を証しせずにはおれませんでした。そこにこそ本当の喜びと希望があるのだと声を大にして叫ばずにはおれなかったのです。この望みは、主イエス・キリストの復活によって与えられ、保証されています。私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストを、父なる神様は、復活させて下さいました。死の力を打ち破り、新しい命に生かして下さったのです。このキリストの復活によって、死はもはや私たちの最終的な支配者ではなくなっています。神様が与えて下さる新しい命、復活の命、もはや死に支配されることのない永遠の命が、キリストを信じ、キリストと結びあう私たちに約束されているのです。キリストを信じ、キリストと結ばれ、復活の希望に生きる者とされること、それが、洗礼を受けるということです。洗礼を受けることによって私たちは、主イエス・キリストの十字架の死にあずかって古い自分が死に、そしてキリストの復活にあずかって新しい命に生かされるのです。私たちの肉体はいつか死んで滅びていきます。この世の人生には限りがあるのです。しかし、その限りある、滅びていくこの肉体における人生が、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しと、復活による永遠の命の約束の下に置かれるならば、私たちは、死者が復活するという希望によって、この世の人生を、喜びと希望をもって精一杯生きることができるのです。キリストの復活は、私たちにこのような希望と喜びを与える決定的な出来事です。キリスト信者とは、主イエスの復活を根拠に、自らの復活の希望に生き、その希望の中で死ぬ者です。そこに、私たちの人生を支える本当の喜びがあります。その喜びは、苦しみや悲しみにおいても、そして死においても私たちを支え、慰め、導いてくれます。それこそ喜びの中の喜び、喜びの土台です。この根本的な喜びを知らなければ、人生におけるどのような喜びも希望も、最終的には虚しい自己満足に過ぎないものとなってしまうのです。逆にこの喜びが与えられているなら、人生の歩みにどのような苦しみ、悲しみがあっても、喜べるような状態が自分の中には少しも見出せないと思っても、私たちは希望を失わずに歩むことができるのです。

聖餐にあずかりつつ

 この後、今年最初の聖餐にあずかります。聖餐は、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストとの交わりを、主の体と血とを表すパンと杯にあずかることによって、体全体で深く味わう、主の食卓です。しかし私たちが聖餐において味わうのは、主イエスの十字架の死の恵みだけではありません。十字架につけられて死なれた主イエスは、父なる神様によって復活させられました。肉体をもって復活し、天に昇り、今は全能の父なる神の右に座しておられるのです。聖餐において私たちは、主イエスのこの復活の命にもあずかります。主イエスの体と血とにあずかることによって、主イエスの十字架の死による恵みにあずかるだけでなく、その復活による恵みにもあずかるのです。ですから私たちは聖餐にあずかることによって、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みを確認すると同時に、主イエスの復活によって、私たち自身の復活の希望が与えられていることを確認し、その希望を新たにするのです。洗礼において主イエスと結び合わされ、その死と復活による救いの恵みにあずかった者が、聖餐において同じ恵みを繰り返し新たに味わいつつ、苦しみや死に打ち勝つ本当の喜びの中で、復活への希望を抱いて歩む、それがキリスト信者の生活です。その喜びと希望を、この年も豊かに味わいつつ歩みたいのです。

関連記事

TOP