主日礼拝

命を命じる言葉

「命を命じる言葉」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 申命記 第18章15-22節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第12章44-50節
・ 讃美歌; 15、56、571

 
主イエスの叫び
本日お読みした箇所の冒頭、44節には「イエスは叫んで、こう言われた」とあります。主イエスが十字架につけられるために、エルサレムに入城し、最後の教えを語っている箇所です。そのような中、主イエスは、信仰の確信とも言うべきことを、世に宣言なさるようにして、お叫びになられたのです。主イエスは先ず、44~46節で次のようにおっしゃっています。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」。ここには、二つのことが語られています。一つ目は、主イエスは父なる神を示しておられる神の独り子であり、神と等しい方であるということです。もう一つは、その神の独り子である主イエスは、闇である世を照らす光として来られたということです。これは、ヨハネによる福音書において、主イエスによって繰り返し語られて来たことです。この福音書の中心的な主題と言っても良いでしょう。福音書の最初でも、これと同じことが語られていました。1章1節には、次のようにあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。ここで言とは、主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストが神と共にあったこと、神と等しい方であることが語られているのです。更に、4節には次のようにあります。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。この言、つまり主イエスは、命であり、光である。そして、光が暗闇の中で輝いていると語るのです。つまり、本日お読みした12章の44節以下には、この福音書の書き出しで語られ、これまでも度々語られてきた、ヨハネが見つめる福音の中心が、改めて力強く宣言されているのです。私たちは繰り返し、ここで語られていることを聞かなくてはなりません。なぜなら主イエスが繰り返し、お語りになるからです。そして、真の光を理解しない私たち人間が、その光に照らされて生きようとするのであれば、ただ繰り返し主イエスによって、神の独り子が光として輝いていることを示されていくしかないからです。

世の闇
ヨハネによる福音書は、神の独り子である主イエスが世に来られたことを、闇を照らす光として描きました。罪に支配された世を闇に、世に来られた主イエスを光にたとえたのです。世が闇であるという時、どのようなことが見つめられているのでしょうか。私たちは、様々な人間の悪事や、自分自身の惨めさ、社会に起こる不正義や不条理を思い浮かべます。しかし、闇ということで、漠然と、人間のエゴが渦巻き、様々な対立や争い、恐ろしい犯罪が起こる、救いようのない世界が見つめられているのではありません。もちろん、そのようなことも無関係ではありませんが、ヨハネによる福音書が世を闇という時、福音書が記された当時、教会が直面していた、もっと具体的な状況が念頭にあるのです。当時、最初は曖昧であった、キリスト者とユダヤ教徒の違いがはっきりして来ていた頃でした。そして、同じ民族であり、同じ旧約聖書を神の言葉としていながら、キリストを神の子と告白する者とそうでない者とが区別され、キリスト者がユダヤ人社会から追放されるということが起こっていたのです。ヨハネによる福音書において、世とは、具体的には、当時のキリスト者たちが置かれていた、ユダヤ人社会のことであり、それは、主イエスを神の子、救い主と認めない世界なのです。
主イエスを神の子と認めない世界とは、どのような世界なのでしょうか。それは、一言で言ってしまえば、真の神を指し示す主イエスを受け入れないが為に、人間がまるで自分が神であるかのように「裁く者」となって歩む世界です。ユダヤ人たちもキリスト者も共に、旧約聖書を重んじ、神の言葉としていました。しかし、そこには決定的な違いがあります。主イエスを神の子としない人々は、神の言葉を、それを守ることによって救いが得られる掟だと考えていました。所謂、律法主義という立場で、聖書が命じることを守ることによって救われるという信仰です。そして、そのような信仰の中で、神の言葉を用いて、人間が人間を裁くという態度が生まれて来たのです。事実、ユダヤ人たちの中の律法主義者と呼ばれる人たちは、自分たちのように律法を厳格に守ることが出来ない人々を裁いていたのです。そのような中では神の言葉は、人を裁くための規準となります。神の言葉も又、人間が、自ら裁き主として振る舞うための道具となってしまうのです。つまり、ここで闇である世とは、罪に支配された人間が、自ら裁く者として振る舞い、お互いに裁き合いながら歩んでいる世界のことなのです。

裁き主として歩む
それにしても何故、神の言葉を用いて、人間が裁く者となって歩んでいる世界が闇と言われるのでしょうか。それは、そのように歩むことが、私たちから命を奪うからです。裁くということは、罪に定めること、死に定めることです。つまり、裁きつつ歩む歩みは、隣人を殺しつつ歩むことであるとも言って良いのです。もちろん、実際に命を奪うという意味ではありません。自分の受け入れられない周囲の人の姿に直面する時に、それを罪であると定め、裁くということがあります。又、自分に対して、罪を犯した人を心から赦すことが出来ないということもあります。そのような中で、その人と自分との生きた関係を切断してしまうのです。
ただ隣人の罪を裁くだけではありません。自分自身の罪を自分で裁くということによって自らを死に定めるということも起こります。実際に、命を絶つということはないかも知れません。しかし、例えば、自分の人には言えないような醜い姿に直面して、自分自身を赦すことが出来ず、自らの罪意識に苦しむということがあります。自分で自分を受け入れることが出来ずに、自分自身を裁かずにはいられないのです。そのような歩みは、私たちから、健やかに生きる力を奪って行きます。
このような歩みは、キリスト者とされた人々も無縁ではありません。私たちも又、ヨハネによる福音書において世と表現されている世界で生きる者であり、その限り、裁く者として歩んでしまうことがあるのです。そのような中で、御言葉を、心のどこかで、人間を縛りつけている掟のように捉えてしまうことがあります。そこまで極端でなくても、聖書の言葉を私たちが生きる上での教訓を示すもののように捉えようとすることがあります。そのようなものとして御言葉を聞くことの背後には、御言葉によって自分自身を裁き、又、御言葉を用いて隣人を裁くという態度が潜んでいると言って良いでしょう。「聖書には、こう書いてある。この言葉に反して歩む、あの人は聖書に反している」とか、「私は、とても聖書に書かれていることを守ることが出来ない」というような思いを抱くのです。又、まだ、信仰を与えられていない方であれば、「とても、私は、聖書に即した敬虔な歩みなど出来ないから、洗礼は受けられない」という思いになるのです。これは、真の光を知らない者の態度です。本当の光を知らない時、御言葉を、裁くための道具としてしまう。しかし、それでは、主イエスの言葉を聞いていても、本当に主イエスを受け入れているとは言えません。

裁くためではなく、救うために
主イエスは、48節ではっきりと次のようにおっしゃっています。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」。私たちが御言葉によって、隣人や自分自身を裁いていたとしても、神と等しい方である主イエスの方は、はっきりと、御言葉を守らない者を裁かないとお語りになるのです。ここではっきりすることは、神の言葉、聖書の御言葉は、私たちが守らないといけないことを教えているのではないということです。主イエスの言葉を守ることによって救いが得られるのではないのです。
主イエスが私たちを「裁かない」とはどういうことでしょうか。それは、私たちに裁かれなければならないような罪がないということではありません。私たちは、神の言葉を受け入れることが出来ない者です。丁度、本日の箇所の直前の箇所には、主イエスを信じない者たちのことが記されていました。主イエスは神の独り子として、神様の栄光を表すしるしをなさって来たのです。しかし、人々は主イエスを信じなかったのです。その理由について、主イエスは43節で、次のようにおっしゃっています。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」。主イエスを受け入れず、神よりも人々から自分が誉められることのみを求めて歩んでいるのが人々の姿です。主イエスは、そのような、本来ならば裁かれなければならない者を、裁かないとおっしゃるのです。つまり、主イエスは、罪の中にある者を赦すというのです。なぜなら、主イエスは「世を裁くためではなく、世を救うために来たから」です。世に来て、その罪を十字架によって贖い、罪から解放することこそ、主イエスが世に来た理由だからです。つまり、神の言葉は、人を裁き、罪に定め、殺すものではなく、人を赦し贖い、生かすものなのです。

受け入れない者の裁き
それでは、主イエスにおいて、裁きとはどのような意味があるのでしょうか。続く、49節には次のようにあります。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」。先ほど見てきた48節と、この49節には、主イエスの言葉と裁きの関係が記されています。48節では、主イエスの言葉を「守らない者」がいても、その人は裁かれることはないと断言されていました。それに対して、49節では、主イエスの言葉を「受け入れない者」は、主イエスの言葉によって終わりの日に裁かれると言われているのです。私たちに求められているのは、神の言葉を守ることではありません。そうではなく、受け入れることです。それは、御言葉を掟にして、それに縛られて歩むということではなく、光として世に来られた方に照らされて歩むということ、その救いの中を歩むということです。そうでなければ、主イエスの言葉がその人を裁くと言うのです。ここで非常に面白い語り方がされていることに注目したいと思います。「裁くものがある」と言われているのです。これは、裁きを引きずっているというニュアンスがある言葉です。ここで語られていることは、主イエスの言葉を受け入れることが出来なかった人は、その罰として神の怒りを受けるというのではないのです。真の光に照らされて歩まない者は「裁き」から解放されていない。その人は、裁きを引きずって歩んでいるがために、終わりの日に真の命に与ることが出来ないというのです。与えられている救いの恵を無にして、自ら裁きを引きずって歩む人間の惨めさが語られているのです。私たちが主イエスという光に照らされて歩むことから離れてしまっている所に、救いの裏返しとして裁きがあるのです。

真の光の中で
神と等しい方として、神の言葉をお語りに主イエスは、私たちを赦しておられ、私たちを闇から救おうとしておられる、それ故、主イエスの言葉は、私たちを裁くものではないことを見て来ました。私たちの闇が、私たちを裁く者とし、神の言葉をも、裁くための言葉としてしまうのです。しかし、大切なことは、私たちが、神の言葉を裁くための掟にして、自ら様々な悪を判断している時に私たちが裁いているものは、聖書が見つめる根本的な罪ではないということです。聖書が闇にたとえる人間の罪とは、私たちがこれは罪だと判断し裁いていることではなく、まさに、そのようにして、人間が神に成り代わって、罪を判断し、自ら裁く者として歩んでいるという態度なのです。では、その根本的な闇、私たちの罪は、どのようにして私たちに示されるのでしょうか。ここで、主イエスが世に来たことが闇の中に輝く光として語られていることが私たちに示してくれることに注目したいと思います。それは、私たちが、本当に闇を知るのは、光によって照らされる時であるということです。闇しかない所では、そこが闇であると知ることは出来ません。闇が闇であることを知るのは、光がある時です。光がない真っ暗な部屋の中にいることを想像して見たいと思います。そこに蝋燭の火をともすと、その光が輝き、私たちを照らし出します。その時に、初めて、そこが闇であり、私たち自身も闇の中にいるということが分かるのです。私たちは、世の光である主イエスに照らされる時に、初めて自らの闇、罪の姿を知るのです。ですから、私たちは、自分が闇の中にいること、自分の罪を自分で認識し、そこから救われたいと願って、光りである主イエスを求めるのではありません。そうではなく光である主イエスが私たちの間で輝くことにおいて、罪を知らされるのです。具体的には、私たちの赦しのために、神の独り子が、十字架で私たちの受けなければならない裁きを受け、死ななければならなかったということの前で、私たちは、自分の罪がどのようなものかがはっきりと分かるのです。真の裁き主である神をも裁いて歩む者であり、そのような自らの罪は、神の死によってしか贖われないほどのものであったということを悟るのです。
度々耳にする、伝道方法に、神の裁きを強調しつつ、救いを語るというものがあります。Hellfire Preaching(地獄の業火説教)と言われたりします。裁きを語って恐れさせ、そこからの救いとしての主イエスを受け入れるようにと迫るのです。例えば、年末年始に繁華街で大きな音量で「信じないと裁かれ永遠の滅びに至ります」と宣べ伝えている人々を思い浮かべて見ればよいと思います。熱心に伝道をする姿勢に敬服しつつも、その語り方に疑問を抱くこともあります。主イエスは、果たして、そのようにお語りになったのだろうか。順序が逆なのではないかと思うのです。そのような疑問と共に、私たちも又、どこかでそれと同じように御言葉を捉えていないかと考えさせられます。私たちは、真の救い、赦しの光に照らされて、恵の中で本当の罪を知るのです。そして、赦されているという確かさの中で、私たちは真に悔い改めるのです。これは私たちにとっては喜ばしいことです。私たちが自分の罪を悟る時というのは、既に、赦されている時なのです。私たちが真に闇を知る時、私たちは既に、光に照らされ、救いの恵の中に入れられているのです。

私たちの信仰生活に潜む闇
しかし、私たちは、この救いの恵を理解せずに歩んでしまう者です。本当には光を理解していないと言っても良いでしょう。そのような時、本当の闇の正体が分からないままに、闇の中を手探りで歩むようになるのです。罪の本質は見えていない、しかし、自分を取り囲んでいる正体不明の混沌とした力の中で右往左往するということになる。そういう時には、必ず、神の言葉を掟、裁くための手段として聞いていると言って良いでしょう。御言葉を生かす言葉ではなく、殺す言葉として聞いているのです。そして、信仰生活を死に至らせるのは、まさに、御言葉を、救いを得るために命じられている掟として聞き、人間が裁くことによって罪に定める思いに支配されてしまう私たちを支配する闇によるものです。この闇は、私たちの誰もが闇と思うような暗い現実によって、私たちに迫って来るのではありません。むしろ、それが闇だとは分からないような形で、私たちの信仰生活に入り込み、私たちを支配するのです。
例えば、敬虔な信仰生活の背後に、この闇が潜んでいるということもあるでしょう。ある神学者が、キリスト教的な敬虔主義の背後には、罪意識の再生産があると語りました。そして、それは本当には信仰生活を健やかにしないのだというのです。もちろん、キリスト者にとって罪意識は大切なことです。又、敬虔な信仰生活が悪いと言っているのでもありません。しかし、そこに潜む危険を認識していないといけないでしょう。その罪意識がどのようなものかを知ることが大切です。それが、真の光の中で、赦されている恵の中で示されているのか、それとも、人間が裁く思いによって、罪に定めているものなのかをわきまえなくてはならないでしょう。もし、それが、真の光に照らされる中で知らされたものでないならば、それは、私たちを闇から解放し、悔い改めを生む罪意識ではなく、ただ私たちを苦しめ、生き生きと信仰生活を歩むことから遠ざけ、私たちから命を奪う罪意識と言わなければならないのです。 敬虔な信仰生活だけではありません。私たちが、謙遜という態度の中で、自らを卑下する時に、この闇に支配されていることはないでしょうか。又、教会の奉仕を喜びを持ってするよりも、むしろ、苦痛と感じてしまったり、周囲の人々に不平や不満を感じる時、この態度に支配されていないかを省みて見る必要があるでしょう。更には、主イエスの救いを知らない人々や、教会から離れてしまっている人々から、教会が清く正しい生活を送っている人々の集団であるかのように思われて、そのような人々に、教会の敷居を高く感じさせてしまっている現実の背後にも、この態度があるのかも知れません。

永遠の命の言葉
 そこには、闇の中で、裁き主として歩む私たちがいるのではないでしょうか。そのような私たちの現実に向かって、主イエスは繰り返し、神の言葉とはどのようなものなのかを示しておられるのです。49節以下には次のようにあります。「なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」。父の命令は、永遠の命である。ここで命令とは掟という意味の言葉です。主イエスは、ここで父なる神の真の掟、永遠の命、死を超えた命を命じておられるのです。それは、私たちが、自分の思いによって裁き、命を奪うために用いる掟ではありません。神が、主イエスによって、私たちの罪を赦し、死を超えた命を約束して下さっているということ示しつつ、命を命じる掟です。この神の言葉の故に、私たちは、真に、自らの罪を悔い改めつつも、真の命に生きるものとされるのです。そこで命じられている死を超えた命に支えられて歩む時、そこでは、もはや、裁く思いからは自由にされます。真の裁き主であられる主なる神に赦されている恵の中で、自ら裁く必要はないからです。心から自分自身と隣人を受け入れつつ、喜びをもって歩む者とされるのです。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」。絶えず、真の光である主イエスに照らされて、命を命じる言葉に聞きつつ、主イエスによって与えられる命に生き始めたいと思います。

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