主日礼拝

見えるものとされて

「見えるものとされて」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; エレミア書 第20章10-13節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第9章13-34節
・ 讃美歌 ; 17、275、448

 
はじめに
 2006年最後の主日礼拝を、共に守れますことを感謝しています。この時期、私たちは、自らのこの年の歩みを振り返ります。それぞれが主の年2006年の歩みの中で様々な経験が与えられました。そこには、信仰生活における成長というものもあったのではないかと思うのです。信仰というのは、神様から与えられるものです。しかし、それは、ただ一度、瞬間的に悟りが与えられるというようなものではありません。突然、天から降ってきたように啓示が与えられて、目が開かれて、全てを見通せるようになると言ったものではないのです。私たちがこの世で与えられた時間を生きています。その時間を生きる歩みの中で信仰が成長していくということを経験します。先週私たちはクリスマスの礼拝を守りました。主イエスが神の下から来られたことを覚えたのです。聖書が語る、信仰というのは、この世を歩まれたナザレのイエスを、神のもとから来られた方として、自らの救い主と受け入れることです。そして、信仰者の歩みは、主イエスがこの地上を歩まれたように、私たちもこの世の生活を歩む中で、主イエスをより深く受け入れ、主イエスに似たものとされながら、主イエスを映し出して行くものとされるのです。そのようにして、神が始められている業に用いられていくのです。

盲人の癒しに続いて
 本日お読みしたヨハネによる福音書9章も、信仰の成長が語られています。ヨハネによる福音書9章は全体で一つの物語です。おそらく福音書に出てくる物語の中でも最も長い物語であると言って良いでしょう。前回は、その最初の部分をお読み致しました。そこには、生まれつき目が見えなかった人の目が開かれるという出来事が記されていました。主イエスが、通りすがりに、生まれつき目が見えない人を見かけられます。弟子たちは、どうしてこの人は生まれつき目が見えないのか、本人が罪を犯したからか、それとも両親が罪を犯したからかと目が見えないことの原因を尋ねます。それに対して、主イエスは、「神の業がこの人に現れるためである」と目が見えないことの目的を語ります。そして、この人の目に泥を塗り、シロアムの池で洗うように言われます。言うとおりにすると、この人の目が開かれるのです。ここで、目が開かれるというのは、ただ肉体的に目が閉ざされていた人の視力の回復ということだけを意味するのではありません。主イエスが語る「神の業が現れる」というのは、肉体的に盲人の目が開かれるという驚くべき奇跡のことを言っているのではないのです。むしろ、ここでは、信仰的に目が開かれるということが見つめられているのです。生まれつき目が見えないというのは、闇の中にあるということです。ヨハネによる福音書は、「わたしは世の光である」と言われているように、この世を、闇として、主イエスを闇の中に来られた光として描いています。目が開かれるというのは、この神の下から来られた光である主イエスを見いだすことを意味しています。主イエスを自らの救い主としてあがめるようになるということです。実際に肉体の目が見えていたとしても、主イエスとの出会いが与えられるまで、人間は皆、生まれつき目が見えない者なのです。目が開かれることによって、信仰が与えられ、世の光としての主イエスを見いだすのです。そして、主イエスを見いだすものは、主イエスを示すものとされていくのです。そのことによって、神の業が現されるのであり、そして、そこにこそ、信仰者の成長があるのです。

世との対立
 生まれつき目が見えない人が見えるものとされて帰って来た時、この人が経験したのは、それまで置かれていた社会との対立でした。近所の人々や、かつて彼が物乞いであったことを知っている人々は、見えるようになったという事実を共に喜ぶことをしませんでした。この人が本当にかつて物乞いをしていた人なのかどうかを議論し、どのようにして目が開いたのかということを問い始めたのです。この問いに対し、この人は「わたしがそうなのです」と答えた上で、イエスという人によって目が開かれたことを語るのです。人々は、この人を当時の宗教的指導者であるファリサイ派の人々の下へと連れて行きます。そして、「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか」と問い始めるのです。イエスとはいったいどのような方として捉えているのかと問うのです。この人の姿は、目が開かれ神の救いの業を見いだすようになった者が誰しも経験することを示しています。キリスト者はこの世を歩む中で、イエスとは一体どのような方なのかという問いがなされる中で、自分たちが置かれた社会との対立を経験します。もちろんキリスト者として世を歩む人の中には、それ程、この対立を感じないという人もいるでしょう。置かれた社会や時代の状況によっても異なります。キリスト教社会でない日本において生活する私たちにとって、このことは理解しやすいことではないかと思います。日本にも、反キリスト教的な風土があります。時代によっては、それが激しく現れて、社会との対立が起こります。安土桃山時代にキリスト教が一時活発になり、キリシタン大名が生まれますが、豊臣秀吉による弾圧が行われます。江戸時代の初期から寺請け檀家制度などによりキリシタンへの弾圧がますます激しさと徹底差を増していきました。踏絵によって信仰が試され、五人組といった、互いにキリシタンかどうかを監視し、密告する制度がしかれました。内心の自由が強制的に犯されて、信仰を持っていることによって弾圧がなされたのです。長崎を始めとして、様々な場所にキリシタン殉教の碑があり、迫害と弾圧の歴史があったことを伝えています。又、明治になってからは西欧列強の監視の目があるのでキリスト教への大々的な弾圧や迫害はないにしても、国家神道と教育勅語による国民教化が展開され、キリスト教は様々な圧力を受け続けました。教育勅語が発せられた翌年、一高で起こった内村鑑三による不敬事件は象徴的な出来事であったと言えるでしょう。現代においては、憲法において信教の自由が保障されていて、表面的に弾圧が起こるということはありませんが、日本社会、文化との間にある緊張と対立がない訳ではありません。家族からキリスト教の洗礼を受けることを反対されるということはよく起こることです。家を重んじ、異質なものを嫌う社会にあって、自分だけキリスト者として生きるというのは、困難も伴います。置かれている社会の現場や、隣人とのつきあいの中で、自分がキリスト者であることを公言しにくい場合もあるでしょう。しかし、このことは、世にあって聖書の福音基づき、信仰によって生きようとする時に誰しも多かれ少なかれ経験することであるのです。

両親とのやりとり
ユダヤ人たちは、目が開かれて帰って来た人の言葉を聞いただけで、前に物乞いをしていた人本人であると信じません。そして、ついにこの人の両親まで呼び出し、この者が、お前たちの息子で、元々は目が見えなかったのか、又、どうして見えるようになったのかと尋ねるのです。両親は、「これがわたしの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもには分かりません。本人にお聞き下さい。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」と答えるのです。ここで両親は、一見、最もらしいことを言っています。しかし、それに続けて、「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである」とあります。ここには、自分の子をかばう気持ちはありません。むしろ自分の身を守ることに必死になり、我関せずと言った態度を取ったのです。
おそらく、この両親は、かつての息子と今の息子の変化を誰よりも、良く分かったのではないでしょうか。しかし、両親は、主イエスによって目が開かれていない。だから、イエスを主とすることが出来ないのです。もしかしたら、息子の目を開いた方が救い主なのかもしれないとの思いを抱いたかもしれません。しかし、ユダヤ人達の問いに対して、自ら何かを返答することを避けるのです。「ユダヤ人は既に、イエスをメシアであると公に言い表すものがいれば、会堂から追放すると決めていた」からです。ここで、会堂から追放するというのは、ユダヤ社会からの追放を意味します。 この箇所は、ヨハネによる福音書が記された時の状況を示しています。ヨハネによる福音書は他の福音書より遅く記された福音書です。キリスト教がユダヤ教の一派ではなく、明確にユダヤ教とは異なるものとして認識されるようになって来た紀元90年代以降に記されたのです。そして実際、その頃になるとイエスをメシア、すなわちキリストとする者は、ユダヤ社会から追放されるということが起こっていたのです。両親の恐れとは、当時の人々が実際に経験していた、それまで属していた社会から追放されることへの恐れだったのです。

もう大人ですから
「もう大人ですから」という、両親の思いは、自ら信仰を告白してほしいという思いではありません。この文脈において、この言葉は両親が自らの返答を避けるための言葉として語られています。しかし、ここで語られた両親の言葉には、私たちが主への信仰を現す時に忘れてはならない真理が示されていると言っていいでしょう。信仰を告白するというのは、両親の口ではなく、自ら、神と向かい合わされた一人の人格として主イエスを自らの救い主と告白することなのです。大人というのは、成熟を現す言葉です。年齢がいくつであるとか、成人しているということは別にして、信仰において成熟する、大人になるということがあります。それは、自らの置かれている世の関係の中にありつつも、それを超えたところにある、神様との関係を知らされ、その方を主として歩むようになるということです。その時、信仰的な意味で本当に大人となるのです。 先週のクリスマス礼拝では、一人の教会員のお子さんが幼児洗礼の恵みに与りました。両親の信仰によって、両親と共に、神の前に立ち洗礼を受けたのです。このことは大きな喜びですが、私たちは幼児洗礼を受けたお子さんが将来一人の大人として自らの口で信仰を告白することを願っています。一人の大人として、神様の前に自らの足で立ち、信仰を告白する時が与えられたならば、それはさらに大きな喜びになることだと思います。何より、幼児洗礼を希望された、ご両親が、そのような信仰の成長が与えられることを願っておられるでしょう。私たちもそのことを祈りつつ歩まなくてはなりません。両親の信仰によって洗礼を受け、教会の中で育まれる者も、やはり、自ら神の前に立ち、主イエスを自らの主と告白するのです。そこでは、両親からも独立した一人の人格として立つということが起こるのです。そのような大人となることを祈り求めるのです。

神のもとから来られたのでなければ
目が開かれた人は、人々の問いに対して、徐々に明確に答えて行くようになります。人々から、問われる中で、最初の内は、この人は、「あの方は預言者です」と答えています。預言者とは、神の言葉を語るものです。しかし、神のもとから来られた救い主ではありません。主イエスが神のもとから来られた方であることを明確には語らないのです。その後、両親からも納得がいく答えを聞き出せなかったユダヤ人たちは盲人であった人をもう一度呼び出します。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と問うのです。この人は、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と語ります。自分が見えるようにされた事実を語るのです。さらにしつこく問う人々に対して、この人は遂に、「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と答えるのです。主イエスを、神のもとから来た方と語るのです。信仰者の歩みにおいて、置かれている世との対立の中でかえって自らの信仰が明確化されていくということがあるのです。徐々に深く、主イエス・キリスト知らされていくのです。
ここで、ファリサイ派の人々や、近所の人々も、主イエスがなさった業を見ているのです。しかし、それが受け入れることが出来ないのです。しつこく問いただす人々に、この人は、「もうお話したのに、聞いて下さいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と答えます。人々は、どれだけ話しても、この人の話を聞くことをしないのです。聞いてはいても、その信仰の言葉を理解できないのです。それは、この人々が、自らを主として歩み、主イエスの弟子になることを拒んでいるからです。事実起こっている、主イエスの救いの業を真っ正面から受け止めて、その出来事を受け入れることができないのです。一方で、そのような人々の中で、この人は、試みられることを通して自らの主イエスに対する信仰を明確にしていきました。世との対立の中で、自らが出会った方が誰であるかが見えてくる。そして、キリストを否定しようとしながら尋問してくる人々の中で、ただ一人力強く、主を証したのです。試みを受ける時こそ、信仰を告白するものとされたのです。自分たちは見えていると思っている人々の問に答えていく中で見えない人が見えるようにされて、証の器として用いられていくのです。ここには、少しずつ、信仰が成長し、キリストを明確に現すものとされていく姿が示されています。神の業が現されるというのは、このようなことを意味しているのです。

神殿からの追放
 この言葉を聞いた人々は「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようとするのか」と言い返して、彼を外に追い出します。信仰が与えられる時、私たちは、神と向かい合う一人の個人として、信仰を言い表します。その時、私たちは、自分たちが置かれた世から追い出されるということが起こります。私たちは、実際に追放されるということはないでしょう。しかし、信仰が与えられイエスが主であるとの告白がなされる時、地縁、血縁というような横の関係から切り離され、故郷を地上のどこかではなく、天に持つ者とされます。神様と私という縦の関係の中に立たされているのです。それは、神の前に立つ一人の自由な人格として成熟した大人となるのです。それは他でもなく主イエスの後に続くことを意味しています。9章に入る直前の8章の最後には、「アブラハムが生まれる前からわたしはある」と語った主イエスに向かってユダヤ人たちが、石を投げようとしたことが記されています。そこで主イエスが神殿から出て行かれたことが語られていました。主イエスも神殿を後にされたのです。主イエスの歩みは、自分たちこそ見えていると思っている人々の罪によって追い出される歩みでした。主の弟子となるというのは、この主イエスの歩みに続くものとなることです。そのような者は、自らを主として、見えるものとして歩もうとする人々の社会から追い出されるのです。キリスト者がこの世と隔絶した孤独の中に陥ることではありません。むしろそこで主イエスと新たに出会うのです。この人が、神殿から追い出された後、主イエスはもう一度この人と出会って下さいました。そこで主イエスの前で跪いて、「主よ、信じます」と告白をなすのです。
最近、人々のモラルの低下が叫ばれ、他人への迷惑を顧みず、ただ欲望のままに生きる人々の自分勝手に歩む思いが蔓延しているように思われます。かつての恥を知り、節操があり、公徳心のある日本人の姿がどこに言ってしまったのかと嘆かれます。このような現実の背後に、地縁や血縁と言った、人々を結ぶ絆が弱まっているということが言われたりします。共同体が崩れ、ただ際限なく拡大する欲望のままに生きる、個人主義が猛威をふるっているかに見えるのです。世から追い出されたキリスト者は、そのような中にあって、むしろ、自分勝手に歩むのでもなく、自らの意見と異なる者を排除するのでもなく、キリストを頭としてあがめつつ、共に神によって赦された一人の罪人として互いを受け入れ合うことによって歩むものとなるのです。そこに新たな共同体としての教会が建てられていくのです。神殿から追放されて教会を建てるものとされるのです。そこでなされる業がどんなに弱く、小さな業であったとしてもキリストを証するものとされるのです。

おわりに
信仰者は世から追い出されるということを経験します。しかし、それはキリストが歩まれた道を歩むものとされるということです。主イエスはこの地上を私たちと同じように年を重ねて歩まれました。その歩みによって、神の御心を現して下さったのです。キリスト者とされた者は、この主イエスと同じように、この地上の年月を歩む中で、キリストを示して行くのです。そこに、キリスト者の真の成長があるのです。この年、私たちの信仰が成長させられたことを感謝しつつ、新しい年も終わりの日を待ち望みつつ、主イエス・キリストを通して始められている神の業を現して行くものとされるよう願います。

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