クリスマス讃美夕礼拝

平和はどこに

「平和はどこに」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第11章 1-10節
・ 新約聖書; マタイによる福音書 第2章1-23節
・ 讃美歌 ; 259、258、262、267、261

 
クリスマスに平和の祈りを
 皆さん、教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。今日この教会にお入りになる時に、正面左側の壁に、大きな垂れ幕があったのにお気づきのことと思います。そこには、「クリスマスに平和の祈りを」と書かれています。本日のこの讃美夕礼拝を、皆さんとご一緒に、平和を祈る時としたいと願っています。
 世の中が、世界が平和であれば、わざわざ平和を祈る必要はないでしょう。しかし残念ながら私たちの生きている今のこの世界は、平和であるとは言えない状況にあります。イラクでは今も治安が回復せず、むしろ内戦状態が深まっています。その他にも、紛争のある地域がいくつかあります。戦闘やテロ行為によって人々が傷付き、死ぬということが、あちこちで日常的に起っているのです。そのようなことを聞くにつけ、私たちは平和を祈らずにはおれません。私たちの国には、この六十年間、戦争はありませんでした。私たちは平和な時代を生きています。けれどもその表面的な平和の陰で、「格差社会」と言われる現実が進み、殺人事件は日々起り、会社にも学校にもいじめや嫌がらせがあり、幼児への虐待も跡を断ちません。そのような中で、国の根本的なあり方も大きく変えられようとしています。つい先ごろ、教育の憲法と呼ばれる教育基本法が改正されました。防衛庁が防衛省に格上げされることが決まりました。戦後六十年、曲がりなりにも平和の内に歩んできたこの国が今大きく変わろうとしているのです。私たちはこれからどこへ行くのか、それは本当に平和を守り、築いていく道なのか、不安を感じずにはおれません。平和は、何もしなくてもいつもそこにあるものではありません。しっかりと守り、さらには築いていかなければならないのです。ですから平和を祈るのは、外国の人々のためだけではありません。私たち自身のためにも、この祈りは切実なものとなってきているのです。

平和はどこに
 平和を祈り求めつつ聖書が語るクリスマスの物語に耳を傾けていく時、私たちはそれが、決して平和な、メルヘンチックなお話ではないことに気付かされます。先ほど朗読されたマタイによる福音書の第2章はまさにそうです。特にその後半、13節以下には、ヨセフとマリアが、生まれたばかりの幼子イエスを連れて、遠くエジプトにまで逃げていかなければならなかったことが語られています。それは、ユダヤの王ヘロデが、イエスを殺そうとしていたからです。生まれたばかりのイエスと両親は、命からがら遠い国に逃れなければならなかったのです。これは明るく微笑ましい平和な話などではなく、つらい苦しい物語です。  ヘロデ王はなぜ生まれたばかりのイエスを殺そうとしたのでしょうか。それは、東の国から来た占星術の学者たちが、「ユダヤ人の王」の誕生を告げたからです。その知らせは彼を不安に陥れました。これを放っておいたら、将来自分の王座が脅かされる、と思ったのです。そこでヘロデは学者たちを、ユダヤ人のまことの王が生まれる所と預言されているベツレヘムに遣わして、新しく生まれた王を見つけ出させようとします。その子を今のうちに殺してしまうためです。ところが学者たちは、ベツレヘムで幼子イエスにお目にかかった後、天使のお告げによって、ヘロデのところには寄らずに、自分たちの国に帰ってしまいました。ヘロデは、新しく生まれた王を見つけることができなくなってしまったのです。大いに怒ったヘロデは、恐ろしいことをします。ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を一人残らず殺せ、という命令を出したのです。ベツレヘムの人たちに、突然、降って湧いたような苦しみが訪れます。兵隊たちがやってきて、何の罪もない幼い子供たちを次々に殺して回ったのです。クリスマスの物語の中には、このような悲惨な出来事が語られているのです。

不安
 この事を引き起こしたのは、ヘロデの不安でした。イエス・キリストの誕生の知らせによって、ヘロデの心は不安で満たされたのです。この新しい王によって自分は王位を追われてしまうかもしれない、という不安です。だから彼は、自分の身を守らなければ、と思ったのです。自分の身を守ろうという思いからは、憎しみと殺意が生じます。そして、自分を脅かす敵に対して、あるいは将来敵になりそうな人々に対して、攻撃をするようになります。攻撃は最大の防御だからです。また自分の身を守ろうとしている中で、敵がどこにいるのか分からないと、周囲の人たちが皆敵に見えてきます。あやしい人たちを皆敵と見なして攻撃し、殺すようなことも生じます。ヘロデの幼児虐殺はそのようにして起ったわけですが、同じようなことが、現代の世界においても行われているのではないでしょうか。2001年9月11日の同時多発テロ以後のアメリカの行動はまさにそうです。テロとの戦いを宣言し、先制攻撃をも辞さないと言ったのは、「また攻撃されるのでは」という不安の中で、攻撃は最大の防御だ、ということです。大量破壊兵器がある、との不確かな情報でイラクに攻め込んで行ったのは、あやしい者は敵だ、とする思いです。それはイエスを殺すために二歳以下の男の子を皆殺しにしたヘロデと同じ論理です。これら全ての源には、自分の身が脅かされているという不安があります。アメリカのことだけではありません。北朝鮮の核実験によって、日本でも、その脅威への不安がかき立てられています。今にも核ミサイルが飛んで来るのではという不安を煽るような発言もあります。だから日本も核武装を考えなければ、などと言い出す人もいます。そういう不安によって、憎しみが生じ、対立が煽られ、そのようにして平和が失われていくのです。クリスマスの物語に出てくるヘロデ王の姿は、私たちにとっても、決して他人事ではないと言わなければならないのではないでしょうか。

平和と喜び
 ヘロデは、不安に満たされ、怒り、憎しみ、殺意を燃え上がらせています。何よりも彼の心の中から平和が失われてしまっているのです。そのヘロデとは対照的な、平和と喜びに満たされている人々の姿が、同じこのマタイによる福音書のクリスマスの物語に描かれています。それはあの東の国から来た学者たちです。彼らは星に導かれて幼子イエスを見つけ出すことができました。10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。不安に満ちているヘロデとは対照的に、彼らは喜びに満ちあふれたのです。なぜ彼らは喜びにあふれることができたのでしょうか。次の11節にその答えがあります。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。彼らは、幼子イエスの前にひれ伏し、拝んだのです。これは、礼拝した、ということです。彼らは、イエス・キリストを礼拝したのです。礼拝するというのは、その方の前に膝をかがめ、ひれ伏すことです。それは、その方が自分の主人、王であって、自分はその方の僕であることを表す行為です。この学者たちは、幼子イエス・キリストを自分の主とあがめ、その僕となったのです。そのことによって彼らは喜びにあふれることができたのです。ヘロデが不安に満たされたのは、彼らとは全く反対だからです。彼は自分が王であり続けようとしています。「わたしも行って拝もう」と言っていますが、それは嘘で、本当は殺してしまおうとしているのです。彼は、ひれ伏して拝むことのできない人です。いや彼も、自分をユダヤの王と認めてくれたローマ皇帝の前に出たら、ひれ伏してへいこらするのです。そういう人間の権力の前ではいくらでも頭を下げるけれども、神様の前で、神様の遣わして下さった救い主を礼拝をすることはできない、しようとしないのです。それゆえに、彼は、喜びに満たされることができないのです。不安に満たされ、そして怒りと敵意と殺意に溢れてしまうのです。

キリストの僕となる
 幼子イエス・キリストの前にひれ伏して礼拝をすることにこそ、私たちの本当の喜びがあります。私たちはこのことをなかなか理解できません。礼拝をするとは、自分が主人であることをやめて僕となることだ。そんなところに喜びがあるとは思えない。僕になどなったら、束縛されて、自由に生きることができないではないか。それよりも、自分が王様になって、何でも思い通りにすることができる方が喜びだ、そういう喜びをこそ求めたい、と私たちは思うのです。それが自然なことのようにも思われます。けれども、本当に不思議なことですが、そのような喜びを追い求め、自分が王様になり、王様であり続けようとすると、私たちは喜びではなくてあのヘロデのような不安に満たされてしまうのです。怒り、憎しみ、妬みに支配されて、平和を失ってしまうのです。逆に、自分が主人であることをやめて、幼子イエス・キリストを礼拝し、神様の僕となって歩むところには、喜びが、平安が満たされていくのです。それは本当に不思議なことです。でも実はそれにはちゃんと理由があるのです。クリスマスにお生まれになったイエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった方です。聖書が教え、私たちが今この讃美夕礼拝で礼拝している神様は、ヘロデのように自分の目的のために罪のない幼子を殺すのではなく、むしろ反対にご自分の独り子であるイエス・キリストを、私たち罪ある人間の救いのために犠牲にして下さる方なのです。私たちはこの神様を礼拝し、その僕となるのです。この神様は、僕となる私たちをこき使って苦しめるような方ではありません。がんじがらめに拘束して息のつまるような不自由な生活をさせる方でもありません。むしろ私たちを本当に愛し、守り、支えて下さる方なのです。だから、この神様を礼拝し、僕となるところには喜びと平安が満ち溢れるのです。

平和の道具として
 この平安によって私たちは、ヘロデのように人々を苦しめ、平和を破壊していく者から、争いのある所に平和を築き上げていく者へと変えられていくのです。この後ご一緒に、アッシジのフランシスコのものとされている「平和の祈り」を祈る時を持ちます。プログラムの中の、258番の讃美歌の後にプリントしてあるのを御覧いただきたいと思います。前もって私が一度読んでおきます。

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

憎しみあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、

誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

慰められるよりは慰めることを、 理解されることよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。

わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、

自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。

 ここに語られているような、神様に用いられる平和の道具となることができたらどんなにすばらしいだろうか、と私たちは思います。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしをもたらす者となれたら、と願います。しかしこの祈りを読む時、私たちは同時に思うのではないでしょうか。これはすばらしいことだが、とても難しいことだ、自分にはとてもこんなことはできそうもない。特に最後の方の、「慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを」求めるというのは、何と困難なことか。それが私たちの正直な感想ではないかと思うのです。この祈りを、私たちの努力目標のように考えたら、当然そういう感想が生まれるでしょう。けれども、この祈りには前提があるのです。それは、クリスマスに、神様がその独り子イエス・キリストを、この世に遣わして下さり、その独り子主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは罪を赦され、神様の愛と守りの中に置かれている、ということです。主イエス・キリストが、「慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを」求めつつ、私たちのために歩んで下さって、憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしをもたらして下さったのです。主イエス・キリストを礼拝することによって、私たちはこの神様の僕となって生きることができます。そのとき私たちの人生には、まことの喜びと平安が満ち溢れます。その喜びと平安の中で、私たちも、平和の道具となることができるのです。私たちが自分で努力してそうなるのではありません。神様が、私たちを平和の道具として用いて下さるのです。この祈りはそのことを願い求めています。つまりこれは、私を神様の僕としてください、という祈りなのです。イエス・キリストのみ前に膝まづき、神様を礼拝する中で、私たちは、自分が王様になろうとする思いを捨てて、神様の僕となるのです。すると、不思議な喜びが、平和が、私たちの心を満たします。そして、まことに貧しい器ですが、神様、私をあなたの平和の道具として用いてください、と祈る者とされるのです。

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