主日礼拝

言葉と力

「言葉と力」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; ネヘミヤ書 第8章9-12節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第4章14-21節
・ 讃美歌 ; 113、276、504  聖餐式76

 
キリストとの出会いを
 アドベントからクリスマスにかけては、「平和」というテーマでの説教をしてきました。本日から再び、コリントの信徒への手紙一の連続講解に戻りたいと思います。しばらく間が開いてしまいましたので、前のことを忘れてしまったかもしれません。ちなみに、礼拝の説教は、学校の講義とは違って、語られた内容を覚えていなければならないものではありません。忘れてしまってもよいのです。それは、説教は講義よりも軽い、重要でないものだ、ということではありません。目的が違うのです。講義ならば、その内容を理解し、記憶して自分の知識とすることが目的です。しかし説教の目的は、それが語られる礼拝において、私たちが、生きて働きかけていて下さる主イエス・キリストと出会うことです。その恵みを受け、慰めと励ましを与えられ、新しくされて歩み出すことです。要するに神様の救いの恵みにあずかる喜びの体験をすることです。そのことが起ればよいのであって、語られたことを覚えているかどうかは問題ではありません。恵みに満ちた礼拝を体験した、という記憶があればよいのです。本日は、2007年の最初の主日礼拝です。この新しい年も、礼拝において、生きておられる主イエス・キリストと出会う、喜びの体験を積み重ねていきたいと願っております。

心に刺さる言葉
 さて、コリントの信徒への手紙一ですが、これは使徒パウロが、コリントの町の教会に宛てて書き送ったものです。コリントの教会は、パウロの伝道によって生まれた教会でした。しかし今、この教会に非常に深刻な信仰的問題が起っています。教会の人々が罪に陥ってしまっているのです。パウロはそのことを見つめながら、何とかして彼らを正しい信仰に引き戻そうとしてこの手紙を書いています。ですからある意味ではこれは、読んでいて心が重くなるような手紙だと言わなければならないでしょう。書いているパウロ自身が、まことに重い気持ちの中で、必死になって相手を諭そうとしているのです。本日の箇所の冒頭の14節も、そのようなパウロの気持ちが表れ出ている所だと言うことができます。「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」とあります。「あなたがたに恥をかかせるためではない」。それは逆に言えば、パウロが語っていることは、コリント教会の人々の心にぐさりと突き刺さり、彼らを恥入らせるようなことだということです。そういうことを語っているけれども、それは決してあなたがたをいじめたり、やっつけたりするためではないのだ、と言っているのです。彼が語ってきた「こんなこと」とはどんなことでしょうか。すぐ前の所で彼は、コリント教会の人々の姿と、パウロを始めとする使徒たち、伝道者たちの姿とを比べてこのように語っていました。10節です。「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」。あなたがたと私たちとはこんなにも違う、と言っているのです。その違いはどこから来るのかが7節です。「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」。コリント教会の人々が、賢い者、強い者、尊敬される者となっているというのは、彼らが本当にそうなっているのではなくて、神様が恵みによって与えて下さったものを、自分のもの、自分の力で得たもののように思う高ぶりに陥っているということなのです。そのことが8節では、「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、私たちを抜きにして、勝手に王様になっています」と言われています。これはかなりきつい皮肉です。そのような彼らの姿と対照的なのが、パウロたち伝道者の、愚か者、弱い者とされ、侮辱されている姿です。あなたがたに信仰を伝え、教えた教師たちが、愚か者、弱い者、侮辱される者として歩んでいるのに、あなたがたが信仰によって豊かな者、強い者、尊敬される者となってしまっているのはどういうことか、それはあなたがたの信仰がどこかで間違ってしまったということではないか、パウロはそのように語ってきたのです。これは先にも申しましたように、コリント教会の人々の心にぐさりと突き刺さる言葉です。彼らは、我々は信仰によってこんなに豊かになった、と喜んでいたのです。そこに冷水を浴びせるようなことをパウロは言っているのです。しかしどうしてもこれを語らないわけにはいかない。このことを分かってもらわなければならない。このことが分からないと、彼らの信仰が決定的に間違ってしまう、そういう必死の思いでパウロは語っているのです。

愛する子として
 自分の思いを分かってもらうために、彼はここで、自分とコリント教会との特別な関係を思い起させています。私はあなたがたの父だ、あなたがたは私の子だ、ということです。先ほど申しましたように、コリント教会はパウロの伝道によって生まれたのです。パウロが去った後、いろいろな教師が来てこの教会を指導していきましたが、彼らの信仰の根本は、パウロによって植えつけられたものだったのです。15節に語られているのはそのことです。「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」。養育係というのは、当時のギリシャ・ローマの社会において、貴族の子どもたちのしつけや教育のために、多くは戦争で捕虜になった教養ある奴隷たちの中から雇われた者のことです。子どもたちの成長はそういう養育係の手によるところが多いのです。しかし、一万人の養育係がいたとしても、父親は一人です。コリント教会にとって、その父親に当たるのはパウロなのです。「わたしがあなたがたをもうけた」。「もうけた」というのは「生んだ」という言葉です。あなたがたを生んだのは他の誰でもない、私一人なのだ、私はその父親として、愛する子供であるあなたがたを諭している、そういう父親の言葉として私の語ることを受けとめてほしい、とパウロは言っているのです。

キリストの福音によって
 このような言い方は、下手をすると、人間的なつながり、絆によって相手を縛ろうとするようなことにもなります。君達と私とは特別な間柄ではないか、だから私の言うことをきいてくれ、とか、私の恩を忘れたのか、なんていうことになりかねないのです。それゆえにパウロはそこに、一つの但し書きを加えています。「福音を通し、キリスト・イエスにおいて」という言葉です。私があなたがたを生んだのは、福音を通して、キリスト・イエスにおいてのことだ。ここは原文の順序では、「キリスト・イエスにおいて、福音を通して」です。パウロがコリント教会の父であるのは、人間的なつながりによってではなくて、キリスト・イエスにおいて、のことであり、彼が福音を宣べ伝えたことによってなのです。イエス・キリストの福音こそが、パウロとコリント教会とを結びつける唯一の絆です。この福音が正しく信じられるために、彼はコリント教会の人々を父としての愛をもって諭しているのです。

私に倣う者になりなさい
 そこで彼が語り、勧めていくことは、「わたしに倣う者になりなさい」ということです。あなたがたは私の子なのだから、父である私に倣う者となってほしい、と言っているのです。今日、父親の権威の喪失が社会の大きな問題とされており、それはこのように「私に倣う者となれ」と言える父親が少なくなってしまったことに問題があると言われます。私自身も耳が痛いことなのですが、ただここでパウロが「私に倣う者になりなさい」と言っているのは、「私のように立派な、きちんとした、清く正しく強い者となれ」ということではない、ということを私たちは捉えておかなければなりません。「私に倣う者となれ」と言われているその私とは、先程の10節の私です。つまり、愚か者、弱い者、侮辱される者である私です。あなたがたはキリストを信じて賢い者、強い者、尊敬される者となっているが、私たちは愚か者、弱い者、侮辱される者となっている。その私たちのようになれ、とパウロは言っているのです。キリストを信じて生きる者が倣うべきパウロの姿とは、力強い大伝道者としてのパウロではなくて、自分の中には何の豊かさも強さも持たず、弱さ、貧しさの中で、ただひたすら主イエス・キリストの力に依り頼み、世間の人々から愚か者と思われ、侮辱を受けても、主イエス・キリストにつながり続ける、そういう姿なのです。ですから「わたしに倣う者になりなさい」という言葉は、パウロが自信に満ちていることの表れではありません。自信を持って生きているのはむしろコリント教会の人々の方なのです。そのように自信満々な人々に対して、自信を支えにして生きることをやめなさい、弱い者、何も持たない貧しい者となって、ただキリストの恵みにすがって生きる者となりなさい、と教えているのです。

テモテを遣わす
 17節には、パウロがテモテをコリントに遣わしたことが語られています。テモテは、パウロがコリントに来る前に、小アジアのリストラという町で出会った若い信仰者でした。パウロはこのテモテを伝道旅行に連れて歩き、コリントにおける伝道も彼と共にしたのです。コリントの人々もよく知っているこのテモテを、パウロはコリントに遣わしました。それは何のためかというと、17節後半にあるように、「至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」ということのためです。キリスト・イエスに結ばれた、これは先程の15節で「キリスト・イエスにおいて」と訳されていたのと同じ言葉ですが、キリスト・イエスにつながっているパウロの生き方をコリント教会の人々に思い起させる、それがテモテの使命です。コリントの人々が以前見て、知っているはずなのに忘れてしまっているパウロの生き方、弱い者、貧しい者、愚かな者としてひたすらキリストに依り頼んで生きる姿をもう一度思い出させ、そのような生き方をこそ見倣っていくべきであることを教えるのです。そのためにテモテが送られたのです。
 パウロがこの手紙を書いているのは、コリントからエーゲ海を挟んだ対岸の小アジアのエフェソであると思われます。エフェソからコリントへは、当時は大変な旅です。陸路を行くにはエーゲ海をぐるっと大回りしなければならないし、船で行くには季節を選ばなければならないでしょう。それに加えて、使徒言行録を読むと、エフェソ伝道においても、町全体を巻き込むような騒ぎが起ったりして大変だった様子が伺えます。そのような事情のゆえに、パウロは、なかなかコリントへ行くことができませんでした。このことが、コリント教会の人々とパウロとの間の溝を深める結果となったようです。パウロはもうコリントには来ない、という思いが広がり、それはある人々には失望を与え、ある人々には、コリント教会がパウロの影響から抜け出す絶好の機会と感じられたのです。18節の「わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです」という言葉には、そのような人々に対する怒りが感じられます。「どうせパウロはもうコリントに来やしないよ」と言っている者たちがいる。しかし、と19節「主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう」。パウロの、父としての愛による諭しを聞こうとせず、なお高ぶっている者がいる。つまり、信仰によってあくまでも豊かな者、強い者、尊敬される者となろうとする、あるいはそうなっているという自信に生きようとする者がいる。その者たちに対しては、いつまでもそのままにしておくつもりはない。主のみ心によって道が開けさえすれば、すぐにでもそちらに行ってはっきり決着をつける、とパウロは言っているのです。最後の21節には「あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか」とあります。つまり、どのような思いで私が次にコリントへ行くことになるか、そこで何をすることになるかはあなたがた次第だ、というのです。このようにパウロはコリント教会の人々に決断を迫っています。テモテを先に遣わすことの意味はそこにあります。いきなりパウロが出向いていったら、決定的な決裂が起ってしまうかもしれません。この手紙を書き送り、テモテを遣わすことによって、そのことを避け、コリントの人々によく考えて決断する時間を与えようとしているのです。つまりテモテを遣わすことはパウロの親心であると言うことができるでしょう。

言葉と力
 さていよいよ、本日の所で一番大切なことにふれていきたいと思います。パウロは、高ぶっている者たちに、「あなたがたの言葉ではなく力を見せてもらおう」と言っています。そして「神の国は言葉ではなく力にあるのだ」と言っています。これはどういうことなのでしょうか。「言葉ではなく力を見せてもらおう」というと、「あなたがたは口では偉そうなことを言っているが、実際何が出来るのか」というふうに捉えられがちです。パウロが言っているのはそういうことなのでしょうか。コリントの人々の高ぶりは、言葉において表れてきているものでした。彼らは、知恵を誇っていたということが1章に語られていました。知恵は言葉において表されるものです。1章17節に「言葉の知恵」とあることがそれを表しています。知恵と言葉はしばしば結びついているのです。2章1節にも、「優れた言葉や知恵」とあります。13節にも「人の知恵に教えられた言葉」とあります。コリントの人々は、知恵と言葉を誇っていたのです。信仰によって賢くなり、知恵に満ちた言葉を語ることができるようになり、自分の言葉に自信が持てるようになったのです。自分の言葉に自信を持っている人は、自分の言葉を聞く人々を集めようとします。そのようにして、党派、グループが生まれます。そして、自分の言葉とは違う他の言葉を批判攻撃するようになります。そのようにして、党派争いが起るのです。コリント教会に起っていたのはそういうことでした。その根本には、言葉における高ぶりがある、とパウロは見ているわけです。
 それでは、言葉ではなく力を見せてもらおうという時の力とは何でしょうか。それは、その言葉がどのような現実を作り出しているか、つまりその言葉の生み出している成果のことであると言えるでしょう。言葉から生まれる現実にこそ、その言葉の力が現れるのです。コリントの人々はどのような現実を作り出していたのでしょうか。それは、今申しましたような党派争い、仲間割れの現実でしかありませんでした。彼らの言葉は、そういう現実を生み出すのみだったのです。そこに彼らの語っている言葉の正体が見えてきます。主イエスが「木はその実を見ればわかる」とお語りになった通りです。このように、「言葉ではなく力を見せてもらおう」というのは、「あなたがたの言葉が生み出した現実を見せてもらおう」ということなのです。その現実を見れば、彼らが誇っている言葉の本質が明らかになるのです。
 さてそれでは、20節の「神の国は言葉ではなく力にあるのだ」とはどういうことでしょうか。私たちはともすればこれを、言葉だけではだめで、行動が伴わなければならない、というふうに受け止めてしまいがちです。しかしここでよく注意しなければいけないのは、「神の国は」と言われていることです。神の国とは神様のご支配という意味です。それは言葉にではなく力にあるのだ、と言われているのです。その言葉は、先程申しましたように、人間の知恵による優れた言葉、人間が自信を持つことができるような言葉です。神のご支配はそこにではなく、力にあるのだ、と言われているのです。それではその力とは何でしょうか。言葉ではなくて行動のことでしょうか。しかし、人間の言葉と行動とはそんなふうに区別できるものでしょうか。確かに、言うだけで何もしないのでは、その言葉は虚しいものです。しかし逆に、どう行動するかは言葉と無関係ではありません。私たちは、自分がよいと思うこと、なすべきだと思うことをします。その判断は言葉においてなされているのです。言葉なしに、つまり論理なしに、やみくもに行動するわけではないし、またそんなことがあってはなりません。私たちの行動は私たちの言葉の現れなのです。行動の伴わない言葉は確かに虚しいものですが、言葉の伴わない行動ほど危険なものはないのです。

神の力
 「言葉と行動」について語ってきましたが、もともとは、「言葉ではなくて力」と言われていたのです。その「力」を「行動」と理解してよいのか、というのがもう一つの問題です。特にここでは、「神の国は」言葉ではなく力にあるのだと言われているのです。この「力」が人間の「行動」ならば、神の国は人間の行動によってもたらされる、ということになります。しかし今だかつて、人間の行動によって神の国がもたらされたことはありません。神の国は、人間の言葉によっても、その言葉に伴う行動によってももたらされるものではありません。要するに、人間の力によってもたらされるものではないのです。神の国、神様のご支配は、神様の力によってのみもたらされるのです。ですから、「神の国は言葉ではなく力にある」という時の力は、人間の力ではなくて神の力です。その神の力はどこに示されているのでしょうか。それについては、この手紙の1章18節を思い出してみる必要があります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。神の力は「十字架の言葉」にこそあるのです。十字架の言葉は、人間の知恵による言葉ではありません。イエス・キリストの十字架の死を告げるこの言葉は、人間の知恵においては、愚かなもの、何の役にも立たないと思われるようなものです。しかしそこにこそ神の力がある、神様が私たちの罪を赦して下さり、新しく生かして下さる力がそこにこそあり、神の国、神様の恵みのご支配はそこにおいてこそもたらされているのです。「神の国は言葉ではなく力にある」とは、神の国は人間の言葉やそれに伴う行動によってではなく、イエス・キリストの十字架において示されている神の力によってこそもたらされるのだ、ということなのです。

私たちの本当の力
 そうするとそこにもう一つの問いが生まれます。この20節と、先ほどの19節の「あなたがたの言葉ではなく力を見せてもらおう」とのつながりはどうなっているのか、という問いです。あなたがたの言葉の持つ本当の力を見せてもらおうではないか、ということと、神の国は人間の言葉や力にはない、神の力にこそあるのだ、ということはどう結びつくのかということです。結論から言えば、キリストの十字架における神の力によってこそ、私たちは本当に力を発揮することができる、本当に新しい現実を生み出すことができる、ということでしょう。人間の知恵による言葉は、高ぶりを生み、争いを生むものでしかないのです。しかし神の国、神様のご支配は、その力は、人間の知恵の言葉にではなく、十字架の言葉にこそあります。その神の力こそが、私たちに本当の意味での力を与えるのです。それは、私たちが賢い者、強い者、豊かな者、尊敬される者となり、自分に自信を持つことができる力ではなくて、パウロのように、弱い者、貧しい者、愚かな者が、ひたすらキリストに依り頼んで生きる、そこに与えられる力です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、ネヘミヤ記8章の10節に、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」とありました。力の源は自分の中にはないのです。主イエス・キリストの十字架による救いを喜び祝うことにこそ、私たちの本当の力の源があるのです。この源から、豊かな力が湧きあがって、私たちの生活の具体的な現実を潤し、新しくしていくのです。そこには、自分の力によって、自分に自信を持って生きようとすることとは全く違う歩みが生まれます。私たちはともすれば、信仰によって、自分が賢く、強く、立派になって、自信を持って生きていけるようになることを求めてしまいます。信仰によって自分が強くなれば何かが変わると思ってしまうのです。しかしそれこそ、コリント教会の人々が陥った間違いです。私たちも、パウロがここで語っている言葉、心にぐさりと突き刺さる、冷水を浴びせられるような言葉を、自分に対する諭しとしてしっかりと聞かなければならないのです。そのことによってこそ、神の国、神様の恵みのご支配が、愚かな、弱い、罪人である私たちの現実の中に、力強く実を結び、具体化していくのです。

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