主日礼拝

真実なものの語り

「真実なものの語り」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 出エジプト記 第3章11-15節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第8章21-30
・ 讃美歌 ; 13、336、358

 
 主イエスの歩みは、証の歩みでした。ご自身を神の子として、この世に向かって指し示す歩みでした。祭りがある毎に、エルサレムに登り、人々に向かって語られたのです。そして、自分のなす証は真実であると言われるのです。真実な証とは何でしょうか。今日の箇所で主イエスは、「わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」と語られています。主をお遣わしになった方が真実な方であり、その方の聞いたことを語っているから真実であるというのです。
私たちも又、証をなします。しかし、その証言はどこか不確かなものです。ですから、この当時も、裁判における証言には、他者による証が求められたり、一人ではなく二人以上のものの証が求められたのでした。果たして、私たちは真実を語り得るのでしょうか。あるアメリカのある宗教社会学者が、一つの譬えを記しています。
真っ暗な夜、悪夢にうなされた子どもが目を覚ますと、今まで周りにあったものがよく見えず、恐くなって悲鳴をあげる。そうすると母親が電気をつけて、いつもと何も変わりないことを示して、そばに来て「だいじょうぶ」と子供をなだめて寝かしつけようとするというのです。しかし、この宗教社会学者は、次のように問うのです。「果たして世界はそんなに安心できるものであろうか。子どもが暗闇の恐ろしさを感じ、怯えるのは人生の本当の姿ではないだろうか。母親は『だいじょうぶ』と言う。母親は、嘘を言っているのではないだろうか」
深刻な問です。子供が夜中に目を覚まし、自分が置かれている世が暗闇であることに気づく、周りに何も見えず自分が置かれた場所が混沌としたものであることに気づくのです。子供だけの問題ではありません。ヨハネによる福音書は世を闇として描きました。この闇は、確かに、私たちの現実です。この問を前にして、私たちが思うのは、この「だいじょうぶ」という母親の言葉は真実であると言い切れないということではないでしょうか。どこか不確かさがつきまとうのです。それは、闇の中にある私たち人間が不確かなものであるからであると言って良いでしょう。しかし、主イエスは、この不確かな私たちの世で、真実なものとして証をしておられるのです。

ヨハネによる福音書は7章から、ユダヤの三大祭りの一つ、仮庵祭でのイエスと人々の議論を記しています。今日お読みした箇所は、丁度、この仮庵祭の最終日が終わりに近づいた時の事です。おそらく、祭りのためにエルサレムにやってきた人々も、それぞれ、エルサレムの神殿を後にし始めた頃であったと思います。主イエスはそのような時に「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われました。もちろん、主イエスは、ここで、祭りが終わったから神殿を去っていくということを言っているのではありません。ここで最初に、「また言われた」とありますが、主イエスはこの祭りの中において、以前にも、同じ事を語られています。7章32節以下ですが、ファリサイ派の人々が主イエスを逮捕するために下役たちを遣わしたすぐ後のことです。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」。ここで、主イエスは世を去って、自分をお遣わしになった方のもとへ帰るということが言われているのです。
他の福音書を読みますと、主イエスが十字架で死なれることを予告されたこと、それを聞いた弟子たちが理解しなかったことが記されています。この箇所には十字架ということは出てきません。しかし、主イエスは「わたしは去っていく」という表現で、ご自身が十字架に向かっていくことを記しているのです。
これを聞いた人々の反応は、全く見当はずれのものでした。「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのであろうか」と話すのです。最初に主イエスが「自分をお遣わしになった方のもとに帰る」と言われた時に、人々は、「ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人にで教えるとでも言うのか」と話ました。自分たちの考えで主イエスの言葉を判断して適当に解釈するのです。そのため、全く見当はずれなのです。ここに、世に属するものの限界があります。

このすれ違いのもとには、主イエスと人々との間の決定的な違いがあります。その相違を、主イエスの、次の言葉で表されています。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしは属していない。だから、『あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる』と、わたしは言ったのである。」
ここで、人々は、下のもの、世に属しているものとされています。そして、世に属するということが、ここでは、「自分の罪の内に死ぬことになる」ということと結びつけられているのです。今日お読みした箇所には、ほんの短い間に「自分の罪の内に死ぬことになる」ということが三度も繰り返し出てきます。世にある私たちがどのようなものであるかということをはっきりと示しているのです。それは「自分の罪の内に死ぬことになる」ものであるということです。それは、私たちが暗闇の中におり、光を理解しない。それ故に決定的に不確かなものであるということです。私たちは自分がどのようなものであるかを忘れたいがために、自分なりの、様々な偽物の光の下で憩おうとするのかもしれません。小さな慰めを探して世を歩むのかもしれません。しかし、私たちは誰しも、「罪のうちに死ぬことになる」という逃れられない現実を前にすることになるのです。私たちは、子どもが暗闇を前にした時とまったく同じ恐れを経験するのです。
一方で主イエスは、上のものに属しており、世に属していないということが言われています。ヨハネによる福音書は、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった、言葉は神であった。」と語り始めます。主イエス・キリストを神と共にあり、神と同じものである「言葉」として記しているのです。神の子である主イエスを罪の中にある私たちと対比させて示しているのです。

 しかし、この「罪のうちに死ぬ」ということには、一つの条件が付けられています。それは「わたしはある」ということを信じるということです。「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われているのです。
「わたしはある」。神がおられるということを現す言葉です。かつてモーセが神の名を尋ねた時に示された名もこの名でした。出エジプト記の3章には、モーセをエジプトにいるイスラエルの民を導き出すために、召し出される場面が描かれています。この務めを恐れるモーセに対して、神は「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそあなたを遣わすしるしである。」と言われる。そして、人々から、神の名を問われたら何と答えれば良いのか尋ねたモーセに対して、主なる神は「わたしはある。わたしはあるというものだ」と答えるのです。名は体を表すと言いますが、まさにこの名は、神が共におられるということを示しているのです。
そして、主イエスも、神の下から遣わされた神の子として「わたしはある」ということを示しているのです。ヨハネによる福音書を読みますと、あちこちに、主イエスがご自身を証する言葉がちりばめられています。直前の箇所では、「わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」と言われています。それだけではありません。「わたしは命のパンである。」(6:35)「わたしは羊の門である」(10:17)「わたしは良い羊飼いである。」(10:11)「わたしは甦りであり、命である」(11:25)「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)。皆、主イエスが、神の子であることを示す言葉です。ここでの「わたしはある」という言葉はこれらの主イエスがご自身について語られる時と同じ表現が用いられているのです。この言葉によって主イエスが、真に神の子であり、主イエスにおいて、神が私たちと共におられるということが示されているのです。

ここで人々の間に、一つの問が生まれます。「あなたはいったいどなたですか」という問です。主イエスは、わたしはこの世に属していない、上のものに属していると語り、モーセに語られた神の名を語りつつ、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言いだしたのです。それを聞けば、この人は何者なのかという疑問が起こってくるのは当然かもしれません。
この問に対して、主イエスは、「それは、初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」と言われます。主イエスの歩みは、最初から、ご自身が神の子メシアであるということを証するものでした。主イエスの歩み全体がご自身がどのような方なのかを語られる歩みであったと言っても良いでしょう。ですから、もし人々が、主イエスのことを、正しく知れば、主イエスが誰であるのか、どのような方であるのかが自ずと分かるはずなのです。そして、主イエスは、ご自身を、お遣わしになった方は「真実」であると言われます。そして、自分は、真実な方から聞いたことを、世に向かって語っていると言うのです。ですから、主イエスの語られることは真実なものなのです。
しかし、「彼らはイエスが御父について話しておられることを悟らなかった」とあります。人々は、そのことを理解せず、主イエスの証は真実だとはしないのです。主イエスが、御父を示し、ご自身が神の子であることを示す時には必ず、世に属する故に、それを悟らない人々の姿があるのです。

主イエスはここで、そのような者たちが、分かる時が来ると言っています。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」と言われているのです。「上げたとき」というのは、主イエスが十字架に架けられた時のことです。
何故十字架において分かるのでしょうか。主イエスは、主イエスが神の子であるということを理解しない人々によって、憎まれ、殺意を抱かれて、十字架の刑によって殺されたのです。ここで「あなたたち」と呼ばれている人々、「自殺でもするのだろうか」と言って主イエスのことを理解しないでいる人々によって主イエスは十字架に上げたのです。まるで自分が神であるかのように振るまい、神の子を亡きものにしようとする人々によって十字架に上げられたのです。しかし、この十字架の時に、「わたしはある」ということ、神が共におられるということ、主イエスが真の神の子であることが分かるというのです。 主イエスの十字架は自殺と言って良いようなものではありません。イエスを殺そうとする者たちによって殺されたのです。しかし、ヨハネによる福音書において、十字架が、主イエスの意志であったということも分かります。他の福音書では、十字架の主イエスのお姿、主の苦しみの姿を描きます。しかしヨハネにおいては、主イエスにとって十字架が重荷であったということが強く表現されていないのです。むしろ、それが、父なる神の御心の成就であり、栄光の時であることに強調点がおかれているのです。例えば、十字架での、主イエスの言葉は、神に対して、どうしてお見捨てになったのかということを問うのではなく、「成し遂げられた」ということであります。それがご自身の意志、父なる神の意志なのです。
それは、自分を理解しない人々を愛し、罪から救いだそうとする意志です。十字架に上げられたのは、世に属するものではありません。私は「世に属していない」と言われた主イエスご自身が、十字架で死なれたのです。世にある、私たちが、罪のうちに死ぬことのないように、主イエスが変わって、「罪の内に死なれた」のです。この十字架こそ神の御心が適うことなのです。この十字架において神の御業がなされていることを知らされることによって、神は共にいて下さることが分かるのです。

 ここで十字架に「上げる」という表現が用いられています。この「上げる」というのは、十字架に上げるということについて用いられると共に、主イエスが天に上げられるという意味でも用いられています。ヨハネによる福音書には、主イエスの昇天の記事が出てきません。復活して弟子に現れるところで終わっているのです。しかし、ここには、はっきりと主イエスが天に昇られたことも記されているのです。ヨハネによる福音書は十字架を栄光の時として記していると言いましたが、十字架の出来事と昇天の出来事が、「上げる」という一つの言葉で一緒に表現されているのです。
教会の暦に従うと、今週の木曜日が昇天日となっています。主イエスが復活から40日目、ペンテコステの10日前です。主イエスが天に昇られたことを祝う日です。このような時に今日の聖書箇所が与えられ、共に聞くことは意味深いことであると思います。 直前の箇所で、主イエスは自分の証が真実であることの根拠として、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたし知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしたちがどこから来て、どこへ行くのか、知らない。」と言われていました。ヨハネによる福音書において、主イエスがどこから来て、どこへ行くのかということは重要なことです。そして、主イエスは父の元から来られ、父の元に帰って行かれるということによって、主イエスが神の子であるということが分かるのです。主イエスを上げた時、初めて、「わたしはある」ということが分かる。主イエスが、神のもとから来て、神のもとにいかれた方、ご自身、神と共におり、神である方だということが分かるというのです。
幼いころ、時々考えさせられたことに次ぎのようなことがあります。自分も地上を歩まれた主イエスに出会っていたならば、どんなによかったことだろう。もし、実際に、この地に来られた主イエスから、直接出会い、言葉を聞き、業を見ることが出来たなら、今よりも確信を持って、イエスを神の子であると信じることが出来ただろうと思ったのです。 しかし、そのような考えは、全く自分勝手な思いこみにすぎません。地上の主イエスにあったからと言って、何か信仰の確信に至るなどということはあり得なかったでしょう。むしろ、主イエスを否定し、主イエスの言葉を、全く違った意味に捉え、馬鹿にしていたことは間違いありません。主イエスと同じ時代を歩んだ人々がそうであったように、主イエスを全く理解しなかったのではなかったのではないかと思うのです。さらに、ファリサイ派の人々と同じように、自分のことを神の子であると言うイエスを憎み、殺意を抱いていたとかもしれません。主イエスが天に昇られたということは、私たちが、イエスを神の子と知るためには重要な事柄なのです。
私たちが、主イエスが天に挙げられた後を生きています。使徒信条には、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白されています。主イエスは今、神のもとにおられるのです。地上を去られたというのは、私たちが直接理解し得る空間を去られたということです。しかし、それは、私たちから遠くはなれてしまったことを意味しません。この世を超えられたことによって、むしろ、聖霊によって、神の子として、私たちにご自身を示し、世を満たすものとなっておられるということです。そして、天に属するものとして父の右におられると同時に、真の人間でもある方として、天に私たちの場所を用意しておられるのです。
ですから、私たちは、主が共にあるということを信じつつ、この地で御心を行い主の証をなすのです。主イエスは、「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいて下さる。わたしをひとりにはしておかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」と語られています。私たちも、神が共にいて下さることを信じつつ、この方の御心に適うことをなすものとされるのです。

先ほどの子供に「だいじょうぶ」と語った母親の例話の続きには、以下のように記されています。「もしも母親が言うことが嘘ではなく、本当であるとするならば、世界は決して無秩序や混沌が支配しているのではない。神が存在しているから大丈夫なのだということでなければならない」。
私たちの語る証の不確かさにも関わらずこの「だいじょうぶ」という言葉は、真実であると言って良いでしょう。それは、私たちが真実の言葉を語り得るということによってではありません。私たちと異なり真実である神のもとから来られ、神のもとに帰たられた方が、私たちの罪と暗闇のただ中で、「わたしはある」と語られているからです。この言葉に信頼し、この方の御心をなしつつ、世に証するものとなりたいと思います。

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