主日礼拝

礼拝の言葉

「礼拝の言葉」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第28章7-13節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第14章6-25節
・ 讃美歌; 8、59、525

 
礼拝の言葉  
 コリントの信徒への手紙一の第14章の中心的なテーマは、教会の礼拝、集会においてどのような言葉が語られるべきであるか、 ということです。どのような言葉が、というのは、もっと具体的に言うならば、異言か預言か、ということです。異言と預言とは それぞれどのようなものであるか、ということについて、これまでに繰り返し述べてきましたが、もう一度ここでそれを確認して おきたいと思います。このことをわきまえていないと、本日の箇所に語られていることを理解することができないからです。
 異言というのは、宗教的興奮状態の中で、通常の言葉ではない、意味をなさない、理解し得ない言葉、つまり言葉というより も音声を発することです。それに対して預言というのは、普通の、人に理解できる言葉で、信仰の事柄、神様の救いの恵みを語る、 今日で言えば説教とか奨励のことです。未来のことを予告する言葉という意味ではありません。さてこの異言と預言は、共に、 神様の霊、聖霊の働きによって与えられる言葉、つまり聖霊の賜物であると考えられていました。そしてコリントの教会では、 特に異言の賜物が、預言の賜物よりも優れたものとして重んじられ、多くの人々がその賜物を求め、そして教会の集会におい て人々が我れ先に異言を語る、ということが起こっていたのです。パウロはそのようなコリント教会の様子について、この 14章で思う所を述べているわけですが、ここで少し考えておきたいのは、何故そのように異言の賜物が重んじられ、もてはやされ るのだろうか、ということです。一つ言えることは、預言が地味な、目立たないものであるのに対して、異言は派手な、目立つもの だということがあります。霊につかれたような神がかり状態になって、わけのわからないことを語り出す、それはいかにも神様と直 接話をしているように見えます。パウロは14章2節で、「異言を語るものは、人に向かってではなく、神に向かって語っています」 と言っていますが、まさにそういう感じがするのです。またそこには、「彼は霊によって神秘を語っているのです」とも言われてい ます。異言には神秘的な響きがあります。霊によって、神様に向かって神秘的な言葉を語る、これはなかなか魅力的なことであると 言えるでしょう。それは誰にでもできることではありません。特別にそういう才能、賜物を持っている人だけにできることです。 だからそういう賜物を持っている人が教会の中で目立ち、一目置かれていく、そしてそうなると、多くの人々が、自分もそういう 賜物を得たいと願うようになるのです。そしてこういう賜物というのは、本当に与えられたいと願い、周囲もそれを求めるような 雰囲気であると、案外与えられてしまうものです。一人また一人と、異言を語る人が増えていく。そうすると、まだそれを与え られていない人はだんだん焦ってくる。自分だけ取り残されたような気がしてくる。それでますます熱心に、私にも異言を語らせ て下さいと祈り求めていく。そのようにして、気がついたらみんながワイワイと異言を語っているということになるのです。それ は外から冷静に見れば集団ヒステリーと言うのでしょうが、当人たちは、自分にも聖霊が降ったと感謝感激しているのです。コリ ント教会はそれに近い状態になっており、パウロはここでそれに対して、「少し頭を冷して考えなさい」と言っているのです。

役に立つ言葉
 パウロは6節で「だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えか によって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう」と言っています。異言は何の役にも立たない、役に立つのは、 「啓示か知識か預言か教え」なのだというのです。これらの四つのものはどれも、わかる言葉で語られるものです。「預言」を もってそれらの代表とすることができるでしょう。本当に役に立つ言葉は、預言であって異言ではないと彼は断言しているのです。 何故異言は役に立たないのか、それは、語っていることの意味が相手に伝わらないからです。それは笛や竪琴といった楽器が、 ただやみくもに音を出しているだけでは音楽にならないのと同じです。あるいは軍隊において合図をするラッパが、はっきりした 音を出さなければ、何が指示されているのかわからず、兵隊は動けないのと同じです。異言というのはそのように、相手に何も 伝わっていかない、虚しく発せられている言葉なのです。それをパウロは9節で、「空に向かって語る」と言っています。異言は 空に向かって語られる言葉だ。これは先程の2節の「異言を語る人は神に向かって語っています」というのとはずいぶん違う言い 方です。パウロの本当の思いはむしろこの9節の方にあると言えるでしょう。「神に向かって語っている」というのは、ご本人たちは そう思っているが、という皮肉の言葉であって、実際は虚しく空に向かって語っているのです。
 10、11節には、異言は相手に通じない言葉だから、それを語る人は外国人のようなものだ、と言われています。この「外国人」 という言葉は、当時の文明人であったギリシャ人が、彼らから見て未開の人々のことを軽蔑して言った「未開人、野蛮人」と いうような意味の言葉です。ギリシャ人は、自分たちに理解できない外国語を語る人のことを、わけの分からんことを言って いる野蛮な奴等、という軽蔑をこめてこの言葉を使ったのです。ですからパウロがここで、異言を語る者は外国人と同じだと 言っているのは、未開人、野蛮人と同じだと言っていることになるわけで、異言を聖霊の優れた賜物として重んじていたコリント の人々にとってはこれは大きなショックを与えるような言い方なのです。

教会を造り上げるために
 異言を重んじ、有難がっているコリントの人々に、パウロはこのように、異言は何の役にも立たない虚しい言葉だ、 未開人の言葉と同じだと、ショックを与えるようなことを言っています。そしてその上で、12節が語られるのです。 「あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます 豊かに受けるように求めなさい」。コリントの人々は、霊的な賜物を熱心に求めている、それはよいことだ。しかしそ の霊的な賜物は、教会を造り上げるものでなければ意味がない。そういう賜物をこそ豊かに受けるように求めなさい、 ということです。パウロは既に4節で「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」 と言いました。異言はそれを語る個人の、神様との交わりという点では意味があるかもしれない、しかし教会を造り上げ るものではないのです。教会を造り上げることのできる賜物は、預言です。つまり、人に通じていく言葉です。そのこと が、13節以下に語られていきます。「だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で 祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で 祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」。異言は解釈されなければな らない、つまり、人に分かる言葉に翻訳されなければならないのです。教会で語られる言葉は、人に理解できる言葉でな ければならない。そのことが、「霊と共に理性でも」という言い方で語られています。信仰は私たちの霊に関わる事柄で す。その霊というのは、私たちが使う言葉で言えば、心とかハートと言ってよいでしょう。心で、ハートで、神様の恵み を受けとめる、それが信仰です。しかしその信仰は同時に、理性において身を結ぶものでなければなりません。心が感激 して喜びに満たされればそれでよいというものではないのです。そういう喜びや感激は個人的なものです。それはそれで 大切なことですが、私たちの信仰は、その喜びを、兄弟姉妹と共に分かち合っていく、その喜びに共にあずかる共同体を 造っていく、という信仰なのです。具体的には、神様の民の群れである教会の一員として、他の兄弟姉妹と共に、キリス トの体である教会を形作っていく信仰です。そのためには、理性を働かせなければなりません。理性を働かせるというのは、 物事を何でも理詰めで冷たく処理するという印象を持つ人がいるかもしれませんが、そうではありません。ここに語られて いるようにそれは、相手にちゃんと通じる言葉を語る、ということです。つまりそれは相手のことを本当に尊重すること、 愛することです。しばしば理性の反対に位置づけられる言葉は「感情」ですが、感情的になる時に、私たちの心は自分の感 情、自分の思いに支配されています。感情的になると、他の人の思いや事情を受け止め、理解することが出来なくなります 。相手のためを思ってしていることでも、実は自分の勝手な思いを相手に押しつけているだけ、ということが起るのです。 理性的になるというのは、そういう自分の感情や思いを一旦括弧に入れて、相手の思いや事情を受け止め、理解しようとす ることです。相手のことを本当に尊重し、愛することは、そういう理性の働きにおいてこそなされることだと言えるでし ょう。信仰においてもそれは同じです。自分の信仰的感情の高まりのみでは、教会は造り上げられていきません。自分に 与えられている神様の恵み、救いが、人にも伝えられ、その恵みが共有されていかなければならないのです。16節に こうあります。「さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなた の感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです」。「霊で賛美 の祈りを唱える」これが異言を語ることです。しかし、教会に来て間もない人、教会は何を信じているのかを知りたい と思ってやって来た人は、それを聞いても何を言っているのかわからない、だから「アーメン」と言えないのです。 「アーメン」というのは、「本当にそうだ」という心からの同意の言葉です。教会が造り上げられていくというのは、 神様の恵みが語られ、それに対してみんなが「アーメン、本当にその通りだ」と応答していく、そういうことにお いてです。異言はそういうことを生まないのです。だから、教会を造り上げていく言葉は、異言ではなくて、お互いに 理解し合える預言なのです。

異言と預言
 さてパウロはそのように、異言と預言とを比較し、預言こそが教会を造り上げていく、熱心に求められるべき賜物だと 言っているわけですが、21節以下では、さらに旧約聖書の言葉を引用してこの異言と預言の関係について語っていきます。 ここに引用されている箇所は、本日共に読まれたイザヤ書28章の11、12節です。11節の「確かに、主はどもる唇と 異国の言葉でこの民に語られる」という言葉と、12節の終わりの「しかし彼らは聞こうとはしなかった」という言葉が 結びあわされて21節の引用となっているのです。「異国の言葉、異国の人々の唇」が異言に当たるわけです。ここで、 このイザヤ書28章の本来の文脈を見てみたいと思います。ここは、北王国イスラエルのアッシリアによる滅亡を預言者 イザヤが警告している箇所です。イザヤは既に彼らにそのことを語り、悔い改めて主なる神様に立ち返り、主に従うならば、 そこにこそ安息、平安が与えられると語ったのです。しかし、イスラエルの人々はその警告を聞こうとしませんでした。 そして、イザヤの語る警告の言葉を、意味のないおしゃべり、たわ言としか考えなかったのです。10節に、 「『ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ(命令に命令、命令に命令)カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ(規則に規則、規則に規則) しばらくはここ、しばらくはあそこ』と彼らは言う」とありますが、これは、イスラエルの人々が、イザヤの預言をこのような、 やかましいばかりで意味のない言葉として聞き、嘲ったということです。そのようなイスラエルの人々の傲慢、主の言葉をないが しろにする罪に対して、アッシリアによる征服、国の滅亡という罰が下されるのです。アッシリアによって征服されるならば、 彼らは、「どもる唇と異国の言葉」、つまり外国語によって支配されることになります。主の言葉を語った預言者に耳を傾け なかったために、聞いてもわからない、異国の言葉に支配されるようになってしまうのです。これが、イザヤ書28章の文脈です。 つまりここでは、異国の言葉による語りかけは、その前に彼らにわかる言葉で神様のみ言葉が語られたのに、つまり預言が語られたのに、 それを聞こうとしなかった者への罰として与えられるものなのです。パウロが本日の箇所で、このイザヤ書28章を引用しているのは、 この文脈を意識してのことであると思われます。そのことは、この引用に続いて語られる22節から感じ取ることができます。 「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、 信じる者のためのしるしです」。「異言は、信じていない者のためのしるしだ」。異言は、信じていない者の間での言葉なのです。 預言によって、神の恵みのみ心が、その救いのみ業が既に語られている。しかしそれをまともに受け入れず、自分に対する語りかけ として聞こうとしない、信じようとしない、そこに異言が入り込んできます。異言は、神様のみ言葉が語られ、聞かれ、それによって 満たされ、生かされることのないところに、人間の思い、人間の自己顕示欲によって生み出されていく言葉なのです。それゆえにそ れは自己満足のために語られるのみで、人に信仰をもたらしません。教会を造り上げてはいかないのです。それに対して預言は、 信じる者のためのしるしです。神様を信じている者の間でこそ、預言の言葉は生きるのです。「アーメン、本当にそうです」と いう反応を引き起こしていくのです。そしてそこに、教会が築き上げられていくのです。

信仰によって聞かれる言葉
 このことは別の角度からも言うことができます。異言というのは、特に信仰がなくても、それなりに感銘を受けることが できる言葉です。例えば私が今突然ここで、霊につかれたようになって、わけのわからない異言を語り出したならば、今居 眠りをしている人も目を覚まして、何だ何だと聞くことでしょう。そして、「すごいなあ」と思ったりすることでしょう。 しかしそれは信仰とは何の関係もないことです。異言は、信仰とは全く別のところで、人に感銘を与えるのです。それに対 して、私が今ここでしている説教は、預言です。説教は、人によって受けとめ方がまるで違います。難しくてよくわから ない退屈な話だと思っている人もいれば、ビンビンと伝わってくるものがある、退屈しない話で、毎週楽しみにこれを聞 いているという人もいるのです。それは、その人の理解力の違いから来ることではなくて、信仰の違いから生じることで しょう。信仰なしに、また信仰への関心や求めなしに聞けば、説教はよくわからない退屈な話なのです。しかし信仰をもって、 あるいは信仰を求める思いをもって聞いていく時に、そこには神様から自分への語りかけがあることに気づかされるのです。 説教に代表される預言はこのように、誰にでも感銘を与える派手な言葉ではありません。つまらない退屈な話として聞き流 されてしまうことが多い地味な言葉です。けれどもまさにこのような預言によって、神様はこの世に教会を造り上げていっ て下さるのです。

まことに神はあなたがたの内におられます
 教会においてどのような言葉が語られるべきか、異言か預言か、ということが本日の箇所のテーマです。パウロは その箇所をしめくくるために、異言が語られている集まりと、預言が語られている集まりとを比較しています。そこに、 教会に来て間もない人か、信者でない人が入って来たらどう思うだろうか。皆が異言を語っていたら、その人は、「この 人たちは気が変だ」と思うだろう、反対に、皆が預言しているところにその人が入って来たら、「まことに神はあなた がたのうちにおられます」と言い表すことになるだろう、というのです。このことはしかし、単純に、興奮状態になって わけのわからない言葉を皆が語っている集会と、わかる言葉、通じる言葉が語られている集会の違いと言ってしまうこと はできないでしょう。普通の言葉で説教が語られてさえいれば必ず、ここにあるように、信者でない人が「まことに、 神はあなたがたの内にいます」と告白するようになる、というわけではないのです。問題は、何が語られているかです。 「まことに神はあなたがたの内におられます」という告白が生まれるのは、その人が「皆から非を悟らされ、罪を指摘され、 心の内に隠していたことが明るみに出され」ることによってです。それは、教会の者たちが、新しく来た人を取り囲んで 「おまえは罪人だ」と言って責め立てたり、「おまえは善人面をしているが、実はこんなことをしているだろう」とその人 の罪を暴露してみせる、というようなことではありません。預言によって語られるのは、主イエス・キリストのことです。 神様の独り子であられる主イエスが、私たちのために人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って 十字架にかかって死んで下さった、それによって父なる神様が、私たちの罪を赦し、救いを与えて下さった、そのことが、 わかる言葉で語られ、告げ知らされるのです。そしてその預言、説教が、信仰者たちによって、信仰をもって聞かれ、 「アーメン」と受け入れられる。本当にその通りだ、私は神様の恵みに値しない罪人だけれども、イエス様がこの私の身 代わりになって十字架にかかって死んで下さったことによって、神様が私を赦して下さったのだ、という応答がなされて いく。そのようにみ言葉が語られ、聞かれる所でこそ、生ける神様ご自身が働いて下さり、そこにいる人の心に語りかけ て下さるのです。「まことに、神はあなたがたの内におられます」という告白はそのようにして生まれるのです。異言が 語られている中ではそういうことは起こりません。いや異言でなくても、私たちの言葉が、罪人である自分を 主イエス・キリストの十字架によって赦して下さった神様の恵みを覚える言葉ではなくなって、自分がどれだけ頑張 って立派な人間に、あるいは謙遜な人間になっているかを示そうとする、つまり自分のことを誇る言葉になってしまっ ているなら、あるいは、兄弟姉妹と共に神様の恵みにあずかろうとするのではなくて、人の罪をあげつらい、批判し、こ こがおかしい、あそこが間違っていると攻撃する言葉になってしまっているなら、そのような言葉が語られる中ではあの告 白が生まれることはないでしょう。そこでは、私たちの言葉は異言となってしまっているのです。自分の感情や思いに支配され て、自己満足のために語る言葉は全て異言と同じです。そのような言葉をお互いに語り、傷つけ合っているようでは、 「あの人たちは気が変だ」と言われることになるのです。私たちは、物の判断において大人にならなければなりません。 理性的にならなければなりません。本当に理性的になるためには、既に語られている預言の言葉、主イエス・キリストにお ける神様の救いを伝える福音の言葉を真剣に聞くことが必要なのです。そして私たち自身が先ず、「まことに神は私 たちの内に、しかも恵みをもって臨んでいて下さる」という告白を与えられることによってこそ、本当に理性的な判断を することができるようになるのです。相手のことを思いやる愛に生きることができるようになるのです。そこにおいて 私たちの言葉は、異言から預言へと、自己満足の言葉から神様の恵みを証しする礼拝の言葉へと変えられていくのです。

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