主日礼拝

行きなさい

「行きなさい」  副牧師 矢澤励太

・ 旧約聖書; 申命記 22:22-29
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 8:1-11

 
1 (この箇所の独特な位置:なぜ括弧に括られているのか)

横浜指路教会の担任教師として語る最後の説教において、ヨハネによる福音書の中でも、独特な位置づけを持っている箇所が与えられました。姦通の現場で捕らえられた女性が、裁きの場に引き出される場面です。そこに主イエスがどう向き合われたかが語られています。これはヨハネによる福音書だけに記されている出来事で、かなりよく知られている話でもあるでしょう。

けれども私がこの箇所が独特な位置づけを持っている、というのは、まずこの箇所を読む誰もが抱くに違いない素朴な疑問と関わっているのです。それは7章の53節から8章の11節までが、鍵括弧で括られているということです。これはいったいどういうことなのでしょうか。実は今日の箇所がここに置かれることについては、いろいろな議論があったのです。聖書は昔からたくさんの人たちが書き写すことを通じて伝えられてきました。まだ印刷の技術もありませんでしたから、すべて手で書き写されていたわけです。ですから古い時代に書き写されたものほど、原本を正しく伝えていることになるわけです。ところが、古い時代に遡るもののほとんどが、今日の箇所を伝えてはいないのです。もっとも早くても4世紀ころに書き写されたものからしか、今日の物語は見出されていないと言われております。つまり今日の箇所は、ヨハネによる福音書の中にもともと含まれていたのかどうか、どうもはっきりしないのです。不確かなところがあるのです。

それで教会の歴史の中で、この箇所が聖書の中に含まれるべきかどうか、議論がなされてきたところがあります。たとえば、16世紀に教会の中に改革運動が起こり、私たちも属しているプロテスタントという大きな流れが生まれていった時、それまでのカトリックの人たちは、イタリアのトリエントというところに何度も集まって体制を立て直すための会議を開きました。そこでもこの箇所が聖書の中に留められるべきかどうか議論になったというのです。その結果、決が採られ、35票対17票で、ようやく残すことが決まったと伝えられています。言い換えれば、聖書の中に留まることについて反対意見も結構あったのが今日の箇所なのです。その意味でいわばいわくつきの箇所が、今日の箇所なのです。なおもこの議論はくすぶって、最終的には1897年といいますから19世紀、長い教会の歴史で言えばついこの間、カトリックの教皇がこの箇所を聖書の中に残すということを決定して、ようやくこの議論は決着を見たというのです。

 なぜこの箇所はそれほどの議論を呼んできたのでしょうか。一つ考えられているのは、この箇所が語っている内容をいったいどう受け止めたらよいのか、教会自体がかなり戸惑いを覚えたのではないか、ということです。キリスト教会が最初に歩み出した時、自分たちの体制をかたちづくるために、自分を律し、過ちを犯した者をきちんと裁いて外に出すということが行われた。そうやって今歩み始めたばかりの自分たちの共同体を純粋で力強いものとして整えようとした。その場合、「赦されない罪」として数えられたものが三つあったというのです。一つは信仰を捨ててしまうこと、神に背を向けること、背教とか棄教と呼ばれるものです。もう一つは人殺しです。そして三番目はこの姦淫の罪であったというのです。だから今日の箇所のように、姦淫を犯した女性が裁きの場に引き出されたのに、結局裁かれずにすんで、主イエスから無罪が宣告されるというのは、今まさに自分たちを律しようとしていた教会にとっては都合の悪い箇所だったのではないか、と考えられているのです。これでは秩序が保てないではないか。法に基づいて人を裁くことなどできなくなるではないか。人を戒めることなどできないではないか。もし人を導こうとして語りかけていても、相手からこの主イエスの言葉を盾に取られたらどうするのか。「主イエスだって『わたしもあなたを罪に定めない』とおっしゃったではないか」などとやり返されたなら、もうどうしようもなくなってしまうではないか、こちらがやり込められてしまうじゃないか。そういう教会の指導者たちの戸惑いがあったとしても不思議ではないでしょう。

 けれども今私たちはここに響いている主イエスの語りかけそのものから聴いていきたいと願います。そのことを通してこそ、なぜこの箇所がさまざまに議論を呼びつつも、今日までここにこうして残されているのかも、初めて分かってくるのではないか、と思うのです。

2 (姦通の現場で捕らえられた女)

 主イエスがこの日も朝早く、神殿の境内にお入りになると、民衆が集まってきたので、座って教え始めておられました。この箇所は言葉遣いの面からいっても、ヨハネによる福音書のほかのところとはちょっと違う。むしろルカによる福音書と近いところが多いとも指摘されています。そうだとすれば、たとえばルカにおいて主イエスが裁きについて語っておられたことを、ここでもお話になっていたかもしれません。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(6:37-39)。たとえば主がこのようにお語りになっているまさにその時、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女性を引きずるようにして連れてきた。そして集まっている群衆の真ん中に立たせ、主イエスに問うたのです。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています」(4-5節)。

 先程読まれました旧約聖書の申命記、22章の22節以下は、姦淫の罪が犯された場合に、イスラエルの共同体が対応すべき事柄を定めている箇所です。姦淫の現場が発見された場合、男も女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない、とあります。さらに、ある男と婚約している処女がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならないとあります。ここから、今連れられて来た女性は石で打ち殺すべきだと騒がれているわけですから、この女性は婚約中の処女だろうと多くの人が推測します。いずれにしましても、彼らは自分たちこそここで語られている神の正義の忠実な代理人だといった思いで、ここにやって来たに違いありません。自分たちが神の正義を代表し、今からこの女性を断罪するのだ。自分たちは現場を押さえたのだ。証拠ははっきりしている。自分たちが証人なのだ。我々の共同体から悪を取り除かねばならない。この女性を裁くのは自分たちの権限なのだ。彼らはこう思っていたことでしょう。

 しかも彼らの思いはそこに留まっているのではない。「ところで、あなたはどうお考えになりますか」(5節)。この女性を手段として使って、主イエスを陥れようと企んでいるのです。もしここで、主が「そうだ。モーセが律法の中で命じるとおりだ。その女性を石打ちの刑にしなさい」とおっしゃったならば、今まで主がお語りになってきたこと、安息日にいやしを行ってきたこと、そのすべてが律法違反となり、彼らが主イエスを訴える口実になるでしょう。また逆に、「この女性に石を投げてはならない。そんなことをしてはならない」とおっしゃれば、これもまた神がモーセを通して与えられた掟をないがしろにしたかどで、主イエスを訴えることができます。つまり主イエスがどうお応えになられても、律法学者やファリサイ派は主イエスを訴え出ることができると計算し尽くされていたのです。「主イエスを陥れる、格好のきっかけを得たぞ」。得々とした表情で、主イエスを問い詰めている彼らの表情が眼に浮かぶ思いがいたします。

今日の出来事を、7章から続いている仮庵祭での出来事の続きの中で読むならば、事柄はますますはっきりしてきます。祭りの最中に神殿の境内にお上りになり語り始められた主イエスの言葉を巡って、群衆の間に激しい対立が生まれ、人々は主を捕らえようとして、実際に下役たちが逮捕に向かったりすることが起こっている。人々は思ったのです。「自分を遣わされたのは神だと言って、自分を神と等しい者とするこの人を赦すことはできない。放っておくことはできない。いやこの人こそ、我々の秩序を揺るがし、混乱を引き起こしかねないとんなでもない人だ。今のうちに我々の共同体から取り除かねばならない悪なのだ」。そこで一人の姦通の現場を押さえられた女性を、主を陥れる罠として使ったのです。祭りはしばしば日常生活の常識やわきまえを突き崩し、性的な乱れも伴うものです。そこで出来心から道を誤ってしまった。その現場を押さえられて恥ずかしさに震え、これから引き出される裁きの場を思って怖れ怯えている。その女性の心は、彼らには全く見えていません。彼らにとって、この女性は主を罠にかけるための道具でしかないのです。だから「こういう女」という言い方でもって、主イエスの前に引きずり出してきているのです。

3 (不思議な主イエスのリアクション)

けれどもこれに対して主イエスはどんな応え方をされたでしょう。6節の後半にこうあります。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」。8節にもあります。「そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた」。実に不思議な応答の仕方であります。いや、むしろ主はここで応えることを拒否しておられます。言い募ってくる彼らに目を合わせることもなく、しゃがみこんで何かを地面に書きつけているのです。
今主イエスを問い詰めている律法学者やファリサイ派の心の中にあるものは何でしょうか。弱みを握られた女性を真ん中に立たせていたぶっている彼らの心の中にあるものは何でしょうか。彼らはこの女性を見世物にしながら、律法を当てはめて人を裁くことに熱中しているのです。最近、国会で偽造メールの問題を巡って混乱が続いています。そこで起こっていることも、相手の弱みを握ったと思って、一方がそれをあげつらう。しかしいったんその証拠が偽物だと分かると一気に形勢は逆転して、逆にもう一方が相手の弱みを握って攻めに転じている。お互いに相手のあら探しをしてなじりあっている。そういう現象でしょう。評論家はそれを鋭い批評でひとごとのように切って捨てることができるかもしれない。けれどもそれは決してひとごとではない。私たち自身の姿です。相手の弱みをつかむと「してやったり」といった気持ちで、得意げになって人を責め立てます。そうして相手が追い詰められるのを見て隠れて得々としている自分がどこかにいます。ふだん人から不愉快な目に合わされたりしていると、今度は自分が人をやっつける番だと言わんばかりに、自分で自分の義を立てることに躍起になってしまうのです。信仰生活においても、私たちは時に相手のあら探しに躍起になってしまうのです。私たちが雑誌やテレビで取り上げられる有名人のスキャンダルを面白がって聞いてしまうのも、人を裁く喜びを少しでも味わってみたいという誘惑に駆られるからではないでしょうか。そのようにして一方では親を、子供を、夫を妻を、友人を、周囲の人々を裁き、もう一方では、神が自分の祈りに応えてくれない。いくら言い募っても、無視しておられると呟きを重ねている。自分を棚に上げて、神の沈黙をさえも責め立てている。そういうことがあるのではないでしょうか。
この時、主イエスが地面に何を書いていたのか、いろいろな推測がなされています。多くの人が指摘するのは、預言者エレミヤが告げたこういう言葉です、「イスラエルの希望である主よ、あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ」(17:13)。「生ける水の源である主」、この言葉は、今日の箇所のすぐ前、7章37節以下で語られていた主イエスのお言葉を思い起こさせます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。主イエスの沈黙と地面にこの御言葉を書きつける行為、それはこれまで主イエスを問い詰めていた人々に、逆に鋭い問いかけを与えることになったでしょう。さらにしつこく問い続けた律法学者たちに主イエスはついに御口を開かれ、こう語られたのです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。

「あなたは今さかしらになってこの女性を裁きの場へと引きずり出し、神である私をまでも問い詰めているつもりになっている。しかし実際のところあなたは神の律法を守っていると信じてふるまっているその只中で人を傷つけ、裁いている。いったいあなた自身はどこに立ってものを言っているのか。あなたこそがまず神の裁きの前に立たされていることを忘れているではないか。それを忘れたところで語られる言葉が本当に人を建て上げる言葉となるか。人を神に立ち返らせる愛の言葉がそこから生まれてくるか。それで神の義が立てられると思うのか。むしろあなたがしているその裁きによってあなたは生ける水の源である主を捨て、神から離された地下に行く者として、わたしの裁きの書にその名を記されつつあるのだ。本当の裁き主の前にどうかあなた自身がまず立ってほしい」。これが主イエスが私たちに問いかけておられることではないでしょうか。神が私たちの身勝手な思いに対して、沈黙をもって、お応えになることがあるのです。御顔を背けることをもって私たちの罪を明らかにされることがあるのです。

4 (一人一人が主の前に立たされる)

 この主イエスの問いかけを受けて、女性を巡り囲んで責め立てていた人々は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去っていきました。今までは自分たちがこの女性が罪を犯したことを証する証人だと思っていた。ところが今自分たちはすべてを見極めておられる神の証人、つまり主イエスの前に立たされていることを、ついに彼らも知らされたからです。自分たちこそ、神に背を向け、結局は自分を愛していた。そうして自分たちも結局は神に対する姦淫を行っていた。そのことを知らされたからです。

けれども裁判はまだ続いています。いや、すべての人間の証人たちが去った後に残されたのが、この女性と主イエスだけだったのです。今こそこの女性はまことの裁き主の前に立たされました。本当の裁きが始まる時です。もしここで彼女が今すぐにでもこの場から解放されたいとしか考えていなかったのなら、まだ地面にものを書いている主イエスに気づかれないうちに、足音を忍ばせてここから立ち去ることだってできたでしょう。けれども彼女はそうしなかった。今彼女の中にあるのは「しめしめ、ここから逃げおおせるぞ」と企むような、そんな薄っぺらな思いではありません。そうではない。彼女の中にあるのは真実の裁き主のまん前に立たされた畏れです。そこでは他の誰の視線も問題ではない。神の前に独り立たされ、このお方の裁きを逃れることはできない、このお方の下す裁きは受けねばならない、という思いの中に置かれることです。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(10節)。主イエスが立ち上がり、ここに至って初めて女性に話しかけられました。そこで問われたのは、彼女のしでかした行いでも、それについての弁解でも、おわびの言葉でもなかった。そういう彼女の方で用意できるものではなかった。そうではなくて「あなたを罪に定めることのできる真実の権威はどこにあるのか、あなたには分かっているか」ということだったのです。この主の問いに対して、女性は答えました。「主よ、だれも」(11節)。この女性は主イエスを自らの主、自分を治めるお方、自分を真実に裁くお方であり、自分のすべてを決める権威をお持ちのお方、自分の真実の主人であることを深く知らされたのです。

5 (十戒とのかかわりで)

その真実の裁き主が今こうおっしゃるのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。教師として指路教会に仕える中で私が与えられた恵みは数え切れませんけれども、そのうちの一つは洗礼を受けることを願い出られた方々とご一緒に、十戒を味わう時を幾度も与えられてきたことです。その意味でも私は、このヨハネによる福音書の言葉が、聖書に残されたことの大きな恵みを思わずにはおれません。なぜなら「姦淫してはならない」という戒めを聖書自体が丁寧に説き明かしてくれているのはまさにここであると私は信じているからです。それはこれを守らないとあなたは神の祝福に与かれないぞ、という救いを獲得するための条件なのではない。そうではなく、真実の裁き主の前に畏れの中で立たされた時、この裁き主が宣言してくださった赦しの言葉、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない、いやあなたはもう罪を犯すことはできなくなった」、この恵みの中にいつも新しく立ちなさい、この祝福の中に立ち続けなさいという、神の愛の招きなのです。

6 (結局我々は皆神のまん前に立たされる、そこに帰り着く)

この女性は後に知ったでしょう。主イエスが十字架に磔にされて死なれたことを。そこで雷に打たれたような思いを持って知ったのです。あの時の主イエスのお言葉はこのことであったのだ、と。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」。この言葉は実に重たいお言葉です。主イエスご自身の命がそこにかけられているからです。「わたしが身代わりになってあなたを行かせるのだ、わたしがあなたの罪を代わって引き受けることによって、あなたは決して罪に定められないのだ」。本当の罪の赦しというのは、真実の裁き主しか与えることのできないものです。裁きの貫かれたところで真実の赦しもまた成し遂げられるのです。神の独り子である主イエスが、ご自身の上に神の裁きを貫かれて、それによって私たちを真実の赦しの中に立たせてくださいました。そして今日もここに立ちなさい、と招いてくださるのです。この女性もまた復活の主の命に触れて、その命が自分の中にも脈打っていることを知りました。そして最初の教会で、この主の赦しの言葉を生き生きと証ししたに違いありません。最初は戸惑ったかもしれない教会が、結局はここにこの出来事を伝えることとなったのも、やはり私たちが結局は、ここに立ち戻ってこないわけにはいかないからだと思うのです。

私たちもまた、突き詰めていったところでは真実の裁き主の前に立たされているのです。職場の上司でも、学校の先生でも、親でも、友人でも、自分自身でさえもない、最後は主イエスの前に立たされます。けれどもこの真実の裁き主はご自分を身代わりとして、真実の赦し、無条件の赦しの中に私たちを立たせてくださる憐れみの主にほかならないのです。

伝道者の語る言葉も、牧会や奉仕に携わる長老・執事の言葉も、今日任職を受ける教会学校教師の言葉も、奏楽者・聖歌隊の音楽という言葉も、いやキリストに結ばれた私たちすべての言葉が、繰り返しここに立たされる中で、初めて真実なものとなり、教会を建てあげる言葉となっていきます。神の眼差しのまん前に立たせていただいて、裁きを貫いて与えられた赦しを今生きているのが私たちなのです。それゆえに今日の箇所は主の御苦しみを深く思うこのレントの時に読まれるべきところとして代々の教会に覚えられてきました。指路教会での教師としての奉仕を終えるに当たり、不思議な主の導きで聖書の中に留められた、この箇所を示されました。伝道者の原点に立ち帰らされ、また私たちがいつも招かれている祝福の中に新たに立たせていただいたことに感謝するものであります。

祈り 

主イエス・キリストの父なる神様、私共はあなたが招いてくださっている祝福を忘れ、恥ずかしいほどに繰り返し、人のあら探しをし、人を傷つけ、裁いてしまうものであります。しかももっともあなたに忠実に生きている、あなたに従って歩んでいると思っているそのところで、罪を犯す者です。どうか私共を憐れんでください。真実の裁き主である主のまん前に、真実に私共を立たせてください。そこであなたが独り子の命を差し出してまで私共に与えてくださった、罪の赦しと復活の命に、真実に生きることができますように。またそこから紡ぎ出される言葉、人を愛によってつくりあげ、教会を建て上げる言葉を語っていくことができますように。
僕のこの教会での奉仕が、あなたの憐れみ、教会の祈りによって支えられましたことに感謝いたします。どうぞ新しく伝道師を迎え、新たな年度の歩みを始めようとしている私共の教会を豊かに祝し導いてください。「行きなさい」と告げてくださる、あなたの祝福の言葉をもって、恵み豊かな喜びの務めへと遣わしてください。

御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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