主日礼拝

死と復活を予告する

「死と復活を予告する」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 創世記 第9章8-17節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第8章31-9章1節
・ 讃美歌:19、299、467

受難の予告
 本日はマルコによる福音書第8章31節からの御言葉をご一緒にお読みしたいと思います。本日の箇所で主イエスの受難の予告の記事であります。これから御自分が歩まれる十字架への道、ご受難について弟子たちに予告されました。この受難の予告を通して、主イエスは御自分のことを明らかにされたのです。主イエスは弟子たちに「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、教えられました。「人の子」とは、主イエスが御自分のこと呼ばれた言葉で「わたし」と同じ意味の言葉です。「長老、祭司長、律法学者たち」とはエルサレムの最高議会のメンバーたち、ユダヤ当局のことです。主イエスは、わたしは、ユダヤ当局から排斥され、殺され、三日目に復活する、と言われましたこれは神の独り子である主イエスのご受難の予告です。主イエスの弟子たちにとっては驚くべき、思わず耳を疑いたくなるほどショックであり、まともに受け止めることができない主のお言葉です。これまでにも、ユダヤ人たちの間では、主イエスを殺す相談がされておりました。主イエスの先駆者と目されていた洗礼者ヨハネは牢獄で首をはねられ殺されました。主イエスの将来に、苦難と死を暗示するような出来事が幾つも続いていたのです。そして、本日の箇所では、主イエスが、ご自分の口から、ご自分の苦難と死をはっきりとお話しになりました。ここから、主イエスはご自身の受難の予告を口になさるのです。それは一度ならず三度までもされました。そのことは、まさに主イエスが一筋に、十宇架への道を進んで行こうとされているということです。

主の後に従って
 主イエスは、ご自身の死と苦難についてだけ述べられたのではありません。ご自分の十字架への道を見据えながら、主イエスに従う者たちに対しても、一つの覚悟をお求めになります。34節です。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。ここでは、キリストの弟子たる者の生き方というものが端的に描かれております。本日、初めて教会に来られた方、また主イエスの優しい慰めの御言葉や、癒しの言葉、心地よい招きと歓迎の言葉を期待していた人は、驚かれるかもしれません。確かに、主イエスは、すべての者を招いて言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。私たちは日々、重荷を負って疲れ、あえいでいる者であります。そのような私たちにとって、主イエスのもとで休みを得て憩うことができるというのは、まさに良い知らせ、福音です。しかし、招きに応えた者たちに、主イエスは改めて「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。と命じられます。

弟子も群衆も
 ここでは、自分の十宇架を背負って従うことをお命じになります。一握りの直弟子たちだけではありません。34節です。そのことは「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」とありますように、主イエスはここで群衆全体を召しておられるのです。自分は既に主イエスの弟子たちの中に身をおいているつもりの人も、まだ少し離れたところから、様子をうかがいつつ群衆の中に身を隠している人も、共に主の召しを受けて、主イエスの御前に立たせられます。この礼拝に集まる方々の中には、もう何十年も前に洗礼を受けて、主イエス・キリストに従う歩みを今日まで続けて来られた方もおります。また、最近、信仰を言い表し、洗礼を受けて、新しく主の弟子の中に加えられた方もおります。更には、まだ信仰を言い表していない人、丁度今備えをされている方、洗礼を受けていない方もいるのです。しかし、主イエスは、初めて教会に来た人も含めて、一切の区別を設けずに、同じように呼びかけておられます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

神の御心
 「従う」と言えば、後についていくということです。しかし、主イエスは、ここでわざわざ、私の「後に」と言われます。そこには、大切な意味があります。なぜなら、まさに、主イエスの後に従わず、ここで主の前に立ちはだかった人物がいたからです。主イエスの一番弟子をもって任じていたペトロです。本日の箇所の直前の29節の主イエスのお言葉はこうです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」。主イエスは弟子たちに尋ねられ、ペトロは弟子たちを代表して、「あなたは、メシアです」と答えました。ペトロもまた、当時の人たちと同様、イスラエルの民を解放する栄光のメシア、救い主を待ち望んでおりました。ところが、主イエスは自分たちの期待に反して、人々から捨てられ、殺される、苦難のメシアとしての道を、御自分の口から告げられたのです。そのとき、ペトロは主イエスの言葉を遮るように主イエスの前に立ちはだかったのです。32節です。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」。とあります。主イエスは自ら、人々から排斥されて殺される、と受難の予告をされました。ペトロはそんなことがあってはならない、あるはずがないと考えたのです。ペトロにしてみれば、主イエスを思って、愛する先生を思って、全くの善意から出た行動を取ったのです。ペトロは主イエスに出会い、主イエスを生涯の師と仰ぎ、どこまでもついて行きたい、と心から願っておりました。そして、主イエスも、そのペトロの気持ちを十分にご承知でした。しかし、それにも関わらず、そのようなペトロの思い、行動というは、主イエスにとっては人間の思いであったのです。神の思いではなかったということです。ペトロは「メシア」救い主、という言葉で、この世の救い主、メシアを理解していました。主イエスはイスラエルの民を解放する栄光のメシアである、そうであって欲しいと考えておりました。大切な自分の先生がどうか死なないで欲しい、そんなことがあってはならい、と思ったのです。

いさめる
 しかし、主イエスにとってはそのことは神の御心ではなかったのです。ペトロは主イエスをわきへお連れして、いさめ始めた、とあります。この「いさめる」と訳された言葉は直前の30節にあります、主イエスが弟子たちを「戒められた」というのと同じ言葉です。ペトロは主イエスの前に立ちはだかりました。更に主イエスを教え、戒めるところに身を置いたのです。ペトロはここで主イエスよりも自分の方が賢い者であろうとしたのです。私たちも、しばしば、神よりも賢い者のように振る舞うことがあります。幸せな日々が続いているときには、何も言いません。しかし、思いがけない悲しい出来事に直面し、受け入れがたい苦しみを味わうとき、神様に文句を言い始めます。神は愛だと言いながら、どうして、私を助けてくださらないのですか。何で神様が自分の期待通りの神らしい振る舞いをしてくださらないか。失望をし、失望から怒りへ感情は変わることもあります。ペトロもまた、ここでそのように、自分の思いや自分の願い、自分が良いと思っていることに基づいて行動をしたのです。自分の考えから、主イエスを非難し、たしなめようとしたのです。

悪の力
 そのようなペトロに対して主イエス叱られました。
声を荒げて、ペトロをお叱りになったのです。33節です。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」。誰かを悪魔呼ばわりするというのは尋常なことではありません。つい先ほどは、弟子たちを代表して、誇らしげに信仰を言い表したペトロが、悪魔呼ばわりされたのです。私たちはここに主イエスの厳しいお姿を見出します。サタンとは、神の御心に逆らい、私たちを神から引き離そうとする力です。このサタンの存在は、主イエスを荒れ野で誘惑した場面を思い起こさせます。荒野でサタンが主を誘惑し、「わたしにひざまずけば、お前に全世界の冨を上げよう、そうすれば、お前は別に十字架に掛からなくてもよい。お前は全人類にパンを与え、幸福にさせられるようになる」と言ったのと同じ言葉です。主イエスは最も厳しい言葉で、愛する弟子であるペトロを叱責されたのです。

私たちも同じように
 私たちは自分の歩みを振り返り、このようなペトロの姿を滑稽だと思うことが出来るでしょうか。むしろ、私たちもまたペトロと同じように、主よ、十字架に掛からなくても結構です、あなたは偉大な預言者であり、人生の指導者であってくださればよい、と思うのではないでしょうか。あなたを真似て立派な人間になります。つい、そのように考えてしまわないでしょうか。そして、自分の小さな視点から、他者を見て、主イエスに従っていないと見なして、隣人を非難していないでしょうか。これはユダヤ人・ファリサイ人の立場です。別にキリストの十字架は必要がない。キリストは十字架につかなくてもよい。自分は自分が自分の立派の行ないによって、自分の行いによって救われる。これがまさしく人間の罪です。しかし、キリストはそのような者たちの救いの為に、十字架にお就きになりました。自分が考えた期待、自分の思いを主イエスに当てはめるのではなく、主御自身がわたしどもにお示しになるものを、そのまま受け入れることです。

人間のこと
 人となられた神の御子を、そのなすべき務めである十宇架の道から引き離すために、サタンは主イエスを誘惑しました。今、十宇架の道に立ちはだかるペトロは、自分ではそれと気づかずに、あのサタンと同じことをしていることになるのです。だから、主イエスはペトロに言われます。33節の後半です。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。これがすべての間違いの源でした。私たちは、目に見えるものに惑わされ、支配されます。目に見えるものの方が確かであり、分かりやすいからです。そして、神よりも自分のこと、また自分の周りにいる、自分の好きな人たちのことを第一に考えるものです。もちろん、人間のことをきちんと考えるのは大事です。今、この世界の中で、苦しんでいる人、悩んでいる人たちを助けるために何ができるか、東日本大震災によって被害を受けた人たち、また飢えた子どもたちのために何をすべきかを考えていくのは大事なことです。そのようにして、キリストの愛をこの世に示して行くことが求められています。しかし、そのようにして、この世界と私たちの抱えている問題から出発して救いを求めていくのは、人間中心主義、ヒューマニズムの道です。ヒューマニズムでは、私たち人間の中に深く染みついている罪の暗闇にまで届きません。神に背いた罪の結果として、死の力に脅かされている惨めさに立ち向かうことができないのです。それは、結局のところ、神のことを思わず、神とは無関係に人間のことを思う思想なのです。

必ずそうなると
 ペトロは主イエスを愛していました。主であり先生である大事な方が、苦しみ、捨てられ、殺されるという話に耐えられなかったのです。その思いは人間の思いであって、神の思いとは異なるのです。それならば、神の思いはどこに現されたのでしょうか。今日の箇所の冒頭で、主イエスが受難の予告をされたとき、「人の子は必ず、何々することになっている」という言い方をなさいました。「必ずそうなる」と訳されているのは、「デイ」という小さな言葉です。この小さな言葉はとても大きな意味を持っています。神の必然性を表す言葉です。人間の側の必要に基づいてではなく、神のご計画が実現していくために、そのようにならねばならない、そうなることになっている、というのです。神の御計画、神様の定められること、神の意志ということです。神の独り子である主イエスが苦しみを受けて殺されることは、神の救いのご計画なのです。あらかじめ定められ、預言者によって告げられていました。確かに、本日の箇所である最初の受難予告においては、メシアの死の意味が十分明らかにされてはいません。しかし、三度目の予告に引き続いて、主は弟子たちに言われます。少し先ですが、10章45節にはこのようにあります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(10章45節)。

主イエスの十字架
 主イエスは、私たちを神のものとして買い戻すための身代金として、ご自身の命を献げられました。本来、神に背いた罪のために死ななければならないのは私たちです。しかし、主イエスはその私たちに代わって、十宇架の上で死んで、私たちの罪を贖ってくださいました。神はそのためにこそ、独り子を世に遣わされたのです。だから、この道を遮ろうとする者は、それがたとえ人間的な善意と愛から出た言葉であっても、サタンの誘惑なのです。十宇架を抜きにした、人間に都合のよい安易な救いを求めるならば、それはサタンの唆しなのです。

主イエスの後ろに
 主イエスは「サタン、引き下がれ」とペトロを叱って言われました。この言葉は実に厳しい言葉です。しかし、どこかへ消えうせろと言われたのではありません。「引き下がれ」という言葉を原文通りに直訳すれば、「私の後ろに退け」となります。主イエスは、ペトロをその本来の位置である後ろに退かせてから、改めて、弟子たちと群衆すべてに語られたのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。自分を捨てるとは厳しい命令です。本当に自分を捨てることができるとしたらすごいことです。むしろ私たちは自分にこだわり、自分で自分を立てて行こうとする生活の中で、疲れ果ててしまうのです。本当は捨ててしまいたいのに、なかなか捨てることのできない醜い自分があります。いやな自分、惨めな自分があります。そういう自分を抱え込みながら、途方に暮れてしまうのです。しかし、主イエスに従うとき、私たちは、そういう自分を捨てることができる。主は言われます。35節です。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。自分の命が大事だと思って居る人は、結局本当の命を失ってしまう、ということです。私たちは思い違いをし易い者です。生きることは自分の自己をこの世に確立することだ、と考え、一生懸命、学び、働きます。少しでも良い人生を歩もうとします。自己実現に向けて努力します。人間は誰でも最後には必ず死にますから、そうすれば、たとい全世界を手に入れたとしても、その人は全てを失います。それどころか、自分のただ一つしかない命まで失うのですから、何の得になろうか、と主イエスは言われるのです。人間は、誰も自分の失われた命を取り戻すことはできません。

洗礼によって
 自分を捨てる、自分の命を失う、それは、古い自分に死ぬことです。罪に支配されて滅び行く古い自分に死ぬのです。人生の一番の重荷は、自分自身なのかも知れません。この荷物を降ろしたいと思っても降ろせない。死にたいと思っても死にきれない。まさに、古い罪の自分が死にきれずにもがいているとき、主は私たちをご自分の十宇架の中へと招いてくださいます。洗礼の出来事とはそのことを現しております。洗礼によって主イエス・キリストと一つに結び合わされるとき、私たちは主の死に合わせられ、古い自分に死ぬのです。洗礼を受けた者は聖餐によってそのことを思い起こすのです。

復活へと
 主イエスに従うとき、私たちの負うべき十宇架があります。それは、主イエスが私たちのために担ってくださった贖いの十字架とは違います。十宇架の主イエスに従い、復活の栄光にあずかるために、私たちはそれぞれに最もふさわしい務め、それぞれがちょうど担える十宇架を主が備えて下さるのです。負いきれない重荷を背負って、苦しみながら行くのではありません。主イエスが先立って歩まれる道は、十宇架を経て復活へと続きます。私たちが主イエスの後に従って歩む道もまた、十宇架から、復活へと至るのです。私たちの歩む道は茨にふさがれたような道であるかもしれません。先頭を行かれる主イエスがその道を切り開き、私たちが歩けるように、踏み固めていてくださるのです。
 主イエスご自身がまことの命の道となって、父なる神と私たちを確かにつないでいてくださいます。そして、やがて終わりの日には、その道の向こうから、主イエスが、御父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共にお出でになるのです。とこしえに主の御名を讃える天の礼拝を慕い求めながら、私たちは、この地上において、礼拝から礼拝へと、主イエスの後に従う歩みを続けます。私たちは主イエスが備えてくださる御言葉に養われつつ、御国への旅を続けて行くのです。

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